第3話

 マルセル・プルーストは20世紀の西欧文学を代表する作家であるが、曰く、真に彼の作品と言える小説は、「失われた時を求めて」のみだという。原語にして3000ページを超える長大にして複雑な小説のテーマの一つは記憶であり、無意識だ。身体的感覚に紐づいた無意識の記憶。死ぬことのない不滅の過去。

 件の小説にとっては、それは紅茶に浸したマドレーヌであった。その味と香りが、生きた記憶を呼び起したのだという。

 真昼はこのエピソード知ってから、あさひで遊ぶときには二つの香りを嗅がせるようにした。

 苦痛には白檀の甘い香りを。

 快感には不快な香りを。

 あさひの初めての絶頂は、真昼の足置きになっているときに訪れた。

 真昼はどこからか入手してきたローターをあさひの股座ガムテープ固定し、さらに口に丸めたティッシュペーパーを詰め込んでこちらもガムテープで蓋をすると、スイッチを入れたり切ったり、強度を変えたりして、己の足元に横たわるあさひをもてあそんだ。

 あさひは最初、そのくすぐったさから、これは足の匂いを嗅がせるための遊びなのだと認識していたが、しだいに、下腹部が制御できない熱に浮かされるようになるにつれ、未知への恐怖で身をよじった。しかし真昼は、あさひが顔を背けたり逃げようとするたびに、容赦なく彼女の喉や胸を踏みつけ、耐えることを強要した。

 そして、あさひは激しく腰を浮かせて痙攣した。

 そのさまを、真昼は楽しそうに眺め、妹の顔面をマットに見立てたように、何度も何度も足をこすりつけた。あさひは姉の足の香りを何度も何度も吸い込み、果てた。

 あさひに与えられる快感は全て、このように刷り込まれていった。やがてあさひは、真昼の足に口づけるだけで体を火照らせるようになった。 

 そしてその刷り込みは、苦痛に関しても同様だった。真昼はあさひに暴行を加えるときは、必ず白檀のフレグランススプレーを自分の首元や部屋に振って、香りと痛みを紐づけるようにしていた。

 馬乗りになってなんどの頬を平手で打ったときも、縄跳びで首を絞めてみたときも、見様見真似の締め技の実験台にしたときも、血が出るまで足の裏を靴ベラで叩いたときも、あさひの吸う空気には、白檀の甘い香りが含まれていた。

 下半身を露出させ、水を入れたバケツを両手に持たせベランダに締め出したときは、マスクに直接振りかけて、香りを刻み込んだ。

 そしてその記憶は、あれから数年たった今ですら、失われることはない。

「いや……いや……」

 真昼があさひの部屋に、白檀の香水フレグランススプレーを振りまいている。

 あさひの脳裏には、先ほど廊下で蘇った苦痛の記憶が、何度も何度もリフレインする。かつての自分の悲鳴が、胸の奥で乱反射している。どうにかして逃げなければと思いながらも、思考は乱れていく。

「さて」

 真昼が振り返った。

「服、脱ぎなさい」

「い、いやだ」

 泣きそうな声で答える。

 恐怖が増しながらも、今なら、まだ間に合うはずだ、と思った。姉は、逆らえば暴力をふるうだろう。当時は、逆らうことなんてできなかった。けれども、今は啓介がいる。怪我をしたならば、警察に言えば守ってもらえるかもしれない。あるいは、大学に報告をするか。いずれの方法をとり、姉ともう会えなくなったとしても、今はもう大丈夫であることを、そして怒っていいことを、あさひは知っている。

 真昼の暴虐は、彼女が受験勉強を始めるにあたって頻度は減っていき、シーズンになれば、おもちゃにされるのは週に一回程度にまでなり、そして大学進学を機に、姉はこの家をでていった。

 最初は、酷く混乱した。

 あさひにとって、どんなにこの身を傷つけ凌辱されようと、姉は唯一の身内であり、それ以外の人もまた、自分を馬鹿にしているのだと信じていた。自らも受験生となりながらも、この先どうやって生きていけばわからなかった。

 真昼はあれから今日にいたるまで、一度も姿を見せなかった。最低限の生活費こそ振り込まれていたが、あさひは捨てられたのだと思い、ただただうつむいて過ごしていた。

 そんなころに出会ったのが啓介だ。

 当時、同級生たちが教室でおしゃべりに花を咲かせたり、グラウンドでサッカーをして過ごす昼休みを、あさひはほとんどを特別棟の裏で身を隠すようにしてやり過ごしていた。誰も話す相手はいなかったし、そういう姿を見られることが恥ずかしかった。たとえ、誰もあさひに興味がないとわかっていても。

 ただ、その日はいつもの場所に、二人の男女が座っていた。二人の間には、校則で禁止されているお菓子が並べられているのが見えた。二人とも向こうを向いていて、その表情はわからない。

 けれども、楽しい時間を過ごしているのだということはわかった。

 男の子が何かを言って、女の子の方はきゃあーっと笑い、その口を男子が慌てて手でふさいだ。隠れてお菓子を食べていることがばれたくないのだろう。二人はあたりを見回し始め、とっさにあさひはしゃがんで物陰に隠れた。

 あさひに気づくことなく、二人の間にはほっとしたような空気が流れ、それから、男子が女子の口に触れていたことを意識し始めて、慌てて手を放す。

 その手を、女の子が掴んだ。

 二人の視線が絡む。

 あっ、と思う瞬間。

 二人は、唇を一瞬触れ合わせるようなキスをしていた。

 それを見て、あさひは音をたてないように、四つん這いのままそっとその場を離れた。

 もう、あの場所には行けない。

 たとえ明日、あの二人がいなくても、もうあの場所には幸福な時間が流れることを知ってしまった。急に、自分がはじかれてしまった感覚。

(あそこだって、あの二人にいてくれた方が嬉しいに決まっている)

 場所に対してすら申し訳なさを覚えてしまう。他の、暗くて誰も見ていなくて、不幸になってもよさそうな場所をもとめてさまよううち、あさひの目からは涙がこぼれた。

 気づけば、体育館の近くに来ていた。中から、楽しそうな生徒たちの声がする。ボールのバウンドする音、走る足音、笑い声。

 否応なく、自分がひとりであることを意識してしまう。

 もう、限界だった。

 あさひはその場でへたり込み、すんすんと泣き始めた。

 姉さえいれば、どんなに痛くても苦しくても、ひとりではないのに。

 白檀の香りが恋しかった。姉の足が恋しかった。しかしいま、ここはグラウンドから吹く風が運ぶ、砂のにおいしかしない。

 痛みさえあれば、痛みに耐えさえすれば、どうにかなるだろうか。

「あの、大丈夫?」

 そんなときに、声をかけられた。

 顔をあげると、黒縁の眼鏡をかけた、柔和な顔つきの男の子が、あさひを心配するように覗き込んでいた。

「それ、その……血が、出てる」

 おずおずと男の子が指さしたのは、あさひの右足、脛のあたりだ。彼の言う通り、血がにじんでいる。無意識のうちに、あさひがかきむしっていたからだ。

「あ……」

 血の気が引く。見られてはいけないものを見られてしまった。

 駄目だ、わたしは、気持ち悪くて、馬鹿で、ぐずで、だれにも愛されないのに。

 こんなところまで、見せてしまうなんて。

 ごめんなさい、なんでもないんです、大丈夫です。

 そういう言葉を言おうとするけれど、姉以外の人と話すのは久しぶりで、うまく口が動かない。学校であさひが口を開くのは、全員が発言しなければいけない授業の時くらいだった。

 ああ、本当に、どうしようもない。

「えっと、絆創膏、あげる」

「……ぇ」

 何も言わないあさひの前に、絆創膏が差し出された。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 男の子は差し出したまま動こうとしないので、あさひはようやく、その絆創膏をもらい、そして、皮膚の破れた部分に張り付ける。少ししわが寄ってしまい、自分の不器用さを痛感するも、不思議と気にならない。

「大丈夫?」

 もう一度、男の子が言った。

「あ……ご、ごめんなさい」

「別に、たいしたことじゃ」

 男の子は気まずそうに目をそらした。あさひは慌てて涙をぬぐい、そしてまた、地面に視線を落とす。

 なにも話さないでいたら、その子もどこかに行ってしまうだろうと思っていた。

 けれども、男の子は黙ったまま、しかしどこにも行こうとしない。

 どうしてだろう、とあさひは思う。

 私を見下して楽しんでいるのかな。

 そんなことを考えていると、男の子がぽつりとつぶやく。

「おれ、ハブられてんだ」

 顔をあげる。男の子は、あさひを見てはいなかった。あさひと同じように、地面をじっと見つめていた。

「なんか、おれ、エムってキャラにされてるんだ。……あ、エムってのはマゾのことで、いじめられて楽しいってやつ。……そんなやつってことに、いつの間にかされてた」

 マゾ、という言葉にびくっとする。姉もよく、その言葉を使ってあさひを辱めていた。

 自分と同じ。

 そう思うと、少しだけ、彼に親近感を覚える。

「でも、俺は違うんだ。そんなんじゃない。あいつらにこづかれたり、くすぐられたって、なんも楽しくなんてなかった。それでやめてっていっても、口ではそういうんだろーとか言って、何も変わらなかった」

 だから、キレちゃった。

 自嘲するように笑いながら、彼は言った。

「そうしたら、あいつらも、もうそういうだるい絡みやらなくなったんだ。……かわりに、無視されるようになった。それまでは、いじられながらも一緒に遊んだりはしていたけど、まったく誘われなくなっちゃった」

「……ひとりに、なっちゃったの?」

 つっかえそうになりながらもなんとか尋ねると、男の子はちらりとあさひを見て、頷いた。

「今日さ、体育館であいつらがバスケやるって言ってて。なんとなく来ちゃったけど……駄目だった。もう、あそこにおれは入れない」

「……怒らなければ、よかった」

 ひどいことされなくても、それで一人になるなら意味がない。

 そう思ってつぶやくと、男の子は困ったように言った。

「……それは、嫌だなあ」

「どうして……」

「だって……嫌だろ、おれは、マゾじゃないのに。痛いのも、苦しいのも嫌だ。馬鹿にされたって嬉しくない。それを勝手に決めつけられて。冗談じゃない。」

 なあ、嫌だろ、と、彼が尋ねる。

 あさひは考える。嫌、なのだろうか。

 痛くされること。苦しいこと。

 裸に剥かれ、人としての尊厳を踏みにじられ。

 それらは、嫌だった?

「……嫌、かもしれない。でも……」

 でも、それでも、一人になってしまう。

 姉にされたことで、それ自体が楽しいと思えたことはどれだけあっただろうか。そのほとんどが、あさひにとっては単なる苦痛でしかなかった。

 それでも、姉をつなぎとめるには。姉に、捨てられないためには──

 そこまで考えて、ふと気づく。

 でも、今は一人だ。

 あれだけ、あれだけ痛くて苦しくて恥ずかしくて、嫌で嫌でたまらないことを受けてきたのに。姉は、今、自分のそばにいない。

 それに気づいた瞬間、あさひは初めて、自分の中に制御できないほど大きな感情が揺れ動いていることに気づいた。

「う、ううっ」

 感情のまま、頭を掻きむしる。男の子が、急にうめきだしたあさひを不気味そうに眺める。

 そんな視線も気づかず、あさひはなおも頭を抱えて、なんどもうめいたり、舌打ちしながら、足をだんだん、地団駄を踏む。

 怒っている。

 あさひは、怒っていた。

 姉は確かに、育ててくれた。親がいないなか面倒もあっただろうし、苦労もあっただろうけど、あさひに飯を食わせて、帰る家を維持してくれていた。

 けれども、その実態は単なる地獄だ。残飯を食わせて、好き勝手に暴力をふるい、尊厳を傷つける。それを、育てるなんて言わない。

 そうだ。おねえちゃんは、酷い。そもそも、わたしがこんな性格なのも、きっとおねえちゃんのせいだ。ずっと、ひどいことを言われたせいで。

「怒っていい……怒っていいっ!」

 あさひは、男子に向かって睨むようしてそう叫んだ。

「お、おお」

 その豹変ぶりに、男子は少し引いていた。けれど、あさひはそんなことも気にせず、彼の手を掴んだ。

「怒るよ、私も。たとえ、一人になっても」

 あさひの唇には、実に久しぶりに、笑みの気配があった。瞳は光をともしつつある。男子の驚きに見開かれた瞳に映る自分は、確かに意思を持っていた。

「あー、ええと、がんばれ?」

 男子が首をかしげてそう言って、初めてあさひは自分がはしたないことをしていたことに気づく。初対面の異性に、こんな風に詰め寄るなんて。

「ご、ごめんなさい。わたし……」

「ああ、いや、いいよ」

 男子は照れたようにそっぽをむき、それから少し逡巡しながら、口を開く。

「あのさ、友達になってくれないか」

「え」

 男子は唇をなめた。

「その、さっき言った通り、おれ、ハブられてるからさ。もし……もし、君が怒って、それで一人になってしまったとしても。また、ここで話をしないか」

 そうしたら、一人じゃないだろ。おれたち。

 最後の言葉を、彼は早口で言い放った。

 おれたち。

 私たち。

 あさひは口の中で、その二つの言葉をつぶやく。複数形。私と、もう一人。

 その瞬間、あさひはこの男を欲しいと思った。自分の人生には、この人がいなければならないのだと理解した。姉ではなく、この人が。

「ありがとう……」

 あさひの胸に、じんと温かいものが広がる。これも、初めての感情だ。こんなにも温かくて、痛くなくて、そして嬉しい感情があったなんて。今ならば、なにも怖くない。

「あなたの、名前は」

「ああ」

 男子は、ほっとしたように頬を緩めて、あさひの目を見てこう名乗った。

「海野啓介。よろしく」

 海野くん。

 心の中でそう呼んでみる。すごい、と思う。友達として、誰かの名前を呼べるなんて。

 啓介くん。

 そう呼んでみると、今度は一層親しくなったみたいで、勝手に心がうきうきする。

「私、あさひ。吉川あさひ。よろしくね、海野くん」

 そうして、あさひは今度こそ、とろけるような笑みを浮かべた。

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