第九話    異国の拳法少女・シェンファ ③

 終課(午後九時)の鐘が鳴り終わってから一刻(約二時間)が経過しただろうか。


 それでも大広間のテーブルには絢爛豪華な異国料理が並べられ、シチューやポタージュが盛られていた陶器の皿からは食欲をそそる匂いが香っている。


 大勢の使用人が運んできた豪勢な異国料理に満足したシェンファは、様々な料理が並べられたテーブルの上座に座っている二人の人物を交互に見た。


「うむ、やはりローレザンヌのワインは美味いな。それにこのシチューも最高だ」


 などと顔を真っ赤に染めて料理を褒めていたのは、シェンファと同じ黒色のアオ・ザイを着用した恰幅のいい初老の男だ。


 シェンファの叔父である、貿易商人のリ・ケイリンである。


 前頭部の髪を綺麗に剃り落とし、残った髪を後頭部の位置から三つ編みにして垂らす弁髪べんぱつという独特の髪型をしている。


 また商人としての威厳を保つために立派な口髭と顎髭を結わえていたのだが、未だ料理を堪能しているケイリンのひげには料理の食べカスがこびりついてお世辞にも威厳を保っているとは思えなかった。


「そうかそうか。ワインや料理はまだまだあるから遠慮せずに飲み食いしてくれ」


 そんなケイリンの対面の席には、詰め物入りの胴着の上から厚手のコートを羽織った亜麻色の髪をした男が座っていた。


 黒目がはっきり見えないほどの糸目にシン国では珍しい鷲鼻。


 顔中に刻まれた皺などにより年齢はケイリンと同じく五十代だと分かる。


 ロレンツォ・ドットリーニ。


 商業都市と呼ばれるローレザンヌの中でも有名な貿易商人であり、ケイリンとは十余年の付き合いがあるという。


 だがシェンファから見れば体型や背丈も似ているケイリンとロレンツォは〝毛並みが違う狸たち〟としか思えなかった。


「叔父様、そろそろお酒を飲むのは控えたらどうです?」


 下座に座っていたシェンファは上機嫌で酒を酌み交わしているケイリンに言った。


「馬鹿者。久しぶりに顔を合わせた友人と酒を飲んで何が悪い。それに数刻前の一件を考えたら飲みたくもなるわい。お前が怪我させた貴族たちにどれだけの慰謝料と治療費を支払ったと思っているんだ」


「うっ……そ、その件については今でも悪いと思っていますよ」


「だったら酒くらい好きに飲ませろ。なあ、ロレンツォ?」


 話を振られたロレンツォは「そうだとも」と同意してワインを口に含んだ。


「こうして国が違う友人と酒を飲めるのは実に嬉しいことだ。最近は何かとローレザンヌも物騒な事件が続いているから気晴らしにもなるしな」


「物騒な事件? ローレザンヌは都市法が他の都市よりも徹底しているから物騒な事件など滅多に起こらないだろ?」


 ケイリンが尋ねるとロレンツォは深々と溜息を漏らした。


「それがそうでもない。五年振りにローレザンヌに来たお前は知らないだろうが、この五年の間にクレスト教の異端者を暗殺する〈黒獅子〉という殺し屋が出没してな」


「それは本当に物騒な話だな。クレスト教を批判した人間は殺されるってことか?」


「ああ、ただし〈黒獅子〉は異国の風習や文化に興味を持っている人間の前にも現れるんだ。そう、俺たちのように様々な異国の商品を扱う商人の前にな」


 ロレンツォは激しく舌打ちすると、カップをテーブルに叩きつけるように置いた。


(殺し屋ねえ……やっぱり夜の闇に紛れて襲ってくるのかしら?)


 二人の会話を何気なく聞いていたシェンファは、料理の締めとして出された豚肉とえんどう豆のプティングと呼ばれるデザートをスプーンで掬って口に運んだ。


 シン国に出没する殺し屋――主に金品も同時に奪う盗賊と称される人間たちは、数人または数十人規模の徒党を組んで昼夜関係なく山間部なので行商人を襲う。


 戦乱が絶えなかった昔ではそれこそ盗賊が出没するなど日常茶飯事だったという。


 ゆえに戦乱が集結した現在では街から街へ移動する行商人たちは保鏢ほひょう(護衛組織)に依頼し、武術に熟達した鏢師ひょうし(護衛人)を雇うのが当たり前になっている。


 また街中で起こる犯罪にも素早く対応するために、近年では数人の鏢師を街中に巡回させて大小関係なく犯罪を未然に防ごうという運きがシン国全土で活発になっていた。


 しかし、ここローレザンヌではどうなのだろう。


 悪逆非道を極める殺し屋や盗賊たちと立ち向かうほどの胆力と武力を持ち合わせた組織があるのだろうか。


「殺し屋か……しかしローレザンヌには修道騎士団という自治組織があっただろう。確かローレザンヌの中で堂々と武器を所持する許可を持った集団じゃなかったか?」


 ケイリンの言葉でシェンファは思い出した。


 今日の夕方近くに街中で些細な喧嘩沙汰を起こしてしまったとき、親切に事後処理を行ってくれた人間たちがいた。


 鈍色に輝く金属製の甲冑を着込み、煌びやかな装飾品が施された長剣を腰から吊るしていた、ソルボンス修道騎士団と呼ばれていた人間たちが。


「駄目だ駄目だ。あんな奴らは何の役にも立たんよ。根性を鍛え直させようと修道騎士団に入団させた俺の二番目の息子がいい例だ。騎士団の大半は家督を受け継げなかった貴族や商人の次男か三男で主に構成されているから日々ろくな調練もしない。つまり、ほとんど当てにならないということだ。せいぜい酔っ払いが起こす喧嘩を止める程度だな。とてもじゃないが〈黒獅子〉を捕まえることなどできんよ」


「でも〈黒獅子〉という殺し屋は異端者だけを殺すんだろ? だったら特に気にする必要はないじゃないか? お前は只の商人なんだから」


 重く沈んだ空気を払拭しようと、空になったケイリンのカップにワインを注ぐ。


「ケイリン、お前はさっき言った俺の言葉を忘れたのか? 確かに〈黒獅子〉は異端者ならば容赦なく殺すが、異国の風習や文化に興味を持っている人物の前にも警告の意味も兼ねて現れるんだよ」


 ようやくロレンツォの言いたいことに気がついたのだろう。


 ケイリンは途端に陽気な表情から浮かない表情へと変化させた。


「その〈黒獅子〉がお前の前に現れたことは今までにあるのか?」


 ケイリンが尋ねると、ロレンツォは大仰に首を左右に振った。


「だが、いつ奴が現れてもいいように十分な金子を常に用意してある。万が一、〈黒獅子〉が目の前に現れても素直に引き下がってくれるほどの額をな。それを与えれば奴も俺に危害を加えずに退散してくるはずだ」


 ロレンツォの話を聞いてケイリンは首を傾げた。


 もちろん、シェンファもである。


 わざわざ殺し屋に金銭を与えるぐらいならば、金に物を言わせて凄腕の手練れを雇えばいいのではないか。


「ローレザンヌの商人ギルドを牛耳っているロレンツォらしからぬ気の弱さだな。たかが殺し屋の一人ぐらい傭兵を何人か金で雇えばすぐ捕まえられるだろう」


 シェンファもケイリンの意見に賛成だった。


 異国に貿易船を派遣させられるほどの豪商ならば、何十人単位で凄腕の護衛を雇えるに違いない。


 そうすれば素手の暗殺者の一人ぐらい簡単に捕まえられるはずだ。


「ふん、お前は〈黒獅子〉の強さを知らないから簡単に言えるんだ」


 ロレンツォはケイリンの意見を一蹴した。


「以前、俺の友人である商人が〈黒獅子〉を独自に捕まえようと何人もの護衛を雇った。市政庁が発行している許可書を高額な値段で購入してまでな。そして完璧だと息を巻いていたときに〈黒獅子〉が現れ……」


 途中で言葉を切ったあと、ロレンツォはカップに注がれたワインを一気に飲み干した。


「雇っていた傭兵たちは悉く返り討ちに遭った。そして〈黒獅子〉を捕まえようとしていた友人の商人がどういう運命を辿ったかは想像できるだろ?」


 怒りと恐怖を込めてロレンツォはテーブルを拳で叩いた。


 陶器の皿に盛られていたスープなどが衝撃で零れる。


「なるほど、そんな奴がローレザンヌのどこかに身を潜めて標的者を探しているのならお前も気が気じゃなくなるのは当然だな。しかし、こう言っては何だがお前は運がいい」


 意味深なケイリンの言葉にロレンツォは眉間にしわを寄せた。


「ロレンツォ、凄腕の護衛を一人雇ってみないか? もしかすると〈黒獅子〉とやらを捕まえられるかもしれないぞ」


「はっ、〈黒獅子〉を捕まえられるほどの人間など一体どこにいる?」


 鼻で笑ったロレンツォに対して、ケイリンはニヤリと笑ってシェンファを見た。


「そこにいる俺の姪でもあり護衛役のシェンファだ。彼女ならば〈黒獅子〉とかいう殺し屋を捕まえられるかもしれない」


 やっぱりね、とシェンファはこめかみを指先で掻いた。


 薄っすらと予想していたとはいえ、相変わらず叔父の無茶振りは健在である。


 自分の護衛として連れてきた姪を他人に貸し与えるとはどういう神経をしているのだろう。


 そして護衛の件を断ろうとシェンファが口を開こうとしたときだった。


「こんな可愛いお嬢ちゃんが〈黒獅子〉を捕まえる? ケイリン、〈黒獅子〉はこれまでに何人もの屈強な傭兵を返り討ちにした超一流の殺し屋だぞ。こんな嬢ちゃんが何百人いたところで何の役にも立たないさ」


 そう言うとロレンツォは喉仏が垣間見えるほど大口を開けて高笑した。


 大広間中にロレンツォ一人の笑い声が響く中、テーブルの下で拳を固く握り締めたのは中傷された本人のシェンファである。


 シェンファはテーブルを両手の掌で叩きつけて立ち上がった。


「ロレンツォさん。私が役に立たないかどうかは功夫こんふーを見てから決めてください」


「こ、功夫?」


 聞き慣れない言葉を聞いたロレンツォは高笑いを止めた。


 一方、席から立ち上がったシェンファは大広間の隅へと移動する。


 大広間にはテーブル以外の余計な調度品がなかったため、部屋の隅とはいえ結構な空間が設けられていた。


 不意にシェンファは立ち止まった。


 周囲を見渡してこれから行う動きの邪魔になるような物がないかどうか視認すると、気息を整えつつ両足を揃えて直立する。


 傍目から見ていたロレンツォは、シェンファが彫像品にでもなったかのような錯覚を覚えたことだろう。


 それほど両目を閉じて直立したシェンファは微動だにしなかった。


 しかしロレンツォがごくりと唾を飲み込んだ直後、シェンファはかっと両目を開けて自分の流派に伝わる套路を開始した。


 高価なタイル張りの床を滑るように移動し、前方に向かって鋭い突きを繰り出す。


 続いて三才歩さんさいほと呼ばれる歩法で身体の向きを変えると、今度は自分の頭部よりも高い位置に目掛けて左右の連続蹴りを繰り出した。


 シェンファの套路とうろ(武術の型)は終らない。


 蹴り足を引いた途端、シェンファは身体を深く沈めながら水面蹴りを放つ。


 次に素早く体勢を整えて天高く跳躍。


 空中で三回もの連続蹴りを仮想敵手に向かって繰り出していく。


 どれほどの時間が経過しただろう。


 小柄なシェンファが繰り出していく力強くも柔らかい動きの数々にロレンツォが言葉をなくしかけたとき、額に薄っすらと汗を滲ませたシェンファは行っていた套路の最終段階に到達した。


 前方に突き出していた両手を懐に引くと同時に右膝を上げ、「ッ!」という気合を発した直後に右足を床に叩きつけた。


 その瞬間、ロレンツォは大広間だけが地震に見舞われたと錯覚したことだろう。


 無理もない。


 渾身の気を込めて放った最後の震脚は凄まじい衝撃波を発生させ、陶器の皿ばかりか頑丈に作られていたテーブルさえも震わせたのだ。


 やがて套路を終えたシェンファは、気息を整えつつ両足を揃えて直立した。


「どうだ? 格闘術にうといお前でもシェンファの力量の凄さは分かっただろう?」


 呆然としているロレンツォにケイリンは得意げな顔で尋ねた。


「おい、彼女は一体何者なんだ? それに今のは……」


 しどろもどろに訊き返してきたロレンツォにケイリンは淡々と説明する。


「リ家に代々伝わる武術――〈煌虎拳こうこけん〉さ。鬆肩ファンソン(肩の力を抜いて柔らかくし)、勁道(理想的に力を発し)、手如流星(攻撃は流星のように迅速にする)を基本理念に鍛練するんだ。シン国の首都では実戦的な流派として有名なんだぞ」


 ケイリンは套路を披露したシェンファに親指を差し向けた。


「そんな煌虎門において、シェンファは九天玄女(闘争の女神)の再来と謳われるほどの使い手だ。まだ十六歳とはいえ多くの他流試合を勝ち抜いてきた実績もある」


「では、もしかすると彼女ならば〈黒獅子〉を――」


 続きの言葉は手の甲で無造作に額の汗を拭ったシェンファが紡いだ。


「煌虎門下の拳法家として必ず捕まえてみせますよ。ただし、私がこの屋敷に滞在している間に件の殺し屋が現れたらの話ですけど」


 などとシェンファが自信満々に片目を閉じて見せたときだった。


 突如、夜の闇を引き裂くほどの甲高い女性の悲鳴が聞こえてきたのは――。

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