25 運命力が凄い

 瀬川の姓を名乗るようになって、そろそろ四年が経とうとしている。誤解やすれ違いなどが起きないよう、互いの前の家族についてはつまびらかに話し合った。特に一成のことについては、イツキからたくさん話を聞いてきた。兄さんは僕なんかとは比べ物にならない凄い人なんだと、劣等感ひとつ見せずに語られてきた。兄のことを心から尊敬し、慕っているのがわかった。


 その兄が本当は弟で、イツキのほうが兄だった。ノエルを混乱させるには十分すぎる爆弾発言である。


「隠していたつもりじゃないと思うぞ。イツキたちにとって当たり前すぎる話だから、言ったつもりになってるんじゃないか」


「……たしかにお兄ちゃんもお父さんも、そういうところはあるけど。でもなんで、立場があべこべになってるのさ」


「俺とイツキがそう決めたからだ」


「決めたって……それで済んでいい話じゃないよ。お父さんたち、なにも言わなかったの?」


「言ってもそれがわからない歳だったんだよ」


「わからない歳?」


「ようやくお父さんと喋りだした頃にな、イツキが俺のことを『お兄ちゃん』って呼んだのが始まりらしい」


 一成は苦笑しながら、そのときのことを語り始めた。


「父さんたちが何度、お兄ちゃんじゃなくて一成だ、って言い聞かせても、イツキはお兄ちゃんって呼び続けてよ。多分兄弟の意味が、わかり始めた頃だったんだろうな。俺もそれでずっと、兄ぶるようになったらしい」


「それでお父さんたち、訂正するのを諦めたの?」


「ああ。社会の道理を言い聞かせて、わかる歳じゃないからな。それにイツキは、身体が強くなかったのも一因だ」


「あー、今は人並みだけど、昔はよく体調を崩してたらしいね」


「逆に俺は頑丈だった。そうなるとやっぱり、元気な俺の後をイツキがついてくる形になるからな。誰が見ても俺が兄で、イツキが弟に見えるだろ?」


「だからそのまま、通しちゃったんだ」


「戸籍を引っ張り出さないと、どっちが本当の兄かなんてわからないからな」


 一成はコーヒーの缶を、飲み切るように呷った。


「ま、生まれた順でこっちが兄でこっちが弟なんて、大事にするほどの決まり事じゃないしな」


「いやいや、法律で決まってることなんだから大事だよ」


「そもそも昔は、後から生まれたほうが兄なんだぞ。弟が先に出てくるのは、兄を守るための露払いという役目なんだ」


「じゃあお兄ちゃんの身体が弱かったのは、一成くんのために身を費やしたからかもね」


「そうだ。偉大な兄のために命を張って、イツキは人生一大の大仕事をこなしたんだ」


 軽口を叩いたつもりのノエルに、一成は大仰に頷いた。


「だから兄貴として、その献身に報いてやらんとな」


「一成くん……」


 ジッと、ノエルはその横顔を見やった。


 一生のために、なぜそこまでするのか。これが一成から差し出された回答だった。


 ブラコンでもなければ過保護というわけでもない。自分は兄で一生は弟。それを決めたのは自分たちだからこそ、兄の務めをしっかり果たすだけだと。


 一成はこれ以上ないほどに、自分の兄の兄であった。


「ノエル。イツキの代わりに、俺が父さんたちを送り出す。そう決めたことで起きる問題をあげて、できるできないなんて話は考えなくてもいい。それは問題なく全部できることだから、大丈夫だ」


 自信に満ち溢れているわけでもなければ、得意げですらない。一成は当たり前のことを当たり前と断じるように言い切った。


「そんな中で、唯一問題があるとしたら、ノエル。おまえの気持ちだけだ」


「わたしの気持ち?」


「父さんたちを送り出すということは、一年間俺とふたりで暮らすっていうことだ。それがどういう意味か、ちゃんと理解しているか?」


 覚悟を問われるような眼差しに、ノエルは力強く頷いた。


「してるよ。昨日今日会った男の人と、ふたりきりってことでしょ? 大丈夫、お兄ちゃんとお父さんが、一番信頼している人なら――」


「やっぱり理解してねーな」


「え?」


「信頼関係の問題じゃない。イツキと瓜二つの俺と、同じ屋根の下でふたりきりで、一年間暮らすんだぞ。それに耐えられるのか、って話だ」


「それ、って……」


「だから最初に確認したんだ。イツキのことが好きなんだろ? って」


 言葉に詰まったノエルを見た上で、一成は最初の質問を繰り返した。


 膝上で握りしめているココアに向かって、ノエルは顔を伏せた。


 この先誰にも明かすことはないと決めた、秘めた想いを見抜かれている。しかも好きになった相手の兄にだ。


 ノエルにとって意外だったのは、想いを見抜かれたことによる羞恥心がないということだ。むしろさすが、大好きな人が誰よりも尊敬している相手といったところで、感心すら覚えてしまった。それもこれも一成が、ノエルですら考えが及ばなかった問題を、真摯に提示してきたからだ。


 たしかに一成と暮らすのは、ノエルにとって覚悟が必要な問題であった。


「イツキとは、小五のときに会ったんだって?」


 優しい声音で、一成は尋ねた。


「うん。秋休みのときにね」


 そうしてノエルは、ぽつりぽつりとそのときの思い出を語り始めた。




 小学五年生の六月。両親が離婚したことで、ノエルは転校を余儀なくされた。


 中途半端な時期の転校となったことで、ノエルは新しい学校に馴染めずにいた。イジメがあったわけではないけれども、友人と呼べる相手はできなかったのだ。


 引越し先は、母親の友人が大家のアパートだった。母親が仕事に出ている間は、なにかと大家が気にかけてくれていた。だからこそ休みの日にずっと家に籠もっていると、遊ぶ友人がいないのではと勘ぐられてしまう。


 離婚のせいでノエルから友達を奪ってしまった、と母親に思われるのも嫌だったから、目的もなく外へ出る機会が多かった。


 昨晩は大雨が降ったことにより、そこら中に水たまりがあった。それを避けながら狭い路地を進んでいたが、いよいよ避けようがない水たまりに遭遇した。


 その水たまりの前には、同じ年の頃の少年が佇んでいる。その後姿は物怖じしているというよりは、冷静に決意を固めるように見えた。


「よし」


 三歩ほど下がった少年は、そこから助走をつけて水たまりを飛んだ。ギリギリのところで着地し、よろめいた先で尻もちをつく。そこは水たまりではなかったので、大した被害はなさそうだった。


 対抗心が湧いたわけではないが、あの男の子ができるなら、自分でも飛べるだろうとノエルは高を括った。


 もっと長めの距離から、助走をつけてノエルは飛んだ。少年のように着地した後、よろめいた。


「あ」


 と声が漏れたときには、これは失敗したと確信した。


 身体が後ろに倒れ込む。それでも足掻くように前へと伸ばした手が、咄嗟に掴まれる。その手は引っ張られこそしたが、後ろに倒れ込む力のほうが勝ってしまった。


 水たまりの中で尻もちをついたノエルの隣で、ヘッドスライディングを決めるように少年が倒れ込む。掴んだノエルの手に、そのまま引っ張られてしまったのだ。


 咄嗟に助けてくれようとした相手を、道連れにしてしまった罪悪感がノエルをその場に繋ぎ止めた。下着に水が染み込んでくる気持ち悪さも忘れて、ただただ愕然としている。


「いててて……」


 身体の前面がビショビショになった少年は立ち上がる。失敗を見られたような照れくささを浮かべながら、ノエルに手を差し伸べてきた。


「大丈夫?」


 あなたよりは、という言葉を飲み込みながら、ノエルは少年の手を取った。そのまま引き起こされると、照れくさそうに少年は頬を掻いた。


「ごめんね。助けようとしたつもりが、余計な被害を招いちゃった」


 余計な被害というのは、ずぶ濡れとなった自分の様相ではない。隣で倒れ込んだ拍子に跳ねた水が、ノエルにかかったことだ。


 ノエルとしては、下半身がここまで水浸しになったのなら、その程度の水ハネは気にならなかった。どちらにせよ、一度帰らなければいけない有り様だ。


「君って、この辺りの子?」


 少年はそんなことを尋ねてきた。


 隠すほどのことでもないので、ノエルは素直に答えた。


「この辺り……ではない、かな。ここから二十分くらいのところだから」


「そっか。ちょっと着替えに戻るには遠いね」


 少年は少しの間、考えに更けた後に言った。


「だったらさ、うちに来ない?」


「え?」


「そんな姿で二十分も歩くなんて大変だろ? うち……と言っても爺ちゃんの家だけど、ここから一分だからさ。乾かしてもらおうよ」


「えっと……」


 いきなりの提案にノエルは戸惑った。


 前の学校でも仲のいい男子はいなかった。そんなノエルがいきなり、初めて会った男の子から家に来ないかなんて誘われた。水浸しになったからこその好意とはいえ、それを素直に受け取るのはハードルが高すぎた。


 答えをすぐ出せず躊躇っているノエルを、少年は急かすことはない。優しげな微笑を零しながら、ただその答えをそっと待っていた。


 意外なことにノエルは、躊躇って少年を待たせている時間に、居心地の悪さを覚えなかった。少年が持つ生来の人の良さが、柔和な雰囲気として表に溢れていたからだ。


「えっと……ありがとう」


 そんな雰囲気に包みこまれたノエルは、少年の好意を自然と受け入れた。


「よし。本当にすぐそこだから、行こっか」


 好意を差し出した側のほうが、嬉しそうに頷いた。


 先導するように進みだした少年は、思い出したように足を止めて振り返った。


「あ、そうだ。君、名前はなんて言うの?」


「……ノエル」


 まだ馴染みのない名字は口にせず、名前だけを答えた。


「ノエルか。綺麗な名前だね」


 少年は気障な様子もなく、思ったままの感想を口にした。嫌味なく心からそう感じたという優しげな笑みの前に、ノエルの心臓は弾み、頬が熱を帯びていくのを感じた。


「僕は瀬川一生。よろしくね」


 こうしてノエルは、一生忘れられない始まりの思い出を刻んだのだった。


 優しそうな祖母に招かれた先で、一生がこの近隣の住人ではないとノエルは聞かされた。夏休みを前に両親が離婚して、自分は父親側に引き取られた。引っ越しこそしたが、一生のことを考えた結果、転校まではしなかったようだ。


 始まったばかりの父子のふたり暮らし。家事は祖母が通いで、色々とやってくれている。今回の秋休みは、父親が何日も家を空ける出張らしく、心配だからと祖父母の家に預けられたとのことだった。


 最近、両親が離婚したということに共感したノエルは、初めて会った男の子に、自分の身の上を話した。今日こうして外に出ていた理由も、包み隠さずだ。


 折角の秋休みなのに、遊ぶ友達がいないもの同士。気があったふたりは、休み中ずっとふたりで遊んでいた。一生の祖父母もそんなノエルを歓迎してくれていたから、とても居心地がよかったのだ。


 ノエルにとって一生は、友達ができたというよりは、兄弟がいたらこんな風なのかな、と感じていた。もちろん自分が妹で、一生が兄である。そのくらい頼りになるというか、甘えたくなるような包容力があったからだ。


 秋休みが空けてからは、それっきりになった。元々連絡先を交換していたわけでもないし、一生も頻繁に祖父母の家に預けられていたわけではない。ノエルも秋休みが明けてから、ひょんなことがキッカケでクラスに馴染んで、友達もできていた。一生に縋る理由はなくなったのだ。


 会いたい、という気持ちはもちろんあった。でも歩いて二十分以上も離れた家を訪ねて、一生の近況を求めるのは気恥ずかしかった。そういう年頃だったのだ。


 秋休みの思い出。一抹の寂しさを覚えながらも、これが初恋かもしれないと気付いたノエルだったが、思い出をその胸にしまい込んだ。どこかでまた、偶然出会えるかもしれない距離に一生はいるのだ。偶然に身を任せて、いつか再会できればと願っていた。


 それから一年以上経った後、母親から再婚の話を聞かされた。離婚して一年ちょっとで再婚というのは、ノエルもさすがに驚いた。でも母親はノエルを家でひとりきりにする機会が多かったから、ずっと気に病んでいたのも理解していた。


 向こうにも同じ歳の息子がいるから、合う合わないはあるだろう。丁度中学校に上がるタイミングだからこそ、まずは両家族顔合わせをして、これからのことを改めて話し合いたいようだ。


 母親思いのノエルとしては、再婚したいというのなら、それでいいと思っていた。でもやはり、新しく父親となる人と、初めてできる兄弟となる人と会うのは、期待よりも不安が勝った。


 食事会場で身を固くしながら、向こうの家族を待っていると、


「あれ、もしかしてノエル?」


「……え、イツキくん?」


 初恋の少年が、再婚相手の息子として現れたのだ。


 そんな一番心配されていたノエルが、誰よりもこの再婚に賛成したことにより、ふたつの家族がひとつになったのだった。




     ◆




「うーん……うちの弟はあれだな。運命力が凄いな」


 ノエルが馴れ初めを語り終えると、一成は唸りながら言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る