第5話
「お待ちだよ。さあ奥の部屋に入って」
守衛室の奥には面会室があった。
このとき心臓の銅鑼の鐘がガンガン鳴り、激しく鼓動した。
ドキドキなんていうレベルではなかった。
「こちらが長峰優里さんね。ではあとは遠慮なく。休憩時間は三十分ですが、少しくらい超えてもかまいませんよ。部署の責任者に伝えてありますから。しかしはるばるよく来なさったね、若いっていうのはすごいもんだ」
人の良い守衛はそう言い残して部屋を出て行った。
面会室には長テーブルがいくつか置かれていて、優里はそのひとつの真ん中あたりに座っていた。
テーブルの上には冷たい麦茶が用意されていた。
「びっくりしたわ、連絡してくれればよかったのに」
「驚かせてやろうと思ったから・・・仕事中なのに悪かったかな、ごめん」
「ううん、いいの。すごく嬉しい。初めて会うのがこんな仕事の格好で恥ずかしいけど」
優里は頭に白頭巾を巻いて、水色の半袖の作業服と同色の作業ズボンを身に着けていた。
透き通るような白い肌が眩しかった。
僕は何か話そうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。
優里は恥ずかしそうに下を向いては顔を上げて僕の目を見ていたが、僕と同じように言葉がすぐに出ない様子だった。
「優里ちゃん、写真より、その・・・ずっと綺麗だよ」
「えっ?」
「だから、その・・・」
「あまりジッと見られると恥ずかしいわ」
全く会話にならなかった。
三十分があっという間だった。
面会室はエアコンが効いていたが、僕の背中を汗が流れ落ちた。
優里もハンカチで汗を拭いながら言葉を探しているようだった。
そんな優里を見ていて胸の奥が締めつけられるような気持ちになった。
「それで、今日はこれからどうするの?」
「最初は優里ちゃんに会ったら、そのあと信州方面へ行こうと考えていたんだけど、もう旅行なんてどうでもよくなった。今からだとまだ大阪に戻れるから帰ろうかと思う」
優里は心配そうな表情を浮かべた。
「夏休み中にもう一度来てもいいかな。普段の休みはいつ?」
「毎週日曜日は学校も休みだから仕事もお休み。あとは、月に一回だけ土曜休日があるの。でもあまり無理をしないでね」
僕は面会時間を過ぎているのを気にしながら、十日後の日曜日に必ずまた来るからと言った。
その言葉が出たのを見計らったかのように先ほどの守衛が面会室に入ってきた。
「今日はありがとう」
「さよなら、また来るよ」
それが優里と最初に会った日のことだった。
十日後の八月の最後の日曜日、僕は再び優里に会いに向かった。
一度経験すれば慣れたものだ。
早朝に大阪駅を出発し、快速列車と普通電車をうまく乗り継いで、午前十一時半ごろに岐阜駅に到着した。
訪ねた日の翌日に優里に手紙を出し、その返事が二日前に届いていた。
手紙には「工場内の寮にいるから、守衛室で呼んでくれればすぐに行ける」と書かれていた。
僕も優里もまだ若くて不器用だった。
岐阜駅で待ち合わせて近くの喫茶店などで話をするという考えを思いつかなかった。
この日は残暑が厳しく、バス停から紡績工場の門に向かって歩いていると、両側の住宅から打ち水がまかれていた。
守衛室の係員はこの前の人と違っていたが優里が事前に伝えていたようで、僕が訪れるとすぐに取り次いでくれた。
まるで歓迎してくれているかのようで、岐阜は良い人たちであふれているような気がしたものだ。
今度は僕が面会室で待っているとすぐに優里が現れた。
薄いオレンジ色と白のチェックの半袖シャツに白のミニスカート姿がとても似合っていた。
「来てくれてありがとう」
「会いたかった」
「でもこの前からまだ十日ほどしか経っていないのよ」
「そうなんだけど・・・」
僕たちは工場の南側に広がる田園の畦道を歩いた。
遠くに高層建築物が建設中だった。
「あれが新しくできる岐阜県庁なのよ」と優里が言った。
こんな田んぼの果てに庁舎が建てられていることが僕には不思議だった。
「もうすぐ大学がまたはじまるんだ」
「手紙にはバイトに追われてまともに講義に出られないって書いていたけど、大丈夫?」
「うん、語学はちゃんと出ているからね。一般教養科目は出欠を取らないんだ。だからテストで合格点を取れれば単位がもらえるんだよ」
「そうなの。でも合格点を取るにはキチンと講義を受けないと分からないでしょ?」
優里は語尾が上がる独特の口調だった。その話し方を僕は可愛いと思った。
「それがね、たいした講義内容じゃないんだよ。試験前に教科書をよく読んで、キチンと出席している奴にノートをちょっと借りれば大丈夫だよ、多分」
「大学ってそういうところなのね」
「生活費を稼がないといけないから、どうしてもバイトが主体になるんだ。講義をちゃんと受けないと大学に進んだ意味がないような気もするんだけど、仕方がないよ」
貧しい大学生活だった。四畳半一間、共同トイレ、もちろん風呂なし。
それでも家賃は倉庫会社で一週間の労働で得られるバイト料とほぼ同額だ。
後期の授業料の納付期限も近づいていた。奨学金制度は高校生時代から利用していて大学でも申請が通っていたが、ときどき生活費に当ててしまっているのが現実だった。
「食事は栄養のあるものを食べないとだめよ。学食があるんでしょ?」
「うん、できるだけそうしているよ。外で食べるよりずっと安いからね」
優里と会うのは二度目だとしても、手紙のやり取りはもう五十通をはるかに超えていて、一年以上も前から付き合っているような気持ちがあった。
僕は右手でそっと優里の左手に触れた。優里の手は意外にひんやりしていた。
僕が握ると軽く握り返してきた。気持ちが昂ぶり、全身が幸せで溢れた。
それだけで僕は満ち足りた。
不器用な僕と優里は炎天下の木陰でお互いの将来のことなどを夢中で話をした。
会話の七割は僕のものだった。
優里はハンカチで首の汗を拭いながら静かに僕の話を聞いていた。
午後四時になった。
僕はこの日のうちに大阪に帰ることにしていた。
優里はバス停まで見送ってくれた。
「もうあまり会いに来ちゃだめかな。職場に訪ねるのは迷惑だよね」
優里の表情を確かめるように僕は訊いた。
この前も今回も自分の一方的な行動だったから、会いに来たことを本当に喜んでくれているのかどうか自信が持てなかった。
「そうね、あまり無理しないでね。私・・・大丈夫だから」
バスがやってきた。
「じゃ、さよなら」と僕は言った。
「さよなら」と優里も小さな声で言った。
大阪へ帰る途中、「大丈夫だから」と言った優里の言葉の意味を何度も僕は考えた。
それが優里と二度目に会った日のことだった。
優里への激しく一直線の恋は、すでにスタートを切っていた。
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