ちゆりさん、俺じゃダメですか?

おおいししおり

プロローグ

 欲しい。奪いたい。

 そんなどうしようもない強欲に満ちた感情が俺、長谷川はせがわ智也ともやの心を蝕む。


「トモ、紹介するよ。彼女が昨日話した恋人の」

「はじめまして、天崎あまさきちゆりです。よろしくね、智也くん」


 ふわりと笑みが綻ぶ彼女に、俺の中で何かが落ちた。俗に言う、恋という形のないものに。


 一目惚れだった。

 垂れた翠眼の瞳にゆるりとした、かつ柔らかそうな茶色の髪。地味、派手でもない服装は常に清潔感があって、おまけに性格は穏やかときた。


 そんな憧れに近しい秘めた恋心を抱く相手の肩書きは大学二年生の兄、博人ひろとと同級生。……要するに、中学生の俺は彼女にとって『彼氏の弟』としか見てもらえなかった。


 けれど――。

 その日、運命の神様ってやつはほんの少しだけ俺に味方した。


「ちゆり、さん……?」




「えっ」


 顔が上がる。

 部活の帰り道。たまたま目に留まった公園で独りベンチに腰掛けた女性……その何処か見覚えのある姿に、自ら名前を呼ぶ。


 腫れた瞳を見れば、たとえ『弟』でしかなくとも心配したって変ではない、と言い聞かせて。


「ど、どうして泣いて?」

「あ。ええっと、これは……っ」


 服の袖で目を擦る仕草をした。まるで隠したがるように。


「……泣いてるの、バレバレですよ」

「うっ。そう、だよね。ごめんね」


 細い、本当にか細い笑顔。

 違う。俺が聞きたいのは涙を浮かべた謝罪じゃなくて。


「その、嫌とかじゃなければ、聞いてもいいですか。理由、泣いていた訳、とか」

「あっ……」


 驚き、そして彼女は柔らかに微笑む。

 いつものように、ヒロ兄と話す時のような屈託のない笑みを掲げて。


「ありがとう。……それじゃあ、聞いてもらおうかな」


 隣どうぞ、と気遣いを受ける。

 兄に悪いと心の何処かで思い、おかしくはない距離感……気持ち、離れて座った。


「ふふっ、もっとこっちに寄ってくれても全然いいのに」

「お、お構いなく。それで、何があったんですか」


 なんとなく、胸騒ぎがした。根拠は、ない。それでも、ふと彼女が無理をしていると悟った。


「振られたの」







「……え?」


 あっさり。転じて、簡単に述べた。


「振られたっ、て。あの、ヒロ兄に、ですか……?」


「もちろんだよ。だって、同時に他の人と交際なんてしていないからね!」

「いや、そこは疑ってないですが」


 振られたって。あのヒロ兄が、ちゆりさんを振った? そんな、まさか。


 はじまりがあれば、いずれ終わりだって訪れる。それが唐突であっても。しかし頭では理解出来ても心が、違和感が追い付かなかった。


 ヒロ兄とちゆりさん。

 高校時代に予備校が一緒だったことをきっかけに付き合い、家族にも紹介済みの二人。仲良しカップルと弟の俺から称してもバチが当たらない程度には別れる要素なんて何処にもなかったはずなのに。



 一体、どうして。


「わたしね、愛が重いみたいなの」


 聖女の如く胸の前で両手を組み、彼女は言葉を紡ぐ。


「自覚、は正直あまりないけれど……」

「でも、ヒロ兄本人に言われたってことですよね」


 渋々頷かれる。少し、意地悪な聞き方だったかもしれない。


 愛が重い。

 その定義やら基準が俺にはわからないが、困惑気味のちゆりさんにそう問うたとろこで仕方ない。


「別れたくは、なかったよ。でも、それと同じくらい彼の負担になるのが嫌で。もう、どうしていいか、わからなくて」

「ちゆりさん……」


 悲痛で純粋無垢な叫びが、彼女の涙腺に拍車を掛ける。


 ちゆりさんがヒロ兄を好きなように、ヒロ兄がちゆりさんのことを一人の女性として愛情を注いでいたのは知っている。恐らく、誰よりも。


 あの初対面で出会って以降、兄は毎日のように彼女自慢をするのだから。料理が得意で、美味しくて。何事にも挑戦的で笑顔が愛おしい世界一の彼女だって。

 聞き手のこっちが妬けるほどには、話の中心となっていた人物なのに。けど……確かに、いつしかそれはなくなっていた。


「ごめんね。お兄さんのこと、なんだか悪く言ってるみたい、で」

「それ、は」


 それは別にいいです。あなたにそんな悲しい顔をさせる兄のことなんて……。


 尊敬はしてる。六つ離れた人物に憧れと、醜い嫉妬も。俺はヒロ兄のことが家族として好きと同時に――誰よりも羨望を抱いていた。

 天崎ちゆりさんを独占出来る、この世で唯一無二の人物だから。


 でも、もう……。

 恋人関係でないのなら遠慮、なんて不要だよね、ヒロ兄さん。


「ご、ごめんね。困らせちゃったよね。智也くんはお兄さんのこと――」


 パシッ、と腕を掴む。白くて、細い、今にでも折れてしまいそうな年上の女性の腕を。


「えっ、と。智也、くん?」


「兄さんのこと、確かに家族として好感を持ってます、他にいない目標です」

「う、うん。そうだよね」


 だから、俺ははっきり伝える。

 この場を借りて本心を。……もう、自分の想いに嘘をつかなくてもいいのだから。


 俺の緋色の瞳が、彼女の美しい翠眼を捉える。この秘めた想い、今、純粋に、真っ直ぐな願望を言う。




「ちゆりさん、俺じゃダメですか?」


 まだ夏になれない、五月中旬。

 俺は人生で初めて告白と、兄のモノだった人を奪おうと試みた。

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