第10話 誘い

 その晩、大輔は寝床に入ると暗い天井を見つめながら美穂に関する一連の出来事を反芻してみることにした。美穂は父の葬儀の後、恵美子から夫の浮気の相談を受け盗聴を提案する。そして啓一に忍ばせ回収したレコーダーからとんでもない事実を知ってしまう。恐らくそれは啓一の浮気とは別のもっと重大なことだったはずだ。好奇心旺盛な美穂はそのことを更に深く調べるつもりで大輔に「もう少しこちらに滞在します」と電話をしてきたのだろう。そして渡し舟以外の方法で神島に渡り、天狗岩に遺品を残したまま姿を消す。そういえば啓一がもし本当に人知れず巳八子と逢瀬を重ねているとするならば、どうやって巳八子のもとに渡っているのだろうか。まさか逢瀬の度に重男の舟を使うわけにはいかないはずだ。美穂は啓一と同じ方法で神島に渡ったのではないだろうか。確か啓一に忍ばせたレコーダーはGPS付きだったと恵美子が言っていた。ということは、美穂はGPSを解析することにより啓一の移動経路を把握できたはずだ。正一の言う通り、どこかに秘密の地下坑道のようなものがあるのだろうか。突然、静香が見たというススキ原のお化けの話を思い出す。マムシがいると言われ誰も近づかない場所、しかし実際にはマムシなどいない。村人を近づけないために作られた巧妙な噂。何を隠すため?美穂の遺品が発見された前の日に誰かがそこに潜んでいた。マムシなどいないことを知っている者。それは誰だ?

 その時、卑埜忌村の通信環境が圏外だということを思い出した。電波の届かない中で美穂はどうやってGPS付きレコーダーを再生したのだろうか。美穂ちゃんと恵美子ちゃんが連れ添って峠に向かうところにばったり出くわした。源三の言葉が蘇る。そうだ、美穂はレコーダーを再生するために、電波のつながる峠まで上ったのだ。しかし、恵美子も一緒だったということは、恵美子もその時に再生内容を聞いているはずだ。恵美子は内容を聞いていないと言っていた。何故そんな嘘をつく?


 翌日、朝食を済ますと大輔は再びススキ原に向かうことにした。お化けが明かりを携えていたと静香が言っていたことを思い出し、念の為、女将に懐中電灯を借りた。

 尾呂血神社分社の手前の道を入り、しばらく進むと前方に草地が広がる。まとわりつく野良犬たちを押しよけながら草地を横切り、昨日静香が指さした方角に向かってススキ原を分け入って進む。ススキは大輔の胸程の高さまであり、足元が良く見えないので慎重に歩かなければならなかった。どこかにマムシが潜んでいたら大変なことになるが、鈴ばあと静香の言うことを信じるほかなかった。

 三十分ほどうろうろとススキの中を探索していると、いきなりつま先がゴツンと何か硬いものに当たった。密生するススキをかき分けて下を覗くと、足元に井戸を発見する。古い石造りの井戸で、木の天板で蓋がされている。蓋は持ち上げると簡単に開き、その下にぽっかりと暗い空間が広がっている。よく見ると、井戸の内壁には鉄の梯子が打ち付けられている。大輔は懐中電灯を首からぶら下げると、梯子を下りてみることにした。かすかに尻の下から風が吹き上げてくるのが分かった。やがて井戸の底に辿り着く。水は枯れており、靴底が固い地面を捉えた。見上げると遥か上方には入り口の丸い光。どうやら先ほどからの風は井戸底の横壁から漏れ出ているようだ。懐中電灯をそちらに向けると、光の輪のなかに鉄の扉が浮かび上がった。一メートル四方ほどの錆びついた扉だ。取っ手を掴みそっと押してみると、ギギッという音と共に簡単に開いた。途端に扉の向こうから湿った風が勢い良く吹き出してくる。奥の闇に向かって懐中電灯を照らすと、坑道のような道が延々と続いているのが目に入った。これが秘密の経路か?心臓の鼓動が速くなる。大輔は深呼吸を一つすると、坑道の中へと足を踏み入れた。

 天上の高さは二メートル程あり、ちょうど立って歩くことが可能だった。人為的に掘られた坑道なのか、それとも、元々自然に形成されていた鍾乳洞に手を加えたのだろうか。懐中電灯に照らされた壁はテカテカと濡れており、ヌメヌメとしたヤスデの大群が這っている。時折、小さなコウモリが驚いたように奥へと飛び去っていく。地面は大小さまざまな礫石で覆われていたが、時折現れる砂地には確かに人の足跡が残っていた。誰かがこの坑道を行き来しているのだ。それは大きさからして、男の足跡のようだった。湿った風は暗い前方から音もなく流れてくる。

 懐中電灯の光だけを頼りに三十分ほど真っ暗な坑道を進むと、急に左右の壁が横に広く掘り広げられた場所に辿り着いた。同時に、何か礫石とは異なる固い物が靴底に当たった気がした。立ち止まり懐中電灯を地面に向ける。何やら金属の破片のような物があたり一面に散らばっている。一片を拾い上げて光を当ててみる。かすかに湾曲した分厚い緑青色の金属片。この錆び方は恐らく青銅だろう。よく見ると、表面には縦横に格子のような文様が描かれている。かなり古いもののようで、ところどころひどく腐食している。更に周囲の地面を照らしてみると、同様の破片がそこら中に散乱していた。中にはもう少し原型を残している大きなものもあり、それは釣り鐘のような形をして地面に半分ほど埋まっている。先ほどの湾曲した金属片は、この釣り鐘の一部分だったのだろう。不意に、中学時代に教科書で目にしたことのある写真が頭に浮かんだ。銅鐸。確かにあたりに散乱している青銅の破片は銅鐸の一部分に見える。破片の数から推定すると、恐らく数個分の銅鐸になるだろう。しかし、何故ここに古代の銅鐸が埋もれているのだろうか。

 更に五分ほど歩くと、前方から流れてくる風にかすかな香木の匂いが混じっていることに気がついた。伽羅だろうか、覚えのある香りだ。そのまま歩き続けると、坑道はついに行き止まりに達し、正面の壁は鉄の扉で塞がれていた。お香の匂いを帯びた風はその扉の向こうから流れてくる。そっと鉄の扉を押してみると、簡単に奥へと動いた。思わずごくりと唾を飲み込む。扉を押し開きその先を照らすと、そこには石積みの壁に囲まれた狭い空間が広がっていた。どうやら井戸の底のようだ。先ほどと同じように壁には鉄の梯子が埋め込まれている。懐中電灯を上に向けると、遥か上方の蓋が映しだされた。高鳴る心臓の鼓動を抑えながら梯子を上った。

 木の天板をそっと押し上げると急に明るい光が射しこんでくる。思わず目を閉じた。目が慣れるまでしばらくかかったが、やがて視力が戻ってきた。再び蓋の隙間から外の様子を窺う。どうやら深い森の中のようだ。あたりは濃い霧で覆われ、鬱蒼とした樹々の吐き出す濃密な酸素で満ちている。むせかえるような森林香に交じって伽羅の香りが匂い立つ。注意深く周囲を観察したが、人影は見当たらない。そっと井戸から這い出して苔むした地面に降り立つ。再度、周囲に誰もいないことを確認してから、伽羅の香りの流れてくる方向へと進むことにした。

 十分ほど歩くと、尾呂血神社の背面が見えてきた。やはりそういうことか。ここは神島で、湖畔との間に地下坑道がつながっていたのだ。正一の言った通りだった。

 その時、背後から突然、人の声がした。

「王子か?」

 驚いて振り向くと、一人の小人が大輔を見上げていた。白い頭巾に白装束、そして肩にはスコップ。聖様だ。小人は体に比して不釣り合いなほど大きな顔を大輔に向け、瞳をまん丸く見開いている。

「王子だな、王子だな」

 小人はその小さな指を大輔にまっすぐ向けると、満面の笑みを浮かべた。一体、王子とは何のことだ。小人の言っていることがまったく分からず、大輔は小人を見つめたままその場で固まっていた。

 その時、森の中を一陣の強い風が吹き抜けていく。白い頭巾が風に飛ばされ小人の頭部が露わになった。それを見て大輔は思わずぎょっとした。小人の額には十センチほどの生々しい縫い跡が赤黒く盛り上がっていたのだった。何か見てはいけないものを見てしまった気がした。小人が慌てて頭巾を拾いに走り出した隙に、大輔は一目散に井戸に向かって走り出した。途中、後ろを振り返ると、小人の姿はもう見えなかった。

 やがて先程の井戸に辿り着き、体を潜り込ませる。そして丁寧に天板を閉じて梯子を下りた。井戸底に降り立ち鉄扉を照らすと、先程は気づかなかったが扉の外側にはかんぬき型の鍵が設けられていた。坑道に入り扉をもとの状態に閉じ、再び暗い坑道を戻る。ススキ原側の鉄扉には、内側にかんぬき型の鍵が設けられていた。つまり神島側からだけ、双方の鉄扉に鍵をかけられるということだ。

 井戸を出て草地を抜ける。腹が減っていることに気がついた。


 門脇食堂に着くと店の前の空き地にはもう車は一台も停まっていなかった。案の定、扉を開けると客は誰もいない。まだ食べられるかと聞くと、良枝がさばさばとした笑顔で迎え入れてくれた。カウンターに腰を下ろし、厨房の中の源三にカレーを注文した。

 まだ興奮冷めやらぬ大輔は、先程の坑道のことを源三たちに聞いてみたい衝動に駆られたが、一方でそれは源三たちの信じる大切な何かを壊してしまうような気がして、結局黙ってカウンターに置かれた水をただ見つめていた。

 カレーを食べ終わる頃、厨房から源三が声を潜めて話しかけてきた。良枝はレジ横で客の置いていった雑誌を暇そうにめくっている。

「あんた、静香と一緒に鈴ちゃんに会ったんだってな」

 もう伝わっているのか。静香にとばっちりがなければよいのだが。

「はあ、三人で四葉のクローバー探しをしていたところ、急な雷雨に襲われ、鈴ばあのあばら家で雨宿りをさせてもらいました」

 源三は満足そうに頷いた。

「そう言えば、鈴ばあに娘時代の写真を一枚、見せてもらいました。親友の千代さんと一緒に倉瀧重吉さんを挟んで写っていました」

「千代か、懐かしい名前だ。あの二人はいつも一緒だったからな。あの頃は二人とも色白のべっぴんだった。倉瀧の兄貴もあの二人のことは随分可愛がっていたもんだ」

 源三はしばらく目を細めて宙を見つめていた。

「あの二人、恩義を感じていたのだろう。倉瀧の兄貴があんなことになっちまったあと、留吉翁に引き取られた重男の面倒をその後も随分と見ていたよ。なんたって当時重男はまだ十歳そこそこだったからな。よくお菓子を持参しては一緒に遊んでやっていたものだ。千代も優しい子だった」

「確か千代さんは若くしてお亡くなりになったのでしたっけ」

 稗田がそう言っていたことを思い出す。

「ああ、確か倉瀧の兄貴が亡くなって三年ほど経った頃だ。ある朝、湖に浮いていたんだ。可哀そうに、どうしちまったっていうんだろうな、一体。その後、村でしっかりと千代の葬儀をして、再び湖に返してやったのさ。残された幼い啓一君も不憫だったなあ。なんせその数年前に父親の健介も山の事故で亡くなっていたのだから。まったく、木こりとは因果な職業だよ」

 源三はそう言うと眼を閉じて黙ってしまった。


 夕方早めに部屋に戻り、白波の立つ尾呂血湖を窓から見下ろしていた時のことだ。ふと、背中に人の視線を感じた。振り返ると、襖の隙間から覗く丸い瞳と目が合った。静香だ。

「どうしたの?そんなところから覗いてないで入っておいで」

 大輔に促されて、ジャージ姿の静香が襖を開ける。手には学校のノートらしきものを抱えている。

「宿題かい?手伝ってあげようか」

 静香はおずおずと大輔の隣に座ると、真剣な瞳で大輔を見上げた。

「舘畑さん、村の外の暮らしって大変なの?」

 一瞬、答えに窮し、代わりに質問で返した。

「村の外で暮らしたいのかい?」

「分からない」

 静香はそう言うとおさげ髪を横に振った。

「ばあちゃんは村で一生過ごすのが幸せだと言うの。ここでは食べ物にも困らないし、何かあっても村の人たちが助けてくれるからって。舘畑さん、村の外では誰も助けてくれないの?」

 言葉に詰まった。混じり気のない瞳で見上げる静香の視線に、いい加減なことは返せない。

「村の外にも助けてくれる人はいると思うよ。それは静香次第だよ」

 静香がぎゅっと唇に力を入れた。そして大輔から視線を逸らすと、何かに耐えるように畳の一点を見つめる。その瞳はかすかに潤んでいた。やがておもむろに手元のノートを開くと、中に挟まれていた藁半紙を取り出した。

「この宿題、来週までなの」

 大輔とは視線を合わせぬまま、静香はその藁半紙を差し出した。そこにはガリ版で刷ったようなインク文字が並んでいた。


 あなたが将来、なりたいお仕事をつぎのなかから選びなさい。


 質問の後には、たくさんの職業の選択肢が列挙されている。


 木こり、お百姓さん、学校の先生、蒙導師、看護師、木工職人、コックさん、郵便屋さん、お米屋さん、酒屋さん、お花屋さん、ケーキ屋さん、床屋さん、肉屋さん…


 そこには五十ほどの選択肢が並んでいた。微笑ましい宿題だと思い、思わず頬を緩めて静香を見やる。しかし、静香は真剣な表情で藁半紙を凝視したままだ。

 次の瞬間、あることに気づき、緩んでいた頬が強張る。そこに列挙されている職業は全て村を出る必要のないものばかりではないか。卑埜忌村では、こんな小さい時から村の中で生きていくことを刷り込もうとしているのだろうか。

「つまり、君のなりたいものは、ここにはないんだね?」

 静香がコクリと小さく頷く。そして聞き取れないほどの小さな声で呟いた。

「静香、ダンスと歌を習いたいの、NiziUみたいになりたいの」

 確かにその藁半紙には、アーティストという選択肢はなかった。畳を見つめる静香に何か力強い言葉をかけてあげたい衝動にかられた。こんなお仕着せの選択肢は無視して、自分の夢に忠実に堂々とアーティストと書けばいいんだよと。ただ、その言葉が出てこなかった。アーティストと書くということは、幼い静香に村の外に将来出ていくと宣言させるようなものだから。そんなことを書けば静香は恐らく、先生や親から執拗な説得と非難を受けることになるだろう。もし静香がそれに耐えて将来本当に村を出たとしても、今度は静香の家族に黒い手紙が届くようになるはずだ。それにアーティストは狭き門だ。うまくいかないことも考えられる。挫折して村に戻ってきても、鈴ばあのような境遇が待っているだけだ。たった数日しか村に滞在しない自分が軽々にそんなことを勧めることは、とてもできなかった。しかし、だからといって、なりたい夢を諦めて提示された選択肢の中から選びなさいとは、とても言えない。

 静香の華奢な肩が細かく揺れはじめる。大輔は言葉に詰まり、ただ静香の小さな横顔を見つめることしかできない自分が、ただただ腹立たしかった。


 その晩、夕食を終えて部屋で寝支度をしていると、襖の外から電話のベル音が聞こえてきた。やがて女将が階段を上ってくる足音が聞こえ、襖がノックされる。

「天法さんから電話じゃ。二階の廊下の電話を取りなさい」

 大輔が部屋を出た時には既に女将の姿はなかった。廊下の突き当りにある黒電話の受話器を取ると、ざわざわという雑音と共に正一の声が聞こえてきた。

「大輔さん、今、県警本部にいるのですが、やっと指紋鑑定の結果が出ました。二人の指紋は、コップのものとは一致しませんでした」

 その声はさほど落胆しているようには聞こえなかった。

「鑑定結果が出るまで時間があったので、稗田の卒業した米子医科大学を訪ねたのですが、ちょっと妙なことを耳にしました」

「妙なこととは?」

「稗田の出身研究室の指導教授が、学会から除名されているのです」

「除名?何故?」

「分かりません。もう少し調べてみます。大輔さん、そちらは何か変わったことはありませんでしたか」

 正一の問いに、大輔は神島に通じる坑道を発見したことを伝えた。

「それはお手柄ですね!でも、危険だから僕が戻るまであまり深入りしないでくださいね。僕は明日、龍久寺を訪ねてから夜にはそちらに戻るつもりです」

 そう言って正一は電話を切った。


 卑埜忌村に来てから、既に八日目の朝だ。朝食を食べていると、女将が何かを手に持って現れた。

「舘畑さん、あんた宛てに手紙が郵便受けに届いておった」

 白い封筒を受け取った。表面には舘畑大輔様とだけある。恐らく誰かが夜のうちに直接樵荘の郵便受けに入れたのだろう。裏面を見ると差出人名は書いていない。不審に思いながら封を開ける。取り出した紙には見慣れない筆跡の文字が並んでいた。


 舘畑様、山根美穂のことで話があります。あなたが昨日通った地下道の銅鐸の広間で、今日の正午に待っています。このことは他言無用でお願いします。以上


 思わず手紙を持つ手が震えた。昨日、俺があの坑道を通ったことを既に知っている者がいるのだ。誰だ?美穂に関して何か知っているというのか。その誘いにのることは危険な気もしたが、美穂のことで何か新しい情報が得られるかもしれないと思うと、とても無視することはできなかった。懐中電灯を手に宿を飛び出した。


 ススキ原の井戸の木蓋も井戸底の鉄の扉も、昨日大輔が閉じたままの状態で変わりはなかった。大輔は湿った風を受けながら再び暗い坑道に足を踏み入れた。昨日よりも歩き慣れたせいか、二十分ほどで銅鐸の広間に辿り着く。時間を確認するとまだ正午までしばらくある。横に広がった空間に懐中電灯を向けて周囲を観察してみた。昨日は気づかなかったが、周囲には銅鐸の破片に加え、何やら赤っぽい土器の破片も散乱している。かすかに原形をとどめているものから推測すると、恐らく壺や皿の破片だろう。遠い古代の時代、この場所で何か人の営みが行われていたのだろうか。

 再び時間を確認すると、もうすぐ正午だった。大輔は壁の窪みにもたれて座り、手紙の送り主が現れるのを待った。相手はススキ原側から来るのか、それとも神島側から来るのだろうか。どちら側から来たとしてもすぐに相手の灯りに気づけるよう、手元の懐中電灯は消して待つことにした。途端に漆黒の闇と静寂が大輔を包み込む。

 完全な闇の中にいると、次第に自分が目を開いているのか閉じているのかが分からなくなってくる。やがて自分の手や足がそこにあることさえ、あやふやになる。闇のせいで肉体感覚が希薄になっていくのだ。肉体とは見えてこそ実感できるものなのかもしれない。逆に意識だけが闇の中で鋭く研ぎ澄まされていく。やがて、意識は肉体から乖離して漆黒の時空を浮遊しはじめる。

 暗闇で赤子が泣いていた。光沢のある美しい絹の布にくるまれた赤子だ。母親らしき女が心配そうに赤子を抱きかかえている。女も美しい絹の衣装を纏い、胸元には翡翠の勾玉を提げている。その周りを粗末な麻布を纏った女たちが囲んでいる。手元には各々松明を掲げている。女たちは皆、沈痛な表情で赤子を見つめている。よく見ると、女たちは声を立てずに泣いていた。赤子の泣き声だけがいつまでも闇の中にこだまする。いつしか大輔の心の中に女たちの鉛のような重苦しい感情が雪崩のように押し入ってくる。悲嘆、無念、憤怒、怨念といった痛ましい情動が大輔の意識の根幹を激しく揺さぶる。胸が押しつぶされるように圧迫され、息が詰まった。

 ふと我に返った。瞳を見開くと、漆黒の闇が眼前に広がっている。夢を見ていたのだろうか。懐中電灯を再び灯す。周囲の光景が浮かび上がり、途端に自分の肉体が確かな存在として戻ってくる。光は濡れた壁に反射してあたりを明るく照らした。地面に広がる銅鐸や土器の破片が煌々と浮かび上がる。時間を確認すると、既に一時を回っている。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。どうやら手紙の主は現れなかったようだ。仕方がない。引き返すことにした。

 坑道の突き当りに戻ってくると、前方に先ほどの鉄の扉が見えてきた。扉は閉じていた。確か坑道に入ってくるときには開けたままにしておいたはずなのだが。坑道を吹き流れる風が扉を押し閉めたのだろうか。モヤモヤと嫌な予感が胸の中に広がっていく。扉に辿り着き、そっと取っ手を引いてみた。動かない。さらに力を入れる。動かない。逆に向こう側に押してみる。動かない。かんぬきは扉の内側にしかないはずだが、誰かが外側に何か細工をしたのだろうか。その途端、背筋にゾッと鳥肌が走った。閉じ込められたのだ。手紙は俺をおびき出すための罠だったのだ。大輔は踵を返すと、狂ったように坑道を駆け出した。礫石に足を取られながらも前方を照らす光の輪に向かって走った。銅鐸の広場を通り過ぎ、神島側の突き当りに辿り着く。荒い息を吐きながら無我夢中で鉄の扉を押してみたが動かない。恐らく扉の外側のかんぬきが閉ざされているのだろう。いつの間にか坑道の両出口が閉ざされていた。

 大輔は自分を落ち着かせるために、大きく深呼吸をした。そして冷静になるよう自分自身に言い聞かせた。よく考えろ。俺は昨日、ススキ原の井戸から神島につながっている坑道を発見したことを正一に伝えてある。そして正一は今日、樵荘に戻ってくると言っていた。今晩いつまでたっても俺が宿に戻ってこない場合、女将に俺がどこへ出かけたか尋ねるかもしれない。女将は俺の行き先は知らないが、懐中電灯を借りて出かけたことは伝えるかもしれない。例え女将に何も尋ねなかったとしても、正一のことだ、俺が再び坑道に入って何らかの事故に巻き込まれた可能性を考えるかもしれない。ススキ原を探せばすぐに井戸の入り口は見つかるはずだ。明晰な正一のことだ、大丈夫、きっと来てくれる。

 大輔は正一が来てくれることを信じ、再び坑道をススキ原側に戻った。突き当りに辿り着くと、念の為、再び鉄の扉を引いてみたが、やはり動かない。仕方がない。ここで待つしかない。正一は絶対に来てくれるはずだ。大輔は腰を下ろし冷たい扉にもたれかかると、懐中電灯を消した。何があるか分からないから、電池は節約しておいたほうがいいだろう。再び漆黒の闇に包まれた。

 今度は眠るわけにはいかなかった。鉄の扉の向こうから大輔を呼ぶ正一の声を聞き逃すわけにはいかない。鉄の扉の向こうから漏れてくる正一の灯りの痕跡を見過ごすわけにはいかない。大輔は神経を研ぎ澄ませながら、ひたすら助けを待った。正一は必ず来る。

 でも、もし正一が来なかったら。女将を含め村人のほとんどは、俺が失踪したところで気にも留めないだろう。人知れず東京に帰ったとでも思うだけだ。そうしたら俺はどうなる。このままここに閉じ込められて死ぬのか。不思議と怖いという感情は湧いてこなかった。それどころか、何とも言えず腹立たしい気持ちが湧き上がってくる。一体これは誰に対しての怒りだろう。自分に対してだ。音信を絶った美穂を助けるつもりでここまでやってきたのに、何の役にも立たずにこのまま死ぬなんて、何て役立たずで情けないことだ。大切な女性一人助けられないなんて。何としても、美穂を助けなくては。俺の子を宿してくれている美穂を。ちくしょう。拳で鉄の扉を力一杯殴りつけた。

 気の遠くなるような時間が流れた。その間、大輔は意識を手放してはいなかった。時間を確認しようかと思ったが意味がないと思いやめた。何も見えない中、ただ時だけが音もなく過ぎ去っていく。

 どのくらいそうしていただろうか、突然、犬の鳴き声が聞こえてきた。たくさんの犬が一斉に吠え始めた。やがて待ちに待った最初の光の粒が鉄扉の隙間から漏れてくる。続いて誰かが井戸を下りてくる気配。かすかな息づかいが扉の向こうから聞こえる。大輔は鉄扉を勢いよく叩いた。

「おーい、助けてくれ。開けてくれ」

「大輔さんですか」

 それは待ちに待った正一の声だった。

「正一君か、そうだ、俺だ、大輔だ。開けてくれ」

 何かを外す音と共に扉がギギッと音を立てて開く。途端に強い光が大輔の顔を照らし、眩しさに思わず目を閉じた。

「大輔さん、無事でしたか。心配しました。本当に無事でよかった」

 涙混じりの正一の声と共に温かい手が大輔の肩に触れた。助かったのだ。

 梯子を上りようやく井戸を出ると、月明かりを受けあたり全体が青白く浮かび上がっていた。そして密生するススキの間からこちらを見ているたくさんの光る眼。ここを根城としている野良犬たちだ。やがてそのうちの何匹かが大輔たちにまとわりついてくる。大輔は弾かれたように正一を見やった。

「正一君、野良犬がたくさんいる中を一人で来たのか?」

 正一が強張った表情のまま無理やり歯を見せた。

「心臓が止まる思いでしたが、大輔さんを探すことに無我夢中で」

 その体は今になって激しく震え出している。犬に深いトラウマを抱えているはずなのに。正一、ありがとう。大輔は思わず正一の肩を抱きしめた。

 樵荘に戻った時には既に深夜を過ぎていた。

「大輔さん、今日はもう遅いからゆっくりと休んでください。明日の朝、色々と報告をしたいことがあります」

 正一はそう言うと部屋に戻っていった。大輔も布団に入り、暗い天井を見上げた。助かったという安堵感が胸一杯に広がっていく。

 正一はいつまでたっても宿に戻らない大輔を心配して部屋に足を踏み入れ、差出人不明の手紙を見つけたらしい。そしてすぐにススキ原に駆けつけ、犬たちにまとわりつかれながらも井戸を見つけたそうだ。鉄扉の外側の取っ手の部分には、木の杭が差し込まれていたらしい。それはちょうど取っ手の大きさに合わせて巧妙に加工されたものだった。一体誰が。やがて鉛のような睡魔が襲ってきた。

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