第28話 涙

 それから、数日後。

 五十嵐の案件は、完了。

 不倫に加えて、未成年を金で操ろうとしていたという事実を添えてネットに晒すと、瞬く間に拡散され、逮捕に至っていた。

 

「ここまで、拡大するとは正直思わなかったな」

 灰本から出てきた感想はそれだった。当然の結果だという感想が来るかと持っていたから、その反応は意外だった。

「なんでですか?」

「五十嵐はその辺に転がっていそうな、いたって普通の一般人だった。そういう奴をいくら晒しても、大体が小火くらいで、消えてしまう。逮捕に至るのは、珍しい」

「あぁ……確かに」

 以前私が持ち込んだ案件は、今回の五十嵐よりも悪質で酷いものだった。

 あの当時は、マスコミが大騒ぎしてくれたから、それなりのすっきり感を味わえた。しかし、よく考えてみれば、未だに相手は逮捕にまで至っていない。相手の両親は、社会的地位があるから、それを駆使しているのかもしれないが。この結果に関しては、正直不満はある結果になっている。

 それに比べて、五十嵐に関しては、申し分のない。

 杉山が依頼料を支払いに来た時の顔は、意気揚々としていて、成功報酬が上乗せされし、風のように去っていった。依頼を受けた当初の私ならば、小躍りしていたところだろうが、今はすみれの処遇が気がかりで、素直に喜ぶこともできずため息に変わっていた。


「すみれさん、大丈夫ですかね……」

「警察も無能じゃない。当然、すみれも不問というわけにはいかないだろう。取り調べも受けることになるはずだ」

「ですよね……」

「彼女の取り調べをするであろう警察署に、俺が警察にいたときの同期が偶然にも配属されていたんだ。そいつは、青少年犯罪専門で、子供扱いがとんでもなくうまい。何人も更生させてきた敏腕刑事だ。俺からそいつに連絡を入れて、すみれをちゃんといい方向へ向かせるように説得しておいてくれと、頼んでおいた。任せろと快諾を得ているから、心配ないだろう。すみれにとっても、いいきっかけになるはずだ」

 灰本は、さらっという。私は、思わずデスクのパソコンを見つめている灰本の横顔をまじまじと見つめていた。

 飄々としている灰本からは、特段何かしてやったとか、押しつけがましさは何も感じない。

 やっぱり、なんだかんだ言って。

 私の口元は、自然と緩んでしまう。

 

 私は、コーヒーを入れるためにパーテーション奥へと足を向ける。

 二人分のカップ。白い私専用カップにはいつものインスタントコーヒー。青い灰本用のカップには、一人用のドリップコーヒーを設置した。電気ポットに水を入れて、スイッチを入れる。ぐつぐつ沸騰していく音が響いた。

 

 車の中で、すみれを説得していた時、灰本は言った。

「俺だったら、君を助けなかった」

 五十嵐の尾行にもしも、灰本が一緒だったとしても「放っておけ」と、冷たく言い放っていただろう。

 でも、きっと。

 灰本は口では突き放すようなことをいっていても、結局何かしら行動を起こしたはずだと思う。

 少なくとも私が見てきた灰本はそういう人間だ。

 本当に素直じゃない。

 回りくどい優しさに、苦笑してしまう。

 沸騰し終わったお湯。先に私のカップに適量入れた後、ドリップコーヒーへ少しずつ注いでいく。

 いつもよりも深い香ばしさと華やかな香りが、胸いっぱいに広がった。

 カップを灰本の机へそっと置く。パソコンへ向けていた視線がカップの中身を通って、私に移動していた。


「いつもはインスタントなのに、どういう風の吹き回しだ?」

 色々と目敏いが、こんなところまで気付くとは。

「よくわかりましたね」

 目を丸くしていると「香りだけでわかる。いつもと全然違う」という。へぇと感嘆の声を上げるしかない。

 何というか、私とは出来が色々と違うんだろうなと思ってしまう。

 

 自覚のある自己肯定感の低さが、私の顔に重りを付けたように自然と下へと向けさせる。

 昨夜、すみれを助けようとしたとき。私は、馬鹿の一つ覚えのように、五十嵐へ文字通り突っ込むことしかできなかった。これが、もしも灰本だったとしたら、あんな騒ぎにもならず、さらっとすみれを助け出すことができたのだろう。

 暴走列車とか、猪突猛進の獣だとか、灰本から散々言われて、いちいち頭に来ていたが。全部的を得ていることは、ちゃんとわかっている。

 

「あの……すみませんでした。この前は、約束破って勝手な行動を」

 腰を折り、深々の頭を下げる。

 ぎしっと灰本の椅子が軋んだ。謝罪のコーヒーか、という呟きとともに、パソコンへ向かっていた体が、こちらへ向けられる気配がする。ふうっと溜息が、流れこんでくる。

「もう、ここまでくると病気だな」

 返す言葉もない。

「お前がきてからというもの、半日足らずで終わっていた仕事が終わらなくなったし、余計な面倒ごとを持ってくるし、散々だ」

 今言っていることは、ごもっともだ。

「だが。見方によっては、お前のやっていることは、ある意味正しいのかもしれない」

 下げ続けていた頭が、灰本の言葉で自然と引き上げられてしまう。胸の奥にふわっと温かいものに包まれる。

 今、私のことを褒めてくれたのだろうか。いや、今のは、幻聴かもしれない。

 顔を上げて、まじまじと灰本を見つめると、むすっとした顔をしていた。

「自惚れるなよ。怒りを通り越して、諦めの境地に達したという話だ」

 ぶっきらぼうに言い放って、回転式の椅子はくるりと背を向けてしまう。

 その椅子の背もたれの奥から、言葉が続いた。

 

「今までの俺のやり方は、表面上だけ取り繕えばいい。面倒なことになりそうだったら、手を引けばいい。相手に感情移入していたらキリがない。効率的に仕事をすることが大事だ。そうやって、割り切ってやってやっていけばいいと、思っていた。……だが、今思い返してみれば、本当はそれだけじゃ足りなかったのかもしれないと、考えさせられている。……柴田を見習うべきところは、意外とあるのかもしれないと、思ってる」

 

 散々、怒られるだろうと覚悟しながら謝罪を切り出したのに。

 完全に油断していたところに、すっと手を差し伸べるようにそんなことを言われるなんて。

 思いがけない言葉が、ものすごい勢いで胸に迫ってくる。

「お前の考えや思いは、間違ってはいない。むしろ、正しすぎるくらい正しい。だから、理解してくれる人なんて、誰もいないと思うな。お前は一人じゃない」

 その言葉が胸の奥に詰まる。その途端、目頭と鼻の奥が細い針で刺されたように痛んだ。

 

 そうだ。私は、あの日からずっと一人だと思っていた。

 妹が――陽菜が死んだその日。繋がっていた家族という名の糸が、切れた。

 陽菜を苦しめた奴らに報復したい。報復が許されないというのなら、相手が生きている限り、追い詰めてやりたい。泣いてばかりで、何も動こうとしない両親に向かって、何度も叫んだ。でも、私は受け入れてくれなかった。

 むしろ、もう黙っていろと、頬を叩かれた。

「お前がそんなに喚いて騒ぎ立てていたら、陽菜が可哀そうじゃないか!」

「そうよ……せっかく、苦しみから解放されて、平穏を手に入れたというのに。そんなに五月蠅かったら、静かに眠れないじゃない」

 私には、二人が言って意味が全く理解できなかった。

 死んでしまえば、平穏なんてあるはずがない。その死の瞬間、陽菜がどんな思いを抱えていたのか、いちいち問いかけなくたって分かりきったことだ。

 苦しくて、悔しくて、どうしようもないくらい辛かった。希望を見いだせないほど、真っ暗な世界に追いやられていた。

 それを、どうして美化しなきゃいけないのか。陽菜の晴らせなかった悔しさを、誰かが引き継ぐべきで、その役目を背負うのは家族しかいないじゃないか。

 絶対そう思うのに、私を理解してくれる人なんて、誰もいなかった。当時、私が通っていた高校の担任も「がんばって前を向くんだぞ」と、妹の死の意味なんて何も考えず、そういった。私を理解してくれようとしてくれる人は誰もいなかった。

 だから、もう諦めていたのだ。自分を理解できるのは、自分だけだと。信じられるのも、自分だけ。そう言い聞かせて、生きてきた。

 それなのに。自分でも気づいていなかったこの身を締め付けていた糸が、プチっと音を立てて切れる。


「そこは、ちゃんと肝に銘じておけよ」

 背を向けていた椅子が動いて、少しだけこちらへ視線を送ってくる。普段感情をあまり出さない灰本が、驚きを隠せずにいる。その、動揺を隠すように、すぐにデスクの正面へ戻っていった。

 視線も、顔も、パソコンへと向けられる。だけど、その横顔はいつものポーカーフェイスとは違って、居たたまれないような顔で、落ち着きなさそうに頭をかいたりしている。

 そんな風にさせたのは、私のせいだと自覚はあったが、どうしようもなかった。

 

 人前で泣くなんて、物心ついたころから一度もなかった。陽菜が死んだときでさえも。それなのに、次々と涙が勝手に溢れて、零れていく。

 この涙の意味はなんだろう。嬉しさなのか、安堵なのか、情けなさなのか。それとも。理解してくれようとしている人がいると知れたからなのか。

 自分でも、こんな状態になってしまったことが、よくわからない。

 

 急いでパーテーションの裏に逃げ込んだが、なかなか涙が止まらなかった。

 今日は、来客のない日でよかった。

 それからたっぷり時間をかけて、気持ちを落ち着かせる。

 その時、事務所のドアをノックする音が聞こえた。涙の跡を急いで消して、顔を出す。

「今日、約束なかったですよね?」

 尋ねると、灰本はドアへ目線をやりながら頷いていた。

 先程とは一転、警戒心が前面に出て、ピリピリした空気を身にまとう。

「俺が出る」

 灰本がドアの方へ歩き出す。私もそのあとを追う。

 そして、静かにドアは、開かれた。

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