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水瀬白龍

第一話 冷凍された嫁の脳

 一


 私と同い年の嫁の脳が、冷凍庫に収納されたのは今から三十年前のことであった。私は今や齢六十である。彼女が不治の病を発症したのが二十五歳の頃であり、その五年後には彼女の脳を冷凍保存したので、あの時より随分と長い年月が経ってしまった。


「全く、時の流れとは驚くほど速いものだ……」


 私が自宅で紅茶を嗜みながら呟くと、向かいのソファーに腰かけていた美里が「嫌だわ、本当に年寄りみたいなことを言っちゃって」と笑う。その言葉には大いに不満を表したいところであるが、私が年を取ったのは事実であったため、何も言わないでおくことにしておこう。円満な家庭を築くにはこういった小さな努力が必要であることは、長い年月をかけてようやく知ったことであった。

 美里との共同生活も長い。時に喧嘩をしては仲直りをしつつ、何だかんだ彼女と共に成長し、協力し合って生きてきて既に三十年も経っている。彼女とは、私の嫁の脳が冷凍保存された時からの付き合いであった。


「ほら貴方ったら、いつまで紅茶を楽しんでいるの? さっさと晩御飯を食べちゃいなさい」

「ちょっと待ってくれ、あともう少し……」

「貴方の少しは一時間以上かかるじゃない! 貴方に合わせていたら夜も更けてしまうわ」


 美里に呆れたように言われ、私は仕方なく腰を上げた。この時間が一番の至福の時だというのに、美里は分かっていない。彼女は紅茶を飲まないものだから……。

 冷凍庫に向かい、冷凍された弁当を取り出して電子レンジに突っ込む。パカパカと点滅するスタートボタンを押して、弁当の出来上がりを待った。

 電話がかかってきたのは、その時であった。


『脳科学研究所より秋月修二様にお電話です、脳科学研究所より秋月修二様にお電話です——』


 部屋に響いた機械音声に、私はすぐさま携帯電話を取る。脳科学研究所は、嫁の脳の保存を委託した研究機関だ。「もしもし」と電話に出ると、これまで何度もやり取りしてきた担当者の声が流れてきた。


『アー、脳科学研究所の葉山です』

「いつもお世話になっています。それで、こんな夜更けにどうしました」


 まさか、嫁の脳に傷でもついたんじゃあないだろうな。私の不安が伝わったのか、電話の向こうで葉山は慌てて『秋月さん、朗報です』と告げた。


『冷凍保存していた秋月美里さんの脳の解凍が、ようやく実現可能になったんです』

「……なんだって!」


 私がそう叫んだと同時に、電子レンジがピピピと出来上がりの合図を鳴らした。


 *


「えー、秋月美里さん……今から三十年前に脳のみを冷凍保存した貴方の奥様でよろしかったですね」

「えぇ、えぇ、そうです」


 夕食も口にせずに駆け付けた研究所で、私と葉山は会話をしていた。


「それで、美里が……私の嫁が解凍出来るというのは本当ですか?」


 詰め寄るように葉山に尋ねると、彼は曖昧に頷く。


「解凍しても問題なく彼女の意識は戻るでしょう。会話も可能です。しかし、奥様の体はご用意出来ません。簡潔に言えば、奥様が生前の姿で蘇生される訳ではないということですね」

「……体の用意が出来ないというのはどういうことですか?」

「現在の技術では、脳から直接脳波を読み取って動作としてアウトプットするには、それなりに大きな体積を持つ機材が必要になります。それを人間の体を模したロボットに搭載することは、現時点では不可能なんですよ。ですから、奥様の解凍を選択された際は、このような形で奥様が復活されることになります」


 そう言って彼が見せたタブレットには、高さ二メートルと言う文字と、長方形の箱のイラストが表示されていた。成程、確かにこれはどう考えても人間の姿ではないだろう。


「箱の下には車輪がついているので、奥様は自発的に移動出来ますし、腕の代わりになる二本のアームも搭載されています。また、先程申し上げました通り会話も可能ですから、見た目がいかにも機械的である点を除けば、奥様が不自由なさることはないとは思います」

「いや、しかし……このような姿で蘇生されることになる美里の気持ちを考えると、二つ返事で彼女の脳の解凍をお願いするのは……うーん」


 人間の姿と区別出来ないほど精密に造られたアンドロイドが主流である今、このような厳つい見た目で美里が復活することに対して、私は気がかりを隠すことが出来ない。しかし、私の言葉に葉山は困ったように眉を下げた。


「そのお考えは私にも理解出来ます。しかしですね、剥き出しの脳から直接意識を読み取るシステムを小型化して、人型アンドロイドの中に落とし込む技術は恐らく……秋月さんがご存命の間には難しいでしょう。我々の技術が追いつかず、本当に不甲斐ないことです」


 葉山は申し訳なさそうに、そう言った。

 私は彼の言葉に考え込む。

 ——まだ貴方と共にいたいのだと、残り僅かな余命を知らされた嫁の美里がそう嘆いた記憶は、まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。そして、冷凍保存される直前に彼女の発した「いつかまた会いましょう」という言葉も。

 ならば、私の死後に彼女が蘇ったところで、彼女にとって意味がないのではないだろうか。


「まぁ、今すぐ決断する必要はありませんから、時間を掛けて考えていただければと——」

「あぁ、いや、いい」


 気を遣うような葉山の言葉を遮り、私はキッパリと宣言した。


「どうか私の嫁の脳の解凍を頼みます」

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