#19 呪い

 耳心地の良いさざ波の音色。

 波が押して、引いて、白い砂を洗って行く。

 暖かい日差しが照り付けて、俺の意識を揺すり起こした。


「――ったた……」


 俺は目を覚まし、身体を起こした。

 水面に身体を強く打ち付けたからか、節々が痛む。しかし、幸い大きな怪我はしていない様だ。

 やがて意識も明瞭になって来て、辺りを見回す。


「ナキさん! ナキさんは――」


 幸い、すぐに見つかった。俺のすぐ隣で眠る様に倒れていた。

 俺はすぐさま、這うようにナキの元へと駆け寄って、体を揺する。


「ナキさん! 大丈夫!? ナキさん! ナキ!」


 身体が冷たい。いや、それ自体はいつもの事だ。

 しかしその所為で、死んでしまったのではないかと錯覚してしまう。

 やがて――、


「けほっ、けほっ……」


 ナキは咳き込みながら、目を覚ました。

 そして俺が必死に揺すっていた所為で、着物の前が少しはだけてしまう。


「ああっ、ごめ――」


 と、そう謝って、手を放して視線を彼女から逸らそうとした。

 しかし、謝罪の言葉を言い切る前に、ある違和感に気づいた。


 ナキの首元には、祭りでプレゼントした貝殻の首飾り。

 そして、はだけた着物から除く胸元の肌。白くて、作り物めいて美しい。

 そのナキの白い肌が、僅かに“透けて見えた”のだ。


 その透けた肌が太陽光に照らされて、その光を乱反射する様にゆらゆらと揺らめいて見える。

 ――まるで、水面の様に。


「ナキさん! これ、どうしたんですか……!?」

 

 俺が驚きそう問えば、意識を起こしたナキも自分の身体の異変に気付いたのか、少し恥ずかしそうに崩れた着物を着直しながら、


「あはは……。ばれちゃいました、ね……」


 と、寂しげにはにかんで見せた。


「ばれちゃったって……。ナキさんは、自分の身体がこうなっているって、気づいていたんですか?」

「そうですね、知っていました。楽しい時間を過ごす為には、何か対価を支払う必要が有りました」


 楽しい時間――それは、あの祭りのひと時を指しているのだろうか。

 それを得るために、彼女は対価を払った。

 その結果として、肌が水の様に液状化して透過しているというのか。


「……対価、それって……」

 

 であれば、このナキさんに起きた身体の異変のその原因は――俺だ。

 俺が祭りに誘って、ナキさんを海の底から連れ出した所為だ。


「ごめん……、俺の所為、ですよね……」


 ナキはゆっくりと首を横に振る。


「わたしが、空間さんと一緒にお祭りに行きたいって思ったんです。誘ってもらえて、嬉しかったです。だから、あなたの責任では有りません」


 俺は胸が締め付けられる思いで、自分の無力さが歯痒くて、砂を握り締める。

 ナキは優しく表情を緩めて、言葉を続けた。


「どうしてわたしが、ずっと海の底で暮らしていたのか、分かりますか?」

「どうしてって――」


 昨晩、あの崖でナキはその答えを言っていた。――“わたしたちは、この海から離れられません”と。

 

 ナキは着直した浴衣の首元をまた少し緩めて肌を見せ、そっと指先を触れさせる。

 やはり胸や鎖骨辺りから首筋にかけて、肌が水の様に透けている。


「これが、その理由です。これは、タテシマ様へ掛けられた“呪い”なんです」


 呪い。――ナキはそう言って、悲しげに目を伏せる。


「わたしが以前に、タテシマ様についてお話しした事を、覚えていますか?」

「確か海の底で出会って、命を分けてもらったって」


 そして、今タテシマ様はナキの内に居る。

 

「はい。わたしはタテシマ様によって命を救われ、一心同体となりました。

 しかしその時、わたしと出会った時点で、既にタテシマ様はとても弱っていて、何かに怯える様に海の底で震えていました。

 そうです。既に傷付き、呪われてしまっていたのです」


 弱っていて、震えていて、呪われていた。

 それでも最後の力を振り絞って、ナキに命を分け与えた、優しい神様。

 そしてそれ以降もナキの内で細々と生き長らえて、ナキが生きる為に地上から様々な物を運び与えた。


「その、呪いって――」

 

 タテシマ様は何故、ナキに様々な物を運んできて与えたのか。

 ナキは何故、海の底で暮らしているのか。

 何故、お祭りへ行くと肌が液状化してしまうのか。

 

 肌の液状化、それは対価だと言っていた。

 つまり、対等な交換。何かを得るために、身体を犠牲とした。

 

 得たものは祭りへ行くという行為、その時間だ。

 言い換えるならば、それは“地上で生きていられる時間”だ。


「――はい。わたしたちは、“海から離れられない”という呪いを受けています」


 ――ナキは、そしてタテシマ様は、海から離れられない。それが“呪い”だ。


「呪いの結果、わたしは海から離れる時間が長ければ長いほど、身体が液状化して行く様です。

 タテシマ様のお力を借りて一日だけ、お祭りの日だけの僅かな時間を頂きましたが、それでもこれだけ進行してしまうのなら、三日も有れば――いえ、タテシマ様のお力が無ければ二日としない内に、わたしは水となって消えてしまうでしょう」


 優しい神様が、そして捨てられた赤子のナキが、どうしてそこまで酷い目に合わなければならないのか。

 どうして海に縛り付けられなければならないのか。


 祭りに行くだけで水になって消えてしまう? ふざけている。

 どうしてこれ以上彼女を不幸に合わせるのか。

 もう幸せになったって、いいじゃないか。


「そんな――でも、どうして! どうしてそんな呪いを!?」

 

 俺はこの怒りをどこへぶつければ良いのか分からなくて、声を荒げてしまう。


 しかし、ナキは静かに首を横に振る。

 

「分かりません。タテシマ様と直接お話しは出来ませんし、きっとそれを語ろうとはしないでしょう。それは、お辛い記憶でしょうから」

「でも、それじゃあ――」

「はい。わたしは、あなたと共には行けません。きっとこの世界は、尽きる事無く無限に、どこまでも広がっているのでしょう。

 きっと遠くへ行けば、どこかに居心地の良い土地は有るのでしょう。

 素敵な景色は、たくさん有るでしょう。――きっと、あなたの隣は幸せでしょう」

 

 ナキはそうやって、指折り数える様に昨晩俺が語った夢物語を反復する。

 しかし、それら全てを「ですが」と一蹴して。


「わたしの世界は、ここしか無いんです。この海だけが、わたしの世界なんです。どこまでも広がる海。しかし、どこへも行けない――」


 ナキは眼前に広がる海を抱きしめる様に手を広げる。

 見れば、袖口から除くその細い腕も透けて太陽光を反射していた。


 俺が語った夢物語が、どれ程残酷な物だったのか。それを改めて思い知らされた。

 決して手の届かない理想を目の前に並べられる事が、どれ程残酷で心無い行為だっただろうか。

 しかしそれらも全て、彼女は優しく包み込み、笑顔を向けてくれる。


 俺は何も言えなかった。言葉が喉で詰まって、息が苦しい。

 

「ありがとうございました、空間さん。お祭り、とっても楽しかったです。でも、ごめんなさい。わたしは、あなたと共には行けません」


 ナキは昨晩と同じ様に、礼の言葉を述べる。そして、振られた。

 そう言って立ち上がったナキは、ざぶざぶと波を掻き分けて海の中へと歩いて行く。

 

「ナキ、俺は――」


 言葉が、続かない。俺は、なんだ? どうするって言うんだ? 何が出来るって言うんだ?

 ナキは一瞬足を止め、首だけで振り返る。

 

 しかし、そのまま寂しげな微笑みだけを残して、また前を向いて歩を進め、やがて海の中へと消えて行った。

 俺はそれを呆然と眺めていた。

 

 朝日が眩しくて、目を細める。

 絶対に離さないと、昨晩そう心に誓ったばかりなのに――。

 無力感に包まれたまま、俺はしばらくその場で潮風を浴び続けていた。

 

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