三十路教師 高林郁子の憂鬱 <下>


「一次関数を考えるときはまずこの図を思い出してね。この図の、それぞれ……傾き、切片、直線が通る座標①、直線が通る座標②、の4つの要素のうち、2つが分かれば一次関数の式を求めることができるわ――」


いつもの勉強会だけど、私はどうにも落ち着かなかった。

原因は目の前にいる美少年――中杉なかすぎ文也ふみやくんにある。


「郁子先生、ここのところなんですけど」

「……………………」

「先生?」

「あ、ごめんなさい」


気づけばぼんやりしてしまう。

良くないな。

でも彼の長い睫毛まつげや細い首筋、つぶらな瞳を見ていると、思わず口元が「ぐへへ」と緩んでしまうのだ。

いかん、いかん、すぐに正気を取り戻して授業に戻らねば。年下は趣味じゃなかったはずなんだけど最近性癖が歪んでいる気がする。


「ゴホン……えっと、じゃあ、次の部分ね――」

「はい」


まさか教師である私がこんなよこしまな妄想を垂れ流しているとは夢にも思っていないのだろう。文也くんは相変わらず素直な声で返事をすると、まっすぐな瞳を参考書に向ける。

私の声に従いノートの上をスラスラとシャープペンシルが走る。その白く細い指先を見て、私はついつい先日の出来事を思い出す。

このたおやかな指が私の肩や腰を――


「…………ぐへ」

「ぐへ?」

「あ、いや、ゴホン、ゲフン、何でもないわ」


やばい、また口元が緩んでしまう。これじゃあまるで変質者だ。


「今日はちょっと早いけどお茶にしようかしら」

「もう、ですか?」

「ええ、ここから先はまとめて教える必要があるから、ここまでにした方が切りがいいのよ」


もちろん嘘だ。だけど今はとにかく時間が欲しい。適当に理由をつけて仕切り直さねばあらぬ煩悩ぼんのうが大暴れしてしまう。


「ああ、それだったら、今日はこれをどうぞ」

「おいしそうね」

「これにもハーブが入ってて前に渡したお茶に合うんですよ」

「へえ~、そうなんだ~。おいしそ~ぉ」

「はい、すごく美味しいんですよ」

「わぁ~、た~の~し~み~」


出されたのはパウンドケーキ。もちろん文也くんのお母さんの手作りだ。

唐突なお茶会の申し出は明らかに不自然な展開だったと思うが、文也くんは気にした様子はない。その曇りなきまなこに胸が痛い……だが、今はそれでいい。

隠し切らねば!

懲戒免職を喰らわぬためにも!!





テーブルの上には耐熱ガラスのポットがひとつ。それを挟んで同じガラス製のカップがふたつ。

切り分けたパウンドケーキを挟んで私たちはいつものように談笑……出来ていなかった。

理由はもちろん私の心の中にある。

文也くんの白い指先がバウンドケーキを摘み、それが口元に運ばれる。唇は紅をさしたかのように赤い。そのつややか唇の隙間にケーキが消えていく。


「……………………」


その一挙手一投足に目が離せない。咀嚼そしゃく嚥下えんげする仕草は息を呑むほどになまめかしかった。


「……………………」


赤い舌がちろりと口元についたパウンドケーキの欠片を舐めとる。その光景に目を奪われる。


「あの……郁子先生?」

「え、あ……ごめん、何?」

「もう、今日の郁子先生は何だかずぅっとぼんやりしていますね」

「ごめん、ごめん、ちょっと朝から耳が聞こえにくくて、ひょっとしたら耳垢が詰まっているのかな?」


内心を隠すためにも嘘をつく。こんな変質者のようなことを考えていることがバレれば社会的制裁は必至。適当でいいから、とにかくごまかさねば。

そんなもはや教師的に完全にNGな思考をした矢先だった。


「そうなんですね。じゃあ、今日は僕が郁子先生の耳かきをしてあげますね」

「へ?」


ミミカキ?

ミミカキというと耳かき?

えっと……膝枕でやってもらう。いや、違う。そうじゃない。そうじゃないけど、そういう問題じゃない。

想像してみろ三十路の独身女が自分の家で中学生の男の子に耳かきしてもらっている絵面を。


「い……いいかもしれない」


思わず本音が出てハッとする。マズイ。今、完全に犯罪者変質者の顔をしていた。

だらしなく緩んだ口元を素早く閉じて、私は努めて冷静に分析した。



【A】さすがにこれはアウトだ。しっかりしろ高林郁子。お前は、教師として、いち社会人として、大人の対応をしなければならないのだ!


【B】やばっ、何それ? こんな可愛い男の子に耳かきとか、マジでやばいんですけど。こういうのって、お金払っても経験出来ないわよね。絶対する! してもらうからっ!! 大丈夫、やましい事なんてぜんぜん全く存在しないから、大丈夫だから、だから、ほら! ほらぁ!! ほらぁぁっ!!!



「じゃ……じゃあ、やってもらおうかしら」


私の心は今日もあっさりと悪魔の囁きに屈した。





もはや当たり前のように文也くんを寝室に通すと、文也くんはごく自然にベッドに腰を下ろして私に言った。


「じゃあ、郁子先生、どうぞ」

「あ……うん」


何が「どうぞ」って、そんなの決まっている。これから私がしてもらう行為は耳かき。つまりだ。

大丈夫。相手から勧められたのだから、お互い合意の上だし、私には何一つ瑕疵かしはない。

そう、瑕疵などないのだ!


「それじゃあ、失礼します」


ズボン越しに感じた膝の感触は思ったよりも筋肉質だった。とはいっても硬い訳じゃない。載せた頭をわずかに押し返す弾力があった。それが心地よい。

膝枕なんて、いつぶりだろう? たぶん小学校とか、それ以来ぶりだ。


なんか、いいな。


すごく落ち着く。

文也くんが持っているのは綿棒だ。両端に白い綿玉のついたそれがゆっくりと私の耳の上で構えられている。

あれが今から私の耳の穴に入ってくるのか……


「それじゃあ、始めますね……あ、痛かったらすぐに言ってくださいね」

「あ、うん……」

「では――」


親指と人差し指。二本の指が耳たぶを摘み、耳を軽く引っ張る。

きっと耳の穴の中を見やすいようにするためだろう。自分の汚れた部分が文也くんに見られていると思うと急に羞恥心が込み上げてきた。


「あ、あのさ――」


やっぱり止めない……と言おうとして――


「!?」


ゾワリとした感覚が私の言葉を遮った。白く柔らかい綿で出来た球体が耳孔に侵入したのだ。

何の気配も発せずに耳の孔へ入り込んだそれは、私の耳珠の裏を引っかけたかと思うと、迷うことなくそこに溜まった垢をこそぎとった。


すぞ…………っ


くぐもった音が耳洞の中で響く。

同時に得も言われる快感が耳の中を走り抜けた。


「――――ん」

「どうですか? 痛くないですか?」

「ううん、大丈夫。痛くない……です」


痛くない。それどころか、これ……すごく気持ちいい

口元がだらしなく緩むのを止められない。そんな私に気づいていないのか、文也くんはニコニコとした笑顔のままで私に言った。


「良かった。じゃあ、このままやりますね」

「はい、お願い……します」


思わず敬語で喋ってしまう。だがそれを気にしている余裕はなかった。なにしろ今この瞬間にも私の耳の孔の中では、ズズ、ザザザッ……っと綿棒が音が聞こえ、柔らかい綿棒の先が私の体内をまさぐっているのだ。


「ああ、ここ溜まってますね」


まるで玩具を見つけた悪戯っ子のような声。それが聞こえると綿棒にはひねりの動きが加わってた。


じり……っと、擦る音が聞こえたと思うと、再び快感が私の脳を殴りつけた。


そこは耳の入り口のすぐ近く。入口近くだけど指では届かない場所だ。

そこへ更にグリグリと回転する動き。


グリ、グリリ、グリリィ――


捩じりこまれた綿棒は回転しながら力強く耳垢を拭き取っていく。柔らかい綿棒の感触と力強い指使い。それがひとつになって私の耳孔の中を刺激した。

彼の指がじるように捻られると、綿棒の先がグリンと踊る。すると強烈な快美感が脊髄を走り、足の指の力が抜けていく。


グリ、グリ、グググゥゥ~~


耳の穴の中で綿棒がゆっくりと回転する。その度に疼くような心地良さが波のように押し寄せてきた。

駄目だ。脳みそが揺れる。

だんだん何も考えられなくなってきた。

柔らかい綿棒は優しく私の耳の穴を愛撫してくれて、リラックスしきった身体が泥のように重くなりベッドに沈み込んでいく。

頭の下には美少年の温かな膝枕。

こうして完全に全身が弛緩したタイミングを狙って時おり、グリンッ、と綿棒が捻られて痛みにも似た心地よい刺激が背筋を走り抜けるのだ。

自分の体の汚れた部分を掃除されるという行為に私は耽溺する。


入れる、押し付ける、拭う、取り出す。

入れる、擦りつける、拭う、取り出す。

入れる、回転させる、拭う、取り出す。


そうして、それが何度も続けられた後、霞がかった私の頭の中で文也くんの声が聞こえた。


「ほら、沢山とれました」


目の前には黄色い垢がびっしりと貼りついていた綿棒。

あれ……これ?…………!!!

それが私の体内から取り出されたものだと思い出した瞬間、強烈な羞恥が全身を支配した。


「あ、ああぅ…………」

「郁子先生?」

「あ、あああぅ…………」

「?」

「ああああああぁ!!! やっちゃったぁ!!!!!!」







今日の内容はさすがに駄目だったのではないだろうか?

玄関で文也くんを送りながら今更ながらに自問していた。


「じゃあ、郁子先生。また明日、学校で」

「うん、また明日ね……」


明日も学校では文也くんに会う。

だって私は担任だから。


「ああ、そうだ。先生。今日はおみやげがあるんです」


いや、だいぶ前からヤバかった気もするんだけど、バレたら懲戒免職というか、もはや逮捕というか、絶対に余人には知られてはいけない秘密を抱え込んでしまった気がする。

わたし、大丈夫だよね?

いや、大丈夫なのか??

もう、自信ない。


「これ、お母さんからです」


訴訟、逮捕、懲戒免職、謝罪会見、賠償請求


「アロマキャンドルです。とってもいい香りがするんですよ」


いや、さすがにそこまでは考えすぎか?

マズい、何か言ってくれてるけど、文也くんの言葉が全然頭に入ってこない。


「へぇ……そうなんだ、ありがとう、文也くん」


絞り出すように最後に挨拶して、今日も文也くんを送り出す。

そして彼の背中がドアの向こうへと消え、閉まった瞬間にいつものように床に突っ伏して魂の叫びをあげた。


「だって、文也くんってばカワイイんだもん。しょうがないも~ん!!!」


駄目な大人。そして犯罪者のセリフを叫びながら、今日も私は悶えるのだった。







国際連合『児童の権利に関する条約』

第34条

締約国は、あらゆる形態の性的搾取及び性的虐待から児童を保護することを約束する。このため、締約国は、特に、次のことを防止するためのすべての適当な国内、二国間及び多数国間の措置をとる。

(a) 不法な性的な行為を行うことを児童に対して勧誘し又は強制すること。

(b) 売春又は他の不法な性的な業務において児童を搾取的に使用すること。

(c) わいせつな演技及び物において児童を搾取的に使用すること。

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