8・開口

第28話


 最近はすっかり打ち解けていると思うけれど、皆との間には、たしかに壁があるとも思う。手を振りながら近づいたら、ドン、とぶつかって痛い思いをしそうな、厚みのある透明な壁が。

 それはとても、いじわるだ。ユズの前でだけ、硬度が上がる。硬くなったそれは傷つきにくくなる。けれど、それに触れたユズは、簡単に傷つけられてしまう。それは皆の前では、脆い。ミツバのところへ行く時のように、とぷん、と柔らかく揺らめき、選んだ者のみを通す。

 鎧を纏っているつもりなどないのに。両手を広げているつもりだというのに。どうしても通ることができない、壁。

 疎外感に纏わりつかれたユズは、荒んだ心を整えようとした。

 制限されたこの世界では、せいぜい散歩くらいしか気軽にはできない。いや、散歩ができれば充分じゃないか。自分で自分を納得させ、誰に断るでもなく、何を書き残すでもなく家を出た。ちょっとした後ろめたさすら、気晴らしにはいいスパイスだ。

 街中をただ歩く、モブA。ユズは狭い道を、時折肩がぶつかりそうになりながらも、それをするり躱しながら進む。下手げに目をつけられたら面倒なことになる。絶対に誰とも接触してはならない。

 絶対に、と自分を縛ると、ちょっとしたゲームのように思えてきた。人が少ない場所や、広い道を選べばいいものを、あえて細く込み入った道を選ぶ。

 キラキラとした笑顔とすれ違い、殺伐としたオーラからはスタコラと逃げた。

 これだけ色とりどりの人がいるなかで、どこか窮屈さを覚えてしまうのはきっと、自分が今、透明で、透明仲間としか生きられないからだろう。

 前に出した足が、空き缶を蹴り飛ばした。

 蹴るつもりなどなかったそれは、いかつい背中をした男の足に当たった。

「わ、えっと、その、ごめんなさい!」

 じわりと汗が出る。事が穏便に済むことを願いながら、ぺこりぺこりと頭を下げた。

「ンァ?」

 男が振り返った気配。視線を感じる。鋭い視線は、肌を刺し、思考を凍らせる。

「あれ……お前、元気そうだな。ハハハ」

 知り合いと勘違いしてもらえたか? おそるおそる顔を上げる。と、ユズはほっとした。安堵の息が、ふわりと世界を漂う。

「お、お久しぶりです」

「なんだ、俺のことすっかり忘れて謝ってんのかと思ったヨ」

「ああ、いや、覚えてます。もちろん」

「本当か」

「はい。だけど、ボーッとしてて。そうしたら缶を蹴っちゃって、ぶつけちゃって、『あ、ヤバい』って思って」

「ハハハ。相手が俺でよかったな。ハズレ引いたらボコボコに殴られちまうもんな」

「あ、あの。お詫びと言ってはなんですが、コーヒーでもどうですか」

「俺は小洒落たカフェに行ける身なりじゃねぇけどな」

「すみません。ぼく、そんなにお金持ってないので……」

 そうっと指差した先には、自動販売機。

 男はにっと笑うと、ユズより先にそれに近づき、

「ブラックがいいなぁ。こっちの」

 高く、内容量が多い方を指差した。

「コーラの倍しそうですね」

「文句あんのか。……そんじゃ、どうすっかなぁ」

 他の品に変えようとしているかのような言葉を発しながらも、指先はピクリとも動かない。

「お金入れますよ? 押してくださいね」

「やりぃ!」

 ユズがピッタリお金を入れた。男は購入可能を示すランプがつくなりボタンを押し込む。ガタタン、と大きな音を立てて、一本出てきた。

「なぁ」

「はい」

「俺、ブラック押したよな?」

「そうですね」

「カフェオレ出てきたんだけど」

「……補充間違えたんですかね?」

「俺、甘ったるいの苦手なんだよな」

「そうですか。でも、たまにはいいんじゃないですか? 糖分補給にもなって」

「虫歯になるだろ」

「歯医者さんに――」

「行く金あったらタバコ買うわ」

「はぁ」

「これはお前が飲め。買い直しだ」

「その、買い直すお金は」

「お前が払え」

「ですよねぇ」

 ユズはもう一度、お金を入れた。ぴったりの小銭はもう持ち合わせがなかったので、多めに。なかなか痛い出費だ。けれど、不思議と、心は凪いだ。

 男が同じボタンを押すと、今度こそブラックコーヒーが出てきた。「よっしゃ」と喜びの声を吐くと、当たり前のように釣り銭をかっぱらう。ユズはそれを咎める気になどならなかった。ただ、微笑みながらその様を見ていた。

「最近どうだ? こっち来ねぇってことは、うまいことやってんのか?」

「まぁ、はい。クッキー焼いてます」

「はぁ、クッキー。お前がか」

「はい。ぼくが」

「んで、そのクッキーは」

「今あるはずがないじゃないですか」

「気がきかねぇなぁ」

「会えるって知ってたら持ってきてましたよ」

「おお、そうか。そんじゃ、次に期待だな」

 ガリガリとキャップを捻る音が響く。男はグビグビと喉を鳴らしながら、コーヒーを飲んだ。

「少しいいもんにしただけでもよ、だいぶ美味くなるよな」

「ああ、わかります。この前のコーラ、偽物の味がしましたもん」

「ハハハ。言ってくれるなぁ。なんだ、お前、いつも本物飲んでたのか。どっちだ? コカか? ペプシか?」



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