第4段:縁の色に染まるブッドレア

4-1

 死線のほろ酔い気分も抜けてきた頃、世間は祭りから急速に日常が取り戻しつつあった。なぜ死にそうになっていたかって?手の内が知れた相手でも怖いものは怖いし、苦手なものは苦手なのだ。


 私が廊下の窓サッシに腕を置き、片足に体重を掛けながら秋風に当たってその気になっている一方、鏡花は正直で意固地で一生懸命な人間だから、きちんと後片付けに一意専心してらっしゃる。肩甲骨を超える長い後ろ髪が、跳ねるようにうねっている。そんな最後までやる気たっぷりの鏡花を、あくびたっぷりに高みの見物をした。


 まるで電脳空間のように、あっという間にお化け屋敷は化けの皮を剥がされ、暗幕やら墓石などの小道具とか本物の瓦とかが、床に並べられる。主に私以外のクラスメイトが、夏休みから汗水苦言妄言垂らして積み上げたのに、瞬く間に破壊されていく。力作を自ら跡形も残らないよう葬る、それはさぞ気持ちよかろう……じゃなくて、賽の河原みたいだなぁ。


 鏡花の小休止に合わせて、私は反作用を利用して壁から離れ、荷物を運び出す男子と扉ですれ違いながら、彼女の元へと向かう。そして、エクトプラズムを吐き出してるように、ぼーっと立ち尽くしている鏡花の名字を呼んだ。


「うひゃっ!ひゃぁ……」


 鏡花はお化け屋敷に幽閉された、さっきの私のような鳴き声を上げて、振り返りながら三歩ぐらい後ずさりする。


 特に謀ってなかったのだが、背後から、それも首を伸ばして気持ち耳元で囁いたら、誰だってびっくりする。脇の辺りの髪を、左手ですり潰すように撚る鏡花を眼前に反省した。


「驚かせるつもりは……無かったんだけど」

「いいよ。お返しってことで」


 目線が私の遥か後ろで床に寝そべっている永田だけを捉えている辺り、目をしばたたったたかせている辺り、ちゃんと動じているらしい。うーん、これでいいのか?


 しばらくすると、合図するように鏡花が私を一瞥した。そうだった、鏡花のいじらしい姿を間近で堪能しに来たわけじゃなかった。


「さて」

「んー」

「クラスの打ち上げなんてのはどうでしょう。行きませんか?」

「んむー、うーん……」


 鏡花の視線が髪をつまむ手に戻った。だがこちらには隠し玉がある。いや、隠してたらまずいことだけど。ははっ、鏡花の心を掌握することなど造作もない、と鼻息を吹かせながら、目をほんの少し細めながら、鏡花の大好きなフレーズを口にした。


「焼肉食べ放題、しかも私がダーツで優勝したからタダ」

「んんん……んむむ……」


 あれ……?まっまあ落ち着け、まずはモールス信号のように、不規則なリズムを刻む鏡花の唸り声を鑑賞して……。あれ、焼肉、ダメ?鏡花の表情はいつまでも快方に向かわず、むしろ声色から察するに、迷いが加速しているようだった。


 体重が増えたことにでも懊悩してるのだろうか。でも今までの経験から推察するに、鏡花ならそういう事は、唸り声の中にぽろっと落としてしまう気がする。そもそも、体重が頭によぎって、大盛りを頼めなかったり、間食を躊躇ったりする鏡花なんて見たくない。


 なんて理想を押し付けてないで、さしあたっては、私に言われたから断りにくかった、という線を潰しておこう。


「洞窟ちゃん……刑部も来るんだよね。どっちかって言うと、私たちの周りで騒ぎたいだけっていうか、そうなんだよー」


 まあ、このクラスはやけにスクールヴァルナ上位勢が固まっていて、ほとんど全員参加するんだけども。


「うん」

「すまんね、片付け終わってないのに時間を使わせてしまって」


 私は鏡花が頷くのを確かに確認した。それから仕事を思い出したので、生徒会室に戻ろうと台詞半ばに右足から順番に90°移動させ、左手を振りながら立ち去ろうとすると、鏡花の本気を垣間見てしまう。裏返った声、据わってない目、そして風を切るように前屈みに、両腕は後方に伸ばして、一生懸命意志を絞り出している。


「あっあぁっと!行きます、行きます、行きます……」

「行くの?」

「うんっ」


 いつも通り強情?狷介?な鏡花を前に、私は何を身構えていたのだろう。押し負けそうで笑うしかなかった私は、余裕ぶりながら適当な諧謔で締めることにした。


「わかったわかった。意気込んで食べ過ぎて、店を潰さないようにね」

「…………うん」


 今度は曖昧な返事どころか、何だか目を伏せてはにかんで髪をいじり始めたので、私も体を横に向けたまま、そこから身動きが取れなくなる。何度か右足をちょこちょこ開いて、鏡花の反応を見極めてみるも、しおらしい仕草が止む気配がない。別にこのままほったらかしてもいいけど、神様はこういう行いも見張ってると思う。うん。


「どうした?」

「ひゃふっ、……うん」


 正気に戻る時の音かと思えば、すぐに目線が下に戻る。


「私の声がちょっとかすれてるの、そんなに面白い?」

「そう……なの?」

「のど飴買って帰ろうかな」

「いやっ、綺麗な声だと思います……」


 鏡花はぼそぼそとお世辞を発する。私にもはにかんでほしいのかな?残念ながら美辞麗句には慣れているんだ。大様に構えていると、鏡花は左手から髪の毛を放して、低い位置からそれを慎ましやかに秘密の暗号のように振ってくる。私もそれに呼応して手を振りながら、ようやく鏡花から離れられた。


 しかし、鏡花も食べ物なら諸手を挙げて、ほいほい付いてくるという訳ではないんだな。まー多分恐らく十中八九、集団で盛り上がるのが得意ではないだろうし、気圧されてしまったのだろう。というか、それでも最後は食欲に抗えてないんだから、飽食の時代の寵児なのかもしれない。私はアメリカンドッグとか食べてもうお腹いっぱいなのに……とか一人反省会をしていると、露崎と衝突寸前になっていた。


「うひゃっ!ひゃぁなんだ、よっすーじゃない」


 私の鼻先が露崎の耳に触れて、鼻息でも降り注いだのだろう。甲高い声で喚きおった。私は三歩下がっていく露崎を、目と言葉で追撃する。


「うーん、そんな女の子らしいビビり方は似合わんよ」

「酷いよ!もうお嫁に行けない……」


 露崎はそう言いながら両手で顔を覆って、号泣を熱演する。耳に鼻息が掛かっただけで、やっぱり仰々しいんだよなぁ。鼻息を他人に吹きかけてしまった私こそ、乙女失格だろうに。



 壊れるのは一瞬、と飲酒運転啓発のキャッチコピー通りだな、なんて思っていたけど、生徒会室に戻ると仕事が山積みで、片付けるのに時間がかかり、すっかり日没してしまった。大半の人は先に焼肉屋に着いてるようで、さっきまで確かにこの場所、学校にあった活気を丸ごと輸送したような写真が、スマホに何枚も送られてくる。


 それに引き換えここは……と、感傷的になってしまった。校門に置かれていた文化祭用の手作りゲートは撤去され、変なマスコットは居なくて、街路灯だけが白くきつく発光して、自分の足元以外を照らしている。


 全行程がつつがなく終わったからって、その日の内に跡形もなくす必要はないよなぁ。昔、学校の行事でオーケストラの演奏を鑑賞させられた時、余韻を作ってから拍手しろと指導された覚えがある。だから余韻を楽しもうと……なんてやっぱりそんな高尚な話でもなくて、急激に変遷していく事柄に対して、それに付いていけなかったらどうしようと、周章狼狽してしまう性なだけだった。


 で、そんな灰青色の感情を脳内にのさぼらせておきたくないので、抜け殻のように侘しい学校から可及的速やかに立ち去ろうと、扇風機みたいなぬるさの風が紙テープの断片を巻き上げるのもいざ知らず、早歩きになっていた。えーっと、学校を出たら左に曲がるんだっけ。まあ結局は住宅街なので、侘しい街路灯しか明かりがないのは変わらない。日本の夜道は本当に考え事が捗るなぁ。


 一方、学校を発った直後から、気配というか視線というか存在証明を感じて、ますます足を運ぶペースを速めざるを得なくなっていた。赤外線カメラに映ったアライグマとかハクビシンの眼光、あんなのが突き刺してくるのである。風なんかよりよっぽど、強力に背中を押してくる。


 熱源はついに私の横に並んでいて、看過できなかった。そう、なぜか鏡花が何かは食った顔で、隣を歩いている。でも、しばし前に送られてきた写真の端に写ってたんだけど……。あれか、これはタイムトラベルしてきた鏡花なのか。しかし油煙のにおいが少々鼻腔をつついてくる。お前は誰だ。


「あぁ、島袋さんかー。いや本当に2024年9月7日の島袋さん?」

「うん!」


 宵に染みるぐらい元気良く肯定してくれたのに免じて、歩くペースを緩めてあげた。


「え、さっきまで店にいたよね」

「うん」

「ではなぜ私は今、島袋さんと共に在るんですかね」

「お迎えだから」


 私は明世に地図が読めない奴だと思われてるのか?


「あの野郎」

「どの野郎?」


 物凄い応答速度で首を傾げながら聞き返される。私の一言一句を聞き逃すまいと、うさぎが好きすぎて、うさぎに近付いているのかもしれない。


「あ、モロックマの差し金じゃないの?」

「差し金っていうか、まー頼まれたけど……」


 どうして分かった?と、自分の足元しか照らさない街路灯の光を受けた鏡花が、表情で訴える。相場が決まってるから、としか説明のしようがないんだけど。あれか、明世は気が利くから、店員さんの顔色をうかがって判断したのだろうか。


「何食べた?」

「んー、普通に、カルビをぼちぼち」

「何皿?」

「そっ、そんなに食べてない、から……」


 鏡花にそっぽを向かれた。道路を挟んで反対側の郵便ポストなんか見るより、私の顔面のほうがまだ一興あると思うのだけど……。


 そんな私の驕慢な自意識通り、そっぽを向いても面白くなかったようで、気が付くと鏡花は進行方向斜め下、レンガっぽい歩道のタイルをまじまじと見つめている。いやそれも退屈だろうし、何か話を振ってあげたいところだが、文化祭の間はそれなりに一緒にいて、もう感想も感謝も伝えてもらっちゃったため、話題が特に思い付かない。


 ここはひとつ、秋虫たちに頑張ってもらうしかないかー。私は胸を張って夜空を見上げて、深呼吸もしてやって、勝手に清々しくなってみる。そして横を瞥見してみるも、鏡花はこの悦びを全く共有しようとしていない。普段よりは秋を粧っているけど、でもそれだけだった。窮屈だなぁ、歩道が狭いもので。鏡花と肩が擦れないよう、今の私は右肩上がりなのだ。


 まるで私が鏡花の後輩のように、ひとりでに息を詰まらせながらも、道には迷わず、クラスメイトだらけの焼肉屋に到着した。店内には高校生たちがはしゃいでる騒音と、むせ返るような油の焦げたにおいが充満して、別の意味で息を詰まらせそうになる。


 ふと、通りかかった机を瞥見すると、刑部がこまごまと肉を嚙み切ろうとしていた。一口で食べればいいのに、こんな時に体裁を取り繕うとしなくてもいいのに、と反骨心から何だか早く肉が食べたくなる。唾液が澎湃と分泌され、固唾が喉を潤しているぐらいだったので、鏡花のことを笑えないぐらい私だって食べ盛りなんだなーと、ようやく素直?になった。


 仄暗い店内の奥のほうへと進むと、藪から棒に明世が顔を飛び出させて、こっちこっちと片手を大きく振ってきた。しかし私は目を丸くして、驚愕したのを見逃してない。やっぱり道に迷う想定だったのか。


 網の上で焼かれている肉を見回して、溢れる脂に想像を膨らませながら、私が椅子の横に着くと、鏡花が一歩不自然に下がった。そしてどこかの伝統芸能のように、仰向けの両手を前後に揺らして、先に着席するよう勧めてくる。


「奥にどうぞ」

「えぇ?んーじゃあ……」


 トイレ行こうにも、ドリンクバーに行こうにも、鏡花をどかさないといけないのは、ちとめんどくさい。まあ逆に言えば、鏡花はそれらがやりやすいわけで、こっちが気を遣うつもりで奥に座った。


 私たちが着席すると間もなく、明世は鉄の箸を両手に握って、ドラムスティックのように振り回した。隣に座っている永田の冷ややかな眼差しを、歯牙にもかけないで。


「うぉー、がすよぉー、お誕生日ぃっ、おめでとぅー!」

「何、酒でも入ってるの?」

「あっ酒と言えば、飲み物取ってくるよー。何飲みたい?」


 明世はそう言いながら、箸を机の上に音を立てずに置き、転がり落ちないように指でつまんで一回押さえて、完璧に揃える。さっき子供みたいに振り回していたのからは想像できない、繊細な所作だった。


「いいよ、自分で取ってくる」

「あら、箸より重いものを持ったことなさそうなのに」

「うわー、鉄製だから重くて持てなぁい……ってアホか」

「じゃあ、しまちゃんに、あーんってしてもらったら?」

「自分が食べたくなって、おあずけされるだけだよ」


 ほぼ本音を意地悪げに肩をすくめて言ってみたら、隣からコップを机に置いて、氷がカランと音を立てるのが聞こえた。


「おあ、しまちゃんの分も注いでくるか。ウケ狙いにする?」

「さ、さすがにメロンソーダでいい……」


 鏡花の分もあるなら、そういう事なら頼もうかな。


「じゃあ私は烏龍茶……」

「何になるかは私の配剤~」


 明世は鏡花のコップを手に取ると、片側の口角を上げて、流し目に私を睨んでから席を立った。しかしこれで苦しむのは明世のほうだ。変なものを持ってきたら私からの信用を失い、普通のものを持ってきたら、意表を突くふりしかできない腰抜けという烙印を押される。


 というのはどうでも良くて、私も肉を食べようと、箸を網のほうに伸ばしてみたけど、気圧されてUターンしていた。そこの、絶え間なく肉を焼き続ける永田に威圧されたのである。トングから決して手を放さず、ひっくり返せる肉がない時は、トングをカチカチさせたり、網の縁の金属をそれで叩いてみたりしている。迂闊に手出しできない。


 脂が落ちて燃えたぎる炎を直視して、眼底が焦げたりしないのだろうか。半目だから平気なのかな。ひとまず私は、背もたれと壁のなす直角にすっぽり収まる永田に、肉を送るよう視線を送った。しかし、余程肉を焼く作業に取り憑かれてるらしい。いい塩梅に焼けた肉をトングで掴むと、立ち上がって鏡花の小皿に置いて、また定位置に戻っていった。


「ねこは食べないの?」


 よく見たら、小皿に入ったタレに全く油が浮いてなかった。


「食べたよ、イチゴのシャーベット」


 永田はトングとはもう片方の手で、空の透明な器を見せつけてくる。


「え、それで終わり?」

「せやな、レモンのシャーベットも食べるかー」

「うーん、島袋さんを見なはれよー。こんなに食べてる」


 私は肉の焼かれている間に、釜から直接ビビンバを掻き込むような鏡花に視線を落とした。永田に関しては、その様子を一目見ただけで満腹そうにしていた。


「ん……?」


 二人の注目の的になったことに気が付いた鏡花が、私と永田を交互に見ながら顔を上げる。


「というわけで、ねこもお肉を食べよう」

「うんうん、いっぱい食べないと大きくなれないよ」


 鏡花は台詞を言い終わると、すかさず肉を口の中に放り込んで、もぐもぐした。一方、鏡花の発言に薫陶を受けたのか、永田はトングを持ったまま少しだけ固まる。いや、たくさん食べても、鏡花の背はそこまで高くなってない。その矛盾が頭をよぎっただけか。


 でもやっぱり永田には思うところがあったようで、トングで一番小さいのを一切れ掴み、口を開けつつ上を向いて、その肉片を投下した。そして長々と咀嚼してそれを味わう。


「んむ、焼くほうが私に向いてることが分かった。ほらよっすーも、食った食った」


 色んな種類の肉が、五枚ぐらいまとめてやってきた。


 そんなことをしていると、明世がコップを二つ持って戻ってくる。さあ、ジャッジメントの時間だ。私は明世が持ってきた、茶色の液体を無警戒に飲んだ。…………何だこれは、初めての独特な香りと味が口の中に広がる。甲乙つけがたい味、飲めないことは決してないが、二杯目を能動的に飲もうとは思わない味。とりあえず、詰る。


「何を混ぜた」

「いや、ただの読めない漢字茶だよ。健康にいいって、ポップに書いてあった」


 と、明世は正々堂々どやってくる。確かに、健康増進に良さそうなほろ苦さがある。しかし何度も舌の上で転がせば、段々感覚が麻痺してくる。ギトギトの焼き肉を受け止めるには、悪くないかもしれない。鼻に抜ける香りとか時々ちらつく渋みとか、独特の風味を意識してしまった途端に烏龍茶が恋しくなるけど。


 まあ飲み物も来たところで、熱心に心行くまで肉を食す。私も参戦すると、机の上からは目にも止まらぬ速さで肉が消えていく。いつぶりだろうか、こうして腹が満たされていくことに幸福を覚えたのは、他人の焼いた肉に無神経にかぶりついたのは。


「おぉー、仲がよろしいこと」


 刑部の嘆声で顔を横に向けると、私の真似なのか鏡花がサンチュをそのまま頬張っていた。適度な苦味と青臭さにより、天然を体に取り入れている感じがして、サラダよりも健康になれそうだから、私はその一心で食べている。葉物の瑞々しさに涙したのは最初だけだった。


 それより、刑部は私を呼びに来たようだった。鏡花と明世に導かれるように、この席に一直線で来ちゃったけど、せっかく大人数で集まっているのだから、他の卓に顔を出したほうがいいか。そういうわけで、片手を座面に突いて、体を浮かせたところで、鏡花が座し塞がっていることに気付き試練が始まる。


 鏡花は脇目も振らずに、ただ肉と野菜を交互に呑み込んでいく。決して包まず、あくまでも別々に頂く。はふはふという擬音語が聞こえてくるような食べっぷりで、でもってその眼差しはあくまで真剣だから中断させられず……。私は努力ぐらいはは刑部に見せつけようと、鏡花の顔を覗き込んだ。


「あっ、あのっ、えーっと、島袋さーん……?」


 私の囁き声に呼応してか、鏡花が起立する。それに伴って、忘れてた小テストの勉強を、授業間休みにやり遂げて何とかなった時ぐらい、心の底から安心して胸を撫で下ろす。しかしその安堵は刹那しか続かず、鏡花はその場で腕を刑部とは反対方向に伸ばしていく。


「んー……しょっと。ふいー」


 追加注文をしたいだけだった。鏡花は壁際のベルを鳴らすと、すっかり元の位置に逆戻りしてしまった。もう顔を上げるのも怖い、刑部と目を合わせられない。うーん、明世、何とかしてくれ、と無茶振りを目で合図する。


「しまちゃーん、トイレ行こうぜー」

「平気」


 連れションを鏡花にしてはにべなく断られ、情緒がおかしくなった明世は、歯を見せながらサムズアップしている。中指を立てるのは乙女として失格な気がしたので遠慮して、もう直接低姿勢に言うことにした。


「あの……、ちょっと私を出してもらっていい?」

「んー」


 間を置かず返事はやってくるけど、核でも動かなさそうだ。肉が無くなって、ただ首をまっすぐ据え、謝罪している人みたいにガチガチになりながら、明世の手元でも直視している。そして刑部も諦めない。腕を組んで、鏡花に無言の圧力をかけている。ミッキーが羨ましい。人気者は複数体いないとやってけない。


 鏡花に矛先が向いている内はいいとして、それが私に差し向くと立場が危うくなる。この薄汚い空気を、ぼーっと観覧席から読み解いてる場合じゃない。もう、強引に脱出することにしよう。私は立ち眩むぐらい、皿とか箸がからんと音を出すぐらい、変な気を抑え込むように急激に立ち上がり、鏡花と机の間をすり抜けようとしてみる。


「まっっ……て……。トイレ行こう、急に、急に前触れなく行きたくなった」


 鏡花に差し掛かる直前、トラップみたいに立ち上がって行く手を阻んだかと思えば、貴様も連れションかよ。しかし明世の冗談とはわけが違う。でもこの連れションに乗れば隙はいくらでもできるわけで、まあ可能な限り言いくるめますけども、乗ってあげることにしよう。


 一応、鏡花の背後にいる刑部にも目で合図を送っておく。そうやって刑部の機嫌を調整していたら、鏡花が隙を突いて私の腕を掴もうとしてくる。拘束されたらまずい、そう、それが一番まずい。でも脊髄反射が上手く機能してくれて、腕に力が籠もって回避できた。


「トイレには行くからっ。あ、安心したまえ」


 そう言い聞かせると、鏡花は弱々しく頷いた。刑部の視線は痛いものの、まずは二人でトイレに向かう。なんか離岸流に巻き込まれた気分だぜ。そんな経験ないけど。


 で、無論お互いトイレに用なんてないわけで、入口で立ち往生してしまう。じとーっと前のめりに、鏡花の表情の機微を汲み取ろうとしてみる。しかし、いつものように何かを言い淀んでいる風は感じられない。単に刑部との扞格からムキになっただけだろうか。意外と根に持つんだな。


 うーむ、果たしてそうだろうか?時雨との一件も、そこまで引きずってるようには思えないし。いや、あれと比較するなら、刑部と反目してからまだあまり時間が経ってないと言えるかもしれない。何だろう、私が時雨に真相を詰問した時のように、踏ん切りを付かせる出来事があれば満足するとか?もしそうだったら結構困る。刑部との絶縁とか要求されても、私は立場上性格上そこまで鏡花に入れ込めない。


 鏡花とは途切れ途切れに関わっているから、その空白に心境が変容しても、察知することができない。まあ、それは誰に対しても同一均一なんだけど、とにかく弥縫策を練らねば。


「うーん、会が終わったら少し歩く……とか」

「いっいや、いい、いい。んと、刑部さんの所に行ってくればいいと思う。うん」


 鏡花は七回頷いて、その度に違う場所に目線を置いて、一度も私と目が合ってないけど、なんかちゃぶ台を返されたのは理解した。


「これでいいの?」

「うん」

「うぬぬ、なんかーごめんね。私はだいたい皆と仲良しこよししたくてね。そういう人間だからさ……」

「……すぐ戻ってきてね」

「はい……」


 私の覇気もプライドもない返事に対して、証明写真のような形相をまるっきり変えず、それっきり何も言葉を発さないので、解放されたものとして、私は刑部のいるテーブルに向かって歩き出す。……鏡花のほうを振り返らずにはいられない。そしてなぜか、抜き足差し足忍び足になってしまうな。


 哀愁たっぷりに棒立ちする鏡花も、やがて自分の席に帰っていった。私はそれを確認してから、刑部の隣に詰めて座った。


 刑部たちは二次会の話がしたかっただけらしい。話題の切れ目を見極めて、仰せの通りすぐに鏡花たちのテーブルに戻った。トングを奪おうとした明世に、永田がおしぼりを投げて対抗していたのはともかく、気になる鏡花の反応は…………私を奥に座らせると、安心した心持ちをほのめかしながら、継ぎ足された肉を貪るのを再開する。その前後で特に何も変わらず、言葉も交わさず、打ち上げは食べ放題の時間を余すことなく使って終わったのであった。


 まあこれも、鏡花が私を慕ってくれてる証拠ということだろうか。うーむ、そういう事にしておこう。そうすれば総じて、実りの多い文化祭だった。鏡花の心を掴めたというのもあるし、それに同様の献身を複数人に仕掛けられたし。私の心は充実感によりなみなみのたぷたぷで、波を立てれば何かが無駄になってしまう。つまり、しばらくはこれで頑張れそうってことだ。


 会が終わると、締めるとかそんな大人な営みもなく、みんな散り散りになっていく。二次会のカラオケに行く人が、別に固まっていたので私も合流した。


 一緒に店を出たはずの鏡花を目で探してみたら、光から逃げるように闇に隠れるように、国道沿いの歩道を早歩きしていた。遠くなっていく背中に手を振ってもしょうがないなぁと思って、定位置に戻す。別れの挨拶ぐらいは話せることあっただろうに。んまあ、鏡花らしいか。


 目線を自分の足元に寄り戻す。店の看板の赤い光、刑部たちの止まらないお喋り、その背後には夜が影があって、バランスが取れている。……いや、その調和を均衡を保っているのは、他ならぬこの私だ。つま先が描く円を乱してるくせに、そう息巻いてみる。


「よっしゃー行くぞー!」


 明世が拳を月に向かって伸ばして、吹っ切れた声を上げたので、私も釣られて明世の顔に目線を合わせる。平然とした私に対して、刑部は冷淡な態度を吹き込む。


「うわ、そんなこと言う人初めて見た」

「人を先導してみたかった」

「嘘つけ、扇動の間違いでしょ」

「へ、どういうこと?」


 明世は腕を下ろそうとして中途半端に曲げて、そのまま固まった。さては明世、何も考えてないようで、何か考えてるようで、何も考えずに生きてるな?

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