第6話 心の在り方

 タダシは自分の妻の家を見るなり、背負ってきた斧を落とし、家へと駆け出した。ヨロズハはその斧を端の方へと置いておいてやると、彼の後に続いた。


 タダシは障子を開け、ドタドタと部屋の中へと入って行くが、ヨロズハは軒先で待った。いくら王宮暮らしといえども、他人のテリトリーに無闇に入ってはいけないくらいの常識は彼女にもある。


 ヨロズハは軒先に腰を下ろした。ギイと木の板が軋む。彼女は空を見上げた。心なしか空が近いように感じた。空気を思い切り吸い込んでみると、町とは違う味がする。しばらく鳥の囀りに耳を傾けていると、障子越しにタダシの声が聞こえてきた。


「この薬を飲むだ。良くなっから……」


「ありがとうアナタ。でも……どうやってこんな短時間で来れたの……?文を出してからそんなに経ってないわよ」


「山登りを助けてくれた人がいるだ」


 ヨロズハは耳を塞ぐか悩んだ。親しくもない夫婦の会話を不可抗力とはいえ聞いてしまっている状況がむず痒い。


 中からは器に水を注ぐ音が聞こえてくる。薬を飲んでいるのだろうとヨロズハは中の様子を想像した。


 彼女の耳に布団がズレる音や二人の会話が入ってくる。それほどまでにテンツキ山は静かだった。雲の流れる音さえ聞こえてきそうだった。その雲の下を鳥が飛び、手入れされた庭に影を落とした。ヨロズハはシチゴとゴシチと戯れている。


 障子の向こうからは硝子の小瓶の音が聞こえてくる。


「看病してるのか……歌を集められるのはちょっと後になりそうだな」


 ゴシチもシチゴも彼女の周りを楽しそうに飛んでいるが、彼女は少し不満げだった。歌を集めることが今回の最終目標だ。だからと言って病人とそれを看病するタダシを急かすわけにはいかない。そのジレンマだ。


 ゴシチとシチゴの二体がヨロズハの頭の周りを百周したころ、中から微かな笑い声が聞こえてきた。妖艶という言葉が良く似合うその声に、ヨロズハはパッと振り返った。


「ふふふ……アナタと話していたら楽になってきたわ。ねぇ、アナタに協力してくれた方にお礼がしたいわ。外にいらっしゃるのでしょう?上がってもらって」


「わ、わかっただ」


 障子越しにどしどしと床を踏む音が聞こえてくる。ガラリと障子が開けられる。タダシがそこに立っている。


「ヨロズハ。妻と会ってやってくんねぇか。オイラ達、お礼がしてぇだ」


 障子越しに全て聞こえていたヨロズハはゆっくりと腰を持ちあげた。タダシの前を通り、敷居を越えるとそこには布団に入って入るものの体を起こした女性がいた。


「よ、ヨロズハだ。あなたの夫……タダシから歌を集める代わりに彼の手助けをした」


 布団に入る女性は彼女の言葉を聞き、優しく微笑んだ。そして黒髪と同じく艶やかな唇を動かした。


「ありがとう。ヨロズハさん。あら?その髪は朱の髪一族かしら?お偉いさんね」


「マンヨウ王のおかげだし、私たちがすごいのではない」


「でも私たちにとっては英雄よ、あなたは。本当に今回はありがとう」


 タダシと彼の妻は深々と頭を下げた。ヨロズハは一瞬自分の心が形容できなかった。今まで何かをして褒められたり、褒美をもらったことはある。しかしこのように単純に頭を下げられることはほとんどなかった。そのため彼女は返す言葉に詰まった。


「べ、別に……私は歌が集められるなら……いいんだ」


 ヨロズハは少し伏し目がちにそう言う。正直彼女は自分の心が分からなかった。そんな感情を感じ取ったかのようにタダシの妻は手招きをした。


 ヨロズハは少し首を傾げ、タダシの妻のもとへと近づく。布団と木の床の境目ギリギリに座る。そうするとヨロズハの頬に手が当てられた。冷たい手だったが、ひんやりと気持ちが良かった。


「歌を集めるためといっても……それだけではないでしょう?こんなに傷だらけになって。山を登って……」


 ヨロズハの背筋にぞくりとした感覚が走る。全てを見透かされているような気がした。タダシの妻の目は黒い宝石のように透き通り、深かった。そんな彼女の瞳に操られるように、ヨロズハひポツリポツリと言葉を紡いだ。


「……タダシにも話した。私はマンヨウ王に憧れてる。かの王のように優しくなりたい。その……一歩だ。でも……歌を集めたいのもほんとだ」


「変わらんとしてるのね」


「でも怖い。変わっていいのか。王は本当に変わった私を認めてくれるのか……」


「いい変化と悪い変化があるわ。でもそう簡単に割り切れるものでもなくてよ?」


 タダシの妻はヨロズハの頬から手を離し、自らの胸に手を当てた。


「私は病気になった。これは変化よ。薬を飲んでしばらくするまで辛かったわ。でも夫の優しさを再認識できた。夫に協力してくれる人がいて嬉しかった。変化の結果って表裏がくるくる変わるのよ。困ったことにね、ふふ」


 ヨロズハは少しポカンと口を開けた。しかし胸に支えていたものがすとんの腹に落ちた気がした。


「……マンヨウ王のように……優しくなったらいいこともあるかもしれない。悪いこともあるかもしれない……そんな時どう決断すれば……」


「知らんけど、優しくて損するってことはあんまりないべ」


 タダシが湯呑みに茶を入れつつそう口を挟んだ。ヨロズハは完全にタダシのことを放念していた。それほどまでに彼の妻の誘引力が強かった。だが不意にかけられたタダシの言葉がヨロズハの胸にどうしようもなく響いた。


「平民は助け合いだべ。優しい方がいいべ。お偉いさんは知らんけど……同じ人間だし、そう変わらんべ」


「はは……」


 気の抜けた笑いがヨロズハの口から漏れた。タダシの無責任とはいえないまでもどこまでも平々凡々とした意見がなぜか彼女に沁みた。少し二人の言葉を咀嚼するようにしてから、彼女は微笑み、口を開いた。


「何か大切なことが学べた気がする……ありがとう。二人とも」


 ヨロズハの言葉に夫婦は目を見合わせた後にからからと笑った。


「あ!で、でも歌は欲しい!それはちょっと譲れない!」


「わかってるべ。お前さんにお礼はきちんとするべ」


 タダシはポリポリと頭をかきながらそう言って、ヨロズハの横に湯呑みを置いた。


 




 

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