第六話 罠

『谷崎潤一郎』

「へ、え……?」

 相手の声は紛れもなく、先刻まで目の前にいた中原中也のものだ。

 何かの罠かと、谷崎は慌てて周囲を見回すが、廊下を遠ざかっていく芥川の背中しか見えない――。

「どうされましたか?」

 賢治が心配そうに、谷崎の顔を覗き込む。

「なっ、中原中也だよ……」

 谷崎は状況が飲み込めないままに、ただの事実を云う。

「ああ、中也さんでしたか! なら、大丈夫ですね!」

 賢治はぱあっと顔を輝かせ、安心安心と頷く。

「どっ、どこが……!」

『おい』

 機械を通した中也の声に、谷崎は慌てて背筋せすじを伸ばす。

「は、はい、何だ……すか」

 谷崎はどんな口調で話せばいいのか分からず、しっちゃかめっちゃかの言葉で応える。

『今、ポートマフィアが探偵社に何か仕掛けてる事はェ。見つかって無駄な戦闘になる前に帰りな』

 それから直ぐに電話は切れた。つー、つー、という無機質な電子音が鳴るのを、谷崎はしばら呆然ぼうぜんとして聞いていた。

「どんなお話でしたか?」

 賢治は谷崎の青い顔を覗き込んだまま、ぱちぱちと瞬きをする。

「え、いや、なンか、探偵社に仕掛けてる事は無いッて……。無駄な戦闘になる前に帰れッて……」

り中也さんは優しくて強い人ですね!」

 賢治はぱちんと両手を合わせ、幸せそうに笑う。

 すると窓の無い廊下に、柔らかな太陽の光が差すようだ――。

 いや、そんなことを考えている場合ではない。

「どっ、どうしよう? これも罠だッたら……?」

「罠ではありませんよ。それに、万が一罠だとしたら、それこそ戦うべきではありません。僕達だけではどうにもなりませんから」

「ああ、うん、そうなんだけど……」

 これが罠だとすれば、谷崎と賢治が逃げようとした瞬間に発動するに違いないではないか――。

「大丈夫です。芥川さんは、僕の瞬間移動のことを知りませんでした。つまり僕の異能力についての情報はきちんと確認されていなくて、ポートマフィアの上層部であっても全員が知っている訳ではないということです。なので僕が谷崎さんと一緒に走って帰れば、きっと大丈夫ですよ」

 賢治は自信たっぷりである――。

「そ、そうかなあ……」

「ええ。さあ、迷っている暇はありません。敦さんが今、つらい思いをしているかもしれないんですから。行きますよ」

 賢治が笑って、手を差し出す。

 谷崎は、短い逡巡しゅんじゅんの後、その手を――。

《イ タ》

 振り返るも無かった。

 不気味に変声された声が聞こえて、それで……?

 うヴぁあああああああああああああああああああああ!?

 叫び声は声にならなかった。

 腕!

 左腕、千切ちぎれた!?

 ――いや、ある。

 あるけれど、痛い。

 覚えのある痛みだ。

 ――体術の訓練で、肩の関節をめられた時の。

 だが、それを思い出してもどうにもならない。

 動けない。

 痛みの所為せいだけではない。

 視界の端に、濃紺のうこんいろの布らしきものが映っている。背中に誰かが乗っているようだ。

 その人物に押さえられているのは二、三か所の筈なのに、ぴくりとも動けない。声すら出せない――。

《イ ノウ ノモ ノ ヨ ワイ ヨワイ ネエ エヘヘ ヘヘエ》

 頭の後ろから気持ちの悪い笑い声が降ってくる。

 雪はいつの間にかんでいる。

 太宰の持つような異能解除の力が加わったのではなく、襲われた拍子にけてしまったようだが、この状況を切り抜ける異能の使い方を考えることができない。

《タダノヒ ト ヨ リ ヨワ イ》

 機械で変えられた音声なのに、その言葉が脳の奥底に突き刺さって抜けなくなる。

 平凡で、涙を誘うような苦痛に満ちた過去も、誰もが称賛するような成功も持たない谷崎は――。

《ヨ ワヨワ ダネ エ》

 身体の力が抜けていく。

 ――こんな異能、知らない。

《ハハ ヨワ》

 そうだ。

 ボクは、弱――

「お話を聞けない人には、こうです!」

 誰かが発砲したのかと思った。

「大丈夫ですよ。後で花袋さんに直してもらいますから」

 谷崎を担いで探偵社の医務室に瞬間移動した賢治の言葉に、谷崎は賢治が携帯電話を投げて敵を制したのだと理解した。

「少しだけお待ちくださいね。直ぐに与謝野医師せんせいをお連れしますから」

 賢治は動けない谷崎を寝台にそっと寝かせると、ぴょんぴょんと走って医務室を出ていく。

『ナオミさーん。谷崎さんがお怪我をされたのですが、与謝野医師に連絡をしてくださいませんか? 僕の携帯電話、壊れてしまいまして』

『えっ、兄様が!? でも賢治さん、実は今、皆さんと連絡が取れなくなっていますの……』

 思えば先刻から、事務所の方が騒がしい。

 だが、動けない。

 声も出せない。

 左肩の痛みも酷いが、それ自体は動けない程のものではない。

 まるで、身体の芯を抜かれたようで――。

 不意に襲った睡魔に、谷崎はあらがうことができなかった。

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