一『生きざるを得ない。』 後編


 彼との共同生活が始まって、今日で三日が経つ。といっても、恭平の見える世界では、まるで今までと変わりがなかった。幸喜の姿を目にする機会が、ほとんどなかったゆえだった。

 朝は、勤務時間の都合もあり、幸喜が起きてくる前に恭平は家を出ていく。宣言通り、ラップをかけた朝食と昼食のお金を食卓に置いていく。玄関で、行ってきます、と一人放つ言葉に返答はない。

 定時あるいは軽い残業のあと、家に帰ると幸喜は居ない。ちょうど、バイトに出かけている時間だ。その間に、二人分の夕食を用意して半分を一人で食べる。もう半分を、冷蔵庫に収める。「チンして食べてね」の貼り紙を添えて。

 寝る支度が済んで、恭平が就寝した頃合いで、きっと幸喜は帰ってきているのだろう。実際に居合わせたことは、思い返しても無かったから類推しかできない。

(……こんなもの、なのかな? 人と暮らす生活って…)

 無論自分も納得して、各々の生活を尊重できるための工夫は講じていた。リビングのダイニングテーブルの上に置いた、冊子。この家のルールや電化製品等の使い方、ゴミ出しの日、恭平の勤務スケジュール、緊急連絡先……必要になり得る情報をまとめた、いわばマニュアル。よく見ればテーブルから動いた形跡があるから、彼は使ってくれているのだろう。

 独立した共同生活。非対面の情報伝達。

 もしかしたら、各々が割り切っているような家庭は、今の自分たちと似たスタイルなのかもしれない。とは思うが、家族という概念が随分縁遠くなった恭平の実感は薄い。

 唯一、恭平が愁眉を開けるのは──幸喜のための食事をよそった皿が、綺麗に洗われて水切り籠の中に並べられていたのに気づく瞬間だった。同時にそれだけが、幸喜が同じ屋根の下にいる実感だった。


 R四年一月二十三日水曜日。

 毎週恒例のノー残業デーにあやかって、定時で帰ろうと業務を粛々と行っていた。新人の作った詳細設計のチェック、自分が上から承った案件の基本設計、打ち合わせ用の資料作成、ユーザからの電話対応、等々。仕事に絶え間はないが、今日やるべきことはすべて終わらせた。じきに定時の五時半という頃合いだ。

「橋口さーん、ちょっといい?」

「はい。どうしました?」

 背後から声をかけられた。聞き馴染んだその声の主は、同じ担当部署の上司・村上さんだった。その手には、彼女の受け持つプロジェクトの基本設計書がある。定時で上がれないのは確定したが、相談に応じない選択は恭平にはない。

 彼女に手招かれて、恭平もデスクから打ち合わせ用のテーブル席へ移動した。


「──ありがとうね。時間遅くなっちゃってすみません。」

「いえいえ、大丈夫ですよ。急いでないので。」

 彼女の相談は、新規プロジェクトの仕様について詰めたい、という旨だった。恭平も参画する予定ではあるから、情報の共有は必要だ。そうと理解して、恭平は柔らかく微笑みを返した。第一、帰りを待つ人が居る訳じゃない。恭平が帰宅を急ぐ必要は、現状なかった。

 けれど、彼女は不思議そうに首を傾げる。

「あれ? 橋口さん、家族が増えたとかなんとか言ってなかった?」

 ──だいぶ、語弊がある気がする。

 直属の上司には、友達の弟の親権を持つことになった事、その子を引き取って生活するようになった事を前もって報告していたが。彼女は、直属の上司ではない。誰だ広めたやつ。恭平は内心咽せそうになりながら、訂正する。

「それって…〝友達〟の弟の話ですか? そんな、大仰なものじゃないですよ。」

「あぁ、その子その子! どう? 生活は。」

 どう、と聞かれて答えられるほど、恭平と同居人の幸喜は接触さえしていない。後ろ髪をやおら掻き上げながら、恭平は返答した。

「う〜ん…その子高校生なんですけど、やっぱり距離の取り方が難しいですね。」

「あ〜、わかるわぁ。うちも娘がそうなのよ。」

 思春期の子をもつって大変よねぇ。彼女は親の表情になって、からりと笑む。

 彼女はそう言うが、自分とはまるで違うように思えた。無論、自ら産んだ子どもを高校生まで育てた、という点において。たった三日で悩んでいる恭平とでは、経験の差が大きすぎる。

 しかし本心を明かすのも憚られて、恭平は黙って微笑みを浮かべた。

「高校生だと、反抗とかするんじゃない? バイトさせろ〜、とか。」

「あぁ…でもその子はもうしてるみたいです」

「えっ早くない? なんのバイト?」

 恭平の口元は、ぴくりと笑みを崩す。

 ──なんの、バイト? それは、知らない。日曜日、衝撃のあまり聞きそびれてしまったから。

 目をぱちくりさせながら、言葉を途切らせた恭平に、向かい合う彼女が気づかないはずがなかった。

「もしかして…知らないの? 橋口くん。」

「……実は、まだ。」

「ちゃんと話とかしたの?」

 無性にバツが悪くなって、口元に手を当てた。コミュニケーションがむずかしくて、と小さく零すと、彼女はじとりと目を細めた。恭平を小突くみたく、言い放った。

「橋口く〜ん、ダメよそれじゃあ。いざというときに困るのは親のほうなのよ?」

「──それは…」

「後から実は非行してました、ってなってからじゃ遅いでしょ? 危ない橋を渡るの、止められるのは大人しかいないんだから。」

 確かに一理はあるが。幸喜がそんな人物には見えない。反論しようと開きかけた口を、冷静な頭が制する。断言できるほど、自分は彼を知らないだろう。

 それでも間違いないのは。

 彼女の謂う通り。子どもを尊重することと、放任することは根本的にちがう。

 だとすれば、自分は幸喜からただ逃げているだけなのか。関わりを恐れているだけなのか? ぐらりと指針が視界とともに揺らぐ。

 恭平の曇りゆく胸の奥など知らず、村上さんは平然と笑い飛ばす。

「ほーら、ファイト! 将来いい〝お父さん〟になるための練習だと思いなさい?」

 その一言が、こころに一筋の罅をつくる。

「…………はは。」

 ──そんな日、一生来ないよ。

 恭平の泥水のような諦めに、気づく者は誰もいなかった。



***



 帰路で買い物を済ませた恭平は、漸く家に帰ってきた。時刻は、定時で上がれたときよりも一時間ほど遅い。人前では絶対にできないため息をつきながら、後ろ手に玄関の鍵を締める。

 ──何が〝お父さん〟だ。

 望んだって許さない社会のくせに。同性同士で生きていく保障を、ひとつも認めないくせに──!!

 苦々しい思いを、咽喉の奥で噛み殺す。この思いを共有できる相手は、もういない。だから、一人で処理するしかなかった。

 今日はやけに重く感じるモンクストラップを、乱雑に脱ぐ。横に転がってしまった二足を、手で拾い上げて端へ寄せた。夜遅く帰ってくる幸喜を、万一躓かせてはいけない。

 今夜も、廊下から見えるリビングにはおろか、他の部屋にも明かりは見えなかった。幸喜はとうに出かけたあとだ。

「………どうしよ。食欲、ないなぁ」

 幸喜の分だけ作って、自分の分はよそうか。なんて選択を納得してしまえるほど、今日のこころは疲弊していた。もはや幸喜のことよりも、恭平自身の傷が悴んで痛すぎた。

 無心で食事を作る。鶏むね肉の塩焼き、あさりとキャベツの蒸し煮、赤だしの味噌汁は多めに作って、明日の朝食にも回せるように。幸喜には申し訳ないが、ご飯は冷凍のものを使ってもらおう。メモには、そう書いておかないと。

 食事が完成してからはもう、寝る支度をするばかりだった。手早く就寝の準備を進めて、時計を見れば九時半。その頃には、恭平はすっかり眼鏡を外して横になるだけで眠りにつけそうだった。


 静まりかえり続ける家の中で、寝室の中で。

 恭平はベッドに横たわる。目を閉じて、シーツに頬を寄せた。土曜日に躊躇いを捨てて、洗濯をしたはずなのに。ありもしない恋人のにおいを鼻腔に感じる。シーツごと抱き込むように、恭平は身を折って縮こまった。

 ──愛翔。

 ──僕の何を思って、託したの?

 こんな僕なのに。この程度の傷で弱ってしまう自分なのに。大切な弟を、どうして託そうとおもったの。

 答えはない。

 こみ上げそうになる熱いものを押し留めるために、ぎゅっと目を瞑った。眠りの世界に落ちるまで、いくばくもかからなかった。



***



 ──とおくで、音がする。がたがた、がちゃがちゃと、焦るような物音。人の動くおと。白い意識の中に、ノイズがいくつも走る。まどろみは、音の煩わしさで次第に醒めていく。

 分厚い目蓋がゆっくりと開かれる。けれども、煩わしさは消えない。むしろ、だんだん強く大きくなっているような気がする。無機質な振動と、苛立ちに似た音。夢では、ないらしい。

 偏頭痛か? と身をおそるおそる起こすも、どうやら自分の頭や耳鳴りが原因でもない。

(………なに?)

 ちがう。外だ。部屋の外。

 恭平は身体をベッドから起こす。枕元に放っていた眼鏡をかけて、寝室のドアを開けた。

 廊下の振動は、玄関戸のほうから続いている。ドアの前に、人の動く気配を感じた。恭平は慌てて、玄関へ近づく。そして気づいた。幸喜の靴はまだ無い、つまり──。

「…幸喜くん?」

「っ──!! あけて、鍵!!!」

「えっ」

 叫びに似た声に、起き抜けの身体はびくりと跳ねてしまう。すぐに恭平は、鍵を開けて、ドアを引いた。

 瞬間、血相を変えた幸喜が飛び込んできた。

「ど、っどいて…!!!」

 恭平の隣を横切った彼は、ブラウンのスニーカーを脱ぎ散らしていく。ばさり、ショルダーバッグを廊下に放った。そのまま、よたよたと廊下の奥へと駆け──ようとしていた。だが、どう見ても一歩一歩が亀の如く速度だ。片手を両脚の真ん中に滑り込ませていては、うまく進めないのだ。

 呆気にとられた恭平の視界の端に、水滴の跡が見えた。それも、玄関の靴から続く、薄黄色の線の跡が。

「ゃ、だぁ、あっ」

 背中からでもわかるほど、幸喜の薄い背中がびくんと揺れた。刹那。ほぼ同時に、ぱちゃぱちゃと水音が滴り落ちる。彼の小さな手から、それは溢れていく。

 もはや恭平の目から見ても、既に「我慢できてる」とは言い難いのに。幸喜は途中で諦める選択肢を知らないらしい。立ち止まった彼は、ぎゅうぅ、と両手でからだの真ん中を押さえる。何度も浅い呼吸で、神経を緊張させて。水音がとぎれて、ぽたぽた、に留まる。そして幸喜は手を伸ばした。トイレの個室の持ち手を握るために、右手を離した──。

「~~~っっ!! あッ──」

「…!! 幸喜くんっ」

 個室の持ち手を掴んだ。それが、だめだった。

 ストッパーのなくなった真ん中から、びちゃびちゃ、と溢れていく。幸喜が、ずうっと必死に溜め込んできたもの。寒い帰り道、我慢し続けていたものは。廊下の冷えきった空気の中で、白い湯気をぼわりと浮かべる。あついんだ、きっと。

 しゃあああぁ…。

 ぴちゃ。ぱしゃ、ぱしゃ。

 幸喜のおしっこはなかなか止まらない。黒のワイドパンツにより深い色の染みをつくって、裾からぴちゃぴちゃ伝っている。黒の靴下はぐちょぐちょだ。水音が、水たまりを叩く音になってから、ようやく勢いはゆるんでいった。


「──ぁ、……っ」

 ぶるり。と生理的な身震いを起こして、幸喜の水音は完全に終わりを迎えた。その三秒後、ぐらり、彼の重心がゆがんだ。

「幸喜くん──!」

 咄嗟に駆け寄った恭平の腕が、彼の自重を受け止める。危ないところだった。そのまま、恭平は彼を床に座らせる。ぴしゃん、と水たまりが跳ねて、視界を過ぎる。恭平は目をまんまるに瞬かせながら、言葉を逡巡した。

「…………大丈夫?」

 言葉を、間違えたかもしれないと思った。

 だって、大丈夫なはずがないだろう。

 現に目の前の幸喜は、床にへたり込んで顔を隠すみたく俯いてしまっている。

 ──どうすればいいんだ、こういうとき──。十六歳の男の子。おしっこの失敗。デリケートな問題。濡れた物の処理。掃除。いろんな事柄が恭平の頭を埋め尽くす。とにかく、何か拭けるものを持ってこないと、と彼のもとから離れようとしたときだった。

 かすれた声が、俯く横顔からこぼれた。

「………っ…ぃ、…」

「…え?」

 思わず、身体を止めて彼に向き合い直した。すると。

「──ッ、ごめん、なさ……」

「…! 幸喜くん…」

「ごめんなさいっ、ぅ、うああぁっ…」

 彼の顔をちゃんと覗き込んで、そうして恭平は目を剥いた。

 幸喜は──大粒の涙をぼろぼろと溢れさせていた。頬を伝って滴り落ちる雫が、彼の作り出した水たまりに波紋を作る。その様子が自分でもわかってしまったのか、涙の勢いはいっそう強くなる。堪えきれなくなって、幸喜はかたく目をつぶった。それでも尚、涙の雨は次々あふれてこぼれて止まない。


 声を上げて泣く彼の姿が、恭平の記憶をぶわりと引きずりおろす。

 ──愛翔と、おんなじだ。

 金色の髪をした彼もまた、今の幸喜と同じようにトイレの前でへたり込んで泣きじゃくっていた。この世の終わりみたいに、涙に濡れていた記憶。そのとき、大切な人がこころの限界で泣いていたとき。自分がどう行動したか、恭平は鮮明に思い出す。

 手を伸ばす選択に、時間はもうかからなかった。


「──幸喜くん、だいじょうぶ。大丈夫だよ。」

 恭平はそうっと、幸喜の背中に手を当てる。戸惑いでわずかに上げられた彼の顔と、目があった。涙でびしょ濡れの顔に、恭平は真剣な微笑みを向ける。ほんとうに、大丈夫なのだと全身で伝えるように。

「っ……ゃ、」

「ゆっくり息しよう? 泣かなくたって、いいんだよ。」

 彼の背中を、恭平は何度も撫でる。その呼吸が、普段と同じ速度になるまで、根気よく。次第に幸喜は涙こそ止まらないものの、恭平をおぼろげに見るくらいのこころの余剰ができていた。トパーズの瞳にしっかり目を合わせて、恭平は穏やかな声で囁く。

「家までがんばったんだね。」

「…っ、」

「立てるかな。濡れたままだと風邪ひいちゃうから、お風呂入っておいで?」

 恭平の提案に、幸喜は目を見開く。声は出せなくても、すぐに勢いよく首を横に振った。揺れ動く眼が語る。後始末くらい自分で、と。素直に頷けるわけもないのは、誰だって同じなのだろう。ただ、この状態の彼を放っておけない、そんな恭平の想いも強情だ。

 ちょっと待ってて、と一言だけ残して。恭平は脱衣所へ赴く。ストックしてあるタオルを何枚か手にして、十秒足らずで幸喜のもとへ戻る。その一枚を、彼の腰元に掛け、失敗の痕跡を見えなくさせた。

「こういうときは、家主の出番だよ。僕なら、すぐに元通りにできるからね。」

 実際、幸喜は掃除道具の場所も知らないはずだ。まだ彼には教えていないのだから。

 渋る幸喜へ、恭平は猶のこと優しい声色で問いかけた。

「っ……でも…」

「ここは僕に任せて、ね?」

 やわい視線と合った彼の目が、くしゃりと細まった。

 漸く幸喜は、ちいさく頷いてくれた。



***



 幸喜を脱衣所に連れていったあと。恭平は手早く、されど丁寧に廊下の水たまりを処理した。玄関から続く水の線も、玄関戸の向こうにほんのちょっぴりだけこぼれていた水たまりも、全部。かつて愛翔が失敗してしまったときに得たノウハウを生かして、隅々まで綺麗にした。

 掃除道具を片づけながら、ふと、空腹感に気づく。夕飯を抜いたせいだろう。時計を見れば、日付が変わる三十分ほど前だ。何かお腹に入れようと、恭平はリビングのキッチンへ向かう。手をしっかり綺麗に洗ってから。冷蔵庫にあった牛乳を、ミルクパンに注いで火にかける。温まったそれを、二つのマグに移す。純ココアのパウダーをスプーンで入れて、しっかりかき混ぜた。ふわりとほろにがい香りが湧き上がる。

 ソファの前のローテーブルに、マグを二つ置いた頃。リビングの扉がおそるおそる開く音が聞こえた。

「…………」

「あ、おかえりなさい。ちゃんとあったまったかな?」

「………」

 目元を、普段の何倍も真っ赤にしている幸喜が、ドアを少しだけ開けて突っ立っていた。念のために、と恭平が用意しておいた新品のシャツとイージーパンツを着てくれている。上着には、おそらく私物であろうニットのカーディガンを羽織っていた。彼は、かろうじて部屋に入るものの、裸足を棒のように伸ばして動こうとしない。恭平は、そんな彼におもむろに歩み寄った。

「泣くと喉渇くよね。ココア、淹れたんだけど飲む?」

「ぇ……」

 拍子抜けしたみたいに、彼は顔をわずか上げる。その顔にふっと微笑んで、恭平はキッチンに向かおうとした。

「そこのソファ、座って待ってて。今砂糖を…」

 純ココアだから甘さが欲しいかもしれない、と買い置きのシュガースティックを用意するため。幸喜の横を通り過ぎようとした、瞬間だった。固い声色が、自分を呼び止めた。


「──あの、っ」

「…ん? なあに?」

「……………えっと……」

「……うん。」

「…………」

 振り返って、幸喜と向かいあった。彼は俯きがちにニットの裾をきゅっと握っている。

 目線を彼より下げて、恭平はじっと待つ。二言目が口に出せないのがいたたまれないのか。幸喜の耳は目元と同じくらい赤い。

 ぐっと彼は背中を丸めて、決心したらしい。やっと小さな口が動く。


「…………なんて、呼べばいいのか、わかんねぇ…」

「…え?」

「…あんたの、こと……」

 橋口、さん…? おにーさん…?

 眉を下げて、再び泣きそうになってしまう幸喜の姿を目の前に。恭平は痛感させられる。

(……そうだよね。)

 ──距離感に戸惑っていたのは、僕だけじゃなかった。

 幸喜も、この三日間ずっとどうすればいいのか困っていたんだろう。干支一回りちがう大人の私生活へ、どうにか迷惑をかけないように。存在感を消そうとさえ、していたのかもしれない。

 恭平は目を細めて、幸喜を見つめたまま伝える。

「…恭平、でも橋口でも…お前でも。なんでもいいんだよ。幸喜くんの呼びやすい方法で。」

 気づいてあげられなくて、ごめんね。と一言を添える。自分のことだけで、いっぱいになってしまっていたことの謝罪だ。

 ふるふる、首を横に振って、幸喜は呟く。

「……じゃあ、…キョーヘイさん…」

「うん。僕は〝幸喜くん〟のままでいいかな?」

「それこそ好きに呼べよ…」

 改めて得られた了承に、微笑ましい気持ちになりながら。恭平は、ありがとう、と返した。


 砂糖はいらない、と幸喜に言われ、二人でソファに腰かける。拳五つほどの間隙を隔てた隣で、幸喜はぼそりとこぼす。手には、まだ口をつけれていないマグがあった。

「……キョーヘイさん。」

「ん?」

「…廊下、よごして、ごめん……」

 ぼそぼそ声でも、彼の申し訳なさはありありと伝わってきた。この一言だけでも、物凄く勇気の必要だったんだろうと、恭平は思いを馳せる。

「いいんだよ。気にしないで? 大人でも、やっちゃうときはあるからさ…」

「………そういうのじゃ、ない…」

「…うん?」

「俺の場合……」

 どういう意味だろう、と傾げた首に幸喜は気づいていたらしい。

 一口、彼はココアを飲む。そして重い口を開いた。

「………緊張したり、なんか、心配だと……すぐしたくなって……間に合わなかったこと、何回かある…」

 わざわざ今打ち明けるということは、幼少期の頃の話でもなさそうだ。

 幸喜が教えてくれることには。彼は精神的な不安が強いとき、しばしば、トイレを我慢できなくなってしまうことがあるらしい。例えば今日も、バイト(彼によると、居酒屋のキッチン担当らしい。)の帰り際にトイレに行けないのが続いて、それでひどく焦ってしまったのだと。

 ぽつぽつ、彼は続ける。

「…夜も、…ほんとにだめなときは、しちまう…月に何回か、だけど。」

「あっ、それじゃあ…ここ数日は…?」

 一人で対処していたのだろうか。問いかけると、幸喜は消え入りそうに返す。

「…………よるの、穿いてたから……」

「──あぁ、そうだったんだね。」

 〝夜の〟とは、──みなまで言わずとも恭平は察しがついた。

 自分の事情のための装備を、彼はちゃんと備えていた。同時に、彼が荷物を否が応でも渡す気のなかった様子を思い出す。そりゃ、嫌だよな、と恭平は三日前の自分を反省した。

 幸喜の事情を知って、思う。彼が愛翔と同居していたときもそうだったのだろう。ただ、恭平から見た愛翔は──そういった事情には人一倍理解がある人物だ。何せ、自分自身が当事者だったのだから。


「…それだと、学校とかも大変でしょ…ここ三日間、困ったことなかった?」

「………いや…」

 一つ、躊躇う言葉。彼は眉間に皺を寄せて、こぼす。

「…行って、ねぇ。学校は…」

「……そうなんだ。」

 恭平の目からは鱗だ。そんな話も、一切誰からも聞いていなかった。遺言執行人の隆司からすらも。だが、自ら言い出すには難易度が高い。これもまた、彼にとっては隠したい秘密に違いなかった。

 ──不登校、かぁ。

 その原因までは言及されないが。恭平から見れば、その選択をしている事実こそが雄弁に語っていると理解できる。深い傷があるのかもしれない、と。だから、自分は事実だけを受け止める。

「…そっか。そうだったんだね。教えてくれて、ありがとう。」

 恭平の視界に見える幸喜の横顔は、にわかに頬が赤い。目こそ合わせないが、自分を相手に話を続けてくれていた。自分のこと、事情、信用して伝えてくれたのだ。

「………引かねーの? 怒んねぇ、の…?」

「どうして?」

 驚いた顔で、横顔が少しこちらを見る。

「……んなの、普通じゃないって、わかってる…から……」

 ──〝普通じゃない〟。

 その認識を突きつけられる痛みは、恭平もよく実感してきた。自分だって、何度それに苦しめられて、尊厳を傷つけられてきたか。数えるほうが苦労するくらいだ。──この傷は未だにいえない。

 だから、何よりも、彼にもう同じ思いをしてほしくないのだ。

「幸喜くんは、幸喜くんだよ。…他人の言う〝普通〟なんかに、傷ついてやる必要はないさ。」

 実際に彼がどんな言動を投げられたのか、傷つけられたのかはわからない。だが、この言葉は自分の呪いを解くためでもあった。

「……」

「少なくとも、僕はそう思ってる。…まぁ、そう本当に思いきれるほど…簡単じゃないんだけどね。」

 濁して、恭平はふふっと笑った。言うは易し、というやつだ。

「……変わってんだね。キョーヘイさん……愛翔みてぇ。」

 幸喜はなんともなしに、呟く。人知れず、また咽せそうになったが。息で押し留めた。

 不思議だった。

 あれだけ不明瞭だった彼の像が、今は色彩を伴って見える。そしてなんとなく、愛翔が幸喜を自分に託した理由に見当がついた。確かに、この役目は──愛翔の失敗を目の当たりにしてきた自分にだけ、できることだ。


 恭平のマグの底が見えた頃。ほうと息をついて、呟いた。

「……やっぱり、難しかったね。お互い、知らないことだらけで生活するのは。」

 隣で頷く衣擦れの音がした。

 幸喜も、同じ実感だったのだろう。遠回りで三日もかかってしまった。けれど、これから先の日々と比べれば、きっと誤差だ。

「僕も、幸喜くんにちゃんと自分のこと紹介しないとね。何か、聞いておきたいことある?」

 お互い、必要な情報は伝える必要があると改めて理解した。恭平も、自分を話そうと決める。

 橋口恭平。二十九歳。職業はシステムエンジニア。自分で特筆すべきことは、それ以上なかった。

 そっと幸喜へと伺うと、彼は数秒言い淀んで、言葉を生んだ。


「……愛翔と、」

「…うん?」

「ほんとに、どういう関係だったの? キョーヘイさんは。」

 彼の問いで、呼吸が止まった。

 頭ではわかっている。幸喜だって、生活のために共有すべき秘密を打ち明けてくれたのだ。本来言いたくないことを言ったんだ、僕のために。──僕が正直に言えなくて、どうするんだ。

 そう叱咤する自分の首を、もう一人の自分が泣きながら絞める。もう傷つきたくない、いやだ、嫌だ、傷が叫んでいる。カムアウトの勇気なんて、僕にはとっくに無いんだよ──。

 締まりきる咽喉で、恭平は返答を絞り出す。

「…………友達だよ。」

 にこりと、とっておきの笑顔で微笑んだ。

「いちばんの、ね。」



***



 ──ごぽりと息の泡が浮かぶ。

 光の届かない深海だ。見上げた海面の遠い上のほうが、わずかに淡く見える。

 重力と水の圧力に抗うからだを、強く下へ下へと引き寄せる引力。──いや、これは深海の引力ではない。自分の身体は、細い男の身体と腕に阻まれていた。

 目の前の、長い前髪の金髪。海水にぶわりと揺蕩って、毛先が自分の口に入ってしまいそう。それほど、彼は距離を詰める。彼がささやく。

 『ともだち?』

 ──春日愛翔は、橋口恭平の〝友達〟──?

 『いちばんの?』

 ぐしゃりと彼の口元が歪む。


 『ボクはその程度だったの──?』


 彼の両手で握りしめられた己の咽喉は、声も出せない。息が、できない。

 だのに。こころの中で、自分の声が響く。外に出せない内側の本音が、ぐしゃぐしゃにかき乱す。

 自分とともに下へと沈み込む彼の全身を、両腕で引き剥がす。

「──愛翔がっ」

 果てる寸前の最後の息で。彼の手が離れた一瞬の、器官の隙間から。声は音になる。

 ──自分と同じくらい、それ以上に傷ついてきた愛翔が。傷つけられてきた愛翔が。自分にそんなを聞くはずがないのだ。

「言う訳ないだろ──そんなこと!!」

 狂いのない確信で。

 恭平は彼のまがいものから、両手を離した。

 長い金髪の揺らめく身体が、遠い深海へと沈んでいった。



***



 ドアを強めに叩く音で、ばちりと意識がこじ開けられる。思わず、現実とゆめがぐちゃまぜになって、逃げるみたいに上体を起こした。掛け布団が床にばさりと落ちる。浅い息を吐きながら、白い靄の晴れない視界を瞬かせた。

「あの、…キョーヘイさん……?」

「ぇ、」

 そして改めて、寝室のドア越しのノックを認識できた。相手は幸喜しかいない。何事かと問おうとしたところで、壁越しの彼が言った。

「…いつもよりずいぶん遅いけど、いーの…?」

「え──っ!!」

 慌ててスマホの電源を入れると、時刻は普段なら家を出ている時間だった。──寝過ごした、その単語が頭にぱっと思いつく。普段から余裕をもって職場には到着しているから、遅刻にはならないと思いたいが。

 すぐさま枕元の眼鏡を手に取って、寝室のドアを引いた。

「ごめん、もう支度しなきゃ…! 起こしてくれてありがとう…!!」

「あ……うん。」

 ばたばたと忙しなく身支度をする。幸喜は茫然とその様子を眺めていた。恭平が直しきれていないぴょこんとした寝癖に、視線は釘付けだった。

「朝ごはん、用意できなくてごめん! 昨日の残りで……って、あれ」

 リビングを覗くと、キッチンでは朝食の準備が進められていた。IHコンロには、昨日作り置いた味噌汁の小鍋が掛けられている。

「あ……味噌汁あっためたけど、飲む?」

「──一杯だけもらってもいいかな…!」

 昨日の夜に続けて、朝まで完全に抜くのはさすがに空腹がもたない。幸喜から味噌汁一杯のお椀を受け取って、行儀は悪いが立ったままいただく。

「っ……ごちそうさま! ありがとうね…」

「洗っとくから、置いといて。」

「えっ……あぁ、ごめん。ありがと…!」

 ここは、幸喜の厚意をありがたく受け取ろう。今朝の数々の埋め合わせは、今度必ずしよう。そう自分に誓って、恭平はいつものピーコートを羽織る。会社用の鞄を持って、廊下へと出た。

 すると、ほぼ同時に、リビングから幸喜が顔を覗かせた。

「…キョーヘイさんっ、」

「うんっ?」

 一瞬だけ、息を継いで。

 幸喜は躊躇いを振りきった。

「行って、らっしゃい。」

 ほのかに紅い目元を、まっすぐにこちらへ向けて。真剣な顔で言ってくれた、生活のことば。

 その数秒間。焦りも夢見のわるさも、ぜんぶが吹き飛んだ。今日一日が、大丈夫になる予感に満たされる。幸喜の勇気を、ぎゅっと抱きしめるみたく、恭平は今度こそほんとうの微笑みで伝えた。

「──行ってきます!」

 交わした言葉は、間違いなく、躊躇いを一つ乗り越えていた。



第一話 了

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