第四章:したたかな裏切り者
第23話 したたかな裏切者(1)
「文也、もう一軒行くぞ」
一月もあと少しで終わる寒い夜。俺は桜田さんと事務所近くの駅前商店街で飲んでいた。今は夜八時。一軒目の居酒屋を出たところだ。
「桜田さん、今日はこれぐらいにして帰りましょうよ」
「なに言ってる。今日は金曜の夜だぞ、明日は休みなのにこんなに早く帰れるか」
桜田さんとは奥さんと別れた一件が切っ掛けで、時々飲みに行く間柄になっていた。
桜田さんはフランクな性格で、親しくなった今では名前で呼ばれている。飲みに誘ってくるのも、必ず桜田さんの方からだ。
「じゃあ、また事務所で飲みましょうよ。時間気にしなくて良いから」
「おう、それが良いな」
俺の懐事情を知ってか、飲みに行くといつも桜田さんが奢ってくれる。食事代が浮くので有り難いが、頼り切ってばかりじゃ気が引ける。なので、遅くまで飲むことになりそうな日は、事務所に誘っていた。
「あっ、そう言えばつまみが何も無かったな。俺、コンビニで買ってきますから、先に事務所に行っててくださいよ」
俺はそう言って事務所の鍵を桜田さんに渡した。
「了解した」
桜田さんは敬礼しながら鍵を受け取る。
商店街を抜けて大通りに出ないとコンビニが無い。酔った桜田さんの一緒に行くのは余計に面倒なので、先に事務所に行って貰うことにしたのだ。
歩いてコンビニに行き、適当につまみを見繕って十分程で事務所に戻る。
「お待たせしました」
「おう、お帰りー」
事務所に入ると、応接セットのソファーに桜田さんと女性が座っている。女性は後姿なので、誰だか分からないが二十代ぐらいの雰囲気があった。
俺が帰って来たのに気付き、その女性も桜田さんと一緒に立ち上がる。
「お客さんが居たから、中に入って貰ったぞ」
桜田さんがそう言ったと同時に、背を向けていた女性がこちらを振り返る。
「あっ……」
女性が誰だか分かり、俺は驚いた。彼女の名は佐々岡凛子(ささおかりんこ)いや、今は大川凛子(おおかわりんこ)になっているのか。このなんでも屋を俺と一緒に立ち上げた大川の妻で、奴が自分勝手にここを辞めて行った時に、俺を捨てて一緒に出て行った元カノだ。
「お久しぶり、文也君」
タイトスカートとハイネックのニット、腕にカシミヤのコートを持って佇む姿は、記憶にある凛子よりずっと大人びて、元々の美人に磨きが掛かっていた。俺がデニムにスニーカーを履いて、ダウンジャケットを着ているのとは対照的だ。
「俺はお邪魔みたいだから、あっちに行って一人で飲んでるわ」
桜田さんがそう言ってくれたので、俺は「すみません」と返して、手に持っていたコンビニの袋を手渡した。
「どうしてここに来たんだ?」
桜田さんが居住スペースに行ったのを確認して、俺は凛子に近付きそう訊ねた。
「電話したけど繋がらなかったから。この時間ならここに居ると思って来て見たの」
そう言えば、大川と凛子はブロックしているので、直接来ないと連絡の付けようが無かった。
「用件は何?」
俺は凛子の向かいに座り、煙草をダウンジャケットのポケットから取り出し、火を点けた。
「文也君は変わってないね」
凛子も俺の前に座る。
「お前や大川は変わったって言うのか?」
聞かなくても服装を見れば分かる。俺よりずっと落ち着いて裕福な暮らしをしているのだろう。
「頼みたいことがあるの」
意外なことを凛子は言う。俺に頼み事など出来ない立場なのは、本人が一番よく分かっている筈なのに。
「冗談だろ?」
「なんでも屋でしょ? なんでもやりますって看板にも書いてあるし」
「仕事を頼みたいのか?」
「仕事……仕事なら引き受けてくれるの?」
しまった。仕事か? なんて聞かなきゃ良かった。
「いや、仕事なら他の業者に当たってくれ。俺にも客を選ぶ権利がある」
曖昧な態度じゃ付け込まれる。仕事だと言われても断らないと。
「文也君じゃなきゃ駄目なの」
ほら来た、最悪だ。他の業者じゃ駄目なのは、プライベートに関することだからだろう。そうなると奴も絡んでくる筈だ。
「嫌な予感しかしない。俺は受ける気ないから、諦めてくれ」
俺はそう言ってソファから腰を浮かせようとした。
「隆一君が出て行ったの」
「えっ? 大川が?」
凛子の意外な言葉に、俺の動きが止まる。
「お願い、もうあなたしか頼れないの。私の言葉はもう聞いても貰えない。でも文也君ならきっと話が出来ると思うの」
「どうしてあいつが出て行ったんだ?」
聞かなきゃ良いのに、俺は聞かずに居られなかった。
大川が俺から奪っていった凛子の元を去って行く理由が分からない。
「隆一君はリサイクル会社に就職し、ノウハウを習得したらすぐに独立したの」
確か、大川は高級ブランド品を主に扱うリサイクル会社に就職した。昔は質屋と呼ばれていたのだろうが、今はブランド品買取店としてイメージも良く、街でもよく見掛ける。
野心家である大川のことだ、ノウハウを習得したら独立は十分にあり得る。
「最初に立ち上げた店が成功して、隆一君はその店を拠点に次々支店を増やして行ったの。結婚式は挙げて無いけど、籍は入れてくれて幸せだったわ」
結婚すると手紙が届いたのが一年半ほど前か。結婚の文字を見てすぐに破いたので、何を書いてあったのか分からない。でもその時点では、幸せに暮らしていた筈なんだな。だったらなぜ大川は凛子の元を去っていたんだろうう。
「店が一店舗、一店舗と増えて行く度に、隆一君が家に帰ってくる日が減って行ったの。理由を聞いても忙しいからとしか言わない。順調なんだったら、少しはペースを落としたらと言っても、全然聞いて貰えなかったわ」
「浮気でもしていたのか?」
「それは分からない。そんな気配は感じ無かったし、興信所に頼むにしても、お金は隆一君が管理しているしで無理だったの。そんな日が続いて行くうちに、とうとう家に帰って来なくなった……理由を聞いてもいい加減な返事ばかり。生活費を口座に振り込んでくれるだけの繋がりになってしまったの」
駄目だ。これ以上は聞くな。関わり合いになる義理など、これっぽっちもない。むしろ、どの面下げて俺に頼みに来れるんだよ。
「お願い。お金は少ししか用意出来ないけど、引き受けて欲しいの。隆一君もあなたの言葉ならきっと聞いてくれる」
目を伏せ、微かに震える凛子は昔より小さく見えた。着ている服は大人びたけれど、俺と付き合っていた時よりも小さく心許ない。
いや駄目だ。同情するな。自分がされた仕打ちを思い出せ。
「お金が無いなら、無理だな。仕事なんだから」
凛子が驚いて顔を上げる。恐らく俺の性格なら引き受けると思っていたのだろう。
「どうして……」
「お金の問題なら、俺が出しても良いぜ」
凛子の声を遮るように、奥から声が掛かる。
声の方を見ると、生活スペースの仕切りから桜田さんが出てくる。
「桜田さん、あなたは関係ないでしょ」
「だって可哀想じゃねえか。お金の問題なら俺が出してやるから、引き受けろよ」
桜田さんは俺の横に来てソファに座る。
「全然知らない女に出してやるほど安い金額じゃないですよ」
俺は桜田さんの気持ちを変えようと、少し脅してみた。
「嫁さんと別れた時に、間男からぶん捕った慰謝料があるんだよ。ヨリを戻したら返してやろうと取って置いたんだが、必要なくなったからな。こんなケチの付いたお金なんて早く使っちまいたいのさ」
「ありがとうございます」
凛子は引き受けて貰えると思って、もう笑顔になっている。
「酷い旦那だな。ちゃんと話し合いして決着を付けられると良いな」
「はい」
さあ、どうする? 断る理由が無くなったぞ。
「さあ、早く契約してやりなよ。前金が必要なら、今すぐコンビニ行って下ろしてくるぞ」
「分かりましたよ。桜田さんを信じてますから、前金は明日でも構いません。契約書作るので待っててください」
俺はデスクに行って、パソコンを立ち上げ、契約書を作り始めた。凛子と桜田さんは、笑顔で世間話を始めている。気楽なもんだな。
「仕事内容は大川と連絡の仲介。奴に凛子と話し合いをしたくないと言われれば、それ以上は何も出来ません。それで良いですね?」
作り終わった書類を見せて、俺は契約者である桜田さんに同意を求めた。金額を見て気が変わるようにと、少し吹っ掛けた料金に設定してある。
「それで良いの?」
桜田さんは凛子に訊ねる。料金は全然気にしていないようだ。
「良いんですか? この金額で」
「俺は構わねえよ」
念押ししたが、桜田さんの気持ちは変わらないようだ。
「隆一君を連れてきてくれないの?」
「本人が拒否すれば無理だ。無理やり連れて来ることは出来ないよ。俺に出来ることは、凛子に連絡するように言うだけ。もちろん大川が会うと言うなら、セッティングはするよ」
凛子はまだ不満そうだったが、小さな声で「分かった」と同意した。
「大川の連絡先など分かることは備考欄に書いてくれ」
俺はもう半分自棄になっていた。俺が契約書を差し出すと、凛子は必要事項を書き込む。
「じゃあ、ここにサインをお願いします」
「おう」
最後に桜田さんが契約書にサインし、俺はコピーした控えを二人に渡した。結局、大川と凛子の橋渡しの仕事を引き受けることになってしまった。
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