2-3

 複雑な心境に陥っても、やはり小さな一歩を踏み出したことには代わりない。



「……トモ、何だか嬉しそうだね。今日、いいことでもあった?」

「えっ、そう、見える?」


 にゃこ吉を膝に置き、リビングのソファで寛いでいると風呂上りのヒロ兄にそう質問された。


 ちゆりさんの連絡先ゲットの件で、気が緩んでいたのかもしれない。


「うん、顔が綻んでる。珍しい」

「ちょっ、笑うほど? 表情筋が乏しいのは自覚してるけど、俺だって普通に浮かれるくらいはあるよ」

「へぇ、浮かれる内容か」


 さらにヒロ兄は深い笑顔に陥る。不敵というか、怪しい口角の上げ方を。


 照れ隠しで違う、と反論しようとした矢先、ダイニングにいる母さんに呼び出しをくらった。


「智也ー、料理運ぶの手伝ってちょうだい!」


「っ、はーい。今行くよ。そんなわけでヒロ兄、浮かれるっていうのは状況じゃなくて例えだから。勘違いしないこと」

「はいはい。そういうことにしておく」


 ……本当にわかってるのか。まだ笑ってるし。顔も、ちょっと熱い。


「ほら母さん、また呼んでるよ」

「うん。にゃこ吉、お利口にしてろよ」

「にゃー」


 雑に返事を繰り返しては、にゃこ吉だけソファに下ろす。


 ……今日はハンバーグか。母さんも何かいい事でもあったのかもしれない。ルンルン気分でダイニングへと赴く。ヒロ兄のことを気にも留めずに。



 ――のちに俺は不注意にも携帯の画面を上へと向けたまま置いていってしまたことを、軽く後悔することとなる。


 普段、我が家の日曜の食卓というのはテレビの音量と談笑で満ちる。しかし、今日は明らかに違った。



「……ごちそうさま」


 隣のヒロ兄がまともに手を付けず、手を合わせる。おまけに会話も乏しく入って来ない程度には様子がおかしい。


「あら、博人、もういいの?」

「うん。……ごめん、腹一杯」


 母さんの問い掛けには答えるが、なんというか元気がない、ように見える。


 先までの態度とはまるで別人。両親も心配そうに各々聞くが、ヒロ兄は生返事だった。


「……ヒロ兄」

「智也」


 兄の名前を呼ぶと、呼称される。少し苛立ちが籠ったような感覚で。


「な、に?」

「あとで、オレの部屋に来て。……話したいことがあるから」


 と、返事をする前にヒロ兄はそれだけ伝えると二階へと駆け上がる。その際には視線がまったくと断言していいほど合わなかった。



 あんなヒロ兄、知らない。

 理不尽に怒りをぶつけることも、有無も言わせない威圧感のある話し方も――恐怖心を煽るような、呼び出しだって今までなかったのに。


 両親の心配を受けながらも、俺は兄の部屋の前に立っていた。



「……ヒロ兄」


 ドアをノック。昨日よりも、その手は重く少々躊躇いが生まれる。


「入って」


 短い返答と共に指示通りに俺は動く。

 まず視界に映ったのはヒロ兄の俯いた顔。入室と同時にこちらを向くと、早速前触れもなく核心を付いてきた。


「ちゆりと何かあったのか?」

「っ」


 言葉にならない驚きが、意図せず表に出る。


 隠すつもりはなかった。ちゆりさんのことはいつかヒロ兄に言わなければいけないってわかっていたから。それでも、心の準備という甘い考えでも浸る前にどうして急に……と、俺はここで自ら失態を犯してしまったことに気付いた。


「……もしかして俺の携帯、見た?」


 バカ正直に兄が頷く。そして弁論も。


「けど、故意じゃない。たまたま、画面に通知があって、それで」

「あぁー、はいはい。そこは疑ってないから。……確かにちゆりさんと連絡先を交換したよ。けどさ、今のヒロ兄には関係ないよね?」


「そう、だな」


 ヒロ兄の目線が泳いでいる。

 逆ギレって思われていようが、現状の状況を強く述べたまで。ここで引くわけにはいかない。


 ……俺はそんなに優しく、ないから。


「ヒロ兄は! ヒロ兄は……ちゆりさんが幸せなら別にいいんでしょ? なら、俺が相手だって彼女を幸せに出来るなら構わないよね?」


「っ、それ、はっ……」


 今まで見たことないくらい、苦い顔。

 退くな、己を見失うな。目先にいるのは兄じゃなく、好きな人の元カレ。大事な人を悲しませて、復縁の希望すら与えない相手に遠慮なんて必要ない。


「聞いたよ。ヒロ兄が振ったんでしょ? 理由も、なんとなく聞いてる」


「……なら、悪いことは言わない。彼女は、ちゆりはやめておいた方が――」



「いいわけない‼」



「っ!」

「ずっーと待ってたんだ。あんたたちが別れるのを、俺はずっと。ずっと待って、ようやく、ようやくって時にっ!」


 熱弁。自身が何を語り、何を訴えたのか、後の俺は記憶がないと都合よく口にする。それほど熱くなっていた。


「邪魔をするな。外でも、学校でも、何かと理由をつけて一緒にいられた、あんたに俺の惨めな気持ちなんてわかるわけないっ‼」


 怒りと嫉妬心と、夢見がちな羨望を多く交えて、放つ。そして。



「……わかった。智也がどれくらいちゆりに対して本気なのか、わかったよ」


 呆れ、と名前を付けるべきか。その顔には覇気なく笑う兄の姿があった。


「オレの負けだ。はは。まさか、トモがちゆりのことをそこまで好きだったとは思わなかったな」

「っ……つまり」

「オレも二人の間を取り持とうと思う。可能な限り、だけどな」


 驚き、流れで感謝の言葉を口にする。


「ありがとう。……あと、心にもないこと言って、その、ごめんなさい」


 ポン、と頭に大きな手が乗る。そして無造作に勢い任せで撫でられた。


「いいって。オレも厳しいこと言っちゃったからな、お互い様ってことで」


 ……まったく、我が兄ながら本当にそういうとろこは甘いと思う。これまでもちゆりさんを狙ってる人物はたぶんいたと思うけど、よく取られなかったなと感心する。


「ところで、進展つーか……? 連絡先を知ってるってことは、要するに、現関係は一体どのような」


 右人差し指で頬をなぞるように掻く。真っ直ぐなのか、優柔不断なのか。……まあ、この際どっちでもいいや。


「告白したけど、なんか曖昧にされた」

「えっ?」


 驚くよね。俺だってそうだもん。

 元カレにして、兄の協力を得た現在、情報量に反して前進していないことに少しだけ落ち込むのだった。

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