二『初めての休日を過ごす。』下


 ゆるやかな振動に、身体を包まれているみたいだ。光色のあわい白のなかで、幸喜こうきの意識は揺蕩っていた。ぼやぼや、覚めきらないまどろみが無性に心地いい。こんなにもやさしい眠りは、ひどく久しい気がした。

 ──あぁ、そうか、俺。

(……ねむってた、んだな…)

 目蓋はまだ重いから、上げることを放棄する。最近、環境の変化が急すぎて、熟睡できてなかったんだろう。けれども名残惜しくも、意識はじわじわ覚醒しつつあった。

 目を開けなくとも、恭平きょうへいの運転の丁寧さが伝わってくる。動くときも、止まるときも、ゆっくり曲線的な加減速をつけて。今は持ってないけど、飲み物とかフタ無しでもこぼれなさそうなくらい、穏やかだ。

 飲み物。

 水面がゆわりと揺れる情景が頭に浮かんだ。

 みずの、うごく感覚。


(────あ)

 お腹のなかにも、おんなじ感覚がするのは、気のせいじゃない。幸喜の小さなお腹だ。恭平のやわらかな運転のためか、ずうっとゆらゆら静かに揺れている。ここ数時間で、しっかり貯まってしまったみずが。

 ──普段なら、もう済ませてるくらいの感じだ。

 このくらいの貯まり具合で後回しにするのが、一番危険だと幸喜はよく知っていた。キョーヘイさんに言うのは恥ずかしいけれど。近くにあるのなら、行っておきたい。そう思って、幸喜はゆっくりと目蓋を開ける。動いたり止まったりしている運転だから、もう住宅街だろうか。コンビニとか、あるかな。期待を込めて、視線を窓の外に移した。

「………」

 少しずつ、外の世界の光に馴染んでいく目は映す。

 広いオレンジ色の空と、周囲に並ぶ車、車、車。車の群集。こんなにゆっくりな運転だった理由が、すぐにわかった。この車は、渋滞の最中にいるんだ。

 気づくと同時に、きゅっと小さなお腹が呻く。大きささえ縮んだ気がして、幸喜はひゅっと息を飲み込む。緊張に負けてしまいそうな身体が、泣きそうに震えだす。受け入れがたくて再び瞑った目蓋に、熱いものが浮かぶ。


 ──どうしよう。

 どうしたら、いいんだろう。

 こんな道の状態では、トイレどころか、最悪途中で車を停めてもらうこともできない。恭平に打ち明けたとて、対処のしようがない。彼を、いたく困らせてしまうだけだ。──キョーヘイさんに、気づかれるわけにはいかない。

 ブランケットの下の脚どうしを、こっそり擦り寄せる。両手を、脚の付け根あたりにそろり、うつす。身じろぎだと勘違いしてくれる程度に。

(っ……)

 きゅうっと身体全体を固める。身体じゅうの管という管、出口を塞ごうとと息を詰める。つま先まで神経を研ぎ澄ませて、緊張を全身に行き渡らせる。我慢、するしかない。せめて高速道路から降りれるくらいまで、恭平にばれないように、我慢しないといけない。

 それなのに、幸喜の小さなお腹は反対の方向へと向かっていく。

 我慢しなきゃ、そう思えば思うほど。お腹は縮こまって、どんどんおしっこがしたくなってしまう。我慢のしかたが、宙に浮いたみたいにわかんなくなってしまうのだ。

(っなんで、俺トイレ行ったじゃん…! キョーヘイさんなんて、トイレ一回も行ってないのにっ)

 身体の大きさ、あるいは貯めるところの大きさかの違い? おしっこになるまでの早さ? そもそも、我慢できなくなってしまう自分のこころの体質がいちばん、問題だとわかっている。ミルクティー一杯だけで、こんなに追い詰められている自分が。情けなくって認めたくない。

 そわり、そわり。車の揺れに紛れて動かす脚で、欲求をかき消そうとする。あとどれくらいかかるだろうか、恭平に訊いてみる選択も浮かんだが、だめだ。目敏い彼にもし、気づかれてしまったら。自分はほんとうに堪えられなくなってしまうに違いない。

「っ、…っ」

 幸喜は両手でブランケットをきつく握り込む。そうでもしないと、張り詰めた小さなお腹から溢れてしまいそうだった。

 ──我慢、しなきゃ。我慢、がまん、しないといけない──。

 その責務に、〝我慢できなかったらどうしよう〟が一瞬よぎったとき。

 じゅい、と重い音が、一秒足らずだが身体の神経を通して聞こえた。


(──ぁ、あっ…)

 音は、ブランケットに遮られて車内には響いていないが、問題はそこではない。

 内股の奥がわずかにぬくい。下着の前のほうがじんわりいやにあたたかい。けれどもすぐに冷たさに変わって、身体の中央の温度を奪っていく。

 ほんのちょっとだが、間違いなく出てしまった。恭平の運転する車の中で、おちびりをしてしまった。自分だけにわかる事実に、顔全体が青ざめる。同時に、こころが弱音を吐きたがる。

 もし、〝もしも〟だ。あくまでイフの話。

 ここで──恭平の車で、〝いちばんさいあくの失敗〟をしてしまったら、どうなる?

 綺麗に整っている恭平の車、座席。そこに、自分のまんまるい染みが残ってしまったら? 服と違って、車のシートなんて簡単に洗ったりできないはずだ。となれば、弁償という単語が思いつく。でも車なんて、自分のバイト代では到底手が届かない。座席とかのパーツだけでも買えるのか? いや、いやそれ以前に。

(そんなの、──)

 恭平に、著しい迷惑をかけることは、何よりわかりきっているだろう。

 三日前のときこそ、彼は優しく手を貸してくれたが。そんなの服や床はまだどうにか処理できるから、に他ならない。幸喜は思う。自分の車を汚されて、怒らない人も呆れない人も、いるわけがないと。

(っ、ぜったい、がまん…しないと…)

 〝普通じゃない〟自分を受け入れて、温情で接してくれる彼に。これ以上迷惑をかけたくない。そんな一心で、幸喜は脚をぎゅうっと寄せた。今はただただ、彼に悟られてしまわぬよう、我慢を続けるしか選択肢はなかった。



***



 車は恭平の運転で、ゆっくりとだが着実に前へと進んでいた。完全なる膠着状態ではないようで、車のスピードと立ち往生する頻度は次第に反比例していった。

 閉じた視界の中で、恭平の息遣いがかすかに聞こえる。時折、ふうと息をつく彼。渋滞の中の運転は、普段以上に集中力が必要なのだろう。疲れている彼に、更なる面倒ごとを上乗せしたくはない。


「っ、……ッ」

 ブランケットの下の足は、そわそわ動きを止められないでいる。音こそ立たないよう、小刻みに擦り合わせるくらいに。本当はブランケットごとぎゅうっと押さえたいけれど、バックミラーに写った瞬間、ばれてしまうからできない。

 あとどれくらい。おしっこ、あとどれだけ経てばできる? はやく、早くできるところ、どこかお店のトイレ借りるとか、公衆トイレとか、さいあく、路肩でも──車汚すより、は、まし? とにかく高速降りて、トイレ行きたいってキョーヘイさんに言って、トイレ探してもらって、トイレ、はやく。

 幸喜の脳裏に、やっとやっと間に合った光景が浮かぶ。待ち望んだ白い陶器。もう個室を選ぶ余裕もないから、立ちぱなしのほうで。そうやって、貯め込んでたぜんぶ、早く、はやく出したい。でないともう、で、出ちゃ──。

「……っ、!! ──ゃ、」

 ちがう、ここはゴールじゃない。

 にもかかわらず、身体が諦めることを望んでしまう。

 びゅう、一気に熱くなるボトムスの前のほう。すでに湿っていた下着を突き抜けて、身体の真ん中が温もりで包まれる。だめ、まだだめだ、ブランケットの両手ごと、幸喜は温もりの出どころをつよく押さえつけた。少しずつ、こぼれていく感覚は止まるものの、それでも尚お腹はぱんぱんに張り詰めている。身体も、おしっこしたい気持ちも、ちっとも楽にならない。もっとだしたい、のきもちが増大していく。


「っぁ、っ──」

「…幸喜くん?」

「──ッ!?」

 反射的に顔を上げて、ミラー越しの恭平とばっちり目があってしまった。

 つまり、今の俺の姿も、ばっちり見られてしまっているということ。おしっこを必死で我慢している自分を。自覚して、顔が末端まであつくなる。

 幸喜が何を言う前に、恭平は逡巡しながらも言葉を繋いだ。

「えっと……気づけなくてごめんね。もうすぐ高速降りれるんだけど…」

「っ…! ほんと、」

「このへん、降りたとこにコンビニとかないから…家まで行ったほうが早いと思う。どうする?」

 選択を委ねられたところで。幸喜にはもう、選ぶ猶予すらないのに。恭平はあくまで、幸喜の意思を尊重しようとしていた。我慢に意識も息も取られそうになりながら、答える。

「っい、いそいで…!!」

「! わかった、できる限り…!」

 恭平はしっかりと頷いて、運転する身体に気を引き締めた。

 かたん、ことん。車の速度が先ほどよりも増したせいか、振動が幸喜の小さなお腹に響く。未だにブランケットの中は、じゅっ、しゅいぃ、音がしている。どうしよう。道半ばで出て、いや、止まらなくなってしまったら。そう視界をゆがませる幸喜へ、前方から確かな声が聞こえた。


「──幸喜くん、」

「っ?」

「もし……〝もしも〟があっても、大丈夫だからね。本当にしんどいときは、無理しないで。」

 ──それは、どういう意味──? 幸喜は真っ白に染まる頭で困惑する。この人は、なんでこんなことを言うんだ。〝もしも〟、要するに限界をここで迎えてしまっても、大丈夫?

 なんで?

 車、汚しちゃうのに?

 絶対、ぜったい迷惑かけるのに──?

 ミラー越しに見える恭平の顔、運転席の横顔。どちらも、眼鏡の奥の瞳は優しく細められている。穏やかなのに真剣な眼で、微笑みながら彼はそれを言った。

 嘘も、偽りも感じられなかった。彼の言葉は本心だと、自ずと感じられてしまう。

(……ぁ、れ…)

 身体が、ほんのちょっぴり楽になった錯覚をかんじる。じんわり、おちびりじゃない何かで小さなお腹が温まる。どうして。

 ──彼の「大丈夫」が、お腹とこころの隙間を作ってくれたから?

 まだまだおしっこはしたくてたまらないし、お腹は限界まで張り詰めている。けれど、あとちょっとなら頑張れる気がした。不安と緊張に、最後の砦を支配されてしまわないよう。幸喜は下半身に力を込める。我慢、できる。そう念じながら。

 間もなく、二人を乗せた車は旗野はたのの町へ降り立った。



***



 住宅街の景色が風とともに流れていく。行きの速度よりずっと速く、恭平の運転は前へと進んでいく。幸喜にも少し見覚えのある車窓へと変わる。つまり、ゴールはほど近いということ。

(あとちょっと…! もうすぐ、もうすぐトイレ…!! おしっこ…!!)

 恭平に知られてしまったからには、もう躊躇いはなかった。幸喜の両手は中心をぎゅうぎゅう握り込む。両足をばたばた忙しなく揺らしながら、出口まで迫りくるものを懸命に堪えていた。

「幸喜くんっ、もうじき、だよ!」

「っ──!!」

 恭平が声を発したのと、ときを同じくして。がたん、車の衝撃が跳ねる。窓の外に、一週間で見慣れた風景がある。二人が暮らす、マンション。その駐車場に乗り上げたのだ。

「ふ、ぁっ」

 けれど振動が、小さなお腹の門にひびをつくる。

 びゅうっ。と水の線が流れて、もうびしょ濡れの下着をひたす。

「ゃ、あ、あっ」

 今まで以上に断続的に、あふれはじめている。もう、水の線が止まらない。止められない。握りしめたブランケットの上に、水がじっとり浮かんだ。

 だめだ、もうだめだ、でる──でちゃう!!

「きょーへいさんっどあ、あけて──!!」

 なりふり構わず幸喜が叫んだ。


 その瞬間に、車が完全に止まった。


「幸喜くんっ」

 車を普段の場所に停めた恭平は、すぐに車から降りる。運転席の斜め左の後部座席のドアへ駆けて、三秒経たずに幸喜のすぐ傍のドアを開けた。

「だいじょ──」

「っひ、ゃ、ぁあ!!」

 ブランケットを放り出す。最後の力を振り絞って、幸喜は車から身体を下ろそうとする。押さえ込んだ右手から水の線がびゃっ、とこぼれ落ちたものの。アスファルトの上には、両方の脚を下ろすことができた。

 夕刻の冷たい突風が、全身をなめた。

 からだの力が消えて、しゃがみこんでしまったのは、直後だった。


「ぁ、────」

 ばしゃばしゃ、みずのおとが遠くで聞こえる。俯いた視線が捉えたのは、もうみずが止まらない自分のからだ。あぁ、おれ、もらしてる。トイレじゃないとこで、おもらし、してる。漸く気づいた瞬間、目の前がぐしゃぐしゃにゆがんだ。

 蹲みこんだ下のほう、股と臀部の全面がなまあたたかい。白い湯気が、ぼわり、目の前を過ぎる。

 ぼやける視界の端で、──水たまりに反射した、目を丸くしている恭平の姿が映った。それでも彼は、そうっと幸喜の傍らに歩み寄る。幸喜と同じくらい屈んで、おもらしを続ける幸喜の背中に手を添えた。

「だいじょうぶだよ。」

「──ぇ」

「周りに人いないみたいだから。落ち着くまで、しちゃっていいよ。」

 僕も目隠しになってるから。そう言って、彼は幸喜が車のドアとの陰になるよう、立ち位置を選んでくれていた。落ちる寸前の太陽の光から、幸喜は完全に遮られて。確かにここはトイレではないけれど、幸喜のおもらしを目撃してしまう人はいない。──恭平以外は。

(あ………)

 その実感が、幸喜のおしっこの勢いをつよめた。

 みずのおとも視界の端の水たまりも、どんどん大きくなっていく。身体からこぼれていく感覚は、ひどく、すっきりする。反射的に、あつい息が口からもれた。まるで、安堵したみたいに。

 そうして一分以上の時間をかけて、幸喜のお腹はやっとからっぽになった。



「………」

 止まった水音と、もうこぼれ落ちないみずが、ようやく幸喜へと知らしめる。おしっこ、ぜんぶでちゃった、のだと。

 音はしっかり耳に届いてしまっていたのだろう、恭平は。幸喜の背中をゆっくりと撫でながら囁く。彼の大きな手は、誰そ彼どきの寒さの中なのにめっぽう温かい。

「落ち着いた、かな。」

「っ…きょう、へい、さ…」

「幸喜くん、すごく…すっごく、がんばったんだね。」

 そう言う恭平の視線の先に、幸喜の目も奪われる。

 乾いたアスファルトの上、幸喜の真下には。直径一メートルははるかに越える、おおきないっぱいの水たまりがつくり上げられていた。言うまでもなく、幸喜のずうっと貯め込んでいたおしっこだ。

(──俺、)

 ひやりと、身体が風に触れて震えたのと同時に。

 幸喜は車の中での自分のことを思い出す。ばっと顔を上げて、自分が座っていた席を見遣った。そして、漸く自覚した。

 目の縁で留まっていたものが溢れだすまで、数秒とかからなかった。

「~~っ、ごめんなさい、ッおれ、俺……っ」

「あぁ…いいんだよ、泣かなくたって。仕方のないことなんだから…」

「ちがうっ…!」

 首をつよく横に振ったせいで、涙がぴしゃんと跳ねた。まるで聞き分けのない子どもみたいだ、と自分でも呆れる。

 ただ、恭平はずっと細めた眼で幸喜に向き合い続けている。──そんな資格なんて、俺にはないのに。だって、と叫ぶつもりで幸喜は言葉を落とす。

「おれ……ッ」

「うん…?」

「っ車、よごし、た…!! ぶらんけっと、も…!」

 幸喜が座っていた席の、下のほう。足をつくところには、こぼしてしまったみずの染みがじんわりにじんでいた。腰を下ろしていた座席にも、ほんの少しの水たまり。挙句、ブランケットの真ん中のほうは、まあるく色濃く変わっている。自分が思っていた以上に、車を降りるまで我慢できなかったもの──おちびりは多かったのだ。結局、恭平の車を、自分は汚してしまったんだ。

 だが、幸喜のおもらしの水たまりと比べて、その量が幾分とわずかであることに。恭平はちゃんと気づいていた。

「これくらいどうってことないよ。きちんと処理すれば、跡も残んないから、ね? いいんだよ、それくらい。」

「っ、な……」

「いっぱい頑張ってくれてたんだね。…気づいてあげられなくて、ほんとうにごめん。つらかったね…」

 そう言って恭平は、いっそう丁寧な手つきで幸喜の背中を撫でる。大丈夫だよ、を伝える温度だ。自分を見据える恭平は、切れ長の目に瞳をじんわり大きくして、優しく微笑みを向けていた。彼は、幸喜は何も悪くないのだと、本気で思っていた。

 幸喜の掬われた顔が、くしゃりとゆがむ。涙はぼたぼた、頬を伝って止まらなかった。

 ──なんで。

 ──なんで、あんたが謝んのさ──。

「っふ、ぁ、ああぁ…」

 言葉にならない胸の中の思いが、ただの音になってあふれた。くやしさも、──「大丈夫」と伝えられた安堵も、なにもかも。

 べそべそ泣きじゃくる幸喜の背中を、恭平はただただ優しく撫で続けていた。



***



 涙が収まってきた頃合いで、恭平は幸喜にそっと耳打ちした。

「身体、冷えちゃってるだろうから…先にお家戻って、シャワー浴びておいで? 荷物とか、あとで僕が持っていくね。」

 小さく頷いた幸喜は、恭平の手を借りて、どうにか立ち上がった。ワイドパンツは黒色だから、失敗の形跡は思っていたより目立たない。滴り落ちる雫を、恭平から渡されたタオルで拭ってから。幸喜は先に部屋へと戻っていった。



 ──また、キョーヘイさんに、迷惑かけた。

 熱いシャワーを頭から被り、幸喜は身体を綺麗に洗う。涙の残滓もお湯に流して、乾いている服を身につけて、やっと平静を取り戻せた。部屋着のニットのカーディガンのやわい感触に、こころがじんわりゆるむ。濡れた服の下処理をしながら、幸喜は目を伏せる。

(…なのに、ぜんぜん、嫌がられてない。)

 むしろ「大丈夫」をいくつも教えて、自分を助けてくれる。些細なことだと言って、本当に「大丈夫」にしてくれる。恭平の言葉と対応に、本気で安堵しきってしまった自分がいるのも、事実だった。

 『気づけなくて、ごめんね』

 彼の言葉を思い出す。恭平はあたかも自分のほうに非があったみたいな言い方を、今日も──水曜日も、していた。この言葉を真正面から届けられるたびに、幸喜は感じてしまう。

「……なんであんたが謝んだよ…」

 ぽつり。一人きりの呟きが、水面に波紋をひとつ生んだ。



***



 車の荷室から、かつて備えておいた掃除用具を取り出す。──主に、愛翔まなとの失敗のときに購入して、使用したもの。ただ、シートへの滲みの大きさは、そのときよりずっと、大したことじゃなかった。無論、たとえ愛翔と同じようにすべてをシートの上で出してしまったとしても。対処の方法なんていくらでもあるし、そこにコストを払うことへの躊躇いなど、恭平にはない。

 ──言えなかったんだろうな。あの渋滞の中じゃ。

 恭平は処理の手を進めながら、しばし思考に沈む。幸喜はきっと、トイレ行きたいって気づいてから、ずうっと我慢し続けてたんだ。車、汚すまいと必死だったんだ。ひどく泣いていた理由はきっと、そのまっすぐな気持ちと悔しさゆえだったのだろう。


 ほどなくして、すっかり綺麗になった車。アスファルトの上のみずの跡は、近くの水道で汲んだバケツの水で隠滅した。車を施錠して、二人分の荷物を持った恭平が部屋に戻ったときには。幸喜はリビングのソファの前で膝を抱えていた。

「っ──キョーヘイさん…」

 恭平の足音に気づいて、彼はゆらりと立ち上がった。真っ赤な目元に、下がりきった眉。彼のいっぱいいっぱいな表情に、恭平はやわらかく微笑んだ。

「だいじょうぶだよ。ほらバッグ。」

「ぁ……ありが、と…」

「手洗ったら…ココアでも淹れようかな。」

 幸喜くんも、飲む? そう恭平は問いかける。

 目を伏せつつも、幸喜は固くちいさく首を縦に振ってくれた。


 ふたつのマグ。ココアのほろにがい香り。ソファに腰掛けた二人の間には、拳よっつほどの距離がある。

「……キョーヘイさん…」

「んー?」

「………もらして、ごめん。車も、ブランケットも汚して…」

 ココアのマグに手をつけられないまま、幸喜は俯いていた。未だ潤んでいるトパーズの瞳。よほど、ショックだったのは恭平にもよく理解できた。

 でも、彼が謝る必要などないのだ。車は完全に元通りだし、ブランケットはもう洗濯機の中だ。

「気にしないでいいんだよ。渋滞してたんだし、あの辺りパーキングエリアもなかったからね……むしろ、我慢しすぎてお腹痛くなったりしてない?」

「……たぶん、だいじょうぶ。」

「そっか。ならよかった……膀胱炎とかなっちゃうと大変だからねぇ。」

 事もなげに笑む恭平を隣に、幸喜は伏せた目を瞬かせる。

「…嫌じゃ、ねぇの。こんな、迷惑かけてばっかで…」

「幸喜くんを迷惑だと思ったことなんて、一度もないよ。」

 もちろん今後も、幸喜の保護者である責任を、恭平は放任するつもりもない。

 それでもまだまだ不安そうな幸喜へ。恭平は伝えたいことを決める。


「あのね。」

 静かなのに、確かな重みのある呼びかけだった。

「僕が心配しているのは…幸喜くんのからだのことと、今日が幸喜くんにとって嫌な思い出になってしまってないか…ってことなんだ。」

 はじめての二人での外出だった。恭平にとっては充実した一日だった。でも、独りよがりでは意味がない。幸喜の身体に負担をかけてしまうのは、もってのほかだ。

 出かけること自体が嫌になってしまったなら、非は自分にある。彼の事情をフォローできなかった自分に。だから、彼の思いを確かめておきたかった。

「…これからさ、買い物とかお出かけとか、またする機会あると思うんだけど…次も一緒に行きたい、って…言ってもいい?」

「…そんなん、」

 カーディガンの裾を、幸喜はやんわり握る。

「言えば、いいじゃん……俺だって、」

「…うん。」

「……たのしかった、し。」

 彼とともに過ごす休日の時間は、幸喜にとっても心地のよい時間だった。愛翔以外の誰かと、こんなに優しいときを刻むなんて、今までになかった。──こんな俺を受け入れて、隣で目線を合わせてくれるあんただから。自分は、ひどい失敗をしたのに、安堵とともに今ここに居ることができているんだ。


「だから、その」

「うん。」

「……ありがとう。だいじょうぶ、って言ってくれて。」

 横目に見あった視線を結んだ先で。

 穏やかに言葉を待つ微笑みと、躊躇いを踏み越えて凛とした顔が交わる。言葉をこころで受け止めた三秒後、恭平はおもむろに幸喜のマグを手にとった。隣りあう彼に渡しながら、返答した。

「ふふ、どういたしまして。うれしいなぁ」

「……ん…」

「…今度は出発の前に、ちゃんと確認するね。」

 こっそり囁かれた言葉に、頬を薄紅色に染めながら。幸喜は受け取ったマグのココアを、一口味わった。



第二話 了

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