第11話 ベニート

 翌朝。布団から出て、顔を洗う。しばらくしてから、私は春香へ連絡を入れた。

『今朝、体調悪くて病院に行ってきた。検査したら、今流行りの感染症にかかっちゃったみたい。今日は大学休むね』

『マジ? 大学終わったら、食べ物差し入れしに行くよ』

『微熱くらいで、症状は軽いの。しばらくひきこもることになると思うけど、食料は調達してあるし、準備万端。春香は、喘息持ちでしょ? うつって重症化でもしたらそれこそ大変なんだから、絶対来ちゃダメだよ』

『わかった。じゃあ、頻繁に連絡頂戴ね。体調に何か変化があったら、すぐ教えてよ』

『了解』

 

 一通りのやり取りをして、準備のためにクローゼットへと向かった。

 昨夜のうちに、今夜の会場である『ベニート』を検索済。店の雰囲気は把握している。

 貴族の隠れ家を思わせる重厚な雰囲気を漂わせるバーとなっていた。ジーンズにスニーカーという軽装では、完全に浮いてしまうだろう。周りに馴染む程度の服装でいかなければ、怪しまれてしまう。

 普段、スカートなんて無縁で、気蓮進まないが、我慢するしかない。私がやるべきことは、浅川美咲の正体を暴き、証拠を手に入れることだ。自分を殺し、それだけに集中すればいい。

 ブラックの膝丈ワンピースに袖を通した。


 ずっと使用している大きなトートバッグから、必要最低限のものだけ確認して、黒のショルダーミニバッグへ移ししかえていく。教科書やノートを避けて、財布、スマホを入れる。会場入りした後は、ずっとスマホで録音し続けるつもりだから、充電が足りなくなる可能性もある。モバイルバッテリーも必須。それだけ入れたら、もう何も入りそうになかった。

 小柄なお洒落なバッグというものは、恨めしいほど収納量が少ない。

 パンパンになっている見た目くらい、私の中に不安が膨れ上がりそうになる。

 ダメダメ。無心だ。両手でパチンと頬を叩いた。気合いを入れ直す。

 トートバッグを仕舞おうと、手を伸ばしたら、バッグが横倒しになって、中身がバラっと出てきた。

 そろそろ、口がちゃんと閉まるものに新調しよう。ふうっと息を吐きながら、中身を元に戻していく。最後のノートを手にすると、その下から、昨日放り込んだ灰本の偽物の名刺が出てきた。

 

 無意識に、私はそれを手にして、灰本が書いた名前をなぞる。

 昨日は、大久保からクレームが入ったから、来たと言っていた。しかし、よくよく考えてみれば、灰本にとって大久保のクレームなんて、痛くも痒くもなかったはずで無視してもよかったはずだ。それなのに、わざわざ私のことろへやってきた。普段、用がないときは、事務所を畳んで警戒を怠らないような人間であるにもかかわらず。私は、名刺を親指と人差し指で弾く。

 あんなに冷たく粗暴な態度や言い方だけど、本当の彼は、そうじゃないのかもしれない……なんて、そんなことを思ってしまうのは、私がそう思いたいだけか。

 本当のところは、もうわからない。彼とはこの先、会うこともないだろう。もう関係のないことだ。灰本の名刺を机の上に置く。


 

 全身の酸素を吐き出し、余計な思考は排除して、洗面所へと向かった。

 鏡に映った自分自身を睨み、頭を中を整理していく。


 今回のイベントの参加人数は不明。ホームページを見た限り、愛犬会は二十人程度メンバー程度。全員集まるということは、恐らくない。多くて、半分くらいか数人程度だろう。

 浅川美咲はどう動くか。

 まず、浅川は、集まった女性たちの中から、真犯人に捧げるための女性を決めるだろう。

 実際に狙われた亜由美は、モデルのような美しさを兼ね備えていた。ならば、私は、亜由美と似たような女性に張り付き続ければいい。その間、私は一切飲食しないように気をつける。みんなは酒も入って、盛り上がることだろう。

 そうこうしている間に、浅川はどうにかして、ターゲットの女性へ食べ物、飲み物に薬を混入。様子がおかしくなったターゲットに浅川は声をかけ、亜由美と同じような手口で、店の外へ連れ出すはずだ。

 その後は、直接犯人の手に渡るか、運び屋によって連れていかれる可能性が高い。

 

 私は、その瞬間の写真を何としても手に入れ、警察へ通報。そして、相手が車であれば、タクシーを拾いその後を追う。徒歩ならば、気付かれないように尾行。

 その先で、真犯人を見極められるはずだ。その現場も押さえつつ、すぐに飛び出し思い切り騒ぐなりし、警察がやってくるまでの時間稼ぎをする。


 まずは、いいイメージだけを頭に強く刻みこみつつ、様々なパターンを想定していく。最悪のパターンも。

 鏡に映った自分へ、一層濃い化粧を施した。

 絶対に、うまくいく。絶対に崩れるな。成功のイメージだけを頭に刻み込む。

 自分を奮い立たせ、バッグを肩にかけ、家を出た。地下鉄へ乗り継ぎをして、六本木へと向かう。

 

 私には縁のない街だ。頭に叩き込んだ地図を開いて、歩いていく。緊張のせいか会場に行くまでの間、何人もの行き交う人と肩や腕がぶつかった。

 肩から下げているショルダーバッグが下がり、上げるを繰り返す。パンパンすぎるバッグが、ぱちんと音をたたて開いて文句を言ってくる。無理やり閉めながら、やっと会場前に辿り着いた。

 ゴクリと固唾をのむ。

 

 早速、第一関門だ。


 会場がある『ベニート』は、地下にある。その入り口に二人のガードマンらしき男が立っていた。

 思わず足が止まりそうになるが、無理やり動かす。怪しまれないように、自然に行けばいい。

 とりあえずガードマンを無視して、階段へと足を向けるようとした。その途中で、声をかけられた。

 

「『ベニート』は、誰かからのご紹介ですか?」

「はい。浅川美咲さんです」

 穏やかに、微笑んで見せる。つま先から頭のてっぺんまで、じろりと確認された後、そのまま通してくれるかと思いきや「少し中身をチェックさせてください」といわれる。

 どうぞと素直に口を開けて、中身を開いて見せた。

 何度か頷くと「中へどうぞ」とやっと通された。

 ほっと胸をなでおろしつつ、新たな緊張が生まれてきそうなのを、ヒールで踏みつぶす。スマホの録音機能を作動させ、ゆっくりと、狭い階段を下りていった。

 

 階段を下りた先は、すぐに店の入り口だった。その前に、中年ウエイターが立っていた。耳からイヤホンが見える。上で立っていたガードマンと繋がっているようだ。

「浅川様のご紹介だと伺いました。こちらへどうぞ」

 先導していくウエイター。その後ろをくっついていく。ネットで見た通りの店内で、心構えができており動揺はない。中は広々としていた。グループ客も何組か見られ、それなりの賑わいがあった。

 その騒がしさによって緊張感が若干緩和されたのだが、通された場所に私は目を見開いた。緊張感が、再び舞い戻ってくる。

 どうぞと、椅子を引いて促された先は、バーカウンターの端だった。

 

「あの、数人で集まると聞いていたので、ここだと少々狭いのでは……」

 バーカウンターは全部で七席ほど。しかも、そのうちの四席は、カップル同志で、すでに埋まっている。

 私がここに座ってしまえば、席は残り二人分しか残っていない。

「浅川様からは、今日はご友人が、お一人だけいらっしゃると伺っておりますよ」

 にこやかに言い置いて、去っていく。

 散々頭の中で組み立ててきたはずの作戦と心構えが、根本から覆される。

 私は、肺に残っている酸素をすべて吐きだす。

 


 

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