上野駅の掲示板

山村 京二

第1章:営業部の先輩

柊 浩一郎(ひいらぎ こういちろう)は都内の商社に勤める入社2年目の若手営業マンだ。父を早くに亡くして女手一つで育ててくれた母に恩返しがしたいという一心で必死に勉強して大学を卒業、競争率14倍という難関の就職活動を見事パスしてやっとの思いで入社した会社に勤めている。


6つ年の離れた兄がいるが、早くに結婚して長男にもかかわらず婿養子になった。しかし、仕事で失敗をして離婚し、今は実家に戻っている。そんなこともあってか、母の期待は浩一郎に注がれていることは、浩一郎自身がよくわかっていた。兄の分まで自分が頑張るんだと意気込んでおり、とても家族思いの青年だ。


浩一郎の所属する部署は20人程度の部署で部長の小早川(こばやかわ)は浩一郎から見ても非常に仕事のしやすい人間で、何かあるとすぐに相談に乗ってくれるまさに理想の上司だ。


そんな浩一郎の部署でひときわ目立っていたのが7年先輩の立花 茜(たちばな あかね)だった。茜は仕事もでき口も達者だったことから、部長の小早川にさえも食って掛かることがあるほど男勝りの女だ。ただ、その容姿は誰もが認める美人で、細い肩にかかる長い髪をなびかせて、小さな整った顔立ち。それでいて、出るところは出ているという映画スターのような風貌だった。


当時の日本では女性もスカートにスーツというのが主流だったため、茜もグレーのタイトスカートをよく着ていたが、他部署でもその美貌に噂が立つほどの美人だった。そのため言い寄ってくる男は社内外でも多く、そのたびに理詰めで捲し立てる茜に度肝を抜いて逃げ帰る男は後を絶たなかった。


茜と浩一郎は同じ営業グループだったので、仕事が一緒になることが多かった。ある日の昼休み、茜が昼食行こうと浩一郎を誘った。横浜の会社にアポがあったので中華街で食事を済ませようということになったのだ。雑踏の中をカツカツと茜のヒールが音を立て、その音を追いかけるように浩一郎はついて行った。


浩一郎は入社して2年になるが、都会の人の歩く速さにはまだ慣れていない様子で『茜さん、ちょっと待ってくださいよ』そう言いながら小走りに茜を追いかけるも『早くしなさいよ!営業でしょ!』といつも茜は振り返りもせずに言い放つのだった。


ある中華屋に入ると茜は手早くメニュー表を開いて『もう決まった?』と浩一郎を急かした。『いや、まだ・・・』浩一郎が言いかけた時、『もう、グズなんだから!ここは私のおすすめだから同じのでいいよね!?』そう言って店員を呼び止め、麻婆炒飯セットを2つ注文した。『あと、食前で春雨スープ2つ』茜が慣れた様子で注文をすると、中国なまりの店員は厨房へ帰っていった。


『ここね、店員の愛想はないんだけど味は私が保証するわ!』何に対しての自慢なのか茜は強い口調でそう言った。とりあえず腹が満たされればそれでよかった浩一郎は、適当に話を合わせて、ふと開いた店の入り口から見える雑踏のほうを指さした。


『横浜駅って、掲示板ありましたっけ?初めて見たような気がします。』そう言って店員が持ってきた水を一口飲むと、『あー、確かに。都内だとどこの駅にもあるけどね。掲示板かー・・・』茜の声色が聞いたことないくらい細くゆっくりとした口調になったのを察した浩一郎は、『どうかしましたか?』と尋ねた。


『・・・うん、まぁ・・・』珍しく攻め時だと思った浩一郎は『なんですか?教えてくださいよ。茜さんらしくないじゃないですか。』と詰め寄った。『そっか、浩一郎君は入って2年だもんね知らないのも無理はないか。えーっと、私が入社して半年くらいの頃の話なんだけどね。』と話を続けた。

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