第14話 渓流

 耳を澄ませば、鳥の鳴き声と水の流れる涼しげな音が聞こえてくる。私は両手を広げて大きく深呼吸し、空気を肺に送り込む。

「心が落ち着くわ。まさに森のセラピーね」

 私はすっかり晴れやかな気持ちになっていた。

「珍しく灯ちゃんが外ではしゃいでいますのう」

 隣に立っていた由美は、背負っていた大きめのリュックサックを肩から降ろすと、足元の大きな石に立てかけるように置いた。

「せっかくビニールシートを持ってきたのに、地べたに置いたら意味ないじゃない」

「大丈夫、これお父さんのだし」

「それは大丈夫な理由にはならないでしょう」

 私も自分のリュックサックからシートを取り出すと、木陰になっている場所で小石を軽く均してから敷き、さらに折りたたみ椅子を広げるとそこに座り込む。

 私たちは休日を利用して、電車に乗って同県内にある山にやってきていた。特別山頂の景色が良いわけではないせいか、あまり他県からの観光客が来ない。しかしそれゆえにアウトドア派とは決していえない私だが、人が少ない上に山頂まで登り切らなくても豊かな自然と澄んだ空気が味わえるので、わりと気に入っていた。子どもの頃から家族で何度かやってきたことがあったが、今日は初めて二人だけでやってきたのだった。

「えー、なんで本を読み始めちゃうのさ」

 私が本を開いて読み更けようとしているのに気づいた由美は、早足で私の方に詰め掛けてきた。

「いいじゃない。今日はここでゆっくりするって話していたでしょ」

「でもせっかく渓流まで来たんだよ。もっとアクティブなこともしようよ。運動不足だとまた体重増えちゃうよ」

 私は勢い良く顔を上げ、由美を睨みつける。

「なんで知っているのよ」

「私が灯ちゃんの変化に気づかないわけないでしょ」

 由美は得意げにふんぞり返り、「まあ言うほどは太ってないし、もう少しふくよかな灯ちゃんも悪くないと思うけどねー」と続ける。ちなみに由美は昔からずっと変わらず痩せている。もしかするとそれは毎日運動らしき運動はせずとも、元気に動き回っているからなのかもしれない。何にしても羨ましい限りだ。

「何かやりたいことでもあるの」

「あの急斜面になっている小さな滝の上から手をつないで一緒に飛び込むの」

「私はやらないわよ」

「ええー、いいじゃんやろうよー。ちょうどまだ誰も来ていないみたいだし」

「大体ずぶ濡れになったら服はどうするのよ」

「ちゃんと水着持ってきてるから大丈夫だって。あっ、安心して。灯ちゃんのは、ビキニじゃなくてフィットネス用の水着を選んだから」

 私はそこまでして水辺に入りたいのかと呆れたが、おそらく由美はそれを楽しみにしていたのだろう。私も付き合うことにする。

 私は木陰でタオルに身を隠した上で、辺りを由美に見張らせながら着替え終えると、おそるおそる水面に足を触れてみた。意外にも水は思ったほど冷たくなかった。

「早く入りなよー」

 すでに水の中をバシャバシャと駆け回っている由美がこちらに向かって手をあげる。由美は服の下に水着を着て来ており、しかも布面積のそれほど多くもない花柄の黄色いビキニというわりと攻めた格好をしている。ただ由美の明るいイメージに合っているせいかとても似合っていて可愛らしく、それがなんとなく悔しい気持ちにもさせられる。

「ん、どうしたの」

 由美は自分のことをじっと見ているのを不思議に思ったのだろう。

「何でもないわよ」

 私は由美が持ってきていたサンダルを履いて渓流に入った。

 それからすぐそばにある小さな滝近くまで行き、なだらかな岩壁をよじ登るようにして上までたどり着く。高さはせいぜい建物の二階ぐらいで、低くもないがそれほど高いわけではない。また水の深さも滝の周辺はそれなりにあるので、注意は必要だがよほど変なことをしなければ怪我はしないだろう。

「大丈夫よ、そんなに高くないわ。ええ、そうよ。せいぜい数メートルしかないじゃない私。大丈夫大丈夫」

「灯ちゃんって高いとこ苦手だったっけ」

 必死に自身に言い聞かせている私を見て、由美は首を傾げる。

「高いところに行くのと飛び込むのは、必要な勇気が違うのよ」

 私はいたって真面目に言うが、由美は「そうかなあ」とあまり共感していない様子だ。

「まあいいや。怖がっている灯ちゃんを導いてあげるのが私の役目だもん」

 そう言って由美は私の手を取る。

「じゃあ行くよ」

「え、ええ」

 私はおずおずとしながらも頷く。それを見て由美は満足そうな笑顔を浮かべる。

「よーし、せーの」

 そう由美が掛け声をかけたときであった。

「早まらないで!」

 私たちは後ろから聞こえてきたその声に驚き、その場に留まって振り返ろうとした。

「あっ」

 しかしその拍子に私は足を滑らせてしまう。

「えっ」

 無意識に由美の手を引っ張ってしまい、由美もバランスを崩す。そして二人とも背面飛びのような姿勢で落ちていく。

「あはっ」

 何故か由美は笑っていたが、私は悲鳴をあげながら勢いよく着水した。

 身体が水底近くまで落ちていく。私は反射的に頭をぶつけないようにと上に向けながら、足で水を蹴とばすようにして浮かび上がる。それから大きく深呼吸をしてようやく落ち着きを取り戻す。

「あー、さいこーだね」

 続いて水面に浮かび上がってきた由美がはしゃぐように言う。

「背中が」

 私はピリピリと痺れるような痛みのある背中をさする。

「それにしてもさっきの声はなんだったのかしら」

 私はこうなったそもそもの発端を思い出して上を見上げる。するとそこには人影があった。

「ああ、なんてことなの。もう少し早ければ止められたかもしれなかったのに」

 黒いアンダーウェアにハーフパンツ、そして青色のウィンドブレーカーを羽織ったきちんとした登山の格好をしている女性が、滝のすぐそばに立って肩を落としていた。しかし滝下を覗き込んだ際に私たちの姿に気づくと、困惑して驚いた顔をしていた。

「生きているの」

 私と由美は互いに顔を見合わせる。それから由美が声をかけた。

「あの、もしかして先ほど声をあげていた方ですか」

 声を掛けられてさらに驚いたようだが、やがて息絶え絶えに話し出した。

「そ、そうよ。だって、あなたたちが身投げしようとしているように見えたから」

「そんなバカな」

 私は思わず口をついてしまう。

「でも、飛び込む勇気がどうとか、私が導いてあげるとかそっちの子が話していたからてっきり……。それにここがわりと浅い川だってことも知らなかったから」

「それよりそんなところに居て大丈夫ですか」

「何のこと」

「いえ、だってそんなにのぞき込むようにしていたら」

 由美が丁度そう言ったときだった。

「うわっ」

 彼女が足を滑らせてこちらに落っこちてくるのが見えた。



「ごめんなさいね。勝手に勘違いして声をあげたせいであなたたちを危険な目に遭わせてしまった挙句、川に落っこちてタオルに下着の替えまで貸してもらうなんて」

「いえいえ、大丈夫ですよ。備えあれば嬉しいなって言うじゃないですか」

「備えあれば憂いなし、ね」

 私たちは渓流からあがって、石の転がる岸に敷いたシートの上で話していた。先ほど滝下に落ちてきた女性は、アンダーウェアや靴下を木の枝にかけて干してから、由美が持ってきていたバスタオルで頭を拭いている。背丈は由美と同じぐらいでやや小柄、顔立ちは多少幼さがあるもののおそらく二十代だろう。先ほどまで後ろで束ねていた長い髪は乾かすためにほどいており、水を滴らせる姿は大人の色香を纏わせていた。

 じっと見ていたために目が合ってしまう。私は少し気恥ずかしいような気持ちになったが、彼女は微笑んでから口を開いた。

「ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね。芝崎茉子よ、都内でOLをやっているわ」

「ああ、えーと。木下灯です。高校生です」

「同じ高校に通っている細貝由美です。灯ちゃんの幼馴染にして将来のフィアンセなのでよろしくです」

「初対面の人にその挨拶はどうなの」

 はにかむ由美を私はたしなめる。

「あなたたち、とても仲が良いのね」

 芝崎さんは柔らかい笑みを浮かべている。器の広い人でよかった。

「でもこんな綺麗な渓流があるなんて知らなかったわ。声が聞こえた気がして整備された山道を外れてみたけど、見られて良かったわ」

「そうなんですよ。遠くからいらっしゃる山登りの方は意外と知らない穴場なんです。だから基本的に人も来なくて静かですし」

「でも女の子二人だけで遊ぶのは色々と危ないと思うわよ。何かの拍子で頭を岩に打ちつけたりするかもしれないし、川遊びをするにしてもラフティング用のヘルメットなんかを付けた方が安全よ。いざという時、助けを呼ぶのもここでは容易じゃないでしょう」

「ええ、その通りですね。今後は気を付けます」

 私としてはもともと川に入るつもりはなかったが、実際に入ってしまっているのは事実なので反省する。

「もちろんおっしゃる通りなんですけど、ビキニにヘルメットをするのはちょっとおかしみがあるといいますか」

「山中にビキニを着てくる方がおかしいのよ」

「気持ちは分かるわ。かわいいビキニ姿を見てほしかったのよね」

 意外なことに芝崎さんは理解を示すと、由美は感心した様子で深く頷いた。

「そうなんです。さすが社会人の方は洞察力が違いますね」

「社会人とか関係なく、誰が見ても分かると思うわよ」

「いやあ、少なくとも鈍感な灯ちゃんは絶対分かってませんよ」

「鈍感で悪かったわね」

 私はそっぽを向く。

「そうね。木下さんはしっかりしているようで天然なところがあって、どちらかといえば女の子に人気があるのかもしれないわね」

「そうなんですよねー、だから私がちゃんと見張っていないと誰かに誘われてフラフラとどこかに行ってしまいそうで心配なんです。あっ、もちろん芝崎さんも例外じゃないですよー。灯ちゃん、さっきちょっと見惚れたし」

「見惚れてはいないわよ」

 私は慌てて否定する。

「そうよ。私は全然そんなんじゃないわ」

 おそらく私の挙動は自分でもかなり分かりやすかったと思うのだが、芝崎さんはそこには気付いていなかったらしい。

「それにしても休日に女性一人で山登りなんてカッコいいですね。格好も本格的で登り慣れている感じですし、普段から結構登っているんですか」

「月に一、二度くらいかしら。学生時代、山岳部に入っていたから、その流れで今もたまに登っているのよ。大体日帰りで行ける場所が多いわね。今日は夕方に食事の約束があるから、午前中に登って帰ってこられる近場にしようと思って来たのよ」

「へえ、ますます出来る人って感じだー。あっ、もしかしてお食事に行くのは恋人さんとかですか」

「ちょっと、由美。そういう踏み入ったことを聞くのは良くないわよ」

「別に平気よ。なんだか学生の頃みたいな会話で懐かしいわ。でも、残念ながらそうではないわね。というかそういう相手はもうずっといないのよ」

 彼女のような人がずっといないというのは意外に思えた。

「芝崎さんみたいな人、周りが放っておかなそうだけどなあ」

 由美も私が思ったことをそのまま口にする。

「仕事に打ち込んでいるとね、あっという間に月日が過ぎて歳をとっていくのよ。あなたたちも覚えておいた方が良いかもね。そうは言っても、恋愛ごとの他にも楽しいことはあるものよ。決して強がりではないのよ。いえ、本当は少しだけ強がりもあるかもしれないけど」

 芝崎さんは少し自虐のようなことも、あくまで爽やかに話す。そんな姿を見て、こんな素敵な女性になりたいものだと思う。

「実はね、今日の相手は丁度高校生のときに仲が良かった女の子なの。しかも学校を卒業してから初めて会うのよ。丁度十年ぶりになるかしらね。それもあってちょっと緊張しちゃって、だから山でも登って少し気持ちを落ち着けようと思ったの」

 芝崎さんは、はあっと大きく息を吐きだして脱力する仕草をみせて、お茶目に笑った。

「へえ。十年ぶりに会うってことは、相手の人がどんなふうになっているかも知れないわけですもんね。でも今どき珍しいですね、そんな長い間会わないでいるなんて。SNSだってあるわけですし」

「そうね。でも二人ともあまり積極的にそういうのをするタイプじゃなかったから。それに、実はそれほど接点があったわけじゃないのよ。クラスが同じになったことは一度もないし、今のあなたたちみたいに休日に一緒に遊びに行ったこともなかった」

「そうなんですか。だとしたら、むしろそれで会おうってなる方が凄いことのような気がしますけど」

 私はにわかに驚く。しかしそれは彼女自身も思っていることのようで頷いてくれる。

「ええ、本当にその通りなのよね。彼女とは合同授業で同じ班になったときに仲良くなったのだけど、たまに学校内で会ったときに話すぐらいの関係だったわ。傍から見たら友達とも思われていなかったかもしれない。でも少なくとも私は良い距離間だったと思っていたわ。だからこそ話せたこともたくさんあったから」

 芝崎さんは昔を思い出して懐かしがっているかのように話す。

「約束したのよ、卒業式の日に。やっぱりその時も二、三言しか話せなかったけれど、十年後に最寄り駅の前で落ち合おうって言われてね。昔からちょっと変わっていて何を考えているのか分からないところがあったけど、そのときは正直冗談か何かだと思って笑って返事をしたのよ。だからもしかしたら彼女も冗談のつもりで言ったのであって、今も私が信じているとは思っていないのかもしれない。私だってちゃんと信じてはいないわね。でも、もしかしたら来てくれるんじゃないかと思ってしまってもいるのよね」

 彼女は少し困ったような顔で笑ってみせる。

 私は思いがけない話を聞いて、どう反応すればいいのか分からなかった。そんな関係の相手が私にいなかったこともあるし、何よりまだ高校生の私には十年の長さは計り知れない年月である。同じ十年でも、五歳のときに別れた相手と十五歳で再会するのと十八歳のときに別れた相手と二十八歳で再会するのはきっと何もかもが違っているわけで、自分の身に置いた想像はあまり意味のないものになってしまうだろう。知らないものを知るというのはとても難しいことなのかもしれない。

「会ったら何を話すんでしょうね」

 結局、私が口に出来たのはあまり面白みのない言葉だった。

「そうね、とりあえず近況をお互い話し合うのかしら。きっと知らないことばかりだと思うわ。学生の頃は接点がなくとも一応同じ空間で過ごしていたわけだけど、今は違うから」

「でも、だからこそ面白い話が出来るのかもしれませんよね。それに十年は人を変えてしまうには十分な時間かもしれませんけど、変わらないものだってきっとあります。そうあってほしいなって、私が思っているだけかもしれませんけど」

 由美が言う。

「由美ちゃんはとても優しいのね」

 芝崎さんはどうやら由美が励ましてくれたのだと受け取ったようだ。実際そういう気持ちもあるのだろう。ただそこに由美の強い想いも垣間見えた気がした。

「会えると良いですね、お友達に」

 私も本心からそう思って言った。

「ええ、そうね」

 芝崎さんは目を細めるようにして、渓流のきらめく水面を見ていた。



 天気が良かったこともあって昼前には服もすっかり乾き、約束の時間もあるからということで去っていく芝崎さんの背中を見送った。

「もうすぐお昼ご飯だね。一応軽食は持ってきてあるけど、ちゃんと食べるならやっぱり山を降りた方が良いかな。本当はもう少しゆっくりしたかった気もする。何か紛れ込んでいたりしてないかな、豪華なサンドイッチとか」

 由美はあっさりと切り替えた様子で適当なことを言いながら、リュックサックを漁りだす。

「会えると良いわよね、芝崎さん。十年前の話とはいえ、今も忘れずにしっかりと覚えているぐらいの出来事なのだから、何かしらはあってほしいところよね」

「ん、そうねえ」

「何よ、なんだか気のない返事ね。気にならないの、由美は」

 私は尋ねるが、由美は手を止めずに答える。

「気にはなるよ。でも、どうなったかはあんまり知りたくないかも」

「そうなの。まあ普通に考えたら、会える可能性は低いわけで、それでも来なかったらやっぱり残念だものね」

「そういうことでもないかな」

「なんだかいつになく煮え切らない答え方をするわね」

 私はそこでようやく由美の様子とその内心が気になった。由美もそこでようやく手をとめた。

「だってさ、私だったら十年なんて絶対に待たないもの。会いたいと思ったら、どんな手を使っても会いに行くよ。待っているだけのお姫様なんて物語の中だけだよ」

「私は逆に、だからこそロマンチックに思えてしまったわね。由美の言いたいことは分かるし、そういう精神性は立派だと思う。私だったら、きっとあくまでも口約束だからって、間違っていたら恥ずかしいとか、相手に迷惑がられるんじゃないかとか色々言い訳みたいなことを考えちゃって、行動に移せないと思う」

「別にね、私だって責めているわけじゃないよ。拒絶されたらどうしようとか怖くなる気持ちは分かるし。でも、それで十年も前に進めなかったのはすごくもったいないことだと思って」

「前に進めないというのはどういうことかしら。確かに、ずっと気にしていたみたいだけど」

 そこで私は疑問を口にする。すると、由美は珍しく少し呆れるような目を私に向けた。

「だから、ずっと好きだったんでしょ、その人のことが。もちろん友達以上の意味で。自覚していたのかどうかは知らないけど、事実としてずっと恋人もいなかったと本人も言っていたし、趣味の登山も学校を卒業してからは、たまに部活が同じだった友達と行くことはあっても大抵は一人で行ってばかりだったんでしょ。登山のことは全然詳しくないけど、基本的にすごく険しい山じゃなければ一人で登れるはず、汗をかくほどに身体が動かせて、しかも山に関係すること以外、余計なことは考えないで済む。仕事に打ち込んでいたのだって、もしかしたらそういうところもあったのかもしれない。つまるところ、一人で居たかったんじゃないの。何よりも一番に感情を共有したい人がそばにいなかったから。私もその気持ちはわりと理解できると思う。そうは言ってもここまで話したことはあくまでも私の想像に過ぎないし、本人に話してもあっさりと否定されるかもしれないけどね」

 由美はいつになく淡々と語った。

「正直、そういうことだとは全然考えてなかったわ」

 私は言葉を失いかけており、そう言うしかなかった。

「だろうとは思っていたけどね」

 由美は肩をすくめる。

「でも、だとしたら私、無神経なことを言ってしまっていたかもしれない。懐かしい友達ぐらいに思っていたから」

「そんなのはこっちが気にすることじゃないでしょ。そもそも向こうから話してきたことなんだし、あの人がはっきりそう言っていたわけでもない」

 由美は言う。

「ただ私が思うのはさ、想いがあるなら、それを直接言葉にして伝えなかったとしても、何かしらの方法でアプローチすれば、待っていたこの十年のうちに一緒にいられる時間がもっとずっと沢山あったのかもしれなかったのに残念だなって話。十年後なんて、仮にお互いに覚えていたとしても、何がどうなっているか全く分からない現実なわけでしょ。そうじゃなくても今日のために昨日までの日々があったなんてことはないはず。今日という日が明日のためにあるとは私は思わないもの」

 それは本当に由美らしい考え方であり、普段からブレることのない彼女の言動はそれを体現しているといって良いだろう。そんなどこまでも真っ直ぐでエネルギッシュな由美は幼馴染ながら本当に眩しく思えるし、尊敬さえしていた。

「それで、今日のお昼はどうしよっか。一応、行く前は山の麓にある蕎麦屋さんにしようかって話だったけど、バスで行くと意外と時間かかるんだよね。前に行ったときは、車だったからついその感覚で考えちゃっていたよね」

 由美はこの話はこれで終わりだと言わんばかりに昼食の話に戻す。少なからずショックを受けていたこともあって、私も一旦はそれに乗って落ち着こうとも思った。

「でもさ」

 しかし気付けば口からは別の考えを告げるための言葉が発せられていた。

「今日も一緒にお昼を食べるじゃない。蕎麦屋でも、どこでもそれはきっととても美味しいと思うの」

「えっ、うん。そうだね。灯ちゃんと一緒だからね」

 由美は少し戸惑った様子ながらも賛同する。

「でもね、その美味しさって同じ美味しいでも何を食べるか、どこで食べるかでもまた違った美味しさがあると思うの」

「あるだろうね。どうしたのさ、一体」

 しかし私はほとんどそのままの勢いだけで続ける。

「由美は私と食べると美味しいと言ってくれるけど、じゃあ例えば私と離れた場所にいてビデオ通話越しで一緒に食べていたとしたらどうかしら。やっぱり同じ場所で向かい合ったり隣り合ったりして食べるのが一番と言うかもしれないけど、それはそれでまた別の楽しさを感じることだってあると思わないかしら。私はきっと思うわ。そしてそれは、離れた場所にいるからこそ味わえたものよね」

「そうかもしれないけど、ちょっとそれは屁理屈でもある気が」

「屁理屈かもしれないけど、それでもいつだって一番だと思えることじゃないといけないわけじゃないと思うの、私は。分かるかしら」

「う、うん。分かったよ。分かったよ、灯ちゃん。なんだかいつになく圧を感じるよう」

「もしかしたら、いえ、多分きっと由美の言う通りなのでしょう。一緒にいられたら、同じ時間を共有できたら、それに越したことはないと思う。でもたとえ離れていたとしても、ずっと会えていなかったとしても、もしかしたらその人からは覚えてもらえていなかったとしても、その時間が全部無駄でいらないものだったとは思わない。それが、私の、言いたかったことよ」

 まくし立てるように話したせいか、気が付けば息切れしていた。

「私自身、今喋りながら気付いたことだから、あんまり上手くまとまらなかったけど、分かってくれると」

「分かったからさ、ちゃんと」

 そう言う由美は先ほどと打って変わって落ち着いた様子であった。

「灯ちゃんは、一緒にいてもいられなくても、どちらにしても意味のある時間だったと言いたいんだよね」

「そう、そういうことなの」

「灯ちゃんも落ち着いて。オーバーヒートしかけているよ」

 由美は私の顔を触る。その手が冷たく、自分が思った以上に顔が火照っていると分かる。

「灯ちゃんの熱い想いはちゃんと伝わったから、大丈夫だよ」

 由美はゆっくりと私の目を見て話す。

「私だって、いつもならこんなふうに言わなかったかもしれない。けど、由美だから。だって、由美、ちょっと怖がっていたように見えたから。私、由美には怖がらないでいてほしいと思うから」

 芝崎さんの話を聞いてからの由美はその話しぶりも然り、気にしてないようでいながらも、少なからず防御的な反応をみせていたように見えた。芝崎さんの話についてもその根っこの大事な部分を分かっていなかっただけに、決してその内心をきちんと理解していたわけではないが、私はそれをそのままにしておきたくはなかったのだ。

「灯ちゃんってさ、鈍いのにそういうところはちゃんと見てくれているよね」

「鈍くて悪かったわね」

「へへっ。でも、鈍くても大丈夫だよ。私がいつだって隣で手取り足取りなんだって教えてあげるもん」

 由美は片目を瞑ってウインクしてみせる。

「だからやっぱりさ、私はとても十年なんて待ってられないよ。そんなことになったら、しなしなになって干からびてる自信があるね」

 そう言って、由美は私に抱きついてくる。

「灯ちゃん成分補給だー。ああ、幸せの匂いがするよう」

「ちょっと、そんなに嗅がないでよ。それに、そんなに押されたら」

 そう言っている間にも私は足を滑らせており、そんな私を怪我しないように気遣いながらも押してくる由美は確信犯的な笑顔を浮かべたまま、二人して太陽の光を反射させてキラキラと光っている渓流の中へ落ちていくのだった。

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