カカレモノ

nanana

驟雨に霞む

序…来訪者


「あー、お兄さん。ちょっといい?」

 

 夕食の品の買い出しを終え、家路に着こうとした矢先、店先で突如背後から掛けられた声。聞き覚えの無いその声に、文彦ふみひこは自身が呼び止められているとは露とも思っていなかった。しかし、もう一度改めて声を掛けられ、今度は軽く肩まで叩かれたものだから。いくらなんでも知らん顔も出来ないな、と。渋々立ち止まり。振り返る。

「物売りなら何にもいらない——」

 意識的に険悪に。つっけんどんにあしらってやろうと口を突いた悪態は、次の瞬間、声の主の姿を視認して、途切れた。理由は主に、驚愕から。


 声の主は、女性だった。

 顔立ちのそこかしこにあどけなさの色濃い、少女の名残を強く残した女性。整いつつも素朴な目鼻立ちはけれど、文彦の目を惹く事はなかった。

 言葉を失う程の驚きは、彼女が身に纏う装いに対してだった。


 襟付きの襯衣シャツに、深い藍色の袴。足元は草履では無く、黒革の長靴ブーツ。右手にはずんぐりとした、同じく黒革の鞄。

 和洋折衷の装いはこの辺りでは兎角珍しく、少なくとも文彦にとって、直接目の当たりにするのはこれが初めての風体であった。そして、そんな洋装の中でも一際文彦の目を釘付けにしたのは、彼女がシャツの上から羽織った外套。

 黒より黒く染め抜かれた、闇夜色の外套。所々に翡翠色の煌めく様な色味が、夜空の星の如く散りばめられていた。服飾などにはてんで疎い文彦ですら、一目見て特別な仕事の品だということがわかる程。それ程までに美しい、見事な仕上がりの一品であった。だったものだから、文彦は余計にわからなくなる。何故この女性が、自分に声を掛けてきたのか、と。

 村には時折、怪しげな商人が訪れる事があった。いんちき臭い、出自の不明瞭な骨董品などを高値で売りつけようとする、詐欺師紛いの人間。人を見る目、と言うほど大それた話では無く。そうした人間というのは存外、一目でわかるものだ。下卑た、底に沈めた悪意がぷかりと浮き上がってくる様な、薄ら寒い媚びた笑み。連中の顔にはいつだって、そうした気色の悪い表情が浮かべられている事が常だった。

 翻って。女性の顔にも笑みが浮かんでいた。だがそれは一片の悪意も感じさせない…相手に害意がない事を示す為のそれだった。

 奇抜な格好と、穏やかな表情。それらの不釣り合いから、文彦は彼女が何者なのかを全く測りかねていた。—とは言えそれも僅かな時間。


「突然ごめんなさい。実は、とある噂話をきいたものでね。人を探しているんだ」

 その一言で、文彦はこの女性の目的をほぼ完全に理解した。理解して、大きく溜息を吐く。そんな文彦の様子に仄かに女性が目を見開く。


「なんでもこの村に、本に心を蝕まれている人がいるとかなんとか…お兄さん、何か知っているそうだね」


 文彦がもう一度。隠す様子も見せず、大きな溜息を吐いた。

「どこで聞いたかしらないけど、そんな話知らないね」

吐き捨てられた言葉に、女性は僅かに首を傾げる。

「あれ、おかしいな。他の住人に尋ねてみたら、皆一様にお兄さん、あなたが詳しい事を知っていると語っていたのだけれど」

 相変わらず。女性に邪気はない。とは言えその様子が心底からか、はたまたそう映る様に演じているかを外から確かめる術はない。文彦が抱いた第一印象にしても、そう見える様に振る舞っていなかったと断ずる根拠は何もない。

「…仕方がないんだ。あれはもう、人がどうこう出来るもんじゃないんだから」

 …そこまで冷静に考えながら、それでも口を付いた不用意な言葉を責める事が誰にできるというのか。幼い身空で抱えるには到底途方のない不可解と暮らす日々は、少年の心をがりがりと削り取っていた。その結果の、投げやりな言葉。何にも期待する事を辞めた、空っぽな悲嘆。だから。


「——実は案外そうでもない」


余りに呆気なく言ってのけたその姿に、不躾な猜疑の眼差しを向ける事も至極当然である様に思えた。

「ここに来るまで、幾人かに話を聞いてきた。詳細までを計り知る人は居なかったから、絶対とは言えないけれど、九割九部、この件は私の範疇だ」

 女性はと言えば。向けられた目に気を悪くする風でも無く、軽く頭を掻いて微笑むばかりだった。その表情は確かに、言葉よりも雄弁に、彼女の本意を示している様に見えた。

「余計なお世話だったら申し訳ないけれど…見たところお兄さんも大分擦り減らしているみたいだし。きっと力になれると思うよ」

 文彦の手が、己の頬へと充てがわれる。今し方までの自身がどんな表情を浮かべていたのかを確かめる様に。

 女性の言葉は正しい。文彦は間違い無く、心を痛めていた。それを、健気にもひた隠して過ごしていたつもりではいたのだが、どうやら女性には見透かされていたらしい。

「とはいえ、いきなり信用して全部を話そうって気にはならんだろうから。一つ、面白いものを見せるよ。なに、時間は取らせない。どうだろう、少し付き合ってくれないかい」

 文彦の迷いは、そう長く続かなかった。それ程に、彼は追い詰められていた。

 医者も、薬師も、占い師も。頼れる物は何だって頼ったし、縋れるものにも縋り尽くした。最早、よすがなどありはせず、明けても暮れても肩を落とすばかりであったので、胡散臭さの拭きれぬ言葉にすら寄り掛かろうとした次第であった。半ば自棄であった事に、疑う余地はない。

「——なにを見せるってんだ」

 文彦の言葉は暗く沈んでいる。それと比べて、女性の朗らかさがより引き立つ。傍目には一種異様な光景であった。

「面白いものさ。ついてきておくれ」

 女性が踵を返す。その背中を見て、会話が始まって以降沈むばかりだった文彦に、ようやっと異なる感情が浮かんだ。


 女性の纏う外套。その背には、刺繍が施されていた。

 闇色の中翡翠の煌めきを放つ、神々しい鯨の姿。背中一面を覆う程巨大に描かれたその姿は余りに荘厳であり、落胆色濃い文彦の思考をまっさらに染め上げるにも十分過ぎる貫禄であった。

「—と、そうだ。まだ名乗ってなかったね」

 呆けた様子の文彦の意識を呼び戻したのは、立ち止まり振り返った女性の声。文彦が僅か、俯き加減であった顔を上げる。


書人かきびと槭樹かえでです。よろしくね、お兄さん」


 聞き慣れぬ肩書きに、奇怪な装い。それらは全て等しく、些か以上に奇妙さを伴うものだった。けれど、言葉と共に向けられた朗らかな笑みに。結局、槭樹と名乗ったこの女性を疑うべきか否なのか。一層、文彦にはわからなくなっていた。

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