第3話 過去からの傷み

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 タクシーの中でも黙ったまま、俺も深田もお互いの手を握りしめていた。あの奇跡の歌を聞いたもの同士は、きっと俺たちと同じように言葉はいらないだろう。そう感じた。

「私たち、あの奇跡の歌を一緒に聴けるなんて」深田はそう言って一層手を強く握りしめた。

 雨が降り出した。行く予定だった48丁目のインド料理店はもうすでに閉店時間だった。そのまま34丁目まで行き、韓国料理の店で遅い夕食を食べた。

「なぜあんな歌が歌えるの? もしあの歌を世界中の人が聞いたら戦争なんか起こらなくなるんじゃないかしら」確かにそうだ。俺は熱いスンドゥブチゲをすすりながらそう思った。

「だけど毎回あのような奇跡の歌を歌えるのかなぁ。だとしたら彼は間違いなくスーパースターになる」

「でもそうなると変わってしまうような気がするわ。プロになるわけだし、見る方も先入観念が違ってくると思うから」

「だとすると俺たちは今夜、2度と聞くことのできない、まさに奇跡の歌を聞いたんだ」

 運ばれてきた料理を分け合いながら、他の誰とじゃなく深田と聞いたことも俺には奇跡のように思えた。成人式以来おそらく10年は会わなかった幼馴染が再会し、おまけに俺の憧れだった彼女とだ。

「私にとってね、早瀬くんと聞いたことも奇跡に思える。私ね、中学の頃、早瀬くんが好きだったのよ。早瀬くんを見てるといつもなぜかハラハラしてた。何かと危なっかしい子だったもん。更衣室で目と目が合ったのも忘れてない」

 俺はめまいがして倒れるかと思ったぜ。実際、言葉が出てこなかった。多分、ただ驚きすぎた目で深田を見るというより睨んでいたように思う。

「懐かしいなぁ。だから成田空港で、嘘~なんでここに早瀬くんがいるの~って。びっくりよ。でも嬉しかった。今さらね。おばさんになって告白しちゃいました」そう言ってあの優しい笑顔を見せた。

「深田はおばさんじゃないよ。今でも綺麗だよ」

「ありがとう。嬉しい」

「俺は昨日、流れで告白しちゃったからなぁ」

「なんで中学の時に言ってくれなかったの?」

言えるわけないだろう。何もかもダサダサの俺が、学校1可愛い深田に。

「また~。ちゃんと言葉に出して言って」

「あの頃は、まぁ今もだけど、今よりもっと何もかもに自信がなかった。だって俺はむしろ深田は俺みたいなやつを嫌いだろうと思い込んでた」

「どうして?」

「深田は優等生で誰からも好かれてて、おまけにとびきり可愛かった。逆に俺は先生には怒られてばかりいたし、いたずらばかりしてた。ケンカもよくしてた。そしていつも鼻血が出て負けてた。笹野の子分みたいに思われてた」俺はため息が出た。あの頃の俺を全て消したかった。なんだか気分まで中学時代に戻ってしまい沈みかけた。目の前で微笑んでる深田まで中学時代のあの遠い存在に思えてきた。

 

 グランドハイアットニューヨークのバーに向かうタクシーの中でも気持ちは落ち気味だった。

『おい、過去に落ち込んでる場合か?全ての運命を変えるチャンスだぞ。彼女はお前が好きなんだ。過去まで変えられるぞ。もうお前は弱くないんだ。』久しぶりに亀吉が囁いた。

 繋いでいた手をいきなり強く握りしめたらしく深田が「痛い」と俺の顔を見て言った。

 

 並んでカウンターに座りギムレットを注文した。バーテンダーが作るギムレットがカクテルグラスに注がれ、目の前に置かれた。俺は思い切って言った。

「まだ遅くないかなぁ。告白するの」

深田はカクテルグラスを見つめていた。

「遅くない」

「俺、深田のこと、好きなんだ。今でも。そしてきっと明日も。明後日も。その先も。今まで以上に」深田はゆっくりこっちを向いた。

「ありがとう。嬉しい。私もあなたのことが好き。明日も。明後日も。その先も。今まで以上に」

      


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 今夜はギムレットでも酔えなかった。24階の部屋まで行く勇気にはなった。でも思ってた以上に十分に酔っていたのだ。夜中に喉が渇き起きた時、2人の服がベッドの周りに散乱していた。ベッドライトの傍に置いてあるウオーターボトルからコップに水をそそぎ、一気に飲み干した。シーツを体に巻きつけたままバスルームに行った。鏡に映った自分の顔が不思議と力強く見えた。今回のバケーションをニューヨークに選んだのは何かの導きか、潜在意識の閃きか。

 ベッドに戻ると深田はシーツにくるまり目を開けて俺を見た。まるで中学生のように幼く見えた。その無防備さが闇に青く輝くフェルメールの絵のようだった。そっと隣に滑り込むと身体を寄せてきた。抱きしめると彼女の上半身は冷たくなっていた。危なげで壊れそうで消えてしまいそうなほど小さく感じた。今彼女はソックスと話しているのだろうか。彼女のこれまでの人生でどれだけの悲しみがあり、傷みがあり、ここにたどり着いたのだろう。

 彼女の思いが俺の背中に爪を立てた。お互いが一瞬、太古の波に打たれ、うちあげられた。彼女の唇が震え、悲しそうな声がもれた。俺は彼女の髪にうもれた。

 窓の外はうっすらと明るくなってきていた。2人シーツにくるまったまま窓の外にそびえ立つビルを見ていた。

「先に日本に帰りたくないなぁ」そう静かに深田はいった。少し声がかすれていた。俺は黙ったままでいた。深田はシーツを巻いてバスルームに入って行った。俺はまた眠りに落ちた。

 目がさめると明るい窓の日差しが部屋を満たしていた。深田は身支度をしてソファで何かを書いていた。俺の服は綺麗にたたまれベッドの側の椅子に置かれていた。時計を見ると8時を回っていた。

「おはよう。何時に出発するの?」

「あっおはよう。一度ホテルに戻るから9時頃には出るわ」

「何か食べる? ルームサービスで何か頼もうか?」

「ううん、何も食べたくない。コーヒーとさっきこのチョコレート頂いた。深田くん何か食べて」

「俺もまだ食べたくない。コーヒーが飲みたい」深田がコーヒーを入れてくれている間に服を着て洗面所で顔を洗った。深田の隣に座り2人で熱いコーヒーを飲んだ。深田は俺に軽くキスをしてから、俺の唇についた口紅を指で拭って微笑んだ。素敵な微笑みだった。

「この2日間あっという間だったわ。早瀬くんと再会できて本当に素敵なニューヨークになった。そして過去まで変えられた」

「それは俺のセリフだぜ。過去が少し好きになれた」

 深田は部屋を出るとき、ここでいいと言ったが、俺は玄関ロビーを出てタクシー乗り場まで見送った。タクシーが来ると「これ後で読んでね」そう言って手紙をくれた。タクシーに乗り込むと「それじゃまた」と作り笑顔でドアを閉めた。俺が小さく手をふると彼女も小さく手をふった。そして少し悲しい顔をした。タクシーが君をのせて遠く消えてゆく42nd St.俺はまたここで1人佇んでいる。

 


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 切ない気持ちで深田との2日間の余韻に浸りカフェでかなり味の濃いフレンチトーストを食べながら深田の手紙を読んだ。

[早瀬くんへ。せっかく交換したラインメールでもよかったのですが、きちんと手書きで伝えたくて手紙にしました。今、昔のままのやんちゃな顔で寝ているあなたの顔を見ながら書いてます。なんか変ですね。(笑)私はとってもときめき癒され、本当に素敵な2日間でした。中学校時代早瀬くんに片思いしていたことや、2ヶ月前の嫌なことを全て塗り替えてくれました。ありがとう。まさか早瀬くんが私のことを思ってくれていたなんて驚きでした。今が変わると、過去は変われるんですね。昨夜のこと、いや、もう朝方だったわね、とにかく幸せで粉々になりそうでした。早瀬くん起きたから書くこと忘れちゃった。じゃまた東京で。連絡待ってます。 香より]

 おそらく顔がにやけていた気がした。2回目を読んでいると携帯電話にメッセンジャーメールが入った。開いて見ると会社の同僚からだった。今話したくないベスト3に入るやつだ。理屈っぽくて、皮肉屋だが外見はイケメンである。なまじ仕事ができるから上司からの受けもよく、同期の中ではリーダー的存在だ。なぜか俺に馴れ馴れしい。めんどくせーと思いながら内容を読むと、タイムズスクエア近くのマリオットホテルのロビーにあるショップで自由の女神の小さな置物を買って来て欲しい。僕にはこの形、上司にはこの形、もちろんお金はちゃんと上司のぶんも僕が払うよ。との内容だった。

 ふざけんな。必ず俺がお金を受け取れないような状況に持っていくんだろうが。いちいち腹のたつやつだぜ。お前の分は絶対にもらうからな。いっぺんに現実に戻るじゃないか。そう思いながらも今日は特に予定を立てていないので、みんなのお土産を買いに行こうと思いついた。

 

 マリオットホテルはタイムズスクエアのすぐ目の前だった。フロントのある8階から中央は吹き抜けでエレベーターはまるで宇宙船カプセルのようでガラス張りなので外が見渡せる。ラウンジやカフェ、バー、ショッピングモールなどもおしゃれで素敵だった。ここでだいたいのお土産類は購入できた。同僚から頼まれた物は結構高価だった。まったく嫌なやつだぜ。ラウンジのソファで同僚に、頼まれたものは購入したとメールの返信をした。

 そのときだった。エレベーターを降りて反対側の通路を笑顔で歩いて行く深田がいた。えっなんで? 言ってたフライトの時間はとっくに過ぎてる。何やってんだよ。俺は無意識に後を追った。隣にはおそらく日本人だと思える男がいた。2人はラウンジバーのカウンターに座った。どうするか。偶然を装って入って行くか。しばらくここで待つか。直接深田を呼んで話すか。亀吉どうすればいい? おい亀吉急ぐんだよ。 

 亀吉からの応答はなかった。俺は諦めてバーが見える少し離れたソファに座った。焦るな焦るな。ちょっと落ち着こうじゃないか。いやあれは単なる友達だろう。もしかしたら同じ航空会社の同僚でフライトが遅れたのかもしれないしな。

えっお酒? お酒を飲んでるとしたらこれから仕事のわけないな。

 友達にお土産で買ったヤンキースの帽子を目ぶかにかぶり、サングラスをかけ、お土産の入っている紙袋でうまく顔を隠しながらラウンジのカウンターのそばを通り過ぎた。男の飲んでいるものは明らかにビールだった。深田の飲んでいるものは判別できなかった。トニック系のお酒にも思えるし、ジンジャエールにも思える。

 元のソファに戻ってため息をついた。俺は何をビビってんだ。堂々と目の前に行って、深田ここで何してんだよ、仕事は大丈夫なのかよって言えばいいじゃねーか。

 そう思い立ちあがりかけた時亀吉が囁いた。『速やかにここから立ち去った方がいいよ。』と。俺は出鼻をくじかれた。なんだよ。あいつらはどう言う関係なんだよ。それだけは女々しいかもしれないけど知りたいよ。『あの男のデータはわからないけど、彼女は間違いなくお前が好きだ。それは信じて』

 その亀吉の言葉で少し気持ちが落ち着いた。でもフライトの時間はどうしたんだ? 嘘をついたのか? いやいや悪い方に考える俺の癖だ。深呼吸した。しかし目の前に男と2人でいると思うと悶々としてくる。亀吉、俺やっぱり偶然を装って明るく挨拶してみるよ。しばらく待ったが亀吉からの応答はなかった。その場に立って屈伸運動をした。その辺をぶらぶらしようと歩き始めた。しかしその必要は無くなった。

 深田と男はフロアーに出て来た。深田は泣いていた。男に深く頭を下げた。男は頷くとエレベーターの方へ歩いて行った。深田はもう一度先ほど座っていたカウンターに戻り何かを注文したようだった。どうしよう今こそ偶然を装いバーに行こうか。またも迷った。本当に俺はいったい何をしているんだ。とりあえずさっきのソファーに戻りかけるとラインメールの着信音が鳴った。とりあえずソファーに座り携帯電話を開いた。深田からだった。

『早瀬くん、私理由があってもう一日ニューヨークにいます。もし早瀬くんの都合がよければまた会えませんか? 突然でごめんなさい。もう別の用事が入っていれば私は大丈夫ですので、そちらを優先してください。香』

俺はその場から急ぎ足でトイレに行き個室に入った。

「そうなんだ。俺はあれから友達に頼まれた買い物やおみあげを買ってタイムズスクエアあたりをぶらぶらしてます。もちろん会おうよ。どこにいるの?」と返信した。

『早瀬くんはどこに行きたいですか?今からでもいいですか?私はタイムズスクエア近くのホテルのラウンジにいます』まさか俺はそこのトイレにいますとは言えずに「その近くにいると思う」と返信した。

『じゃチケッツはわかる? そこで待ち合わせしましょう。私は今から向かえます。早瀬くん焦らないでゆっくり来てくださいね』

「了解です。」と送り個室を出た。鏡の前でにやけた顔を洗い、外の様子を伺いながら外へ出た。

深田に会わないように別の側のエレベーターに乗って階下に降りて出口をでた。

 あの状況は少し気にはなるが、深田のメールで不安は消えた。



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 タイムズスクエアのチケッツのまわりは人でいっぱいだった。深田の姿はすぐに見つかった。チケッツの階段に腰をおろして、どこをみるでもなく遠くを見ていた。なんとなくすぐに近づく気になれず、遠巻きに深田を探すふりをして見ていた。背の高いバスケットボール選手のような団体が前を横切り、深田の姿が視界から消えた。

団体が通り過ぎると、さっきまでいた場所に深田の姿はなかった。周りを見渡してもどこにも見当たらない。彼女は消えてしまった。

 

 けっきょく、1時間近くそこで彼女を探したがどこにも見当たらなかった。ワイファイのある店の前からラインメールをしてみたが既読にならなかった。先ほどのマリオットホテルのラウンジも探してみたがいなかった。試しにホテルのフロントで彼女が宿泊しているかを確認したが、深田香という名前はなかった。彼女は本当に消えてしまった。もう一度チケッツに戻って探したが無駄だった。俺は疲れ果てホテルに戻った。フロントに寄り、メッセージを確認したが、誰からも連絡はなかった。部屋に行き靴を脱いでベッドに倒れこんだ。頭の中の思考回路も疲れ切って、ただ天井を見つめていた。

 どれくらいそうしていたかわからないが、時計を見ると夕方の5時を回っていた。何もする気になれなかったが、重い体を引きずってバスタブにお湯を張り、ゆっくりとお湯に浸かった。

 少しずつ思考回路がまわりだした。あの時チケッツの階段に座っていたのは確かに彼女だった。それはおそらく間違いではない。なぜあの時すぐに近くに行って声をかけなかったのか自分でもわからない。そうしなかったことを後悔した。バスタブから立ち上がりバスローブを着て裸足のまま部屋の窓辺に行った。まだ外は明るかった。西からの光が目の前のビルのガラス窓に反射して眩しかった。冷蔵庫からペットボトルの水とチョコレートを出して、水を飲みチョコレートをかじった。チョコレートを食べるとお腹が空いていることに気づいた。朝、フレンチトーストを食べてから何も食べていなかった。外に出るのは面倒くさかったが、空腹の方が勝り、着替えて外に出ることにした。どこに行くかを考えるのが億劫だったので一昨日行ったオイスターバーに行こうと決めた。




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 グランドセントラル駅はちょうど仕事帰りの人で混み合っていた。オイスターバーは思いの外空いていて右側のカウンターに座りグラスの白ワインとパンとサラダ、クラムチャウダーをオーダーした。

 周りを見回して深田の姿を探した。どこにいても彼女の姿を探している。携帯電話のラインを確認したが、彼女へのメールはまだ既読にはなっていなかった。彼女は何処へ行ってしまったんだろう。チケッツの階段に座って遠い目をした彼女がとても気になった。食事が運ばれてきて、とりあえず食事に集中した。ワインのお代わりを頼むと深田と顔見知りのミスタービーンが運んで来てくれた。「ゲンキデスカ。オイシイデスカ」と言って皿に盛ったクラッカーをサービスしてくれた。陽気な人に会うとこっちまで元気になるもんだなぁ。

亀吉、元気になってきたよ。深田のことは良いように考えよう。きっとどうしようもない急用ができて、連絡する余裕もなく行かざるを得なかったんだ。亀吉の応答はなかったが、深田が近くにいるような気がした。振り返ると本当に深田が立っていた。彼女は泣いていた。

「なんで1人で食べてるのよ。どこに行ってたの。ずっと探してたのに。ひどい」そう言って彼女は俺を叩きながら抱きついた。

「えっちょっと待って、どういうこと? 俺もずっと探してたんだよ。チケッツの周りやマリオットホテルも行ってみた。ほんとだよ。どこにも深田はいなかったよ。お前こそどこにいたんだよ」

「チケッツよ。わかりやすいように階段に座ってたわ。途中早瀬くんだと思って下に降りたら背の高い団体が来て、その人たちが通り過ぎたら早瀬くんいなかった」

「とにかくここに座って何か食べて」

「さっきチケッツの階段に座ってホットドッグ食べちゃったからお腹すいてない」

「じゃ何か飲みなよ。落ち着こう」

「いらない。くたくたに疲れちゃった。早瀬くんの部屋で休みたい」

  

 深田の顔は涙で化粧も落ち、目もくぼんで疲れ果てていた。俺は支えるように肩を抱きながら歩いた。ホテルの部屋に着くと彼女は倒れるようにソファに横になった。

「何かのむ?ジュースか、コーヒーか」

「お水を少し。」ぐったりしたまま彼女はそう言った。冷蔵庫からペットボトルの水を出し、グラスに注いで彼女の手にグラスをもたせた。

「なぜ同じところにいたのに会えなかったんだろう。」上体を起こしグラスの水を飲み干す深田を見ながら言った。

「2時間以上探し回って、ラインも既読にならずで、最後にチケッツの前の階段の最上段からしばらくあたりを探したけど見つからないから、諦めてホテルに戻って途方にくれてた」

「私は4時間以上よ。ホテルに電話もした。でも途中で携帯の電源が切れてしまって。 フロントにも行ったわ。先ほど出かけられたと言われた。でもその時絶対にオイスターバーにいると思った」

 深田の必死でいう顔が愛おしく肩を抱き寄せた。

「早瀬くんのことばかり考えてた」俺も同じだった。こんなに情けないくらい深田がいないことを悲しく思えたことはない。うまく言葉が出てこなかった。

「今夜ここに泊まってもいい? このソファでいいから」と彼女は心細い顔で聞いた。

「いや悪いけどここは困るなぁ、ベッドじゃないと」今夜初めて深田はにっこり笑った。

 化粧が取れてまるで中学生の時のような笑顔だった。バスルームを借りたいと言って彼女はバスルームに入った。中から「バスタブにお湯を張ってもいいですか?」と丁寧に聞いてきた。外に出るのはもう面倒になり、ルームサービスで1人前の食事を頼み、2人でそれを分けて食べた。冷蔵庫の缶ビールをグラスに注いで乾杯した。買っておいたバーボンのワイルドターキーをストレートで少しづつ飲んだ。

 

 ベッドの中の深田は昨夜より細く感じた。俺を見ている目が、どこか遠くを見ているように思えた。ずっと彼女は目を開けていた。キスの時も抱き合っている時も。最後だけ目を閉じた。そして悲しそうな声と息が、俺の耳に吹きかかった。


 「荷物は会社の車で空港に運んでもらってるから、ここから直接行ける。先に行きたくないけど。今日会えなかった時間に完全に早瀬くんに恋をしたみたい」

「昨日まで不完全だったのかよ」

「そういうことじゃない。あまりにも急なことだらけだったから心と思考が追いつかなくて。でもこの神様のいたずらみたいな時間が早瀬くんのことだけを考える時間を与えてくれた」

「俺は迷子の子供みたいな気持ちで、あたふたしてた。無力過ぎた」

 俺は思い切って昼間のマリオットホテルのことを言おうかと思ったが、なぜか深田から言う気がしてやめた。彼女は俺の腕を抱きかかえながら話し始めた。

「今日早瀬くんに連絡する前に、ある人から連絡をもらって会っていたの。その人は元上司でとてもお世話になったの。今はニューヨーク支社にいて、本当はこっちに着いてすぐに連絡をくれていたんだけど、早瀬くんとの再会を優先しちゃったの」そう言って俺の目を確かめた。俺はただ頷いた。

「でもはっきりしておきたくて。ダメなら仕方ないと思いながら思い切ってフライトの交代要員を当たってみたの。体調不良ということで。そしたら意外とすぐにOKが出て、私からその人に連絡をして会うことになったの」深田はそこで目を閉じて深く息を吸った。

「私、ある人と付き合っていたの。3年間」俺はその話を遮ろうかと迷っていたが、もう遅い気がした。

「でもその人には奥さんがいた。最初の1年間、私、それを知らなかった」

「それ俺、聞いた方がいいのか?」その俺の言葉は深田に届かず、話し続けた。

「でもそれから2年間、別れなかった。私たちの仲を忠告しながらも、見守ってくれていたのが、今日会った元上司なの。何度もやめておけって言われてたのに。相手は飛行機の機械エンジニアで仕事の腕はいいけど、私生活はどんでもない遊び人。実は私以外にも女の人がいたみたい。半年前に奥さんとも別れて、仕事場も地方に飛ばされて、結局3ヶ月前に仕事も辞めてたらしい。私には半年以上音信不通で2ヶ月前に不意に電話があって。子供ができたからもうしばらく会えない、またそのうち会いに行くよって。私はまだ奥さんと別れていたのを知らなかったし、前の仕事をしていると思ってたから当然奥さんとの子供だと今日まで思ってた。だからその時、奥さんを大切にして、もう私たち終わりにしましょうって伝えた」

「なぁ深田、その話もういいよ」俺はベッドから出てバスルームに入った。めちゃめちゃ混乱していた。これほどの怒りが俺の中にあったことも不思議なくらいに。鏡の中の俺にも腹が立った。大きくため息を吐きバスルームから出た。

「そんなやつと付き合うことをお前の中のソックスとやらは止めなかったのか? お前の特別な能力は役にたたなかったのか」俺はなるべく声を抑えて言った。

「止めたわ。初めて彼に誘われて食事に行く時から何度も何度も止めてくれたわ。行ったら香の未来が曲がる。変わってしまう。だから絶対に行っちゃダメって。」

「じゃなんで行ったんだよ」

「3年前、彼は私を助けてくれたの。友達と待ち合わせていた成田のある店に行く途中の暗い道で、3人組の酔っ払った人達に声をかけられて、私は急いでいたし、怖かったから素通りしたの。そしたら追いかけて来て、スチワーデスさんは俺たちなんか相手にしないよなぁ。お高いんだよお前たちはって。後ろから抱きつかれて。私は無我夢中で逃げたけど倒されて。ちょうどそこに彼の車が止まって助けてくれたのよ」深田はベッドの上で正座して目を閉じ、涙を流しながら話し続けた。

「その場を助けてくれたことを感謝してた。彼が通り過ぎなければ私、どうなっていたか。でも私はソックスを裏切ってしまったわ」

俺はバーボンをラッパ飲みしてため息を吐いた。


「でも、もうずいぶん前に私の気持ちは終わってた。ううん、最初から終わってたのかもしれない。勝手な人だった」

 俺はかすかにまだ深田の心の中でくすぶる何かを感じた。それは口には出さなかった。

「今日会った元上司に早瀬くんのことを言ったの。すごく喜んでくれたわ。私も嬉しかった」

俺は無性にまた腹が立った。またバーボンをラッパ飲みしてむせながら

「お前はそいつとの恋心や快楽や心の痛み悲しみを通り過ぎなけりゃここにたどり着けなかったのか? そして偶然会った俺に逃げ込んで来たのか?そして。そして完全にまだ、そいつを忘れたわけじゃない」言葉がぐちゃぐちゃだった。

「そんなことない。じゃなんで。なんでこんなに傷つく前に現れてくれなかったのよ。なんであの時助けてくれたのがあなたじゃなかったの?もう変えられない過去だってあるのよ。仕方ないじゃない。私は自分の中の闇も光もあなたに伝えて、これから幸せになりたい」最後の言葉はほとんど泣き声だった。 深田はバスルームに入って行った。 俺は立ち尽くしたまま深田の過去を責めていた。どうにもならない過去を責めていた。『このままじゃ過去にやられるぞ。今を変えて過去を変えるんだ。すでに彼女との間の過去は変わったじゃないか。』久しぶりに亀吉が囁いた。

 確かにこのままじゃ嫌な過去にやられる。ゆっくりとソファに座った。 

 外はうっすらと明るくなっていた。バスルームから出て来た深田の目は腫れていた。

「私、ちょっと早いけどもう空港に行くね。いろいろごめんなさい。そしてありがとう」そう言って彼女は弱弱しく作り笑いを浮かべた。

俺は俯いたまま動けずに、彼女がベッドの横で身繕いをし、ベッドを奇麗に整えているのを目の隅で感じていた。

「まだ早すぎるんじゃないのか?」

「ううん、大丈夫。やらなきゃいけないこともあるから」俺は立ち上がって彼女を見た。彼女は笑顔で「すごい2日間だった。10年分は詰まってる。思考回路も体も追いつけてないのかも」と言って俺の目の前に来た。

「じゃ気をつけて。Enjoy your trip.」そう言って右手を差し出した。俺は握手した手を引いて抱きしめようとすると、深田はそれを笑顔で拒み「私のことが本気で許せたら又会おう。私は早瀬くんを待ってる。あ~反対に早瀬くんからすごい怖い過去が出て来たらどうしよう、でも私はきっと大丈夫。」最後はおどけた言い方だった。

「本当にもう行くのか?」

「うん。ここでいいわ。じゃね」

「襲われるといけないから下まで行くよ」俺も笑顔を作って言った。

 ロビーに降りるとホテルの前にタクシーが止まっていた。乗り込む深田に

「もしそいつが東京で前から歩いて来たら教えろよ。半殺しにしてやるから。じゃ東京で。」俺がそう言うと、深田はまたうっすらと涙を浮かべて頷いた。

深田は小さく手を振った。俺も小さく手を振った。タクシーは走り出した。信号は全て青でタクシーは見えなくなった。そして俺はまた42nd stに取り残された。

 太陽を見上げ、未来も過去も今次第だと感じた。

 

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