四章 下屋敷の惨劇

 別府と未堂棟は息を切らしながら走りつづけていた。どうやら、蛇崩町のなかで、だれよりもはやく、冷静になったらしく、野次馬はまだ集まっていなかった。ぽつぽつと、外に出ている者がふえているが、呆然と立っているだけだ。祈りの手をつくっていた。涙を流している者もいた。だれもが、冷静になれる状況ではなかった。

 ただ、それでも、半刻も経たない内に、下屋敷のまわりには人があふれるはずだ。木戸番はすぐに区画間の移動を制限するにちがいなかった。人垣ができあがれば、同心といえども、移動がむずかしくなるはずだ。

 そのまえに、下屋敷へと向かえるのは幸運だった。


 別府たちは宿屋に来た道を引きかえしていった。行人坂には大水が流れはじめていた。河川のなかにいるようだった。鮭のように逆走した。濁流の勢いを押しのけていった。倒壊した長屋も散見していた。断続的に悲鳴が鳴り響いていた。

 それでも、足をとめなかった。諸悪の根源をとめなくてはならなかったからだ。

 別府の心臓は破裂しそうだった。なんとか、表門に辿り着いた。濁流が落ちつづけていた。別府は物音のする方向を見上げた。門番のふたりがいた。見張り台をのぼっていた。あかりは見えなかった。

 自分たちの安全のために、高い場所へとのぼったようだ。

 あきらかに混乱していた。悲痛の顔を浮かべていた。ふたりとも、叫喚していた。別府は彼らに事情をきこうとした。

 しかし、とおくから助けを呼ぶ声に気づいた。敷地内だ。

 立ちどまった。耳を澄ました。

「だ、だれか! だれか来てください」

 裏門のほうからきこえてきた。ききおぼえのある声だった。


「だれか来てください! 人殺しです!」

 別府は未堂棟と目を合わせた。

 下屋敷の大破壊だけではなかった。あたらしい殺人事件が発生していたのだ。

「佐々木さんが殺されました! だ、だれか!」

 別府は裏口へと向かうことにした。裏口への道は蛇崩池の直線上にはなかった。濁流に呑まれていなかった。裏側へとまわりこんだ。ひさしぶりに、乾いた土を踏んだ。

 裏門をあける。両壁に、はさまれた通路を走り抜ける。土間がちかづいてきた。 下屋敷と同じように半壊している。土間への扉の横には、桶がふたつ置かれていた。別府は桶をのぞきこんだ。

 水がはいっていた。見おぼえのある桶だった。

 別府は土間のなかにはいった。足の指が濡れた。草履のなかに、水が染みこんできた。水面が張っている。室内はあれ果てていた。きのうの正午におとずれたときの土間とは、まるでことなっている。裏口に繋がる土間は客人を見定める場所だった。

 訪問客は刃物の有無を調べられ、危険性がないとわかったら、となりの居間にあげられる。居間には四脚の机と木の椅子がならべてあり、どのような用事で来たのかを調べられる。

 そこで佐々木五郎の許可が出たら、下屋敷のなかを案内されるのだ。裏門の通い路といえども、訪問客への対応は高水準で維持されていた。


 しかし、現在は見る影もなくなっている。板張りの壁は役割を果たしていない。隙間からとめどなく泥水がはいっている。踏み場は泥濘にかわっていた。

 土間の飾り棚は、すべて地面に落ちている。居間の障子戸は何者かの手によって、やぶられていた。わずかにのこった障子には、おびただしい血痕がこびりついていた。

 鉄砲水に飲みこまれただけではない。土間で惨劇が起きたのだ。

 どうやら招かざる客への対応は、上手く行かなかったらしい。

 別府のうしろからうめき声がきこえてくる。

 ふりかえった。さきほど、悲鳴をあげた人物を見つけた。引き戸のまえで、ひとりの男がふるえていた。水屋の瑞木新七だった。

「いったいなにがあった?」

「み、水が流れこんで……」


「それはわかっている。この大量の血痕はなんだ?」

「濁流が来る直前に、さ、佐々木さんが……」

 瑞木新七は居間のさきに、人差し指を向けていた。

 別府はゆっくりと首をまわした。障子戸のうえに右足がのせられている。太股と足先が目にはいった。彼の身体は居間ではなく、土間に向かって倒れているようだった。彼の右足は、ぴくりとも動かない。

 別府は唾を飲みこんだ。自然と呼吸があらくなる。


 ……佐々木の状態を確認しなくてはならない。

 まだ……彼の息が……あるかもしれない。

 別府はじりじりと、にじりよった。水面の波紋が奥に広がっていった。進むほど周囲が暗くなる。別府は居間に目を向けた。倒れた椅子のしたに蝋燭と火種箱を見つけた。まだ火がのこっていた。慎重に蝋燭の先端に移した。

 三つ編みの藺草に火が灯った。蝋燭を皿燭台にのせる。土間はわずかに照らされた。土間のまわりにも血痕が散らばっていた。一点に飛び散っているのではなく、まばらに広がっていた。

 別府は息をととのえた。ふたたび歩き出した。下屋敷への戸口はひらいたままだ。外からは大水の流れる音がきこえた。居間に目を向けた。奥まった場所は一段と暗くなっていた。

 蝋燭をちかづける。


 佐々木の身体が映し出された。出血量に反して、五体はそろっていた。

 切り傷もない。佐々木は仰向けに倒れていた。

 身体中が赤く染まっている。右手は助けを求めるように別府へと向いている。五本の指は曲げられ、握り拳になっていた。左手はみずからを守るように顔をおおっていた。指の隙間から両目が見えていた。充血した両目が見開いている。

「だいじょうぶか……きのうの昼に来た別府だ。きこえているか?」

 

 佐々木はなんの反応もかえさない。そもそも両耳が塞がれている。彼の両耳を隠しているのは髪の毛ではない。大量の血液だった。赤い固まりとなっている。

 別府は佐々木の身体をひっくりかえした。人血が水面に流れ落ちる。

 後頭部を確認したかったのだ。そして、すぐに佐々木が息絶えているとわかった。脳天は丸みを失っていた。断裂面が見える。皮膚が裂けているだけではなく、頭蓋骨が沈んでいた。

 水面は真っ赤に染まっていった。致死量の出血だった。

 別府は首を横にふった。


 ……すでに死んでいる。


「長刀で斬られたような傷は見当たらない。おそらく、凶器は鈍器だ。血液は完全には固まっていない。皮膚も肌色のままだ。よって、殺害されてから一刻も経っていない」

 佐々木の身体は別府の手で曲げることができた。死後経過があると、硬直がはじまるが、この死体には特別な固さがなかった。

「まだ一刻も経っていない。蛇崩池の大水が下屋敷に流れこむ前後に殺された」

 いまの時刻は、現代で云うところの深夜三時である。

 暗闇がもっともふかい時間帯でもあった。

「瑞木、おまえは佐々木が殺されたと云っていたな?」

 返事がしない。瑞木は入り口のそばで膝を抱えている。別府は死体から離れた。彼の正面に立った。語気を強めた。やっと顔をあげた。瑞木はふるえ声で答えた。

「は、はい。わ、わたしは下手人が直接、手をくだすところを見ました。木刀のようなもので佐々木さんの頭を何度も殴っていました」

「下手人の顔を見たか?」


「いいえ。突然のことで……。顔もなにかで隠されていて……。なにも……。わたしはいつものように水を補充しに、大村家にやってきました。佐々木さんはいつも、裏口そばの土間で待っていて……」

「佐々木は寝ずの番をしていたのか?」

「いいえ、おそらくちがうと思います」

  瑞木の目線は畳みへと移った。

「いつも土間と隣接している居間でうたた寝していました。わたしが声をかけたあとに起きます。いっしょに下屋敷内をまわって、敷地内の桶をみたしに行くのですが……」

「きょうはそのまえに殺されてしまった……。つまり、下手人は無防備の相手を襲ったことになる。佐々木の抵抗で傷を負っていることは期待できないか」

「わたしが着いたとき、すでに土間の引き戸はひらいていました。だから、おかしいと思ったのです……。恐る恐る室内へとはいりました。すると、居間からうめき声がきこえてきたのです」

 瑞木は惨劇の目撃を語り出していた。

「佐々木さんのまえに人影が見えました。火種箱が床に落ちていました。ぼんやりと足下だけが見えていました。彼は佐々木さんが動かなくなるまで打ちつけたあと、わたしの存在に気づきました」

「おまえは襲われなかったのか?」

「ええ。わたしのほうを向いて、しばらく考えたあとに向こうへと逃げていきました」


 瑞木は入り口と反対側の引き戸に右手を向けた。もしかしたら、下手人は最初から殺害するつもりの相手をきめていたのかもしれない。瑞木を殺すつもりはなかった。

 だから見逃したのだ。おくれて、われわれがやってきた。

「まだ下手人がちかくにいるかもしれない。はやく木戸番に伝えなくてはいけない。しかし、この場所から離れるわけには……」

 別府は未堂棟に目を向けた。未堂棟はかすかに頭を縦にゆらした。別府は覚悟をきめた。未堂棟はふだんなら小石に躓いたり、支柱に頭をぶつけたりする。

 しかし、殺しが起きたあとは徐々に覚醒をはじめる。いまの未堂棟ならば、現場の見張りをまかせても問題ないはずだ。

「瑞木、わたしはいまから町役人と木戸番に状況を伝えてくる。おまえはここにいるんだ」

 彼はゆっくりとうなずいた。


 別府は急いで行人坂をおりていった。すでに町人が集まりはじめていた。行人坂の正面に木戸番が立っていた。彼らは区画間の移動を制限するか迷っていた。

 別府は木戸番に殺人事件の発生を報告する。信頼のできる者を集めて、下屋敷の周囲を封鎖するようにたのんだ。ほかにも重大な用事があった。

「とくに炊馬経子、作間政信、上野左衛門、この三人を見つけたら、その場にとどめるように指示してくれ」

 別府は予防線を張った。別府の口にした三人は、大村家に恨みを抱いている可能性の高い人物である。殺害の動機だけではない。下手人は瑞木を殺さなかった。

 この事実から相手の顔を知っていた可能性が高い。よって、血縁関係にある、ほかの三人が怪しくなる。むろん、虚偽の証言という線もある。

 とうの本人は未堂棟が押さえている。

 別府はふたりの町役人をつれて、下屋敷へともどっていった。

 あいかわらず蛇崩池の大水が敷地内をみたしている。だれもちかよれない状況だった。何人かの町人が農具で地面を掘っている。

 濁流を脇道に逃がそうとしているようだった。

 もう少し時間が経てば、敷地内にはいれるかもしれない。

 別府は息を切らしながら、土間へともどった。肺が空気を求めていた。痛みを発している。引き戸に手を置いた。呼吸をととのえる。四半刻も経っていない。

 別府は敷居を跨いだ。

 土間の内部はあかるくなっていた。四隅に燭台が立てられている。未堂棟が灯したらしい。瑞木は同じ位置にいる。未堂棟は奥にすわりこんでいた。

 左目をひらいていた。


「――下手人はどうして凶器に鈍器を選んだのでしょうか。日本刀を使えば、何度も殴りつける必要はなかったはずなのに……」

 別府も疑問に思っていた。日本刀なら確実に仕留められる。

 刃物ならば、小刀や包丁でもよかったはずだ。簡単に手にはいる。しかし、下手人は鈍器を選んだ。瑞木の証言によれば、木刀に見えたらしい。

 この疑問に答えは出なかった。

 未堂棟は被害者の後頭部のつぎに、右手を調べはじめた。

 握り拳のままだった。ただ、痛みに堪えるだけに握ったのではない。

「――佐々木さんは右手でなにをつかもうとしたのでしょうか?」

 三回目である。彼の右手は強く握られている。

「まさか、最後の力を振り絞り、下手人の手掛かりを……?」


 別府も駆けよった。未堂棟は被害者の右手を天井に向けたまま、親指、人差し指、中指とひらいていった。彼のつかんでいたそれは、真下に落ちていった。わずかに掌にのこっている。

 別府の期待は気落ちにかわった。

「……ただの水だ。氾濫した水をつかんでいた」


 被害者の右手からこぼれた水は、土間に浸っている水とひとつになりはじめていた。泥濘と血液の渦に、純度の高い透明な水が混ざっていった。未堂棟が佐々木の右手にふれている。重点的に調べているが、ほかに、めぼしいものは見当たらなかった。

「佐々木は下手人の手掛かりをのこそうとした。しかし、失敗した。土間に浸っていた水をつかんだまま、死に絶えたのだ」

 下手人の手掛かりをえられなかった。落胆を隠せない。

 しかし、未堂棟は検分の歩みをとめなかった。


「――どうして殺された佐々木さんは、葉月なのに羽織を着ているのでしょうか?」

 佐々木は紋無し羽織を着ていた。羽織のしたに浅黄色の肌着が見えている。葉月の暑さがある夜にしては着こんでいる。殺された時点では起きていたのかもしれない。常に正装を心がけていた可能性もある。

 下手人にあとから羽織りを着せられたという可能性もある。

 いまでの段階ではわからない。

 未堂棟の左目はまだ開閉をつづけていた。


「――瑞木さんの証言によれば、下手人は敷地外ではなく、敷地内に向かったとききます。はたして、下手人はなにをするために下屋敷へと向かったのでしょうか?」

 別府はその理由に思いあたった。もしも、下手人が大村家に恨みをもっていた場合、その目的は佐々木ではない。もっと重要な人物がいる。

 しかも、その相手はひとつの場所にとどまっていた。


「……まさか、下手人は逃げるためではなく……」

 別府は土間を出た。外の戸口を見た。まだ大水は引いていなかった。濁流の勢いによって、下屋敷の大部分を破壊している。

 表門のほうにある土倉は無事のようだった。

「土倉には大村昌村が蟄居している。下手人が彼を狙っているとすれば、これほど都合のいい状況はない」

 下屋敷にいた者は下敷きになっていないかぎりは、とおくへと避難しているはずだ。

 しかし、大村昌村はべつだった。

「彼は土倉に封じこまれている身だ。みずから外に出ることはできない」

 ……殺すのは簡単のはずだ。


「いまの状況ではだれも助けに行くこともできない。下手人はべつだ。時間の余裕があった。殺すための準備もしていたはずだ」

 一歩、足を踏み出した。二歩、さがった。気が急いていた。

 しかし、動くに動けない。板張りの壁を叩いた。土間から外をにらんだ。下屋敷は内壁にかこまれている。大量の水が敷地内にとどまっている。

 四方からは、とがった木片が流れこんでいた。

 削りとった樹木の一部だ。無数の刃となっていた。

 行人坂のように水を押しのけながら、土倉には向かえない。

 別府は少し考えた。土間を離れた。下屋敷の外で水を逃がそうとしている町人たちに合流する。指示を与えた。土倉への道に土嚢を置かせたのである。

 すぐには終わらなかった。容易な作業ではない。刻々と時間はすぎていった。夜が終わりはじめたとき、土倉への道が完成した。

 別府は町役人に土間の見張りと瑞木の監視をまかせた。敷地内の中庭に出る。


 ……これはひどい。

 中庭は想像以上に被害を受けていた。

 敷地内で無事な場所は、二箇所だけだ。北東側の離れ座敷と書院、南側の離れ座敷と目的地の土倉だけだった。きのうの昼に佐々木と話した茶室は見る影もない。とうの佐々木も生きていない。中庭は泥水にみたされている。足の踏み場もない。中庭の中央には立派なひょうたん池があったのだが、その池も見当たらなかった。

 いまでは大村家の下屋敷、そのすべてが溜め池になっていた。

 別府は下手人を探しつつ、土倉へと急いだ。だが、道半ばで背後が気になった。氾濫のもとを見たくなったのである。しかし、足を止めるわけにもいかない。

 別府は走りながら後方に顔を向けた。目を凝らし、遠方をながめた。蛇崩池はきのうまで溜めていた水をほとんど吐き出していた。東側の水門だけが無事のようだった。

 そのおかげで、敷地内の書院まで大水がとどかなかったらしい。

 しかし、中央側と西側、ふたつの水門が見当たらなかった。

 上空には煙が立ちのぼっている。赤い火が見えた。

 

 ……水門は何者かに燃やされたのかもしれない。

 

 小山には赤々とした縦線がはいっている。ふたつの線だった。

 まるで蛇の眼だ。鎌首をもたげているように見えた。胴体を下屋敷へとおろし、長い尾を一周させていた。下屋敷のまえでとぐろを巻き、われわれをにらみつけている。

 蛇崩池のちかくには水田がつくられていた。夜中で見えないが、別府の目ぶたには、青々とした稲穂が焼きついている。

 そのせいか、蛇崩池の濁流は段々畑のようにも見えた。

 いちばんとおくの棚田は蛇崩池だ。水流が南へとゆるやかにつづき、傾斜部分が淡く光っている。小川のせせらぎのように見えた。

 やがて、せせらぎは林の土を含み、泥流へとかわっている。

 二段目の棚田になると、泥流は瀑布に変化する。下屋敷の外壁に何度も衝突している。外壁の手前で飛沫をあげ、直進と後退をいまだに、くりかえしている。

 大蛇はまだ、多量の水を抱えている。外壁のまえは洪水だった。彼らは瓦屋根を飲みこんでいった。木材の基礎と骨組みを浮き彫りにさせていった。外壁の破壊は時間の問題だったにちがいない。

 度重なる波に漆喰が剥がされ、粘土は水に溶かされる。そして崩壊だ。いまでは外壁の上部に大穴がひらいていた。

 いちばん手前の棚田は下屋敷そのものである。建物を破壊し尽くし、平面になっている。一定の高さに泥水が張ってあった。泥流の流れこむ北側は滝壺のようだった。

 大渦を巻きながら、鋭利な木片を巡回させていた。土嚢のなかに踏みこめば、命をとられるにちがいない。せせらぎよりも急流であり、瀑布よりもはげしい濁流になっていた。

 別府は大蛇が大水と豊穣を司っているという話を思い出した。棚田をかこむように水流をつくっている様は、まさに神様だ。太陽がのぼれば、水捌けもできるが、いまではちかづくのもむずかしい。

 ひとまずは大村昌村を見つけ、領主の安全を確保するほうがさきだった。

 別府は前方の土倉に顔を向けた。

 目的地は目と鼻のさきだった。

 

 表門の見張りをしていた所沢が土倉の観音扉を叩いていた。

「昌村様、きこえますか。ご無事ですか?」

 観音扉のまえには、太い錠前が備えつけられている。

 外からも、なかからも、あけられないようになっていた。

「返事をしてください。昌村様!」

 別府は彼の背後から声をかけた。周囲の轟音により、駆けよる足音がきこえなかったらしい。所沢は驚きのあまり、飛びあがった。尻餅をついた。所沢の顔は顔面蒼白だった。喉元を押さえていた。まるで刃物で刺されることを防ごうとしているようだった。背後をとられたことで、自分が殺されたと勘違いしているようだった。

 

 すでに敷地内で殺しが起きたことをきいているにちがいない。

 所沢は硬直していた。手を貸した。立たせる。生きていることを実感させた。

「きこえているか?」

「は、はい」昌村のかわりに、返事をした。

「きのう、会ったな。わたしは同心の別府だ。奉行所の依頼で来ている。まだ、土倉のなかに大村昌村がいるのか?」

「まだ土倉のなかにいらっしゃると思います。しかし、何度、お声をかけても返事がないのです」

「強引にあけなかったのか?」

「奉行所から勝手に昌村様を外に出さないように強く云われています。蟄居のあける日以外は、われわれの判断だけでは土倉にはいれないのです」

「わかった。われわれが許可する。緊急事態だ。やむをえない。錠前の鍵はだれがもっているのだ?」


 所沢は右手をあげた。人差し指がのびている。未堂棟の肩先をかすめている。

 下屋敷の茶室の方角を示していた。屋敷内である。

 視線のさきは、すべて倒壊家屋となっていた。

 いまから鍵を探し出すのは不可能だ。

「仕方ない。壊すことにしよう。斧か鍬をもってきてくれ。陸田や水田のちかくにあるはずだ」

 見張りのひとりが行人坂をおりていった。すぐに斧を運んできた。刃先はていねいに磨かれている。別府はまえのめりになった。斧を思いっきりふりおろした。先端がわずかに食いこむだけだった。土倉の扉は欅でつくられている。欅は樫の木とならんで、強固な木材と云われていた。力強い木目は縦横に乱舞している。土倉の壁まで、おおきな両手を広げていた。

 両脚は泥土を纏っている。斧の一撃を食らってもなお、四股を踏んだままだった。

 土倉の屋根は、新月の夜をさらに暗くし、上部に陰影をつくっていた。門扉はあきらかに不機嫌だった。両目を吊りあげている。眉をさげる気配もない。口をひらく素振りもない。頑固とした顔付きだった。たじろいだ。斧とともに距離をとった。

 簡単には壊せない。別府はふと足下を見た。

 門扉と地面のあいだに隙間があった。少しずつ水が漏れている。

 土倉の室内は、濁った水でみちているようだ。


 ……土倉は大水に飲みこまれた。

 人間が室内にはいれなくても……水のはいれる隙間は多い。

 周囲の水が捌けた分、室内から、少しずつ逆流しているんだ。


「だったら、大村昌村は無事かもしれない」

 別府はだれにもきこえないようにつぶやいた。土倉は密室だった。密室のなかには水が侵入している。溜まっている。

 どこかの壁を壊して、侵入した者はいないことになる。

 別府の気持ちは楽になった。肩の荷がおりたからだ。

 自然体でふりおろした斧は速度をましていた。すべてを壊す必要はない。

 錠前のまわりの欅だけを綺麗に切り抜いた。錠前が外れた。

 地面に落ちる。金属音を響かせた。

「ひらいたぞ。離れるんだ」

 土倉の門が勢いよく、ひらいた。足首を浸すだけの泥水が、一気に膝元まで流れこんでくる。

 土倉には、そうとうの水がはいりこんでいたらしい。


 土倉の解放と同時に夜が終わった。

 朝日の辺縁が見えていた。地平線のさきに、光線がはなたれている。土倉の左側に別府と未堂棟。右側に見張りのふたりが立っていた。ほかにだれもいない。

 そう思っていた矢先、中央にひとりの男が滑りこんでくる。


 間髪入れずに、流れこんできた。あらわれてきた。

 心の準備もしていなかった。

 真下は死角だった。

 まったく予期していない登場だった。

 背後ではなく、正面からあらわれたのだ。恐怖の眼差しで、見下ろした。

「ば、馬鹿な……いったいどうやって……」


 滑りこんできた男はすでに生きていなかった。

 泥水と一緒に流れてきたそれは、死体だった。

 大村昌村が無残に殺された姿だった。

 見張りの男たちが、いっせいに悲鳴をあげる。

「ありえない。土倉は密室だった!」

 別府は心の底から叫んだ。

「下手人はどうやって、大村昌村を殺したと云うのだ!」

 大村昌村は心臓を一突きにされていた。木綿の肌着に血液がこびりついている。血液は大村の顔までとどいていた。

 泥水に沈んでいたからか、彼の顔は青白い。青白さは口内も同じである。おおきく口をひらいている。舌尖のうえに青白い水が溜まっている。

 ほんとうは土色なのかもしれないが、朝日が差しこみ、その水は青白い透明色に見えた。

 

 別府は気を取り直した。見張りのふたりに指示をした。

 従順なふたりは、指示通り、行人坂へと向かった。

 いまから解決しなくてはいけない問題は多かった。


 一つ目は下屋敷にはいりこんだ泥水を除くことだ。

 二つ目は殺人現場の安全を確保し、領主の死体を検分することだ。

 三つ目は動機のあった容疑者たちの居所を調べることである。

 可能ならば、三つとも午前中に終わらせたかった。


 しかし、同心ふたりでは、各所をまわれない。

 まずは協力者をえなければならない。もっとも信用できる第三者は、木戸番である。

 別府はいちばんちかい木戸番から人員を確保しようと思った。

 ふたりのあとにつづこうとする。

 別府の身体は行人坂へと向いた。


 いっぽうの未堂棟は、しゃがみこんだままである。

 柔らかい声が右耳にとどいた。

 左目がひらいているらしい。背中で未堂棟の声をきいた。


「――佐々木さんは撲殺されていたのに、大村さんは刺殺されています。下手人はどうして殺し方を使い分けたのでしょうか?」

 六回目だ。未堂棟の示唆をきいて、足をとめた。もう一度、死体を見つめ直した。左胸の傷口は、えぐられている。鋭利な刃物で殺されたことを示している。

 もしかしたら、下手人は佐々木を殺したときに、彼のもっていた刀を奪い、そのまま土倉へと来たのかもしれない。そう考えれば、凶器がことなっていたことも納得できる。一人目を殴り殺したあと、現場でべつの凶器を手にいれたのである。


 大村の死体には、もっと重要な手掛かりがのこっているかもしれない。

 別府は傷口を間近に見た。

 真剣に検分するあまり、未堂棟の行動を見ていなかった。気づかなかった。


 未堂棟は、みずからの羽織から豆皿をとり出していた。

 すでに、大村昌村の身体から、重要な証拠を回収していた。

 被害者は小杯をもっていたのである。小杯は酒を飲むときに用いるものだ。

 上衣のあいだにはさまっていた。

 中身は酒ではない。蛇崩池の濁り水でもない。


 透明な水がはいっていた。


 未堂棟は小杯の中身を豆皿に移した。豆皿をふたつ、もっていた。


 片方の豆皿には、佐々木の握っていた透明な水がはいっている。

 片方の豆皿には、小杯のなかの水がそそがれている。


 佐々木五郎の死体、大村昌村の死体……。

 未堂棟にとって、この透きとおった水の回収は、二回目だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る