大豆

「く、くくく……」


 プーアー伯爵家に存在する自室で、ハベストは一人笑みを浮かべていた。


「いい気味だ。

 実に、いい気味だ……」


 他に誰もいない室内で、独り言をつぶやく。

 机の上に広げられているのは、国営新聞の朝刊である。

 一時期、ハベストはゲミューセ王子やスプラの記事を抜いた上で新聞を持ってくるよう、家令に命じていたが……。

 最近は縛りを解いて、そのまま持ってこさせていたのだ。

 理由は、ただひとつ。

 この記事を見るためであった。


「『スプラ嬢の仮設もやし工場で火災。聖供祭への出品は絶望か?』か……。

 いい言葉の響きだ。

 それに、写真を使うという発想もいいな。

 どのような具合で焼けたか、手に取るように分かる」


 新聞の一面記事をなぞりながら、つぶやく。

 こうして白黒の写真に触れると、まるで、実際に焼け落ちたもやしとやらの工場へ触れているような気分になれる。


 ――コン、コン。


 ……と、ドアが叩かれたのは、その時だ。


「入れ」


「失礼します。

 お茶をお持ちしました」


 ティーセットの乗ったトレーを手にした家令が、うやうやしい様子で室内に立ち入ってきた。

 ハベストは何も言わず、この老人が茶の用意をするに任せていたが……。

 ふと、彼の手が止まる。

 そして、恐る恐るといった様子で、こう尋ねてきたのだ。


「ハベスト様……。

 その、もしやとは思いますが……」


「んん?

 なんだ? 言ってみろ」


 どのような性質のものかは、自分でも分からない。

 しかし、笑みを浮かべながら家令に続きをうながす。

 それは、彼に安堵よりも、震えの方を与えたようであるが……。

 ともかく、意を決した家令が、口を開いた。


「スプラ様のもやし工場が燃えたという件……。

 まさかとは思いますが、ハベスト様が手を回されたのですか?」


「ふ、ふふ……」


 予想していた通りの言葉に、含み笑いを漏らしてしまう。


 ――そうとも。


 ――僕がやらせたのさ。


 ――証拠もなし、犯人は逃げおおせた。なかなか見事だろう?


 心中で答えながらも、しかし、口では違う言葉を口にする。


「まさか、そんなわけがないだろう?」


 自分でも驚くほど、涼やかな声で答えた。


「し、しかし……。

 最近は、供の者も付けず、お一人で出歩いたりもしておりましたし……」


「たまたま、そういう気分だっただけさ。

 それとも、僕が一人で出歩いちゃ悪いかい?」


「い、いえ……」


 それで、家令は口をつぐむ。


「元婚約者として、僕もこの件には胸を痛めているよ。

 そう、これは不幸な事件なのだから。

 ふ、ふふ……」


 ハベストは、それからもしばらく、含み笑いを続けたのである。




--




「そうそう、見つかるものでもない、か……」


 翌日のことだ。

 乗馬服の仕立ても、やはり一流……。

 集合場所としたビーンズ邸へ騎乗して参上したゲミューセ王子は、馬から降りながらそう言い放った。


「そもそも、我が国に存在しないからこそ、輸入しているわけですからね……」


 同じく騎乗して来たリーベン氏たちが手綱を預かる中、スプラは冷静に答える。

 と、ゲミューセ王子の馬が自分の髪を噛んできたのは、そんな時のことだ。


「――きゃっ」


「おっと、すまんな。

 こらこら、女子の髪をいじろうとするものではない」


 ゲミューセ王子がそう言って、愛馬の首を叩く。


「こいつは賢い子でな。

 普段はいたずらなどもしないのだが、好意を抱いた相手には、少しだけ茶目っ気を出すのだ。

 どうやら、お前は気に入られたらしいぞ」


「それは……。

 えと……ありがとう?」


 スプラが礼を言うと、馬はぶふりと鼻を鳴らしてみせる。

 人間のように、表情を変えられる生き物ではないが……。

 しかし、どことなく楽しそうにしているのが、馬術への興味を持たないスプラにも伝わってきた。


「今日は、馬車ではなく、直接馬に乗られているんですね?」


「ああ、この方が小回りは利くし、こいつが構って欲しがっていたのでな。

 それに、嫌なことがあった時は、少しでも楽しいことをするに限る」


 答えたゲミューセ王子の表情は、少しだけ高揚したものである。

 スプラには、分からない感情であるが……。

 愛馬の背に揺られ、街中を行くというのは、男児にとってなかなかの楽しみであるらしい。


「そして、豆の話に戻るわけだが……。

 そもそも、脚気の騒動があるまで、我が国では見向きもされていなかった食材だからな。

 当てなどないから無作為に文を送ったり、訪ねたりしてみたが、所有しているという者はいなかったよ……」


「私も、農学を研究している教授などに当たってみましたが、結果は同じでした」


 二人の間に、暗鬱とした空気が流れた。

 それを察したか、ゲミューセ王子の愛馬が、再びぶふりと鼻を鳴らす。


「ふふ。

 励ましてくれているんでしょうか?」


「ふ……。

 きっと、そうに違いあるまい。

 動物というのはな。これで、人間の心をよく読むものだ。

 どれ、賢い子にはおやつをあげよう」


 ゲミューセ王子がそう言いながら、上着のポケットを漁る。

 以前、レイバへあげていたように、キャラメルでも取り出すのかと思ったが……。

 出てきたのは、まったくの別物――小さな丸い豆であった。


「ゲミューセ様、それは……」


 目を丸くするスプラに対し、王子がさわやかな笑顔で答える。


「ああ、大豆だ。

 普通、馬のおやつには、果物なり角砂糖なりを与えるのだがな。

 我が愛馬は変わり者で、この豆を好むのだ。

 ふっふ……何を食べれば強い馬になれるか、分かっているのだろう。

 こいつを食べれば、良い筋肉が付くのでな」


 言いながらゲミューセ王子が大豆を差し出すと、馬がすかさずそれにかじりつく。

 そして、ぼりぼりと……実に美味そうな様子で咀嚼し始めたのだ。


「はっはっは。

 動物の食べる姿というのは、こう、癒やされるな」


 ほがらかに笑う王子。


 ――いやいやいや。


 ――ゲミューセ様、いくらなんでもそれは……。


 一方、スプラの方は、呆れたのやら、脱力したのやらといった状態である。

 なぜなら、たった今、目の前で食わせているその豆は……。


「……ゲミューセ様。

 以前にもご説明しましたが、大豆からも、もやしは作れます」


 そういえば……。

 あの時、王子は軍馬用の飼料として、東方から輸入していると言っていたか。

 馬に興味のないスプラにとっては、盲点というしかない。


「あ……」


 ともかく、かつての説明を思い出したのだろう。

 王子が、餌をやる姿勢のまま硬直する。


「ひん?」


 彼の愛馬は、そんな主の姿へ、不思議そうに首をかしげた。

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