竜の灰

橙冬一

序章 良き隣人 ♯1

 ファーロは、この地に移住してから十一年間そうしてきたように、今日もまた、窓際の椅子に座って道向かいの家を見ていた。本を片手に、いたって自然に。日も落ちて、通りは既に暗い。向かいの家の開いた木窓が、闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。時折そわついた少年が、顔を出しては辺りを見回し、その度に燭台の火がちらちらと揺れた。帰りの遅い祖父を待っているのだろう。ファーロもまた、少年の祖父を待っていた。


 トーレス領の中心地から遠く離れたこの土地には、広大な林と穀物畑の隙間に、ひっそりと家々が点在してる。その一角に、ファーロの滞在する住居もあった。大量の銀貨で永劫的な免税特権を得て、辺鄙な農家に移り住んだファーロの身上は、近隣の農民から訝しがられた。しかし、十一年もの間、無害な隣人として接するうちに皆慣れたようだ。今では、文字の書けるファーロは重宝されている。酒や果物と引きかえに、徴税の緩和を求める請願状や、恋文の代筆まで頼まれるようになった。


 しばらくして、遠くから足音が光を伴って近づいてきた。ほどなく、ランタンに照らされた少年の祖父と、彼に手綱を引かれて歩くラバが現れた。その姿を確認するや、ファーロと少年は急いで家を飛び出した。そしてファーロの方が先に、老人へ声を掛けた。


「ホラン!」


 ホランと呼ばれた老人は、ドアを開けて家をの外へ出ていた少年を手で制止すると、そのまま手首を何度か払って、家の中へ戻るように伝えた。ドアを閉める悲しげな少年に罪悪感を覚えながら、ファーロはホランの元へ走った。


「村を出ていくんだって?」


 ファーロが聞くと、ホランは、何時も崩さない不機嫌な顔をファーロへ向けて、少しの沈黙の後答えた。


「何でそんなことを気にする。ただの隣人だろ」

「”良き”隣人だろ」


 地面を見つめて答えづらそうに沈黙するホランに、見かねたファーロは話を続ける。


「色々考えはあるんだろうが、理由か、せめて行先ぐらい教えてくれよ。手紙の一通でも送ってやるからさ」


 ホランもある程度の識字ができたが、彼には家族以外の他者を寄せ付けない”魅力”があるため、あまり知られていない。ラバの鼻息に急かされて、ホランは幾分いらだった様子で口を開いた。


「何を企んでるか知らないが、私はお前に気を許したことはない。一度もな」

「つれない態度はとるなよ。ま、あんたに好かれてないのは知ってるが、あんたの家族とは仲も良かったと思うぜ」


 言い終わって、ファーロはしまったと後悔した。ラバの鼻息に急かされる前に、すぐさま取り繕う。


「すまない……口が過ぎた。孫の、マルラのことは残念だった……。長い付き合いなのにつれないこと言うから、つい――」

「わかってるよ」


 ホランは焦るファーロの弁明を遮って、続けた。


「お前が私たちに色々と良くしてくれたのもわかってる。”人間の割には”だが」


 ホランの「尻尾」がゆっくりとうねる。ランタンの火が、黄土色の目に反射した。


「マルラは不幸な事故だ。あの子の両親とは違ってな。あいつと違って、私はもう涙も枯れて、どうやって悲しんだらいいのかも忘れてしまった」


 「あいつ」と言って、ホランは窓から覗いている少年へ顔を向けた。ファーロは、普段まじまじと見ることのないホランの横顔を見た。そして、白髪交じりの側頭部から、頭の後方へ向かって伸びる角が、中ごろで少し湾曲していることに初めて気が付いた。


「それでも、すまなかった。あんたの望む……特殊な弔いができる葬儀屋は、俺が探したのによ」

「そういえば忙しくて、お礼も言ってなかった。感謝してる」

「いや、それほど苦労はしなかったさ。息子夫婦の時は教会に頼んだから、不思議には思ったけどな」


 ホランは少し間を開けて、口ごもるように言った。


「それは……あいつと色々相談して、それが一番いいと思ったんだ。深い意味はない。あまり詮索しないでくれ」

「もちろんだ。それで、引っ越しのことなんだが……」


 ファーロはそう言って、逸れた話を元に戻す。元より聞きたいのはホランたちの移転先だ。


「当てはあるのか? この辺りはあんたらもまだ平穏に暮らせるが……まぁ余所に比べればだが、危険な地域も多い。特に南は」

「知っている。お前が生まれる前から、もう六十年は”竜人”として生きているんだ」


 ホランの顔には、頬の上から目の外側を通り、側頭部にかけてゴツゴツとした鱗がある。ファーロはあまり見たことがないが、肩の後ろから肘にかけて、また腰から膝にかけても、同様の鱗が広がっている。他の竜人も、大きさに個体差はあるが、鱗の位置は概ね同じである。手や足は人のそれよりも大きく、角張った形体は頑強な骨格を窺わせる。それ以外の大部分は、人と同じである。


 だからこそファーロは、多くの地域で竜人が人間へ隷属せざる負えない状況に、憤りを覚えている。しかしそんなファーロも、若かりし頃は竜人蔑視を内面化していたことが、数百年に及ぶ隷属関係がいつまでも解消されないことの証左であり、ファーロ自身内心ではそのことを理解していた。


「なら安心していいんだな。あんたはいつ病でぶっ倒れてもおかしくない歳だが、あの子は違う。俺は心配なんだよ」

「そんなことは重々承知だ! 他人に言われるまでもない」


 ファーロは、いきなり声を荒げたホランに面食らいながらも、隠し事があるのだと確信した。静寂が続いて、そのうちそよ風が草木を揺らして、それは気まずい沈黙をせらせらと笑うようで、そんなことは気にも留めないラバが、ファーロへ鼻息を強く吹きかけた。飛沫も吹きかかった。


「うげっ……くっせえなぁ! そういやこいつは何だよ! 買ったのか?」


 空気が緩んで、ため息をついたホランは口を開いた。


「あぁ。こいつに荷を運んでもらうんだ」

 そしてうつ向きがちに続けた。


「私とあいつにとって、とても大事なことなんだ。何度も話し合った。私たち以外の、特に人間には言うことができない。わかってくれ……」


 あまりしつこく詮索しすぎても不信を買うだけだと判断したファーロは、残念そうなそぶりを見せて引き下がった。出立までに聞き出せなくても”後を付ければいい”と考えて。


「出立前に声を掛けてくれよな」

「もちろんだとも」


 ホランはそう言ってファーロと別れ、所々崩れかけた木の囲いを超えて、穀倉の傍にある木にラバを繋ぐと、庭を挟んで対面にある主屋の中へ消えて行った。庭の奥にある使われていない家屋は、かつてホランの息子夫婦が住んでいたが、主のいない年月以上に風化して見える。


 ファーロは年々侘しさの増す背中を見送って、ふと主屋の窓へ顔を向けると、少年と目が合った。少年の目はホランと違って、赤い夕日のような色をしている。それもそのはず。ホランと少年に血の繋がりがないことを、ファーロはよく知っていた。彼はそのために都市での生活を捨て、僻地へ移り住んだのだから。


 ファーロが手を振ると、少年も応じた。すぐにホランが顔を出して、ファーロと頷き合うと、窓を閉めた。通りに闇が訪れる。そういえば、空が雲に覆われているためか、星が大地を照らしていない。ファーロはそんなことを考えながら踵を返すと、血に錆びた鉄の匂いが鼻を突いた……ように感じた。なぜそう感じたのかファーロ自身にもわからなかったが、彼はこれまでも、かつて戦地で嗅いだ匂いを、感覚的に思い起こすことがあった。


 ふと、直感的に、誰かに見られていると思い、道の向こうに目を凝らした。ひりついた空気が肌に纏わりつく。しかし、いくら目を細めても、暗闇が広がるばかりである。ファーロは、不気味な余韻を振り払いながら家に入ると、そのままベッドに横になって瞼を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る