かたつむり

松ヶ崎稲草

第1話 息子が「カンモク」?

「幸之介、緘黙かも知れない」

「カンモク?」

 帰宅するなり、妻の口から馴染みのない言葉を聞かされる。

 妻の口調は落ち込んでいる時の低いトーンで、表情はこわばり、他のことが手につかずそればかりを考えていた様子で、こんな時の妻は僕が何か言っても入らないところがある。

 反応に迷っていると、

「緘黙っていうのは」と説明を始めた。


 家では普通に話ができる子供が、学校や幼稚園では一言も話せなくなる完全緘黙、ある場面になると話せなくなる場面緘黙がある。

 単におとなしい子、では済まない症状らしく、対応には特別な配慮が必要となる。

 学生時代に心理学を専攻していた妻の説明で、僕にとっても初めて接する言葉ではないことを思い出した。

 小学生の頃、親が本棚ではなくタンスの中にしまい込んでいた育児書を盗み見した時目にした言葉で、記憶に残っていたのは、僕自身、口数の少ない子供で、同年代の子供に比べて元気さ、快活さに欠けるところがあり、育児書の『緘黙』の記述に少なからず自分も当てはまるのではないか、と軽い衝撃を受けたからだ。

 また、緘黙について記述している部分にはうつむいて黙り込む子供の様子が一頁大の写真で掲載され『カンモク』という言葉の語感とともに、病的なほどに黙りこくる子供の様子をよく表しており、ずっしりと重い印象が残った。

 今日、家庭訪問があり、学校での様子を聞いていると、そう思えて仕方がないそうだ。

 先生から緘黙だと言われたわけではないが、みんなが元気にはしゃいでいる時でも表情が硬く、常に緊張している感じがあるなど、他の子とは明らかに違うようで、先生も「おとなし過ぎるのが気になっています」と言ったことで、妻は学生時代に習った『緘黙』『緘黙児』のことを思い出したと言う。


 僕も、平日の休みに参観へ行った時、同じことを感じていた。

 五時間目の参観で、早く着いて昼休み中の教室の光景を目にしたのだが、教室内や廊下を大声で喋っていたり走り回ったりしている中、幸之介は机に向かい、他の子と交わろうとせず、じっと座っている。回りの子供達の様子とのギャップを感じた。

 幸之介が通っていた私立の幼稚園から地元のこの小学校へ入った子供が少ないせいで、入学以来、なかなかクラスになじめずにいることは知っていたが、四年生になる今まで、同じような調子でいる。

 仲の良い友達はいて、三年生の時にあったクラス替えでも一緒のクラスになることはできたが、相変わらず、その子を含めたごく限られた二、三人としか遊ばず、数少ない友達が休んだり他の子と遊んだりすると、その中へ入って行けない。

 かと言って、いじめられている、はじかれているというわけではないようだ。


 インターホン越しに「はい」との女性の声が聞こえる。

 「ハヤシ急便です。お荷物です」

 よく通り、かつうるさく感じない声を心掛けて、告げる。

 「はーい」と、さらに声が響く。

 住宅街の一角の小さな庭のある一軒家で、インターホンのそばで待っていても家の中の様子は分からないが、声のトーンから早めに出て来ようとしている気配が窺える。

 若い奥様が小走りで現れる。

 家の中から小さな子供の声が聞こえる。

 この奥様の姿を見るのは初めてではない。まだ幼い子供も一緒に玄関先まで出て来たこともあった。今日は、一人だ。

 奥様は、僕に対して

「どうもすいませーん」

と、初対面のような挨拶の仕方で、屈託なく両手を伸ばして荷物を受け取ろうとしてくる。

 間違いがないか、と確認を促した上で、奥様が荷物を安定した状態で両手に抱えるのを見てから手を離す瞬間まで、落としたり傷付けたりしないよう細心の注意を払う。

 去り際、少し頭を下げつつ礼を言うと、奥様も「ありがとうございました!」と屈託のない笑顔で、歌うように返してくれる。そうしながらも、早足で家の中へと急いでいる。後ろ姿を一瞥しながら、車へと戻る。さっと乗り込み、差しっ放しのエンジンキーを回す。頭の中は、次の配達先へ早く着くことへと切り替わっている。

 配達先の家々の人達とは会話とも言えない定型的なやりとりをするだけだが、爽やかな気分になれる。

 今の奥様のように笑顔が見られると、少しばかり心も躍る。

 この時、内向的な性格や口下手、話し下手であることなど自分に関する負の要素は完全に忘れているし、定型的なやりとりゆえに何を話せば良いのかと思い悩むこともない。

 配達先の人にとっては僕の存在など意識の片隅にものぼっておらず、意識の中心にあるのはあくまで荷物であり、荷物の送り主だ。配達人は荷物の影に隠れる黒子でしかない。

 僕としては、毎日ほぼ同じ区域を回るので同じ家に何度も配達する場合が多く、この家の人はどんな人かということはだんだんと分かってくるが、先方では全く覚えていないようだ。まれに僕の顔を覚えている人もいるようだが、僕に特徴がないせいか、ほとんどの人は初めて顔を合わせるように僕を見る。


 朝、営業所を出る前にルート検索をして出てきた配達コースから外れないように運転し、邪魔にならず、すぐに出られる最適な場所を素早く見つけて車を停め、それぞれの配達時間を逆算して取り出しやすいように積み込んでおいた荷物の中から配達物を取り出し、チャイムを押す。こうした一連の動きは、慣れてくると速くなる。

 一日八十軒から九十軒ほど回り、その都度同じ動きをするので、慣れるはずだ。さすがに、身体が覚える。


 僕にとっては配達員が一番長く続いた仕事で、それ以前は、仕事に慣れる前に何らかの問題が起こって辞めることを繰り返していたので、同じ動きを反復することで得られる恩恵に気付くことがなかった。

 あらゆる職業で求められるのは効率と確実性の伴ったスピードで、どちらとも欠けているのを自覚している僕は、仕事の速い先輩や同僚の姿を見ては、速く、てきぱきとできない自分を嫌悪するばかりだった。

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