シファン・アイガー、空を飛ぶ

きゅうりジャム

第1話 空の飛び方

 “幸福の奴隷”で結構だ。

 誰かの幸福のために血を流そうとも。

 貴方の幸福のために命を削ろうとも。

 世界を満たす幸福の総量。その増加に貢献できるのであれば、笑うのが私である必要がどこにある?

 でもね、ルシャス。貴方に空の飛び方を教えたことだけは、ちょっとだけ後悔してるんだ。




 アパート「ルシャスハイツ」の目の前には、公園があった。利用者はその老若男女を問わず、行き届いた清掃、キャッチボール程度のちょっとした運動であれば複数グループが行えるほどの広さがありながら、遊具も充実。かくれんぼに取り組む子供たちの「もういいかい」が毎日のように響く、平和な場所だ。

 公園が老若男女を迎える上で、欠かせない人物がいる。「ルシャスハイツ」の大家、ルシャス・ビンジーティブンスだ。アパート「ルシャスハイツ」を管理する傍ら、ボランティアのつもりで公園内の清掃に勤しむのが彼の日課だった。

 そんな公園についたあだ名は「ルシャス前公園」。「ルシャスハイツ」より先にそこにあった公園に、あだ名とはいえ名前を刻むほどの、虫も殺せぬほど穏やかで優しい人物なのである。

 そんなルシャスは真夜中、睨み合いをしていた。自室を跋扈するおぞましい外見の虫と。




「たまたま私が通りかかってよかったね、ルシャスさん」

 ルシャスの住む部屋の前。黄緑色のパーカーを着た少女、シファンは言う。

「ほんとに。……危ないところだった」

「おおげさー」

 ルシャスを指差し笑うシファン。彼女はルシャスに代わってこのアパート内の虫を退治することを対価としてここに住んでいる。

 だが今回、時刻は真夜中だった。虫出没時に用いる呼び鈴を鳴らすことに抵抗のあったルシャスが虫を逃がすために独り戦っていたところ、偶然部屋の明かりを見たシファンが現れ、虫を退治したのだった。

「それにしても、なんでこんな時間に外に?」

「なんかアイス食べたくなったから、コンビニまで行こうとしてた」

「そっか、いってらっしゃい」

「はーい」

 シファンの背中を見送った。

 音を爆発に変換する能力。羽音や足音を起こした虫を、極めて小規模な爆破で退治できる能力だ。シファンを我がアパートに住まわせたのは正解だったと、ルシャスは心の中で己の采配を誇った。




 翌日、正午前。

 ルシャス前公園で大勢の子供が遊んでいる。その中にひとり、涙ぐむ少女がいた。すかさず駆けつけるルシャス。何事かと問いかけると、少女は上を指差し言った。

「ふうせん、とんでった」

 半ば事態を確信しながら言われるままに見上げると、空へ空へと進んでいく紐のついた赤い風船があった。

「わかった、取ってこれる人を呼んでくるよ」

「あ、ありがと、ございます」

 アパートへと走っていくルシャスと風船とを、少女は涙を拭いながら見守った。

「……さて、誰を呼んでこようか」

 ルシャスの頭に、この手の無理難題を「無理です」と断る発想は無い。




「また自己ベスト更新したかも」

 手鏡を見ながら呟く、長い金髪の女。その視線は無論、鏡の中の己の顔面を捉えていた。

 自らの顔を「自己ベスト更新」と評価し、『仕込み手鏡』を常に袖の中に持ち歩くこの女、クレアナ・バートリフがナルシストであるということは、本人も認めている事実だ。

 玄関からノックの音が響く。5回。ルシャスだろう。

「どうしたルシャス、急用か?」

「大至急公園まで。行きながら説明します」

「わかった」

 言うや否やスニーカーを履くクレアナ。身支度に1秒たりともかけなかった。こういう嗜好の人は常に自身を小綺麗にしてあって助かるな、とルシャスは思った。




「あれを取ればいいんだな、任せておけ」

 クレアナは両手に持った『仕込み手鏡』を手際よくスニーカーの裏に装着する。

 専用の手鏡、専用のスニーカー。すべては彼女の能力、「光の反射を炎に変換する」を最大限活かすための特注品だ。

「靴の裏から炎を吹き出して飛ぶ。できる限り離れていてくれ」

 少女を連れたルシャスが大袈裟なほどに距離を取る。それくらいでいい、と頷くクレアナ。直後、地面を蹴って飛翔する。やがて、風船の紐をクレアナの指が掴んだ。

 そう、紐だけだった。クレアナはそのまま自身の飛翔技術での高度限界へと達し、運悪く切れかけであった風船の紐だけを持ち帰ることとなった。

「……すまない」

 ルシャスの表情が曇る。少女の顔も同様に雲行きの怪しい状態だ。土砂降りも近いか。

「ほ、他に飛べそうな人は……」

 思索するルシャスが言った途端、呼ばれたかのようにアパートの一室の扉が開いた。

「天気いいなー」

 昨日の夜更かしの後、短い睡眠を終え目を擦るシファンの姿がそこにあった。




「取ってくるよ」

 事情を聞いたシファンは服装を整えた。いつものパーカーのまま、姿勢を正す。

 百科事典に載っている偉大な魔法使いは、決まって厳かなローブを身に纏い、杖を持っている。フードのあるパーカーはローブに似ていた。小さめなスタンドマイクは杖代わりだ。

 音を用いる私の魔法のための、私だけの杖。そして、ローブに似たパーカーという擬似的な正装。そうやって由緒正しき魔法使いとして魔法を使うのが、シファンの流儀だ。

「今から強めの風が吹くけど、『魔法防御』するから大丈夫だからね」

 自身が魔法で生み出せる物体や現象から、自身やその他の物体を守り、無害化する。それが『魔法防御』だ。

 シファンは音を材料にして爆発を生み出す魔法を使うことができるが、それは爆発という現象の無害化が可能であるということを意味している。一言で爆発と言っても熱や風圧、飛来物等による被害が考えられるが、そのすべてにおいて無害化が可能だ。

 同様に、炎を生み出すクレアナなら熱や光の無害化が可能だが、『魔法防御』の精度は人によって異なり、シファンはそれを特に得意としていた。

「『魔法防御』、手伝おうか。炎の『魔法防御』は熱を無害化できる。私にも爆発の熱を防げるが」

「いや、大丈夫。熱より風のほうがムズい」

「そうか、なら任せた」

 シファンは構えたスタンドマイクを地面に突き立てた。コツン、という音は周りの者の耳に届く前に爆発へと変換される。上空へと吹き飛ぶシファン。

 静寂。爆発音もなく立て続けに爆発し続けているのが、パーカーのはためきだけでわかる。

 自身の魔法で起こした爆発の爆発音を用い、さらに爆発を起こす。シファンが「連鎖爆発」と呼ぶ手法だ。

 そのひとつひとつの爆発について、熱はすべて無害化。風圧に関しては、自身を傷つけることなく上空へ押しやるために必要なぶんだけを残し、その他すべて無害化。

 これがシファンによって考案された、爆発を起こす能力で空を飛ぶ方法だ。

 風船への被害も『魔法防御』で抑えながら接近し、脇にスタンドマイクを挟みつつ両の手で紐のない風船を掴む。そのまま落下。靴と靴とをぶつけて起こした音から爆発を起こし、衝撃を和らげて着地した。

「はいよ」

「あ、ありがとうございました!!」

「どういたしましてー」

 少女の顔に笑顔が戻り、ルシャスは満足げに頷いた。シファンがこのアパートにいること、その裏には自身の管理があることについて、やっぱり誇りながら。




「なんで最初に声をかけるのが僕じゃなかったのさ」

 公園のベンチ。緑茶をすするルシャスの横で、風船に細工をする銀髪の男が問う。

「君の能力、いまいち理解できてなくてね。なんだっけ、生命力を……?」

「『唾液を生命力に変換する』。それで筋力上げてジャンプするだけで取れると思ったんだけど」

「そうだった。忘れててごめん、ミラニカくん」

「はい、風船。紐ついた」

 ミラニカと呼ばれた男は少女に紐のついた風船を渡す。少女は頭を下げてから走り去った。

「でもすごいね、いつでも裁縫セット持ち歩いてるんだ」

「内職でたまに使うから」

 シファンの褒め言葉に、人差し指を立てつつ返すミラニカ。

「内職オタク、すごい」

「でしょ」

 遠くに、風船の少女が走っていくのが見えた。両手で紐を持っていたのが可笑しくて、シファンは笑った。

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