3-4

 今日の鏡花は毛並みが違う。普段より毛羽立っているというか、でもそのおかげでより純朴に見える。


 そして顔色も悪い。きっと寝られなかったんだろうなーと予想する。対する私は泥のように眠れた。前日は各所の最終調整に奔走したので、疲労が溜まっていたらしい。


 朝夕は冷え込むようになり、早くもうだるような酷暑を忘れ始めた頃、第二桁回目の白山高校文化祭が開幕する。というか、今さっき開幕のスピーチをしてきた。


 とは言え、まだ休日だったら起床するぐらいの時間。廊下の窓から校門を瞥見してみるも、人の入りはまばらで、マスコットキャラクターだけが銀杏の木の下で愛想を尽かしていた。秋の訪れを知らせる風が、まとわりつくことも火傷させることもなく、背後から私の後ろ髪を浮かせて、ビロードのように滑らかな手触りを与える。そこにお祭り騒ぎが加わって、うーん、日本らしさでも感じればいいのだろうか。文化祭って諸外国でもやるのだろうか。


 私の斜め前には会議室があるけど、今日と明日はうちのクラスのお化け屋敷になる。扉や上にある窓は全て暗幕で覆われ、内部の様子はうかがえないけど、鏡花を含めみんな最終調整のために駆け回っている。手伝う隙もなさそうなので、窓際に脚をクロスさせながら寄りかかり、このまま鏡花の奮闘を拝見することに決めた。


 鏡花は立ち止まる度に、上を向いて人差し指をぐるぐるして、考え事を始める。その様子は小動物が暇さえあれば毛繕いしているのと似ていた。鏡花の一挙一動を観察していると、小動物のように激しい心音が脳内に響く。メトロノームがアップテンポを奏でるように、何かを急ぎたくなる。生き急ぐのだけは勘弁。


 同じクラスの人でも、話しかけられると鞠躬如として警戒してしまう。でもその間に明世が割り入ってコミュニケーションが成立する。あいつはあいつで、よくも鏡花の懐に潜り込めたなぁと、しまちゃんというあだ名を贈り奉ったって静心なく報告された時に、瞠目してしまった。


 校門が一般開放されてから10分くらいすると早くも、運動会で早朝から場所取りしてそうな父兄とか、このために帰ってきた卒業生とかが、そろりそろりと流れ込んでくる。ようやく調整も終わったようで、鏡花に私の所在を認識してもらえる。ごついレンズがピントを合わせるように、鏡花の瞳孔が派手に大きさを変えた。


「よっすーが呼んでるんじゃない?行ってきなよ」

「うん、うん」


 一度目の首肯は永田……明世がミケってあだ名を贈り奉った人を見て、二度目は私を見据えてだった。永田に後押しされて、鏡花がこっちにやって来る。


「島袋さん、どう?出来栄えは」

「ん?昨日、帰り際に話した通りだけど」

「それは、そうだけど……。当日になってみて、てこと」


 鏡花は人差し指を自分の唇に当てて、一応思い直してみる。鏡花の繊手は絆創膏だらけで、その苦労を拝察した。


「んー、変わらない」


 確実に鏡花も祭りに浮かされているから、何かが変わるかとも思ったが、あまりそういうことを大っぴらに口に出す人じゃなかった。


「えーっと、行こうか。付いてきて」


 なぜか、切り出すのに閂を抜くような一手間があった。鏡花は途端に目を伏せてしまい、何か開けてはいけない扉を開いてしまった気持ちになる。


「ん?……お化け屋敷、入らないの?」

「あぁ、島袋さんに、先に来てほしい場所があってね」

「うん……そうなんだ、分かった……」


 鏡花はそう言って顔を上げ、一回しっかりした瞬きを挟む。そんな物分かりの良さに安堵を覚えて、ようやくとっておきの場所、普段は自習室とかいう誰も寄り付かない場所へ移動できる。


 歩き始めてすぐ、鏡花が物言いたげにしているのに気が付く。


「どうかした?」

「んーと、目隠ししたほうがいい?」


 サプライズだから、と。そこまで厳密にやるつもりは無かったし、何より仕掛けられる側に提案されるのは何かなぁーって感じだけど、鏡花は当然そうなるべきと、むっと睨んで強く主張なさるので、背後に回って鏡花の両目に手をかざす。


「もっと、しっかり覆っていいよ」

「えぇ、こう?」

「うん。なんも見えない」


 鏡花の睫毛が中指と薬指の間で跳ねる。口蓋の裏をくすぐられるようなこそばゆさに、直に伝わる鏡花の熱が相まって、私の手は燃え上がりそうな温度に達する。今すぐに両手を氷水に浸けたい。そして、手汗が鏡花の顔に塗りたくられると思うと、自動改札のようにぱっと手を開きたくなるけど、代償として鏡花にちょっとだけ失望されてしまうので、歯を食いしばって我慢する。


 …………手以外の神経が麻痺していく。私まで目を覆われているような、そんな感覚にさえ陥る。それもそのはず、そこまで身長差があるわけではないので、視界の半分を鏡花の頭頂部が占めているのだ。ここまで近いと鏡花のひだまりのようなにおいがしてくる。


 今の私は、鏡花の温もりを急所に突き付けられた状態だ。鏡花に対してどころか、知り合いとすれ違っても満足に挨拶できない。早く目的地に到着しろと、切望と足取りが加速する。鏡花を半ば強引に押すように急いだ。


 1分ぐらいの出来事なのに、夏がぶり返したように汗が無節操に溢れ出る。一刻も早く両手を引っ込めたい私は、中に入る前にもういいだろうと手を離した。


 時雨のバイト先のマスターが人脈の豊富な方で、ウサギカフェに協力を要請してくれた。今日だけ丸ごと店のウサギたちを連れて来てくれたのである。これが私の鏡花へのサプライズであった。


 そう言えば時雨の働いているあの店、時給が相場のウン倍あるけど、なんかいかがわしいサービスでもしてるのだろうか。でも純喫茶って書いてあったし、ほな違うかー。


 手を跳ねるように引っ込めて、ばたばた振って冷ましてから後ろで組む。鏡花はヨーヨーみたく頭をリズミカルに上下させながら、両手を前に突き出しながら、靴を投げ捨てて、なりふり構わず突っ走っていった。


 サーティワンアイスクリームみたいな縞模様のウサギを、わーっと抱き上げる。ここにいるウサギはみな野生を忘れており、鏡花が仰いでいる子も脚を無気力に垂らして、鏡花を漠然と見つめている。


 私も沓摺を超えて、鏡花のローファーを揃えつつ、ウサギの楽園に足を踏み入れる。足元を見ると床では多種多様なウサギたちが、人間の存在を気にせず、放逸に闊歩している。一羽として同じ種類・模様のウサギはいない。人間よりも個性がある。


 視線を前方に戻すと、鏡花はさっきのウサギを抱きしめたまま半回転していて、鏡花の表情は誰もが読み解ける状態にあった。私が推察するまでもなく、喜んでいる。ときめいている。はしゃいでいる。私だけじゃなくても、勘が冴えている人じゃなくても、それは明晰に指摘できる。この世界にいる、ほとんどの人と同じような形で、舞い上がっているのだから。


 鏡花の瞳はウサギたちの溌剌な光を集め、それをこちらに跳ね返した。そうして私に注がれた閃光は、私の節々に浸透して癒していく。私はこの熱と重さを持たない、鏡花が反射する不思議な粒子を渇望して目を離せなかった。


 サプライズに成功して、怪しい薬物をキメたかのように、目の前の事象以外に関心がなくなる。それに、頭が柔らかくなったような気さえする。後片付けの事とか、将来の事とか、なるようになるだろーと、楽観的な私が顔を出した。


「どう、島袋さん」


 聞くまでもねぇなーと言ってから、もっと気の利いたことを言えば良かったと反省した。今ほど感情が表立ってる鏡花はいないって、さっき散々感動したのに。


 鏡花はまだ形態を残していたようで、皓潔な笑顔と歯を剥き出しにする。


「わーい」


 何か言わないといけないと気圧されたのか、鏡花は適当に応えた。


「その子がお気に入り?」

「んむむ、他のも見ていい?」


 鏡花は足元で自由気ままにしているウサギたちを瞥見すると、抱えているウサギに顔を近付けて、そう確認を取った。しばらくして顔を上げると、残像が残るぐらい大きく頷いた。


「気の済むまでじゃれ合ってきなー」

「やったー」

「心行くまでいいよ」

「うん、任せてー」


 鏡花はそのミケウサギを腕の内に収めたまま、カーペットの上を三点でずり回って、ウサギたちとコミュニケーションを図る。鼻と鼻を突き合わせてみたり、頬ずりしてみたり、時にてってこ走り回ったり、人目を憚らずにそういう童心をさらけ出していた。


 私はどうかと言うと、自分から這い寄ってきたウサギを、足を傾けて追い払ったりはしないけど、そのぬくもりとか落ち着きの無さを間近で感じようとは思わなかった。何にも自分自身にも邪魔されない鏡花を、首だけ動かして追跡する。そう、何もしなくてもウサギが集まってくるから、足の踏み場を変えられないのである。正直、ウサギより人間に好かれるほうがありがたい。


 傍観していると、露崎に声を掛けられた。一応、飲食スペースもあって、私がお願いしたら快く給仕を引き受けてもらえた。……なんか私、オーナーみたいだな。


「お帰りなさいませ、ご主人様」

「おいこら、ここをいかがわしい店にするな」

「ウサギなんて、年中発情期でしょ?」

「それをあの子に言ったら、末代まで呪う」

「えー、人間だって同じなのにー」


 何がおかしいって、保育園の先生みたいなエプロンを掛けて、そんな事を言いやがるのである。やっぱり、メイド服みたいなものを用意したほうが、露崎でももっと様になったなぁ。


 というか、私がこのカフェの企画を、鏡花に文化祭を楽しんでもらうためだけに立案したんだって、2Pプレイヤーは露崎の格好からも、そのことを察していることだろう。しかしいつも綱渡り状態なのはどうかと、1Pプレイヤーは讒言する。自己紹介で詰められたら、仕方なくウサギと答えるレベルの愛だったら、微妙な空気で終わっていたわけで。


「ふーん、あの子のためにやったんだ」

「別に、島袋さんのためだけでは無いけどね。客寄せになるし。最近は、近隣の高校も同じ日にやるから、インパクトを増やしていかないと」

「すげー、文化祭実行委員みたいだー」


 露崎の棒読みは心の底からの感嘆である。しかし私は実行委員ではない。ただのお助け役、もしくは外部顧問、一種のミニットマンでもある。まあどうでもいいか。


「ところでところでっ」


 露崎は顔の横で手を合わせて、興奮交じりに話を続けようとする。鼻息が荒くなったのが見て取れる。


「なになに。いつまでもここで油を売ってていいの?」

「まだそんなにお客さん来てないからいいんだよ。それよりだよっ。何時、何時になもち先輩のところ行く!?お昼時は混むかなー。あでもずっと着てるのかなどうなんだろ」


 段階的に露崎が迫ってくる。これはさすがに、私もウサギに配慮してなどいられない。ゆっくり摺り足で後退した。ウサギがてってこ逃げていく……鏡花のほうに猪突猛進していった。


「今年は着物だってよ!わくわくしないの!?和服だけに」

「まあまあかな……」

「えぇーっ!世界で一番顔のいい女の和服姿ですよ!?見ないで死ねないよ!私はテレビに出るような、世間にちやほやされてる女優さんより、よっぽどなもち先輩のほうが美人だと思いますぅっ!」

「なもちって、最近テレビに出てなかったっけ?」

「言葉狩りの癖がモロックマからうつったかそうかそうか治療法はありません」


 露崎は腕を組み、馬鹿にしたように活発に頷いてくる。まあ何でもいいので、鏡花のほうに視線を戻す。まだお客さんがほとんど入ってないのもあって、鏡花は数えるのが面倒になるぐらいのウサギと戯れ、変わらず頬を緩ませていた。私は露崎に座席に案内されて、鏡花の気が済むまで水だけで粘った。



「楽しかった?」


 粘着クリーナーをころころ鏡花の制服に掛けながら、聞くまでもないことをあえて聞いてみた。鏡花は腕をばたつかせながら、腑抜けた感じに首をひねる。


「うーん、うむむーん」

「あんな島袋さんは初めて見たけど、楽しくなかった?」

「果たして、楽しいという表現が適切なのか、自問自答禅問答してる……」


 鏡花は眉をひそめて何かに迷っている。正直なのか真面目なのか……はたまた深遠な考えがあるのか。しかし鏡花が丁寧に言葉という花束を造成しなくても、鏡花の感情というのは節々に現れている。鏡花はわかりやすくて、それでいて面白みがあるのだから、良い友達を得たなぁーと運命とやらに感謝した。


 さて、次は鏡花が仕掛ける番である。来た道を戻っている最中、鏡花からさっきの明朗さは消えて、不安を覗かせた。私の腕に自分のそれをぴったり接させて、明後日の方向を向きながら歩いている。私が横にずれようとすると、びっくりしたように目を見開いて、首をこちら側に振った。


「島袋さーん」

「んっ、なになに」

「私さ、お化け屋敷って想定外の連続だから嫌いなんだよねー」


 それを聞いて鏡花の表情が跳ねる。


「だから、きっと上手くいく……」


 今の鏡花には月並みな言葉では足りないと思い直す。


「……私の、情けなぁーい姿を、堪能できるよ……」

「うん」


 鏡花は若干気になっているのを隠匿するように、目を伏せながら頷く。しかしお化け屋敷が嫌いなのは本当だ。鏡花はともかく、クラスの人に見られるとキャラクターが壊れそうで、かなり気が引ける。でもでもこの間、私はあろうことか鏡花に期待を囁いてしまった。踵は返せない。たったまには、お茶目な一面を見せてやってもいいか……元々そういう目論見だった。


 で、私は早速それを後悔した腰を抜かした誰か助けてくれ。


 鏡花に対して居丈高に接した日々が、走馬灯のように流れていく。いや、鏡花とは仲良くやれてたはず、お互いの望むものを提供し合ってたはず。なのにどうしてっ、どうして鏡花は出刃包丁を握って直立不動してるんだぁーっ。


 鏡花が目で訴えてきたため、私たちは二人揃ってお化け屋敷に入ることになった。私の悲鳴が隣で聞きたいなんて、鏡花も業が深いなぁとからかってみたりもしたけど、弱みを握ってる人間が一人増えるだけなので、まあいいかと軽々しく承知したのであった。


 お化け屋敷の中は徹底的に暗幕が張られ、この龕灯がなければ視覚を失う。その龕灯もでかいし重いし、中身のLEDろうそくの光量はしょぼいし、うちの親より頼りにならない。


 でも諸々の事情で、いやいや鏡花の表情を汲み取れなかったから、鏡花と手を繋いだり密着したりしなかった。そんなこんなで鏡花を見失った結果がこれである。龕灯を両手で据えて斜め上に向けると、いつの間に着替えたのか、白装束を纏う鏡花を、人工の嫌に柔らかな光が更に上から覆った。布の白と出刃包丁の刃が、龕灯の灯火以上にまばゆさを帯びる。それらが際立って明るい故、私の視界にはそれしか映らない。現実世界に引き戻してくれる見えてはいけないもの、例えばスタッフとかが、何も飛び込んでこない。


「島袋さん……嘘だよね……」


 そりゃあ、嘘じゃなかったら大騒ぎである。警察沙汰である。どうか人の道を外れるのだけは辞めてほしい。鏡花には幸せになってほしい。そんな月並みなお願いで手加減してくれるわけもなく、鏡花は役に取り込まれている。


「ねぇねぇ、君は血って見たことある?触ったことは?飲んだことは!?」

「おおおおおちつけおちってなんだかんさいじんじゃないんだぞ」

「血って、搾りたてだと温かいらしいね。気になるなぁ?」


 鏡花には逆光になってるから、私が尻餅ついて、脚とか唇とかをがくがく震わせているのが分からないのか?でも耳は使えるでしょ。こんなにか弱い女の子を怖がらせるなんて、やめてこっちに来ないでっ。


 そう言えば、鏡花が私の気持ちを理解することがあるはずなど無かった。そんな諦念じみたものが沸き起こったかと思えば、私の鼓動が徐々に激しくなっていく。これ程まで、人間の心臓が暴れることがあるのか。初めての感覚だけど、寿命を擦り減らしている実感はある。明世が早くドッキリ大成功のプラカードを持ってこないと、私の心臓が左室破裂する。


 というかこれ、私のじゃなくて鏡花のほうから聞こえる。スピーカーを仕込んで、そこから心臓音を流していたのか。なんて詐謀だ、まんまと引っかかった。


 ということは、どんどん鏡花が距離を詰めているということである。脚にぐっと力を籠めて忽然と立ち上がり、立ちくらみで後ろの漆喰の垣根に背中を打ち付けるのも気に留めず、墓地らしき場所を徒歩で逃げ回る。本当はリレーの時ぐらい本気を出したいけど、障害物だらけだし龕灯で両手が塞がるし、慎重にならざるを得ない。


 天井から垂れる糸に金具を介して、砂時計が吊るされているのを偶然照らす。あの砂が落ち切れば出られるのだろうか。あぁ、今はそう信じるしかない。そうだろう、平島隊員。


 そんなわけで墓石の間をすいすいすり抜け、お化け屋敷のお化け役らしく、わざわざ動きをとろくしてくれてる鏡花から逃げる。おいおい、こんなところで慈悲をくれるのかい。いいんか、逃げ切っちゃうぞ…………冷徹な感覚が私の頬を駆け巡る。天を惑わす高音を叩き出していた。


 顔を引き攣らせながら戦々恐々しながら振り返ると、龕灯のほのかな明かりを受けて額から流れる血が赤黒く輝く明世が、氷嚢で私の頬を挟み、歯を剥き出しにして笑っていた。そう、冷静に考えてみれば明世なんだけど、脳の、人ならざる化け物に絡まれた時に活性化する部位が暴れだしたせいで、うぎゃーと叫びながら、また足を前へ前へ動かしていた。


 その後も、墓石の後ろに隠れていたら足首を掴まれたり、ひんやりした空気が射出されて耳をかすめたり、文化祭のお化け屋敷の分際で私をいたぶってくる。心臓は肋骨に収まらないほど強く跳ね、肺は空気を失って萎み、所詮は会議室だから狭い所をぐるぐる回ったせいで黒目が回遊し、見事にしおしおのくたくたになった。白菜なら美味しい、これからの季節にぴったり。


 結局、砂時計で残り時間を見極めている余裕もなく、たぶん時間になったから、明世が後ろのドアを開放する。鏡花には立場上ストーリー上言わないといけないことがあったらしいが、無視して解き放たれることにした。人間は虚構を信じられるから発展したらしいけど、そのせいでこの私が摩耗させられたのである。度し難い。


 昼とは良いものだ。もののけもあやかしも鳴りを潜めている。そうなれば、人間だけが悠々と活動できる。まずは体の調子を整えるために、窓の外の心地良い空気を吸い込み、そして秋空との再会に廊下のど真ん中で随喜の涙を流す。跪きたいぐらいだが、膝は綺麗に保ちたいので踏みとどまった。


 私は視線の高まりを察知して、のけ反るのを辞めて横を瞥見する。そこには例えば刑部が唖然と棒立ちしている。無節操に無遠慮に無尽蔵に悲鳴を上げたことを、ほんの少しだけ後悔しかけた。


「あ、よっすー?だいじょぶそ?」

「どうかな。うーん、生への執着を学べた。なんて教育的」


 刑部にそんな感想を述べながら、喉の粘膜が砂漠のように荒れ果て、心臓は未だに余波を打ち消せていないことを自認した。


「外にも響いてたよ。……うふふっあはははは」


 刑部はついに堪え切れなくなって哄笑した。そこまでされると、後味が恥ずかしめである。


「私らしくなかった?」

「そうかな……どうだろうねっ。まあー、いい宣伝になったよ。さんきゅー」


 刑部の目線が左に逸れる。それに合わせて後ろを振り返ると、制服姿に戻った鏡花が、何事かはあったように佇んでいた。いつの間に早着替えを習得していたんだ。やはりいつでも全力投球な鏡花、それを間近で確かめられると、何だか安心感さえある。鏡花の無限の高みを渇望する瞳を以って、真に日常に帰還できた。


「いやー、度肝を抜かれ……」

「こっ怖くないよっ、私!」


 私の言葉を遮るように、鏡花は手に力を籠めながら、そう一生懸命捻りだした。それから捕食動物を警戒するように、ゆっくりと私の目に焦点を絞っていく。


「怖くは、ないね。うん」

「あれだけ喚いといて?」

「あれは、島袋さんとは別人だよ」


 そうであって欲しかっただけだから、刑部への返事に、鋭敏な私は気になる程の突っかかりを含ませた。でも、龕灯の頼りない光量でもはっきり分かる、何かに取り憑かれたような表情。あれを鏡花が可能という事実には、言い知れぬしこりが残る。まあ、鏡花が表情豊かなのは今に始まったことじゃないし、文化祭のために鏡の前でいっぱい練習したのだろう。


「それよりどうする?まだ一緒に回る?」


 私は鏡花に呼び掛けたつもりだったのだけど、刑部は鏡花が二度も頷いたのを認識した上で、まあまあ強引に割り込んでくる。


「そぉーっだよそうだよっ。私も暇でさー。一緒に回ってくれる人を募集してたの」


 こんなところで私を奪い合わないでくれ。表情を張り詰めながらも、笑顔を取り繕い、ひとまず刑部に集中する。鏡花は…………気付かなかったことにしよう、ごめん。


「そっかぁ。じゃあお昼までね。露崎にも誘われてるし、後どうせ、鑓水が放送代われって言ってくるだろうし……」

「うおー、やっぱり人気者は違うね~。うらやまうらやまぁ」

「便利屋なだけだぞ。洞窟ちゃんなら1日で潰れる」

「えぇー、私もちやほやされたい~」


 鏡花は感情を押し殺して、刑部と共に過ぎ去る私だけを凝視している。本当は謝罪の言葉をかけたいし、今からでもお詫びを確約したいんだけど、そうすると鏡花と刑部を天秤にかけた結果、後者を選んだことが、疑う余地のない史実になってしまうから、だからこのまま刑部と祭りに飛び込むしかなかった。


 しかし鏡花と刑部がこんなに仲悪いなんてな……。ワイルドカードの明世だって、根本的に人の相性を操ったりはできない。滔々と話を振る刑部に、自制を促すように時々笑顔を曇らせてみた。が、効果はいまひとつだ……。

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