埋めたはず
@fkt11
コウスケ 1の1
バイトの帰りに駅前のいつもの店で牛丼の大盛りを食べたオレは、ほどよい満腹感とともに深夜の繁華街へと歩きだした。昼前から降り続いていた雨もようやく上がり、街の明かり一つ一つがくっきりと見分けられる。駅ビルの上には冴え冴えとした満月、首筋をなでていく風が冷たい。十一月もあと数日で終わる。
スクランブル交差点を足早に渡り、ドラッグストアの角を右に折れると、歩道を行く人の数がぐっと少なくなった。
早くアパートに帰ってコタツに入りたい。
足は自然と速まった。
「遅かったね」
ぼそりとつぶやくような男の声に立ち止まり、前方の闇を透かし見た。
誰もいない。
視界の中にあるものは、ずっと先まで続くブロック塀、等間隔に並ぶ電柱と外灯、遠い自動販売機が歩道に落とす光、あとはカラカラと音を立てながらアスファルトの上を転がっていく枯れ葉だけ。
空耳か。
再び歩き出したとき、二メートルばかり先にある電柱の陰から、小柄な人影が姿を現した。うつむき加減のままこちらを向いたその顔は、外灯による逆光で真っ黒に塗りつぶされていた。
ざりっ、靴の底で砂が鳴る。
いつ襲われても逃げられるようにと身構えながら「誰だ?」と声をかけた。
人影は無言のまま一歩、二歩と近づいてくる。なで肩の華奢なシルエットにピンときた。
「なんだ、シンジか」
「ふん、マナミじゃなくて悪かったね」
「絡むなよ。で、なによ。こんな時間になんか用なの」
目を合わすのが嫌なのだろうか、シンジはうつむいたまま「まあね」と言ったきり黙ってしまった。
「どうした。用事があるならそう言えよ」
「話が、あるんだ」
「話? 金なら貸さないぜ」
「いや、金の相談じゃない」
軽い冗談が通じない。
オレはふうと息を吐き、肩の力を抜いた。
「ここで立ち話は冷えるだろ、とりあえず部屋の中で話そう」
オレのアパートは五分ほど歩いた先にある。シンジもそのつもりで待ち伏せしていたのだろう。先に立って歩き出すと、少し遅れてつま先を引きずるような足音がついてきた。
ちょうど五分でアパートについた。外に面した鉄製の階段をカンカンカンと鳴らして二階に上がる。ドアの前に立ち、鍵を取り出そうとリュックの中を探っていると、シンジが遠慮がちに声をかけてきた。
「なあコウスケ、悪いけどやっぱり車を出してくれないか」
「今から? もう十時半だぜ。こんな時間に車でどこへ行くんだよ」
「どこっていうか、コウスケと話をするならやっぱり車の中かなって」
まあ、言いたいことはわかる。大学に入学し、三年生になるまでの約二年間、サークルにも入らず彼女もいなかったオレたち二人は、とにかくヒマを持て余していた。講義もバイトもない土曜日は、同じ学部の先輩から三万円で譲ってもらった軽のワゴン車で、これといってあてのない男二人の週末ドライブに出かけるぐらいしかやることがなかった。
でもそれはそれなりに有意義で贅沢な時間だった。四年生の秋となり、学生生活の終わりが見えてきた今、しみじみとそう思う。
「車なあ」
「だめなのか」
「いや、行くよ。久しぶりに夜のドライブっていうのもいいかもだ」
そうは言ったものの、正直なところ車を出すのは気が重かった。できれば夜の運転は避けたいのだ。だが、いったん部屋に上げようかと言っておいて、やっぱり今夜は忙しいからと追い返すわけにもいかない。断るのであれば最初に声をかけられた時点でそうすべきだった。
オレはリュックの底に見つけた鍵で玄関のドアを開け、腕を伸ばし、下足入れの上に置きっ放しにしてある車のキーをざらりとつかみとった。そのまま玄関ポーチには一歩も足を踏み入れることなくドアを施錠する。
「よし、行こう」
振り向くと正面にシンジの顔があった。
丸く見開かれた目がぬらりと光ってじっとこちらを見ている。照明の当たり方がそうさせるのか、その目の下に濃いクマができていた。こけた頬、まばらに生えた無精ひげ。ずいぶんやつれていることにそのときはじめて気がついた。
「な、なんだよ。近いよ」
「部屋、綺麗に片付いてるね」
「のぞいてんじゃねえよ」
オレは念のためにドアノブをガチャガチャと回し、間違いなく鍵がかかっていることを確認した。「行くぞ」とシンジに声をかけ、カンカンカンと階段を駆け下りる。駐車場はアパートの裏にあり、敷地内の砂利道を行くのが近道だ。少し急ぎ足で歩くオレのすぐ後ろを、ゾリッゾリッとつま先を引きずるような足音がついてきた。
「へえ、まだこのオンボロに乗ってるんだ」
シンジは駐車場の一番端に停めてあるオレの車を見て裏返った声を出した。さっきまでのぼそぼそとした陰気な話し方とは正反対の、やけにテンションの高い口調だった。
「オンボロで悪かったな」
「ああ、ごめん。ただもう純粋にすごいなと思ったんだ。二年前でもスクラップ寸前だったのに、まだちゃんと乗れるんだなって」
「だましだまし乗ってるけどもう限界だよ。実は来月にでも業者に処分してもらおうかと思ってるんだ」
「ふうん」
シンジはオレの顔に意味ありげな視線を投げると、口の端に薄く笑いを浮かべた。
「処分ねえ。それにしても来月っていうのはなんだか中途半端だなあ。どうせここまで乗ってきたんだから卒業のタイミングで手放せばいいんじゃないの」
「いつ処分しようとオレの勝手だろ」
「そうだね、うん、その通りだ。よけいなこと言ってごめんよ」
口では一応謝りはしたものの、シンジはオレとの会話にはあきらかに上の空で、車のことばかり見ている。
なぜそんなに車が気になるんだ。
まさか――
いや、まさかな。
右の手のひらを胸に当て、暴れ出だした心臓をなだめる。トクトクトクトク。異様に早い鼓動が伝わってくる。
気にするな。懐かしがってるだけだ。とにかく落ち着け。
目を閉じゆっくりと息を吸う。そして吐く。もう一度吸う。
よし、大丈夫。
ポケットから車のキーを取りだし、リモコンボタンを押してロックを解除した。車内灯の黄色い光が空っぽの運転席をぼんやりと照らす。
もう一度息を吸う。ゆっくりと吐く。
少し楽になった。周囲の様子を見るだけの余裕が戻ってきた。そして、シンジの姿が見当たらないことに気づいた。
えっ?
どこだ、どこへ行った?
あわてて車の助手席側へ回ってみると、前輪の傍らにしゃがみ込むシンジの丸い背中があった。
「おい、なにやってんだ!」
自分でもびっくりするぐらい大きくて尖った声が出た。
シンジはゆっくりと振り返りニタリと笑った。
「タイヤを見てたんだよ」
「タイヤを?」
「見ちゃだめなの」
「だめとは言ってないだろ」
「そう? えらい剣幕だったけど」
とぼけているのか、それともこちらの反応を探っているのか。シンジの表情からその本心は読み取れない。
「いいから早く乗れよ」
徐々に高まるいらだちが顔に出ないように奥歯を噛んで平静を装い、助手席のドアを大きく開いた。シンジは素直に立ち上がり、するりと車内に体をすべり込ませた。力を込めて外からドアを閉め、シンジがのぞき込んでいた前輪の周辺をそっと確認する。
これといっておかしなところはない――はずだ。
トクトクトクトク。
くそ、また心臓が。
オレは胸に手を当てたまま運転席側に戻り、ドアを乱暴に開け、薄っぺらな運転席のシートにどすんと尻を沈めた。
「で、どこへ行く」
エンジンをかけ、バックミラーの角度を調整しながらシンジに目的地をたずねた。
「そうだね、つつじヶ丘の展望公園にしようか」
「わかった」
オレはアクセルをじわりと踏み込み車をスタートさせた。人通りの絶えた住宅街をそろそろと走り国道へ出るための交差点で信号待ちをする。目の前を行き交う車の流れをぼんやりと眺めているうちに、ふと心に浮かんだ言葉が口からするりと出ていった。
「展望公園か、ほんと久しぶりだな」
「久しぶり? マナミとしょっちゅう行ってるんじゃないの」
「ああ、それはまあな。でも、しゅっちゅうってほどじゃないさ。というか、シンジと二人で行くのは久しぶりって意味だったんだけど」
「説明がないとわからないようなことは言わないでもらいたいね」
「そりゃ悪かったな」
くそっ、なんでこっちが謝らなきゃならないんだ。
むっつりと黙り込むシンジを横目に、オレはハンドルを握り直した。
つつじヶ丘の展望公園は、市の西の外れに位置する愛宕山の麓にあって、オレのアパートからは車で三十分ほどかかる。昔はちょっとした夜景スポットとしてカップルに人気があったらしいが、五年ほど前に不良グループによるリンチ殺人事件があり、以来、血まみれの幽霊が出るというお決まりの噂が広まって、夜間はあまり人が寄りつかなくなってしまったのだ。
だけど、いわゆる霊感とは無縁のオレとシンジにとって、その手の噂はあまり気にならなかった。むしろカップルがいない夜景スポットという、めったにない条件が気に入っていた。さえない男二人の週末ドライブの帰りにこの展望公園に立ち寄り、駐車場の隅にある自動販売機で買った缶コーヒーを片手に夜景を眺めるというのが、わびしくも楽しみな定番となっていたのである。
だけどそれは二年前までのこと。三年生になって間もないある雨の日に、オレは同じ学部のマナミから告白された。
マナミとつき合えばシンジが機嫌を損ねるだろうことはなんとなくわかっていた。抜け駆けへの反感、いや、もう少し違う感情だろうか。いずれにしても、ちょっとしたいさかいのたびに、恨みがましい目つきをするシンジの存在が暑苦しくなりつつあったのだ。突然のマナミからの告白には驚いたが、オレにとってはちょうどよいタイミングだった。
オレとマナミがつきあいはじめると、シンジとの間は自然と疎遠になった。心のどこかでほっと息をついているオレがいた。
時刻は午後十一時を過ぎた。国道を走る車の多くはトラックかタクシーで、かなりのスピードを出している。制限速度で走るオレの車は当然のようにどんどん追い越される。たまにクラクションを鳴らされたり、パッシング浴びせられたりしながらも、オレは制限速度をかたくなに守り続けた。
桜木町の交差点で左折し、国道から県道の十二号線に入った。愛宕山へと向かう片道一車線の道路だ。市の中心部を離れるにつれて気温が下がるらしく、フロントガラスの四隅がじわじわと曇りはじめた。
と、そのとき――
若い女性の歌声が車内に流れた。
心臓が跳ね、思わずブレーキを踏みそうになった。
カーラジオは半年ほど前から電源が入らなくなっている。もちろんシンジの鼻歌でもない。
礼拝だとか、祈りだとか、ふだん使わないような言葉が似合う歌声。
雨上がりの厚い雲間から差し込む幾筋もの金色の光、そんなイメージが自然と浮かんでくる曲調。
まてよ、知ってるぞ。この曲はよく知っている。
そうだ、アメイジング・グレイスだ。
曲名を思い出すと同時に助手席のシンジが「ちっ」と舌を鳴らし、薄っぺらなジャンパーのポケットをごそごそと探って携帯電話を取りだした。歌声が大きく響き、そしてぶつりと途切れた。
なんだ、着メロ――いや、着うたか。
この時代にまだガラケーなのだ。
シンジは体をねじってオレに背を向け、口のあたりを手で覆った。
「まだだよ、これからってとこだ」
まだ? これから?
「さっきも言っただろ。明日、本人から聞けって。切るぞ。もうかけてくるなよ」
パタンと携帯電話が閉じられる音がして、車内には再び沈黙が戻ってきた。
どういうことだ。これからってことは、今のこの状況と関係があるのか。本人って誰のことなんだ。まさかオレか。電話の相手は誰なんだ。
駄目だ駄目だ。よけいなことを考えず今は運転に集中しろ。ちゃんと前を見て、車間距離にも気をつけるんだ。
オレはハンドルを握り直し、前方の闇に意識を集中した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます