第二章
第36話 外からの来訪者
芽吹き出したばかりの明るく鮮やかな新緑、濃く低くなる前の爽やかな蒼空、土の香りが入り交じる風――それに伴って響き渡る細く長い雲雀の声。それは春という名の活力に富んだ美しい季節。
イルゼは近く十五歳になる。それは彼が最愛の少女と故郷を失ってから一年という時が経つことを意味する。
そして、ここアドニスの皇城に上がってから早半年――
「……兄様! イル兄様どこぉーっ?」
心地良い季節を存分に堪能していたイルゼの耳に、今ではすっかりと聞き馴染んだ少女の声が届いた。それにイルゼは知らず知らずのうちに頬を緩ませる。
自分のことを親しみをこめて『イル兄様』と呼ぶようになった少女は、イルゼの異母妹ラートリーだ。
その声で賑やかに兄と呼ばれると、少年は嬉しくて晴れやかな心持ちになる。
「ここだよ、ラートリー」
イルゼは岩棚から少女を見下ろす形で顔を出した。
「え? ……あっ!」
初めイルゼの居場所が分からずに辺りを見渡していたラートリーだったが、思い至ったかのように上を振り仰いで驚愕の表情を見せた。
「ああっ、兄様! 何、そこっずるい! いつ見つけたの、そんな場所!」
顔を上げたまま、羨ましそうに地団駄を踏む異母妹を見て、イルゼはクスクスと笑った。
「つい最近さ。ここって陽当たりが良くって昼寝に最高なんだ。柔らかい草がいっぱい生えてるし、それに城下町が良く見える――」
そう言ってイルゼは遠くに望める東皇都アドヴァールの街並みを見やった。そこは彼にとって未だ未知の世界だ。イルゼはここにきた半年前から皇城に閉じ込められた状態だった。何しろ、いくら外出の申請をしても許可が下りないのだから。
だから、こうして岩棚に登って外界の景色を眺めることは、イルゼの秘かな楽しみになっていた。この皇城はインザラーガ山の麓に築かれているため、このような岩棚は城の敷地内にあちこち点在するのだ。
春になって温かくなり、最近では散歩をする機会も多くなっていたので、とうとうこの場所がラートリーに見つかってしまった。まあ、特に隠していたわけではないので、それはそれでいいのだが。
「……兄様、手を貸して」
ラートリーの呟きに、やっぱり、とイルゼは思った。
「ここに登る気?」
イルゼは呆れたように確認する。何せラートリーが身に着けている衣装は、地に裾がつくほどの長さがあるドレスなのだ。それが貴人階級である女性の普段着らしいが、イルゼにしたらよくも毎日、そんな歩きづらい格好をしていられるものだと思う。なんにしろ、とても岩棚に這い上がれるような姿ではない。
「ラートリーには無理だよ。それに服が汚れる。今、下りるからちょっと待ってて」
そう言ってイルゼが岩棚から下りようとすると、
「待って、下りないで! 私も兄様が見てる風景が見たいの!」
ラートリーは懇願するように言う。イルゼを見上げる表情は必死そのものだ。こうなればいくら諭したところで、その考えを改めることはないだろうし、イルゼにしてもラートリーの要望はできる限り叶えてあげたいと思ってしまう。
そんなイルゼに対してラートリーの侍女ロジーは「姫様を甘やかさないでください!」と苦情を申し立てることが度々だ。
「……分かった。じゃあ向こう側から登ったほうがいいよ」
イルゼはなるべく登りやすい場所にラートリーを誘導し、少女の手が届くところまで移動する。
「ほら、手を貸してごらん」
イルゼが手を差し伸べると、ラートリーは嬉しそうに手を伸ばした。イルゼはラートリーに足をかける岩肌の位置を丁寧に指示してから、一気に少女の身体を岩棚まで引き上げる。
「よいしょっ……と!」
「きゃあっ」
楽しげな声を上げながら岩棚に上がり切るも、危なっかしく足下をふらつかせる少女をイルゼはすかさず支えた。
「ほら、きちんと立たないと落ちるよ」
「うん、ありがと、兄様」
はにかむようにして微笑み、ラートリーは先に広がる景色を見て歓声を上げた。
「うわあ、本当だわ! あんな端っこまでアドヴァールの街並みが見える!」
ラートリーは恐れげもなく崖の端まで駆けていく。
「ちょっとラートリー! 落ちないようにね!」
思わずついて出た言葉にも、ラートリーは「平気よ、大丈夫!」とはしゃいでいる。
やれやれとばかりにイルゼは溜め息をつきながら、楽しげな異母妹の姿を見て目を細めた。
この息苦しい皇城の中でもイルゼが挫けずに生活を続けてこられたのは、ラートリーが傍にいてくれたからだ。いつも明るく賑やかで、利害に関係なく自分を兄と慕ってくれる愛らしい少女は、今やイルゼにとってかけがえのない存在だった。
(本当の父には気にもかけられず、亡くなっていた母には……疎まれていたような僕なのに、ラートリーだけは、そんなことなど気にしないでいてくれる)
それはこの皇城においてたった一つの慰めだ。他に得た事実に良いことなど一つもなかった。
初秋の頃にラートリーの母クロレツィアから聞いた実母アラリエルの話も然りだ。それは前もって言い渡されていた警告通り残酷な内容だった。
クロレツィアは淡々とした言葉と声でアラリエルの生前をイルゼに伝えた。
『確かにアラリエル様には精神的に追いつめられていた時期がありました。ですが、ある時から何かを得たように立ち直り、お腹の御子であるあなたを示して、これからはこの子のために生きるとおっしゃっていたのです。それからは見違えたように精神と体力ともに回復を見せ、もはや心配はないだろうと思っていた矢先に……あのようなことに――』
あのようなこととは、アラリエルが精神に異常をきたしたことをいう。クロレツィアが言うには、ある日、唐突にアラリエルは話すこともままならないほど気がふれた状態になった。
当初は発作のように発狂して暴れもしたが、時間が経つにつれ、焦点の合わない視線を虚空に彷徨わせるだけとなった。まるで毒に侵された心が腐敗していくようだったとクロレツィアは言った。
その容態は一向に良くなる気配はなく、十月十日を過ぎた頃、アラリエルは衰弱した身体でイルゼを出産し、命を落とすことになった。
『私は今でも納得ができずにいます。何故、彼女があのようなことになってしまったのか』
クロレツィアの言葉にイルゼは皮肉交じりに思ったものだ。
(そんなの簡単な理由じゃないか。母は自分を汚した父を恨み、その結果、自分の腹に宿った僕を疎んでいたんだ。強がってはみたものの、そこにきて耐え切れなくなった。当たり前だ、そんなの。精神がおかしくなったって、なんら不思議じゃないさ)
イルゼは思った通りのことをクロレツィアに告げた。すると彼女は痛ましい表情を見せてイルゼを諭すように続けた。
『アラリエル様は失心状態となられる前、良く歌を口ずさんでおられました。大陸外生まれの私でも耳にしたことのない言語の、不可思議な韻を踏む優しい旋律でした。私がなんの歌かと問うたところ、エスティア王国に伝わる祈りだと微笑んでいらっしゃいましたわ。あれはまぎれもなく、あなたのためのものでした』
それにイルゼは何も答えなかった。しかし心の中ではまぎれもないなどと何故言えるのか、とクロレツィアに反感さえ持った。そして歌を歌うなんて行為は単なる気まぐれに過ぎないだろうとも思った。だが、これもまた真実ではなく、事実に基づくイルゼの主観でしかないのだ。
(……事実と真実は違うもの――か。僕が欲しかったのは確かなアラリエルの真実で、それは二度と手に入らないんだ。だって真実は――母の本心は彼女自身にしか知り得ないものだったんだから。いくら僕が僕に問いかけ続けたって、正しい答えなんか出てくるわけがない)
それでも――何故か問いを止めることができない。
イルゼは小さく溜め息をつく。クロレツィアの警告が今更ながら身に染みていた。
「イル兄様? どうかしたの?」
いつの間にかラートリーがイルゼの顔を間近に覗き込んでいた。どうやら自分はラートリーが気遣うほどに気難しい表情で考え込んでいたらしい。
「……いや、なんでもないよ、ラートリー。さあ、そろそろ戻ろうか。あんまり行方を眩ませていると、またロジーが心配するからね」
彼女の侍女を思いやって言うと、ラートリーは十分に満足したのか「うん」と素直に頷く。
イルゼは先程までの続きを思い起こす。クロレツィアは最後に、イルファード皇子、と穏やかに呼びかけてこう言った。
「ラートリーは、たった一人のかけがえのない私の娘です。これからも、この子のことを宜しくお願いしますね」
それはアラリエルの事実を告げていた時とは打って変わった慈愛に満ちた声音だった。そして、クロレツィアからイルゼに与えられた唯一の真実だ。
彼女は、自分にとって最も大切な至宝の傍らに、イルゼがいることを許したのだから。
「じゃあね、兄様。帰ってきたらまた一緒に遊びましょうね」
ラートリーは機嫌良く手を振り、軽やかに背を向けて去っていく。なんでも明日からの数日間、クロレツィアに伴って国内の主要施設の視察に出かけるのだという。ラートリーは母親と一緒にいられるとはいえ、堅苦しいことが多いと嘆くが、イルゼにしたら羨ましい限りだ。何せ、この皇城の外に行けるのだから。
イルゼもラートリーと同じように、皇族としての仕事を持てれば、外出の許可が下りるのかも知れない。だが残念なことに、今のイルゼにできるような仕事はない。まだまだ皇族として不慣れなイルゼであるから、それは無理のないことだった。
(でも、いつかはきっと、そうなれるように努力しなきゃ。そのためにも、もっと色々なことを勉強して知っておこう)
そう思ってイルゼは、次に自分が向かう場所は書庫だと決める。どうせ暇なのだから夕食の時間まで、つい最近から読み始めた古代皇国フェインサリルの史書集を紐解こうと思った。
その書物で知った古代皇国フェインサリルは、今よりもずっと技術が発達した都市だったらしい。とても信じられないが、空を飛ぶ船まで存在していたというのだ。だが、七百年前に起こったインザラーガ周辺の激しい地殻変動によってフェインサリルの聖都は壊滅し、同時に優れた技術も失われてしまったという。今では辛うじて書物に残った記録以外には、その様子を窺い知る術はない。
「さてと書庫へ行こうっと」
イルゼが改めて張り切った独白を洩らすと、
「それは感心なことだ。どうやら有意義な生活を送っているようだね」
と、誰かが言った。
いや『誰か』ではない。イルゼはその声の主を良く知っている。知ってはいるが、とても久方ぶりに耳にする声――
「カルカースさんっ?」
イルゼは反射的に叫び、声のした方向を振り返った。
「やあ」
穏やかで端正な容貌がイルゼを見て微笑む。そこに立つ男は確かにカルカースだった。
「どうして――いつ、戻ってきたんですかっ?」
「つい先程だよ。陛下にご報告しなければならないことがあってね。それに君のことも気になっていた」
気安い様子を見せるカルカースにイルゼは懐かしさと嬉しさでいっぱいになり、思わず駆け寄った。だが青年の目の前に立ち、その優しい笑みの浮かぶ顔を見上げると、何か抗議してやりたい気分になる。
「……カルカースさん、覚えていますか? あなたは僕をここに連れてくる前、父について色々なことを教えてくれました。でも、そこにはたくさんの嘘が含まれていた」
「ああ、そうかも知れないね」
イルゼの非難にもカルカースは一切弁解せず、大したことでもないように頷いた。そんな彼の悪びれのなさにイルゼは反感を持ち、語調を荒くする。
「何故ですか? どうしてそんな嘘を? あなたは父が僕を望んでるって言ったじゃないですか。それなのに父は僕のことなんて見向きもしなかった。こんなの、聞いていた話とは――」
「君は何故、ここにきたんだい?」
カルカースは止めどないイルゼの憤りを全く平然として抑えた。
「……何故って……本当の父と母のことを知りたいと思って――」
「知ることができたんだろう? 違うのかい?」
なのにどうして文句を言っているのか――とでも言いたそうにカルカースはイルゼを見る。それにイルゼは腹を立てた。
「でも僕は父が僕を待っているとあなたに教えられたから、ここにくる決心をつけたんです。あなたは僕をここにつれてくるために都合の良い嘘を並べ立てた。そうなんでしょう?」
これではカルカースが卑劣と称した金髪の少年と全く変わらない行為ではないか。
「君がそう言うのなら、君にとってはそうなのかも知れないね。だが私は君に嘘を教えたとは思っていないよ。陛下が君を望んでいたのは確かな事実だったからね。ただ、どういう理由で君を望んでいたのかまでは分からなかった。私が先程『かも知れない』と答えたのは、君の捉え方によっては私の言葉が嘘になり得ると思ったからだ」
「……じゃあカルカースさんは、勝手に勘違いした僕が悪いって言うんですね」
イルゼは悲しくなった。別に今の状況をカルカースのせいにして責任を取らせたいわけではない。全面的に非を認めて欲しいのでもなく、明確な謝罪が欲しかったわけでもない。ただ、まるで罪悪感もなしに、この青年が自分を辛い目に遭わせることを厭わなかったとは思いたくなかったのだ。
暫くの沈黙があり、カルカースは小さく溜め息をついた。
「正直、君の泣き出しそうな顔は見たくないね。こちらが一方的に悪いと思えてくる」
カルカースの言葉をイルゼは皮肉として受け取った。イルゼにしたら泣き落としているつもりなど全くなかったし、そんな表情をしているつもりもないのだ。
それなのに、そう思われるのは大いに心外だったので、イルゼは意識して眉間にしわを寄せる。自分は泣こうとしているのではなく、怒っているのだという意思表示をする。
カルカースは暫くの間、そんなイルゼを黙って見つめていた。その双眸と口元には薄い苦笑が浮かび、まるで我が儘な子供を相手にしているかのようだった。
と、カルカースは自嘲気味に肩を竦める。
「分かったよ、イルゼ。君の言い分にも一理あることは認めよう。私の事実がどうであれ、君が辛い目にあったのは確かなのだろうからね。では私が君の容赦を請うにはどうしたら良いのだろうか? 教えて欲しい。私にできるようなことであれば、私は君の言う通りにしよう」
「え……」
カルカースの謝罪に近い言葉を聞いてイルゼは呆気としてしまった。こうも素直に言い分が認められてしまうと反対に困惑してしまうではないか。それに今の言葉だけでイルゼの気は一瞬にして済んでしまったようだった。
(……ええと……カルカースさんにして欲しいこと……?)
それでも一応は考えてみる。しかし何も思い浮かばない。が、ここで「何もない」と答えるのは何やら惜しい気がした。せっかくカルカースが下手に出てくれているのだ、こんな機会は滅多にないだろう。
と、イルゼは一つ閃いた。
(そうだ、そうしよう)
思わぬところで良いことを思いついたとイルゼは自分を褒めた。
「母の話を聞かせてください」
イルゼは張り切ってカルカースへと請う。この青年はきっと母のことを知っている気がしたのだ。それは全く根拠のない憶測だったが。
「――アラリエル様の話を? 何故、それを私に聞くんだい? それに君はすでに彼女の話をクロレツィア様より窺っていると聞いたが?」
「ええ、でもカルカースさんなら、母の他の話を知っていそうな気がして」
イルゼは特に深刻には考えていなかった。カルカースが母のことについて知っていようがいまいが、いつもの彼らしく丁寧に受け答えをしてくれるだろうと思っていた。……ところが。
「君はよほどクロレツィア様から聞かされた話に不服があるようだね」
思いもよらぬカルカースからの返答にイルゼは驚いて目を見開く。そんなイルゼをカルカースは皮肉そうに細めた双眸で見ていた。
「君の出生について絡む母親の悲劇と、実の父親の非道な所業を証明する話は、君にとって随分と許容しがたいものだっただろう。だからこそ、その苦しみを少しでも軽くするため、君は母親の綺麗な逸話を捜し求めている――悲劇から生まれた君という存在を君自身が納得するためにね。クロレツィア様の話で君が傷ついていることは理解するが、無理に真実から目を背けようとする行為はいかがなものだろう?」
「別に、そういうわけじゃ……!」
侮蔑に満ちた声音を向けられ、イルゼは感情的に反論をしようとする。だが、すぐに気を落ちつかせなければと判断し、一度、大きく息を吸って吐き、冷静になってから改めて口を開いた。
「確かに、母の綺麗な逸話が欲しいというのは当たっているのかもしれません。でもそれは目を背けようとか、自分を納得させようとか思ってのことじゃありません。自分を納得させるために必要なのは、会ったことのない母の綺麗な思い出を集めるよりも、今まで僕が歩んできた人生と、これからどう生きていくかという僕自身の中の問題ですから」
「……と、いうと?」
カルカースは眉を顰めて問うてくる。それにイルゼはためらいながらも自分の考えを述べ始める。
母アラリエルの話を聞いた時、正直、自身の存在が酷く疎ましいものに思えたこと。望まれて生まれてきたわけではないと考えたら特に。だが自分は今の今まで自分なりに生きてきた。養父であるダグラスに慈しまれて育てられ、セオリム村の人達と一緒に過ごし、フィーナという少女と出会い――彼女を愛して愛された。
「これまで嬉しいこともあって悲しいこともあった。本当に色々なことがありました。それは今までの僕自身が得てきたもので、生まれとは関係ないと思ったんです。僕は生まれた時のままじゃないんだ――そう思ったら少し気分が晴れました」
もちろん、それだけで全ての想いが昇華されたわけではない。だが、そうでも思わなければ、これからどうして生きていけるというのか。
イルゼの答えにカルカースは暫くの間、無表情で無言だった。
「そうか、君はアラリエル様を切り捨てるつもりなのか――」
その抑揚のない呟きにイルゼはカルカースを見た。その時、少年は何か開けてはならない箱を開けたかのような気分を知る。
「あの頃のアラリエル様は、まだ十代半ばの瑞々しく美しい少女だった。ちょうど君と同じ年頃だ。それに対して君の父親は、五十を過ぎた老獪な風体の男だった。彼女には彼女に相応しい明るく美しい未来があったはずだ。それなのにあの男は、そのおぞましい欲望によって、咲き誇る前の蕾である彼女を無慈悲にも手折ったのだ。そしてその結果、生まれたのが君だ」
冷徹な事実をなんの覆いもなく曝され、イルゼは唖然とした。顔面から血の気が引き、冷水を浴びせられたかのように冷たくなっていくのが良く分かった。
「……それを聞かされた僕にどうしろと? 僕は生きていては駄目だとでも言いたいんですか?」
「ああ、その通りだ」
イルゼの悲痛な声をカルカースは無情にも切り捨てた。
「私がお前に望んだのはそんな答えじゃない。お前は赦されえぬ存在だろう? なのに何故、私の前にはアラリエル様ではなく、お前がいるんだ?」
突如、カルカースの両手が素早く伸びた。獲物を捕らえようとする蛇の如く、イルゼの首を左右から掴む。
「なっ……カルカースさん!?」
イルゼは思わず悲鳴を上げる。その間にもカルカースの両手には力が込められ続け、少年の首は徐々に締めつけられていく。
「や、めて……!」
イルゼは必死にカルカースの腕を掴んで抵抗し、明確な殺意のある圧迫から逃れようとした。
(嫌だ! 苦しい、誰か……!)
死にたくない!!
ただ一点の確かな願いはイルゼの中の何かに反応する。途端、脳裏に浮かぶ光、そこから膨らんでいく輝き――それを手に入れようとイルゼは必死にもがいた。
それで自分は助かるのだという確信があった。だが、それに手が届こうかという瞬間、ああ、でも、そうだ――とイルゼは思った。
確かに母である少女の犠牲と、父である男の欲望から生まれた自分は、永遠に赦されない存在なのかも知れない、と。
そんな自嘲を最後に、イルゼの意識は急速に薄らいでいく。
そして同時に、脳裏に生まれていた目映い光も、手の届かないところまで遠のいていった。
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