天才、恋の理解は皆無。
「期待はしないでほしい。でも、努力する」
「えっ、あ、ありがとうございます!」
「…………。よろ」
夏凜は驚きながらも喜び、準は目を伏せてそういった。
恐らく受けて欲しくなかったのだろう。稲荷が依頼を受けることにより、夏凜の片思いが叶う可能性が高くなる。
それは、彼の失恋の可能性が高くなることがつきものだ。
しかし、彼は彼女の応援がしたいのだろう。でなければ、付き添いなんてするものか。
「じゃあ、まず、その太田薫?って人について教えて」
稲荷はそういってカバンから一冊の新品ノートと筆記用具を取り出す。
「待った。なんで新品のノート持ってんだ?予知か?エスパーなのかお前」
「ひどい言い様。さすがにエスパーではない。念のためのノート」
「念のためって……やば」
「ん、こほん」
呆れた夏凜が咳ばらいをしたので、二人も依頼へ戻っていく。
「とりあえず、有島さんのプロフィール教えて」
「ええっと、有島夏凜、立松私立中学2年生F組。演劇部部員です」
「じゃあ、太田薫先輩のプロフィールは?」
「太田薫、中学3年生D組。バスケ部部長。高身長」
稲荷がメモを取りやすいように、ゆっくりと話す夏凜。準はつまらなそうにその横顔を見ている。
帰宅部の稲荷とは違い、ちゃんと部活に入っているあたり、真面目なようだ。今日はなんらかの理由をこじつけて休んできたということか。
「それで、家の方向は?」
「家の方向?ええっと、たしか北区の方かと」
「ありがとう」
稲荷はシャーペンを顎から首にかけてなぞるように当て、ううーんと唸った。
「ええっ、び、尾行とかするんですか⁉」
「まあ、探偵になったからには、本格的にやらないと」
「マジ?やっぱやべえぞコイツ……」
「うるさい」
さっと口をはさんだ準に、稲荷が足を一蹴り。
「いてッッ。な、なんか俺に態度冷たいよな?」
「うん、男子(特にお前)は喧嘩っ早いから、売られる前に売ったろ思って」
「昭和すぎだろ‼」
ところどころ鉛筆で汚されたクリーム色のカーテンが、青春を思わせるようにふわりと宙を舞う。
今日は風が強く、なかなかそれが落ち着くことはない。
しかしそれは、稲荷にとって注意かのように思えた。
「そろそろ先生が来るかもね」
「えっ、い、嫌です‼」
「本当の拒否だな。場所を移すか?」
「うん。校庭のベンチにでも行こうか」
その稲荷の一声で、三人は急ぎ足で教室を出て行った。
階段を下りながら、余裕が出てくるとともに、稲荷がぽつりとつぶやく。
「ねえ、恋って何」
静かに呟いた声は、二人の耳にも届いていた。
しかし、なんていえばいいのか分からないようで、黙りこくっている。
「恋があるから、人って狂うんだよ。ほんとに。何のためにあるのかなって思っただけ。やっぱり子孫を残すためかな。それが一番合理的か。―――ごめん。一人で喋っちゃって。なんでもない」
そう稲荷が告げて、微妙な空気が漂う。
そのまま下駄箱まで着いてしまった。
組が違う稲荷と、夏凜たちは別々の下駄箱の列へと分かれた。
夕日が輝き、影法師が伸びる。靴を取り出し、地面に置いて履くと、稲荷の影法師は別の影法師によって隠される。
逆光に照らされたその顔は、恋する乙女の顔だった。
頬から耳にかけて赤い。本気なんだと理解する。
「あの、天童さん。勘違い、してほしくないです。だからあの、その。恋って所詮、快楽なだけかもしれません。そのせいで狂ってしまうかもしれません。でも、恋によって、狂いから覚めることだってあるんです。だから、忘れないでいて欲しい、です……」
文がごちゃごちゃで、自分でも何を言っているか分からない。そういう表情だ。でも、そういう感情こそ、本気で事を言っている証拠だ。
でも、彼女を焦らせてしまったということは、自分の言動に彼女は思うことがあったんだろう、と稲荷は理解した。
つまり、少なくとも傷つけたんだろう。
そして、言わせてしまった。勇気を使わせてしまった。
言わなくてもいいことを言ってしまった。
堪えられなくなって、稲荷は歩みを進めた。そして、夏凜の後ろに来たとき、一度止まって言った。
「今日は解散にしようか、言わなくていいことを言った。ごめん」
西日のほうに進む翡翠色の瞳。華やかさこそあるが、繊細だった。
この時に動けるわけがない。しばらく、準も夏凜も、動けなかった。
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