第三部

第一章

第31話 皇城

 天高く走る薄白い雲の軌跡、黄金色に色づき始めた木々、どこか視界に淡い陽光――


 大きな窓から見える手入れの行き届いた中庭は、けぶるような季節の美しい色合いに満ちていた。鳶色の髪の少年は知らず知らずのうちに、それらを眺めながら物思いに耽る。その横では数日前から彼の教育を任ぜられた老年の男――ヴィルキールが講義を続けている。


「……ディオニセス陛下の御父君であらせられる第三十四代アドニス皇王オズワルド様の御代、その異母兄であるアルセーニが皇位の簒奪をもくろんだことによって、アドニス皇家は長い内部抗争の時代へと移り変ります。大陸暦九百八十三年、アルセーニは反皇王派である貴族の手引きによりアドヴァールに侵攻、その一週間後には皇城への襲撃を開始いたしました。その末、オズワルド様は逆賊の手にかかることを恐れられて自害、その後の十年間、アドニスは庶子の無頼者の手によって支配されることとなったのです。当時、オズワルド様の正妃であり、ディオニセス陛下の御母君カテリーナ様は……」


 と、ここでヴィルキールが言葉を切り、彼の生徒である鳶色の髪の少年――イルゼの顔を見やった。しかし少年はそれに気づくことなく、窓の外を眺め続けている。


「殿下」


 ヴィルキールがイルゼに呼びかけた。だが、少年は呼ばれたことにさえ気づかない。


「イルファード殿下!」

「えっ?」


 それまで漫然と外を見やっていたイルゼは、その厳格な一声に驚いてヴィルキールの顔を振り返った。


「殿下、庭にはわたくしの話よりも、何か興味の引かれるものでもおありですかな?」

「あ……」


 ヴィルキールのやんわりとした皮肉に、鳶色の髪の少年は頬を赤くする。彼がアドニスの皇子として、この皇城に迎え入れられてから二週間が経つ。だが、どうも『イルファード』という名にイルゼは馴れそうもなかった。それが例え本当の両親から与えられた名前であっても、今までの十四年間は養父に名づけられた『イルゼ』という名で生きてきたのだから無理もない。しかし、そのために今のように注意が散漫な時は、自分への呼びかけを聞き逃してしまうことが多々あった。


「殿下、第三十四代アドニス皇王オズワルド様の御代には、どのような出来事があったのかをお答えいただけますかな?」


 ヴィルキールがうそぶくように問うてきたので、イルゼは少しばかり肩を竦めてから、ここ最近に得たばかりの知識を要領良く述べ始めた。イルゼは聞いていなかったので知る由もなかったが、その解答は先程までヴィルキールが講釈していた内容と殆ど変わらなかった。


 イルゼの解答を聞きながら、ヴィルキールは何度も頷き、時には感心したように目を瞬いた。


「――そして大陸暦千三年、父ディオニセスはアルセーニからのアドニス奪還を果たし、それが今の治世へと繋がっています」


 なんとか叱責を受けずに最後まで辿りつけ、イルゼはホッと安堵する。そして、そろりと窺ったヴィルキールの表情は、少年にとって良い結果だった。


「ふむ。先日、わたくしがお勧めした通り、殿下はアドニスの史書を深く紐解かれたのでしょう。どうやら、この辺りの授業は、殿下には無用なものでしたな」


 ヴィルキールは満足そうに相好を崩す。


「イルファード殿下は、ご理解が早く覚えもよろしい。何よりも、わたくしの授業に興味を示してくださる。……まあ、今日のところは上の空でいらしたようですが」

「すみません……」


 イルゼは再び申し訳なさそうに肩を竦めた。


「さて、今日の講義はこのくらいにしておきましょうか。どうやら殿下は、疲れておいでのご様子。ですが以後、このようなことはないように」


 ヴィルキールの戒めにイルゼは「はい」と素直に頷く。


「とはいえ、イルファード殿下ほど教えがいのある生徒は久しぶりです。他の皇子皇女殿下は、どうも享楽的な物事にしか関心を示されず……アドニス皇族として全く情けないことですな」


 そう言ってヴィルキールは顔をしかめた。彼は以前、皇城に住む多くの皇子皇女の教師を務めていたのだという。だが、彼らの目にあまる無知蒙昧ぶりに呆れ果て、その任を無断で放棄し、郊外の自邸に引っ込んでしまったというのだ。それ以後、ヴィルキールは教鞭を執らずに書物を書き綴る日々を過ごしていたらしい。


「本来ならば職務放棄で厳罰ものですが、わたくしは過去、ディオニセス陛下のご教育も担当しておりましたからな。皇子皇女殿下の母君達であろうとも、おいそれと処罰はできなかったのでしょう。全くわたくしは運が良い」


 ヴィルキールは八十近い年齢を感じさせない快活さで笑った。


「本来ならば再び皇城に上がるつもりなどなかったのですが――フォウルド侯から是非にと請われましてな。取りあえずは侯の面目を保つ名目だけで、イルファード殿下にお会いしたはずなのですが……」


 ヴィルキールは苦笑いをする。

 今のイルゼにとってヴィルキールは唯一、信頼のおける人物だった。時に皮肉な言い回しはあるが、言っていること自体は正しく、誰に対しても裏表がないからだ。それに何よりも、この皇城での生活に早く馴染むためには、広く多くの知識を自分に与え、正しく導いてくれる存在が必要だった。


 そんなヴィルキールと自分を引き合わせてくれたのがフォウルドだったと知り、イルゼは少し驚いた。フォウルドはイルゼの実父ディオニセスと同祖父を持つ従兄弟同士であり、少年とは遠い親戚関係となる。だがイルゼはフォウルドの媚びへつらうような会話が好きになれず、あまり良い印象を持ってはいなかったのだ。


 今度、会った時には彼に感謝を伝えなければ――イルゼは、そう心にとめておく。


「ですが、実際にお会いして気が変わりました。イルファード殿下は勉学意欲に富んでおられた。ならば、わたくしは教育者として、そのお手伝いをしなければならないというもの。シルヴィオ殿下以来の良き生徒に出会えて、わたくしも嬉しい限りです」


 シルヴィオとはイルゼの異母兄にあたるアドニスの第三皇子のことだ。しかし数年前から精神的な病に冒されてしまい、現在はアドヴァールから遠く離れた離宮で療養をしている。


 イルゼはヴィルキールに挨拶を済ませ、教練室から出る。そして、その足で書庫へと向かった。皇城の蔵書は量も種類も豊富で、ここにきてからというもの、イルゼはそれらを紐解くのに夢中で暇を持てあますことがなかった。書庫通いは彼の日課となっている。


 いつものように同じ廊下を通り、階段を上がり、決まった道順でイルゼは歩を進める。皇城は敷地面積が広く、不案内なイルゼにとっては迷路のようなもので、少しでも道をはずれてしまうと迷子になりかねない。今のところ、彼が無事に辿り着ける場所といえば、ヴィルキールの授業が行われる教練室と書庫くらいのものだった。


 ――にも関わらず。イルゼはふとした出来心で、いつもとは違う方向に足を向けてしまう。


 本来ならば、曲がることなく真っ直ぐに書庫へと辿り着ける廊下を通るのだが、大きな中庭を横に一望できる吹き通しの通路が目に入り、そちらに思わず進んでしまったのだ。


 その庭園は多くの木々が茂り、観賞に適した美しい植物がふんだんに植えられ、微かに鳥の囀りまで聞こえるものだから、ちょっとした森のようだった。天が吹き抜けになっているため、陽光も十分に取り込まれている。


 イルゼは二階の通路から庭を見下ろした。皇城には、このような中庭がいくつも併設されている。先程、イルゼが教練室から眺めていた庭も、こことは別の場所だ。


 わざわざ外にでなくとも、自然を楽しめるのがアドニス皇族の特権なのだろうかとイルゼは皮肉に思わなくもない。が、どこにあっても自然は自然で、それは変わらないものだろう。どちらにしろ、今やイルゼは籠の鳥といった状態で、皇城の中の庭だけで満足するしかなかったのだが。


 暫くは気分良く、風景を堪能しながら歩んでいたイルゼだったが、ふと疑念を抱いて立ち止まった。


(……もしかして、こっちからは書庫に行けない?)


 かなりの距離を歩いてから、少年はその事実にやっと気がつく。


 吹き通しの通路は、庭を周回するように書庫のある方向に続いていた。だからてっきり、どこかで通り抜けられるものとばかり考えていたのだが、書庫があるであろう方向には壁が立ちはだかり、それはどうにも無理そうだった。


(仕方がない、戻るか)


 イルゼは一人、肩を竦めて踵を返した――と、ちょうどその時だった。イルゼは視界にあるものを捉えて息を飲んだ。


(お父さん……!?)


 少年が向けた視線の先――三階部分の吹き抜け通路には、長衣姿の侍従を従えたディオニセスが歩いていたのだ。


 イルゼは唖然とその姿を見上げていたが、父親のほうは全く気づくことなく、そのまま屋内の奥に続く薄暗い通路へと消えていった。


 イルゼは考える間もなく、三階に繋がる階段を捜していた。目的の階段を見つけると、すぐに駆け上がる。


 皇城に上がり、初めて実父と対面し、前もって聞かされていた話とは全く違う父の素気ない態度に愕然とし、それからイルゼはディオニセスのことを考えないようにしていた。だからこそ、思い悩む暇もなくなるほど勉学に打ち込んだ。そうでもしないと、再び絶望に精神を支配されてしまいそうだったからだ。


 だが今、イルゼの胸には父ディオニセスに訊ねたい事柄が溢れかえっていた。何故、自分を無視するのか。自分は望まれて、ここに呼ばれたのではないのか。父は、本当に息子としての自分を必要としているのか――


 ディオニセスが消えていった通路をイルゼも駆け足で通り抜ける。すると目の前には再び大きな庭園が飛び込んできた。その中央には、真っ直ぐに別棟へと繋がる渡り通路が設けられている。


(……お父さん!)


 その内部に入っていく父の姿を見つけ、それをイルゼは追いかけようとしたのだが。


「止まれ!!」


 鋭い警告と共にイルゼの行く手を二本の儀仗が阻む。


「ここより先は、陛下のお許しなく進むことはまかりならん!」

「あ……」


 イルゼは今まで全く気づいていなかった存在――二人の近衛騎士を驚いて見つめた。


「あの、でも……! 父と話がしたいんです、通してください!」


 必死の願いを込めて一人の近衛騎士に詰め寄った。


「――貴方は……イルファード殿下?」


 近衛騎士はイルゼの素性に気がついて目を丸くする。そして隣の同僚と顔を見合わせた。


「そうです。ただ、少しだけでも父と話がしたいだけなんです。だから、通してもらえませんか?」


 イルゼは焦る気持ちを落ちつかせて、なるべく丁寧に頼んでみた。だが、二人の近衛騎士は困ったような表情を浮かべる。


「申し訳ありません。たとえ殿下のお頼みであろうとも、ここから先、ディオニセス陛下のお許しなく何人たりともお通しするわけにはいかないのです」

「お許し、ですか? じゃあ、どうすれば父からお許しを得ることができるんですか?」


 直接会えもしないのに? とイルゼは内心、反感と歯痒さを生じさせる。


「そうですね……まずはフォウルド侯にお頼み申し上げてみてはいかがでしょうか。そこから、お取次ぎ願えれば――」

「馬鹿ね、そんなの無駄に決まってるじゃない」


 近衛騎士の言葉を遮り、耳新しい少女の声が響く。

 近衛騎士達は表情を驚愕に変え、イルゼは声の聞こえた背後を振り返った。


「あの人は私達に少しも興味なんてないんだから。取り次いでもらおうったって許可なんかおりないわよ。申請するだけ無駄ってものだわ」


 そう言い切ったのは艶やかに微笑む少女。イルゼより一つか二つ、年下だろうか。夜の帳が下りたかのような黒目黒髪の驚くほど見目麗しい容姿を持つ少女だった。


「……君は誰? それに今のは一体どういう意味?」


 イルゼは突然現れた黒髪の美少女を呆けたように見つめる。すると少女は再びニッコリと美しい笑みを浮かべた。


「どういう意味も何も言った通りの意味よ。あの人と会おうとしたって無理。ううん、会ったって無駄よ、意味なんかないわ」


 そう言いながら少女はイルゼに歩み寄ると、その手を不意に取る。


「さ、行きましょ」

「……行きましょうって、どこに?」


 会ったばかりの少女にいきなり手を掴まれ、イルゼは戸惑いながら聞き返した。


「もう用事は済んだでしょ? だったら、これから私とお茶をしましょう」


 少女はイルゼの返答を待たずに、その手を引いたまま、その場をあとにしようとする。


「えっ? ちょ、ちょっと待って! 僕は父に話がっ……」

「だから無駄だって言ってるでしょう? 諦めなさい!」


 少女は少し苛立ったように言い放つと、まごつくイルゼを近衛騎士達の前から強引に引き連れていく。


 その場に取り残された二人の近衛騎士は呆気に取られて、そんな彼らを見送ったのだった。




 イルゼが素性の知れない少女に連れられてやってきた先は、先程、吹き通しの通路から見下ろしていた中庭だった。


「さっきね、この庭からあそこを走っていく貴方を見かけたの」


 少女は三階の通路を指差してから、握っていたイルゼの手をやっと解放した。


「こっちよ」


 少女は先に立ち、イルゼを中庭の奥へと導き始める。


 イルゼにはもはや少女に逆らう意思はなく、素直に彼女のあとをついて行った。すると、初秋の色づきに取り囲まれた白い東屋が見えてくる。通路からは全く確認できなかったものだ。


 東屋の内側では数人の召使い達が何やら忙しそうに動き回っていた。イルゼ達が近づくと、召使い達に指示をおこなっていた侍女が、こちらを見て驚いた表情を閃かせた。


「お待たせ、ロジー」

「……姫様、その御方は――」


 少女にロジーと呼ばれた年若い侍女は、驚いたままの顔でイルゼを見る。


「そう、つい最近、皇城に上がられた私の新しいお兄様よ。ロジー、お茶をもう一人分、用意してもらえるかしら?」


 少女はすまし顔でロジーへと命じる。そんな少女をイルゼは驚いて振り向き、


「お兄様って……僕が、君のっ?」


 素っ頓狂な声を上げて、目の前の少女をまじまじと見つめた。


「そうよ、イルファードお兄様。改めて自己紹介いたしますわ」


 そう言って少女は楽しげな様子でイルゼと向かい合う。


「わたくし、東皇国アドニスの第五皇女ラートリー=イディア=アドニスと申します。以後、お見知りおきを」


 どこか芝居がかった口調でラートリーはドレスの左右を指先で摘み上げ、優雅に会釈をする。


「確かイルファードお兄様は十四歳でいらしたわよね? 私は十二歳だから二つ年下の異母妹ってことになるわね」

「異母妹……」


 自分を兄と呼び、無邪気に微笑む少女を見てイルゼは唖然とする。


 イルゼの異母妹だという少女は、容姿端麗というに相応しい見目を持っていた。星の輝きを映しているかのような黒い瞳は大きくて愛らしく、軽く目じりの上がったさまは気品のある高貴な猫を思わせる。腰の辺りまで流している黒髪は濡れ羽のように艶やかだ。


 そんな大陸では珍しい漆黒の髪と瞳は、少女の類稀な美貌に神秘的な要素を加えており、その顔立ちを一層、際立つものにしていた。また少女自身も、その美しさを磨くことに努力を惜しんではいないようで、頬にはさりげない化粧を施し、唇には薄く紅も引いている。まだまだ幼さの強い顔立ちではあるものの、その中には女性としての魅力と色香さえも見出せた。


「さ、こちらにいらして、お兄様。外国から取り寄せた美味しい紅茶と珍しいお菓子があるのよ」


 ラートリーは軽く身を翻して侍女ロジーの待つ東屋へと歩んでいく。イルゼは戸惑いながらも少女に従った。


 東屋に上がったイルゼをロジーが恭しく奥に置かれた椅子へといざなった。イルゼが席につくと、淹れたての紅茶が差し出される。


「どうぞ、イルファード殿下」

「……ありがとう、いただきます」


 それをイルゼは受け取り、おもむろに口をつける。向かいに座った少女――ラートリーも同じように湯気立つカップを受け取ると、その芳香を楽しむような仕草で紅茶を飲み始めた。


 父を追いかけて走り疲れた身体には、適度に温かい紅茶は美味しく感じられた。イルゼが手にするカップの中身は、たちまちに飲み干される。


 暫くの間、イルゼとラートリーは木々のざわめきに耳を傾けながら、何気なく静かな時間を過ごした。


「……やっぱり、ここは静かでいいわ。西の棟からの品のない声が届かなくて」


 ラートリーが小さく息をつきながら呟いた。すると、それを聞きつけたロジーが「姫様、またそのようなことを」と軽くたしなめる。


「だって、本当のことでしょ? 全く毎日、良く飽きもせずに、あんな生活を続けていられるものだわ。きっと、あの人達の脳味噌はすでに溶けきって、なんにも残っていないのでしょうね」


 ラートリーは明らかに蔑みを持った声で言った。


「お兄様なんて特にそう思うんじゃなくて? だって、西の棟にお部屋をお持ちなんですもの。全く、あんな異母兄弟達に囲まれて過ごすのなんて、お気の毒様」

「異母兄弟って……君のほかに、そんなにいるの?」


 イルゼは目の前の少女にさえも妹とは実感が持てないままに首を傾げる。


「そういえば、四人のお兄さん達がいるってことは、前もって聞いていたけれど」

「……もしかしてイルファードお兄様、まだ私以外の兄弟姉妹には会ったことがないの?」


 驚いたようなラートリーの問いにイルゼは頷いた。


「いつも僕は朝早くから書庫に本を返しに行って、その足でヴィルキール先生の授業を受けに行くから。それに、そのあとはまた、陽が落ちるまで書庫で本を読んでるし……」


 ここにきてからのイルゼは、そんなふうに毎日を過ごしている。西の棟にある部屋になど殆どいることはない。この皇城で覚えられることを覚えようとイルゼは心に決めており、それに従っていこうと考えていた。そういう目的でもなければ、ここで過ごす意味への疑問が大きくなり、自分を見失いそうになるからだ。


 本来ならば今日も決まった一日を過ごすはずだったが、イルゼは何故かここで、妹だという少女と紅茶を飲んでいる。


 ラートリーは信じられないといったような顔でイルゼを見て「これはまた、随分と真面目なお兄様がいらっしゃったものね」と呟いた。


「それなら納得だわ。あの人達は夜型人間だから、朝からなんて廊下に出てきやしないだろうし、陽が落ちたら落ちたで部屋に引っ込んでお楽しみでしょうから。ましてや書庫なんて、どこにあるのかさえも知らないんじゃないかしら? ……まあ、私も、人のことが言えるくらい行ったことはないけれどね」


 そう言ってラートリーは肩を竦めた。


「でも、まだ会ったことがないなんて、それは幸運というかなんというか……だけど目をつけられるのも時間の問題じゃないかしら? イルファードお兄様は、目立つご容姿をお持ちでいらっしゃるから」


 どこか毒気を含ませてラートリーはクスクスと笑う。


「兄弟姉妹ね、そりゃもう、いるもいるわよ。大沢山よ。あの人って女性には見境がないから、こんな結果になるのよ」


 どこか皮肉そうにラートリーは顔を歪ませる。イルゼはそんな少女の表情を見て嫌な気分になった。


 彼女が口にする言葉はイルゼにとって不可解な部分が多い。だが、悪意に満ちた事柄であることだけは分かった。


 たとえラートリーが本当の妹であろうとも、今すぐにはそんな感情を持てそうになかった。早くも少女との同席が苦痛になりつつあったので、イルゼは早めに聞きたいことを聞いて、おいとましてしまおうと言葉を切り出した。


「さっきから君が言っている『あの人』って、お父さんのこと?」

「そうよ、他にいないじゃないの」

「……父親なのに、なんで『あの人』なんて呼ぶの?」

「父親?」


 ラートリーは鼻で笑う。


「あんなの、父親だなんて思ったことは一度だってないわ」


 ラートリーの返答にイルゼは愕然とする。


「なんでっ? だって、実の父親だろうっ?」

「なんでって、お兄様……生まれてこのかた、一度も会話をしたことがない人を、どうやったら父親なんて思えるのかしら?」

「え……」


 ラートリーの答えにイルゼは耳を疑う。


「言ったでしょ? あの人は私達に興味なんかないって。あの人が興味のあることは自分のことだけ。または、その時々に気に入った女性のことだけよ。……まあ、それも最近では鳴りを潜めているようだけれど。さすがに寄る年波には勝てないのかしらねぇ? でも、こっちとしてはそのほうが有り難いわ。これ以上、兄弟ができたって、名前どころか顔さえも覚えられそうにないもの」


 ラートリーはイルゼが絶句するようなことを何気なしに言う。

 イルゼはだんだんと馬鹿らしくなってきた。これがこの皇城における親子関係なのだろうか?


「……僕、もう部屋に戻るよ」


 イルゼは溜め息交じりに席から立ち上がる。


「お茶、ごちそうさま」


 そんなイルゼの態度に呆気としたラートリーを残し、少年はさっさと東屋をおりる。未練もなく立ち去ろうとする彼に向かって「ちょっと待ちなさいよ!」とラートリーが叫んできた。


「ここに呼んだのはね、新米のお兄様に皇城で過ごす心得を教えて差し上げようと思ったのよっ」

「……心得?」


 イルゼは怪訝な顔つきで、東屋の手すりから乗り出すラートリーを振り返った。


「そうよ、とっても大事なことよ。聞いておかないと、きっと後悔するわ。まず、お父様に会おうなんて思わないこと。無意味なことだし、へたに勘ぐられることになりかねないわよ。父親に擦りよって皇位を狙ってるんじゃないかってね。それでなくてもお兄様は、他の兄弟達にはないものをお持ちなんだから」


 ラートリーの言うそれが何を指すのか、イルゼはすぐに理解した。


「君に力は――」

「私だってそんな力、持ってないわよ。聞いてない? ここ数十年、アドニス皇族に〈マナ〉を使える能力を持って誕生したのはイルファードお兄様だけだって」


 ラートリーの返答に、ここでも自分は異端者なのか――とイルゼは皮肉に思った。


「それからね、必要以上に兄弟姉妹とは馴れ合わないほうがいいわ。あいつらは、ろくな奴がいないんだから」


 ラートリーは忌々しげに吐き捨てる。イルゼにしたら半分とはいえ、自分と血の繋がっている兄弟達を何故、そこまで貶せるのかが理解できない。


「そこには君も入っているの?」


 イルゼが皮肉交じりに向けた問いにラートリーは目を丸くする。が、すぐに口端を歪めると、


「ふぅん、思ったよりも随分な口を利くじゃないの」


 どこか年齢には相応しくない艶麗な笑みを浮かべた。


「まあ、そう思って頂いたって構わないわ。でもね、言っておくけど私はマシなほうなんですからね。あんな品のない育ちの奴らと一緒にされたくはないわ。とにかく兄弟姉妹は信用しない、必要以上に馴れ合わない、部屋に誘われても絶対に行かない。――分かった?」


 そしてラートリーは最後にこう付け足した。「この皇城ではね、外の常識は通用しないのよ」と。


 イルゼは暫くの間、異母妹である少女の顔を見つめていたが、そのまま何も言わずに背を向ける。もはや彼女から語られる言葉にはイルゼの心に届くものはなく、それに対して何かを口にするのも億劫だったからだ。


 そんなイルゼの態度はラートリーにとって、かなり気分を害するものだったらしい。


「イルファードお兄様って絶対、いいように利用されそうな顔つきだものね。お人よしで弱そうっていうかっ。だから、わざわざ忠告して差し上げたのよ。感謝してよね!」


 腹いせ同然の憎まれ口は、さすがにイルゼの神経を逆撫でた。


「それは……わざわざ、どうもありがとう。でも、余計なお世話だ!」


 イルゼはラートリーを鋭く振り返ると、その勢いで腹立たしい気分を思いっきり叩きつける。そして再び少女に背を向ける。


「な……何よ、馬鹿っ! せっかく教えて上げたのに!」


 そんな少女の罵倒がイルゼの背中に投げつけられる。だがイルゼは二度とラートリーを振り返らずに、その場をあとにしたのだった。

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