episode1-閑 氷室明の戸惑い①
ある日突然兄が少女になって帰って来た。
氷室凪の三つ下の弟である
強く、大きく、逞しかった兄の姿と、目の前で氷室凪を自称する細腕に小さな身体の可憐な乙女の姿を重ねるのは容易なことではなかった。
兄の通っている高校がダンジョンアサルトに巻き込まれ、特異変性の影響により性別や体格が変わってしまったことは祝いの席で説明されたが、当初は半信半疑で、魂魄鑑定の技能を持つ母から太鼓判を押されてようやくその現実を受け入れられたほどだ。
しかし認めてしまえばむしろ納得のいく部分もあり、自らの手でダンジョンを踏破して犠牲者を一人も出さずに脱出したという滅茶苦茶な武勇伝は、とても兄らしいと明に感じさせた。
明の目から見て、昔から兄は我が強く無鉄砲で強引な人だった。
近所の子供たちを年齢問わず率いてガキ大将として君臨し、気に食わないことがあれば癇癪を起すし、幅を利かせている少し年上の子供と喧嘩をすることも珍しくなかった。
お世辞にも良い子とは言えない、むしろ大人からすれば悩みの種とも言えるほどの問題児だったが、一方で彼の下に集う子供たちからの信頼は厚かった。なぜなら兄は我儘で傲慢ではあったが、決して身内を見捨てるようなことはしない情に厚いリーダーだったから。
とはいえ、ガキ大将を頂点とするグループなんてものは成長するにつれて徐々に疎遠になっていくものだ。親の都合で引っ越すことになった者もいれば、中学生になって学業や部活動、同年代の友人たちとの付き合いを優先するようになった者もいる。そして何より兄自身が、ある時を境に平定者になると言って忙しく動き回り始め、元々希薄になりつつあった友人関係はいつの間にか自然消滅してしまった。
それでも実の弟である明のことは気にかけてくれていて、休日には一緒にゲームで遊んだりサッカーをしたりと仲の良い兄弟だったのだが、高校に進学してからの兄は連日バイト漬けの日々を送っており、明と関わることも極端に少なくなった。家で顔を合わせれば普通に会話はするが、一緒に出掛けたり遊んだりということはすっかりなくなってしまった。
兄が高校に進学したタイミングはちょうど明が中学に進学するタイミングでもあり、当時まだまだ反抗期前のお兄ちゃん子だった明は、もう自分のことなど眼中にないのだとそれは悲しい思いをしたものだが、今となってはそれも昔の話。時間をかけて一般的な兄弟程度の距離感に落ち着いて、兄に対してそれほど思うこともなくなった。少なくとも明はそう思っていた。
「……はぁ」
兄が少女の姿になってしまってから数日が経った日曜日。
午前中の部活動を終えて帰宅した明は、特に予定もない午後をゲームでもしながら過ごすことにしてテレビ画面を見つつポチポチとコントローラーを操作していたのだが、どうにも集中できず溜息を吐いて電源を落とした。
集中できない理由などわかりきっている。大きな事件があった直後だというのに、相変わらず忙しなくしていて現在も家を留守にしている兄のことだ。
もう大して興味もない、昔仲が良かっただけの兄だと思っていたのに、自分でも驚くほどに動揺していることを明は自覚していた。
その理由の一つは少女になった兄の容姿が、かつて明が片思いをしていたお隣のお姉さん、姫路美月の中学時代に似ているからだというのもあるだろう。ただそれ以上に、忙しそうにどこかへ出かけていく少女姿の兄を見て、このまま帰って来ないのではないかという考えが頭をよぎるからだ。
本当に興味がなくなっているのならそれでも構わないはずであり、そうでないということは、自分で思うほど吹っ切れてはいなかったのだなと未練たらしい自分に明は自嘲する。
何もする気が起きず、ゲームを片付けてどうしようかと手持無沙汰になったところで、突然勢いよく部屋のドアが開け放たれた。
「明! 久しぶりに勝負だ!!」
開け放たれたドアの先にいたのは、今まさに明を悩ませている張本人である兄だった。
片手は腰にあてて、もう一方の手はドアを開くために突き出されており、ふふんと何やらドヤ顔している。
元の姿であればそれはもう
「……兄貴? バイトは?」
返事も聞かずにずかずかと入室してきたことや、そもそもドアを開ける前にノックをしていないことなど、いくつかの文句が浮かぶ中真っ先に出て来た言葉はそれだった。
事情を知らない者なら、そんなに金が必要なのかと疑問になるくらい兄は休みなくバイトを続けていて、日中に顔を合わせるの本当に久しぶりなのだ。思わずそんな疑問が湧いて出るのも当然だった。
「しばらく休みだ。稼いでもしょうがなくなっちまったしな」
「あぁ、そういえば冒険者になったんだっけ」
兄が金を貯めていたのは、魔術大学と呼ばれる国内唯一の公的な魔術師養成学校に入学するためだった。
とは言っても、その学費は高々高校三年間バイト漬けの生活を送った程度で賄えるものではない。毎年数千万近い費用がかかると言えば簡単にわかるだろう。
ではなぜ、それでもバイト漬けの生活などしているのかと言えば、それは受験料を用意するためだ。
入試に合格し晴れて入学する権利を勝ち取った受験生は、魔術大学から奨学金の貸与を受けることが出来るため、入学時点で学費を工面できなくても問題はない。
しかし受験料を支払う段階では当然奨学金の貸与を受ける条件を満たしていないため、これは自分で用意する必要がある。
そしてその受験料こそが曲者であり、なんと一人500万円という大金を要求されるのだ。当然、試験に落ちても返金されることはない。
魔術大学がどのような意図でそのような受験料を設定しているのかは公にされていないが、とにかくこの500万円を用意できなければスタートラインに立つことすらできないのだ。だから兄はそれを貯めるべく日夜バイトに励んでいるのだった。
しかし冒険者になった今、他のホルダーにはなれなくなってしまった。だから稼いでもしょうがなくなったということなのだろう。
「にしては、最近忙しそうにしてたな」
「踏破したダンジョン絡みの打ち合わせだよ。役所の手続きとかいろいろ面倒くせぇんだけど、ようやく一息ついた」
兄は明の質問に答えつつ、勝手知ったるとばかりに押し入れからクッションを取り出し、折り畳み式の小さな机の脚を立て、ドカッと勢いよく腰を落としてから持参したらしいカードの束を素早くシャッフルし始める。
「つーか、やるなんて一言も言ってないんだけど」
「どうせ暇だろ? たまには良いじぇねーか」
兄が持っているのは、昔よく一緒に遊んだカードゲームだった。あの頃も兄は自分がやりたくなると突然部屋に押しかけてきて勝手に準備を始め、明がそれに応じるまでは梃でも動かなかった。
今更、という気持ちがないと言えば嘘になるが、こう言い出した兄を退けるのは簡単じゃない。それに、兄とは一度しっかり話をしたいとも思っていた。どうしていきなり平定者になるなんて言い出したのか、どうして自分のことを見てくれなくなったのか、明はその理由を知らない。
「だったら、折角だし罰ゲームありにしないか? 負けた方は何でも一つ、質問に答えなきゃいけないってのはどうだ?」
「良いぜ、おもしれーじゃん」
兄が賭けに乗ったのを確認して、明も自分のデッキを取り出した。
兄とはもう随分長いことやっていないが、学友とは時折遊ぶこともあり埃を被っていたりはしない。
「準備はいいな?」
「兄貴こそ」
「「デュエルスタート!」」
息の合った掛け声に、時が経ち姿は変わってもこういうところは変わってないんだなと明は思わず笑ってしまう。
しかし手加減をするつもりは一切なく、盤面は徐々に明優勢の様相を呈していく。
「な、なんだこのカードはァ!? 明、お前いつの間に!?」
「ふんっ、兄貴の古臭いカードばかりのデッキとは違って、俺のはアップデートされ続けてるンだよォッ!」
カードゲームというのは程度の差こそあれ、時が経つにつれて、新しいカードが発売されるごとにそのカードパワーはインフレしていく。
2年も前に更新されなくなった兄のデッキと、今なお頻繁にではないものの新しいカードが取り入れられている明のデッキ。どちらがより強力かなど、歴戦のデュエリストには火を見るよりも明らか。
「ぐ、ぐぬぬ……」
追い詰められた兄が自身の手札をじっと見つめながらうめき声を上げる。
そしてよほど集中して思考しているのか、徐々に徐々に猫背になって身体が前傾し始めた。
これは兄の昔からの癖のようなものであり、追い詰められ、それを打開しようと集中している時に前傾姿勢になっていく。
「っ!?」
昔はまたやってるなーとか、勝ち演出きた、程度にしか思っていなかった兄のその癖。
今回も最初は、相変わらずだな程度にしか思っていなかった明だが、ある時点を境に突然頬を赤くして視線を逸らした。
それというのも現在の兄の格好は、下はジャージの裾を何重にもまくってキツく腰紐を縛って無理矢理履いているのに対し、上は普段使いのTシャツをそのまま着用している。
180cm台の時代のものを140cm台の今そのまま着用すれば、かなりのオーバーサイズになり、首元もゆるゆるだ。そしてもちろん女性物の下着など着用していないため、前かがみになりすぎると自然と中が覗き見えてしまう。
「兄貴さ、その服ちょっとみっともなくないか? 今の身体に合ったサイズの買えよ」
「外出用のは買ったし、家の中くらい別に良いだろ。細かいこと気にすんなよ」
平静を装い視線を逸らしながら明が指摘をすると、兄はきょとんとした様子でそう答えた。
声をかけられたことで集中が途切れたのか、兄の姿勢は元に戻り一先ずの危機は去った。
(って、なんで動揺してんだよ俺。いくら見た目は美月さんみたいでも相手は兄貴なんだから、兄貴の言う通り気にする方がおかしいって)
煩悩を振り払うようにぶんぶんと頭を横に振る明。
兄はそんな明の様子を何やってんだという目で見ており、自分の無防備さには全く気付いていないようだった。
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