十二章 幕間 類別本格の読者への挑戦

 物語の途中、失礼します。未堂棟青人、あるいは、不束三探と言います。

 すべての手掛りは、提示し終わりました。

 いま、読者への挑戦を宣言すると同時に、幕間のお時間をいだだきます。


 不束三探の作品、恒例の幕間です。

 皆様の頭を整理する時間となります。

 こんかいは、ミステリーの入門ではなく、このシリーズの前提を、幕間の語りに使うことにしました。

 こちらの未堂棟青人を解き手とするシリーズは、二百年ちかくまえの江戸時代を舞台にしています。

 ただし、江戸時代に、すべての視点を移しているわけではありません。

 この幕間が示しているように、本シリーズは、かつて江戸時代で起きた殺人事件について、皆様に物語っているというスタンスをとっています。

 神視点による振り返りです。

 この幕間は、読者が犯人について考える時間をつくるというだけではなく、江戸時代を俯瞰的な視点から見ている事実(神視点)を明確に示す場所でもあります。この前提は、時代物の専用用語を扱ううえで、非常に重要なことです。

 なぜなら、幕間があるからこそ、当時のことばが、現代では、どういったものにあたるのか、くわしい説明を施すことができるからです。

 もしも、この幕間がなければ、近代的な言語の登場に違和感をおぼえてしまうでしょう。時代背景を利用したトリックの理解に滞りが起こるでしょう。


 この類別本格の読者への挑戦は、ご存じのとおり、かの有名なエラリー・クイーン作品の定型をなぞっています。

 エラリー・クイーンはときに、読者への挑戦を幕間と称していました。


 幕間とは劇と劇のあいだの休みのことです。

 つまり、この作品・形式はあくまでも劇中のことであり、じっさいの事件とはことなるという解釈をもち合わせているのです。

 前後の物語が事実・史実とはことなっていること。幕間によって、その相違点を示すこと。作者にとって、この両者を開示することは重要です。


 幕間があるからこそ、作中の言葉遣いを、いまの現代小説にちかづけることができるからです。

 不束三探はトリックミステリーを江戸時代に溶けこませるために、時代小説の専門用語レベルを意図的に落としています。

 リーダビリティをあげるためです。

 現代人へと向ける時代物には、読みやすさの維持が不可欠です。

 時代ミステリーとて、同様です。共通語が少ないなか、古語ばかり使っては、読者の新規獲得はむずかしいでしょう。


 一般的に江戸時代を舞台として、殺人事件が発生し、最後には同心などが犯人(下手人)を捕まえる形式は『捕物帖』と呼ばれています。

 銘打ちこそしていないものの、このシリーズは、捕物帖を指針にしています。

 そもそも、『捕物帖』は、岡本綺堂氏がシャーロック・ホームズから発想をえた「半七捕物帳」が創始だと言われています。

 ゆえに、捕物帖と推理小説は、ちかい間柄といえるでしょう。


 ミステリー作家による捕物帖は、数多く、世に出ています。

 有名所を言及すれば、久生十蘭「顎十郎捕物帳」、横溝正史「人形佐七捕物帳」、坂口安吾「安吾捕物帖」などがあがるでしょう。

 この示唆開眼シリーズ(花鳥風月、画点睛)は、これら著名な捕物帖よりも、さらに平易な書き方をとっています。

 この平易化は、トリックミステリーを時代物に落としこむうえで、どうしても必要なことでした。

 不束三探は、自作品の最終場面において、三以上、十三未満のリ+トリックを登場させています。これは読者への挑戦後に説明するトリックの上限と下限になります。自身のノルマであり、ベンチマークです。


 わたしがトリックミステリーを書くうえでの信念となっています。

 これはエラリー・クイーンの国名シリーズが読者への挑戦後、リ+トリックが三つ以上、使われる傾向が高かったという観点から定めてあります。

 よりトリックや動機の多い作品のほうが、ポジティブメタファーを感じることができたという温故知新に基づいています。


 もちろん、市場のトリックミステリーでは、不束三探と同じように、解決場面に、三つ以上のトリックを披露する作品は、珍しくありません。

 ただ、その舞台のほとんどは、昭和以降の現代です。


 江戸時代が舞台、捕物帖というジャンルにおいて、三つ以上のリ+トリック展開をもつサムライミステリーは、ほぼ見当たりません。

 だれもやっていない。それは挑戦する価値があるということです。そういった観点から、不束三探は江戸時代を舞台にしたフツツカタイプミステリー(類別、三答制、三つ以上のリ+トリックを披露するものと定義)を作成しています。

 このシリーズは、読者への挑戦をいれた捕物帳です。非常に珍しいものです。

 なおさら、希少性があるでしょう。

 さっこんの市場ミステリーでは、トリックが出尽くしたと言われています。

 あたらしい題材をモチーフにした作品、あたらしい形式に挑むような作品はへりつづけています。世に出す機会そのものが減少傾向にあるともいえるでしょう。そのなかで江戸時代のトリックミステリーを出していくことは、未知の領域と言えます。


 むろん、課題は多々あります。江戸時代のトリックミステリーは、一般的なミステリーよりも読み慣れないものです。この読み慣れないという線引きから一歩、足を出し、多くの人に読んでもらうには、確固たる作家努力を打ち出さなければなりません。その作家努力は、作品内のバランス調整にあらわれています。


 フツツカタイプの捕物帳ミステリーを読みやすくするために、優先的に配慮しなければならないことは、江戸時代のあたりまえと現代のあたりまえ、両者に橋をかけることでした。

 ふたつの高低差をへらし、終わりを予感させ、一歩を踏み出しやすくすることです。


 現代と当時、両者の差異は多量にあります。

 かぎられた説明のなかで、一例をあげれば、名字制度が真っ先に出てくるでしょう。

 江戸時代は、一定の身分以外の名字を許されていませんでした。

 しかし、例外として、平民の者でも、職名と名前(炊馬経子、作間藤三郎、瑞木新七)、生まれと名前(上野左衛門)のように呼ばれることがありました。簡単にいえば、あだ名です。

 江戸時代でも、この、あだ名は、使われていました。

 あだ名と名字は、差が少ないものです。よって、このシリーズでは平民のあだ名を、名字のように扱うことで、現代の呼び方の差異を埋めることにしています。


 ほかにも、鐘の音のあとに現代の時刻を書くこともしています。当時のことばを使ったあと、現代用語で言い換える場面も頻繁に盛りこんでいます。

 ときには、不可能犯罪、密室など推理小説の専門用語を使うこともあります。

 こういったバランス調整によって、時代間の違和感をへらすことにしたのです。

 しかし、江戸時代の香りを、まったく感じない作品になってしまえば、本末転倒です。捕物帳ならではの魅力は、必要不可欠です。

 両端のバランス調整には、生みの苦しみがありました。

 悩んだすえに、すべての作品に、正反対の縛りをいれることにしたのです。


 ①横溝正史の「人形佐七捕物帳」を基準として、時代用語のレベルをさげる→現代小説寄り。

 ②江戸時代の世相・風習をできるだけ道中のエピソードにからめ、真トリックや真リトリックにはかならず利用する→時代小説寄り。


 前者において読みやすさを確保し、後者において時代作品の妙をとり、両者のバランスを図っています。

「仁鳥の餌」でも「山風の杭」でも「飛花の命」でも「機画の祖」でも「土点の血」でも「時睛の病」でも、最後にかならず、江戸時代の出来事や習慣をからめています。もちろん、この無月の水にも、②を用いています。

 江戸時代特有の出来事が、お話の中心にあります。この②は、幕間までのお話のなかで、まだ、解明されていない謎のひとつです。


 犯人を指摘するヒントになるでしょう。

 未堂棟は、幕間のあと、当時を象徴する出来事を交えて、真犯人の動機を指摘しています。それはいったいなんだったのか。

 日本史の知識から気づいた人もいるかもしれません。

 サムライミステリーの楽しみ方のひとつでしょう。


 トリックミステリーは知的好奇心の強い者が好むジャンルだと言えます。

 頭のなかを情報量でみたす快感を知っている者の嗜好品です。

 無月の水に出てくる知識は、義務教育レベルの日本史ではありますが、それでも、江戸時代の知識をふんだんに使っています。

 皆様の知的好奇心を埋められたら、幸いです。


 さて、このメタローグも、そろそろ、終わりにちかづいてきました。

 ここまで、とうぜんのようにクイーンタイプミステリーについて語ってきました。

 しかし、読者のなかには、エラリー・クイーンの作品を読んだことのないかたもいらっしゃるのではないでしょうか。


 クイーンタイプミステリーは穿った言い方をすれば、主人公が最後に大活躍することを約束した書き方です。ヒロイックな物語です。

 主人公は途中まで敗北しつづけます(別府の役割)。しかし、最後の最後、覚醒した主人公(未堂棟の役割)が、道中の不可能性や否定的な謎を、絶対的ロジカルで斬り払い、真犯人の作為を打ちのめします。


 ロジカルミステリーは、こういったプロットラインが宿命づけられています。

 この図式こそ、ポジティブメタファーミステリーの最大の魅力です。


 ヘミングウェイの「老人と海」にちかしいかもしれません。

 困難のなか、進みつづけようとする構成に美しさがあります。


 いまより百年ちかくまえに編み出された形式ですが、読者への挑戦をはさみ、一気に主人公の独壇場となる内容は、現代だからこそ、多くの読者に好まれる可能性があると思っています。ポジティブメタファーという色を明確に有している、唯一無二のジャンルではないでしょうか。

 人間は生きていくうえで、多くの否定と挫折がおとずれます。

 まるで伏線です。

 否定的な出来事はいつだって連続します。

 それはミステリーにおける不可能犯罪とも似ています。解くことは非常にむずかしく、試行錯誤するたびに否定されつづけます。そのあいだ、まるで、みずからがなにも、えていないかのように錯覚してしまいます。仕事上の失敗、試合中のミス、勉強の結果、失恋の経験、病気による孤独、不当な暴力、否定材料は、様々あります。


 犯人による作為、その成功は、人生における困難と同じものです。

 あまりにも、むずかしすぎる問題は、立ちあがる気力すら奪います。

 しかし、人間はつぎを見据えなくてはなりません。

 あすを信じなければなりません。

 積みかさねた日々が、理知的に回収される瞬間を思い浮かべなければなりません。

 カジキとの戦いは、ライオンの夢に繋がるべきなのです。


 どんな結果でも、あしたの成果というものは、過去をへたあとに出るものです。

 この構図は、トリックミステリーにおける解決場面と似ています。

 クイーンタイプのトリックミステリーは読者への挑戦のあと、捜査陣の心血が報われます。すべての伏線が回収されます。

 だからこそ、幕間という形式そのものに意味があります。このあと、かならず報われるという構図が、前向きな変化をあらわしているのです。それを読者が目にすることで、人生の隠喩だと感じさせることが、この書き方の醍醐味です。


 さて、ここまで、幕間を長々と語ってしまいました。

 作中には326回の炎がはいっています。

 この炎の数は「脈絡」と同義です。

 幕間後のあたらしい展開は、作中の「変化」です。


 双方を合わせて、アリストテレスの述べた『脈絡をもった変化』をあらわしています。不束三探なりの文学性です。この326回、類別本格ミステリーという比喩が、貴方の光、そして炎になることを願っています。


 それでは、次ページから本編にもどります。


 どうか、この作品が貴方の人生の類推解釈になりますように――。

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