二 首のない彼女

1.首と腕

 自転車を石段の隣に停めて、鍵をかける。一番下から見上げた先は薄暗く、その先をはっきりと見ることはできなかった。降り注ぐ蝉の声の中、石段の一番下に足をかけて、自分自身を持ち上げる。

 スイゼンサマが来るぞ。

 声は日に日にはっきりしてくる。夢は毎日毎日繰り返されて、徐々にその輪郭を明白なものにしていくようでもあった。

 あの日、惹かれるようにして茅はこの石段をのぼったのだ。けれどここに何が祀られているのかということすら、知らないままだった。

「あれ」

 石段をのぼりきった先、直角に曲がった参道の向こう。袖なしのパーカーのポケットに両手を突っ込んだ人影が茅に気付いた。

「壱岐さん」

「どうもこんにちは。先輩」

「先輩?」

 さも当然のように彰浩が口にした呼称に、茅は首を傾げる。

 彼と出会ったのは先日、この神社のところが初めてのはずだ。それ以降一度も会った覚えはなく、そのように呼ばれる心当たりもない。

「汐崎研究室の人でしょう、あなた。あの後大学で見かけました。汐崎教授の講義のときに手伝いをしてたので、そうかなと」

「はあ」

「僕、同じ大学の学生です。汐崎教授の講義は面白いので、好きですよ」

 どうやら彼は、年下であったらしい。どうにも年齢が読めない、考えていることも読めないような顔をして、彰浩はことりと首を傾げていた。

 今日は、誠一郎はつれていないらしい。小学生は今頃学校のプールにでも行っているのだろうか。自転車で走っている間に、プールバッグを手にした子どもを見かけたような気がする。

「ところでお名前を伺っていなかったように思いまして」

「ああ、はい。志津利です。志津利茅」

 彰浩の名前はペンネームも含めて聞いていたが、確かに茅は名乗った覚えがない。そう思って名乗れば、ふうん、と彰浩は「しづりちがや、しづりちがや」と茅の名前を何度か口の中で繰り返していた。

 よし覚えた、と彼が顔を上げたのは蝉が何度も鳴き騒いでから。

「じゃあ、志津利先輩。ミサちゃんを後ろにくっつけて、お散歩ですか?」

「ミサちゃん?」

 後ろにくっつけてと言われて、つい後ろを見てしまった。けれどそこには石段と、木々があるばかりで、人影はない。

 そもそもミサちゃんなどと呼ばれる人物に、心当たりがない。そんな名前の女性は、茅の知り合いにはいなかったはずだ。もしや彼には何か変なものでも見えているのかとそんなことを疑って、また彰浩の顔を見た。

 彰浩がまた、首を傾げる。自分は何も変なことを言っていないとでも、言うように。

「三砂彩里、ミサちゃん。この前お会いした時にも後ろにくっつけていたので、ははあさてはミサちゃんとうとう警察官を辞めてストーカーに転職したのか、なんて思っていたんですけど」

「え」

 がさりと、茂みをかき分けるような音が聞こえた。

 三砂彩里という名前には覚えがある。藤江菜摘の件についてを尋ねに、茅の家にやってきた警察官の片割れだ。けれど彼とは警察署の前で見送られて、それきりだったはずだ。

 深々とした溜息と共に、見覚えのある姿が木々の中から現れる。頭や肩のあちらこちらに乗った木の葉を払い落としながら、三砂が参道のところへと足を進めていた。

「……彰浩。人聞きが悪いことを言うな」

「だって事実でしょう、ミサちゃん。女性? 男性? まあいいや、人の後ろをとことこ気付かれないようについて行くだなんて、ストーカー以外の何があるんです?」

「ストーカーなわけがあるか。尾行だ」

「一人で? キヌさんは?」

「衣浦さんは他に調べたいことがあるから別行動だ。まったく、何で言うんだお前は」

「え、だってミサちゃん、尾行へたくそですし」

 彰浩いわく『へたくそ』である三砂の尾行など、茅はさっぱり気付かなかった。もしや先日この神社で聞こえた気がした足音は、三砂のものだったのだろうか。

 尾行されているということは、未だ茅に対する疑惑は晴れていないということか。藤江菜摘という人物すらも知らないというのに、それすら信じられていないのかもしれない。

 あれからずっと、毎日、三砂は茅の後をつけていたのだろうか。そうであるとしたら、警察というのは暇なのかもしれない。

「まだ、自分は疑われているわけですか」

「……すまないな。他に有力な手がかりもないんだ」

 三砂が尾行しているということはそういうことなのだろう。殺人犯扱いされるというのは当然気分のいいことではなくて、溜息を吐きかけて呑み込んだ。

 とはいえやはり、尾行はいただけない。そもそも後をつけられていることが分かってしまった以上、ではどうぞこの後も尾行してくださいとは言えるはずもなかった。

「あの、尾行されるのも嫌なので、普通にどうぞ。別に変なことするつもりはない、と言いますか……数日後をつけていたのなら、普段どういう生活をしているかお分かりだと思いますし」

 本当は疑いが晴れるのが一番なのだが、おそらく今の段階では、最も疑わしい人間というのが茅なのだろう。こればかりは茅が違うと言い募ったところで、証拠も出せない以上はどうにもならない。

 なかったことの証明が難しいというのは、頭ではきちんと理解している。ただ本当に、気分が良くはないだけだ。

「ああ、そうだな。本当にアパートと大学の往復くらいしか外に出ていなかった」

「はい」

 怪しいところは何もない、と茅自身は胸を張って言えはする。言えはするが、かといってならばそれを証明しろと言われれば、やはりできないとしか言い様はない。

 アパートと研究室を往復して、時折食糧を買うだけの日々だ。そもそも研究をするためにここにいるのだから、当然と言えば当然ではある。

「え、何? 志津利先輩、疑われているんです?」

 きょとんとした表情の彰浩は、やけに幼く見えた。彼が大学生でかつ茅よりも年下ということは分かっているものの、それこそ彼の表情は中学生か高校生か、少なくともまだ親の庇護を必要とするような年齢にさえ見える。

「……そうだ。トランクケースに入った首なし遺体の事件、あっただろ」

「僕そんな新しい事件、興味ないんです。目下、スイゼンサマの方が興味ありますし」

 彼は先日も言っていたのとほぼ同じことを、三砂に告げる。彼が調べているのはスイゼンサマの殺人事件であって、藤江菜摘の事件ではない。

 三砂も分かっていたことなのか、彼は驚いた様子もなく、ただ肩を竦めただけだった。

「そうだな、お前はそういう奴だったよ。とりあえずその事件の被疑者なんだ」

「それはまた災難ですね、先輩。先輩が殺したんです?」

「殺してませんよ」

「こうやって先輩は言ってますけど、ミサちゃん」

「お前な。それで『はいそうですか』って被疑者から外せるわけがないだろう。現に志津利の財布が現場から見つかっているんだから」

 いいえ犯人ではありません。そうですか。

 事がそんな単純に終わらないことは、茅とて分かっている。分かってはいるが、それで終わって欲しくもある。

 ざわりと木々がざわめいて、一瞬蝉の鳴き声が止まる。ひやりと首に何かを当てられたような気がしてそこに手を当ててみても、やはり何もなく、首は繋がっている。

 また、蝉が鳴き始めた。どっと汗が噴き出したのは、どうしてだろう。

「財布ですか。殺人犯がそんなもの落としていったのなら、間抜けにもほどがあると思いますけど?」

「落としていったわけじゃない」

 三砂は一度茅の顔を見てから、肩を落とした。

「はあ、まあいいか。志津利の財布は、トランクケースに一緒に入っていたんだよ。遺体の首があるはずの場所に、まるで存在を誇示するようにな」

 茅の財布は近くに落ちていたわけではない。だからかと、先日の三砂の問いがようやく腑に落ちる。

 トランクケースの中、本当ならば首があるはずの場所にあった財布。それにしても、犯人は悪趣味がすぎないだろうか。

「だから自分の存在を誇示したいのかと、そういう見方をされたわけだ」

「しませんよ、そんなこと……」

 茅がもし犯人だったとして、そんなことをして何になるというのだろう。警察に自分が絶対に捕まらない自信があるだとか、絶対に藤江菜摘を自分が殺したと表明したかったとか、そういう理由でもあれば、誇示のためにするのだろうか。

 ともかく、茅はそんなことはしない。そもそも、他人を殺そうなどと思ったこともないというのに、どうしてこんなことになったのか。

「ところでミサちゃん。その人、首はどこにあったんです?」

「首は見付かっていない。腕もな」

「腕? 首だけじゃなくて、腕もないんです?」

 首がないとは、聞いていた。けれど腕もないというのは、初耳だ。

「……両腕の、肘より先がない」

「ふうん。足は?」

「足はある」

 首と、肘から先がない遺体。トランクケースに詰め込まれて、どんな様子だったのかを想像してしまって、茅は首を横に振った。こんなもの、想像するようなものでもない。

「それでよく、被害者の名前まで分かったんだね?」

「トランクケースが藤江菜摘のもので、着ていた服も彼女がその日着ていたもの。トランクケースの指紋も彼女のものらしき一種類しか出てこなかった。その指紋は彼女の部屋にあったものと同じだから、当然藤江菜摘のものだろう」

 そこに、犯人の痕跡はない。そして、彼女の身体は欠けている。

 どうして首がないのだろうか。どうして腕がないのだろうか。わざわざそんなものを奪い取って、犯人は何がしたいのか。

「あ、なるほど。そういう判断。でも何で、首と腕を隠す必要があったんですかね」

「さあな。猟奇殺人犯の考えることだ、一般人には分からないだろうよ」

 確かに死体の首が斬り取られているというのは、猟奇的だ。そこに加えて腕もない。けれど、足はそこに遺された。

 何の理由もなく首や腕を持ち去るとは思えない。ましてそこらに首が転がっていたわけでもなく、首は未だに見付からない。

 どうして、首を隠さなければならなかったのだろう。

「なにそのミサちゃんが一般人代表ですみたいな発言」

「お前と比べたら俺は十分に一般人だ」

 スイゼンサマが来るぞ。

 スイゼンサマは、首を落とす。けれど、腕はどうなのだろう。スイゼンサマが腕を落とすのであれば、藤江菜摘はスイゼンサマに首と腕を落とされたのかもしれない。けれどそんな話は今のところ、聞いたことはなかった。

 そもそもスイゼンサマが首を落としたのだとすれば、茅の財布がそこにあるのは不自然だ。それとも何か、茅に伝えるようなことでもあったのか。

「えええ、失礼ですねミサちゃんは」

「俺のことをミサちゃんとかいう奇怪な名前で呼ぶお前が、さも一般人ですみたいな顔をするな」

 ぞくりと、寒気がした。彰浩と三砂の声は遠くなって、まるで壁一枚を隔てているかのような気持ちになる。

 かくりと直角に曲がった参道の上。蝉の声がまた、遠くなる。

 スイゼンサマが来るぞ。

 ひたりと足音が聞こえた気がした。ひんやりとしたものが、茅の首に触れたような気がした。けれどそれは気がするばかりで、実際には後ろを振り返っても何もなく、首も未だに繋がっている。

「あの」

 冷ややかな気配を振り払うように、三砂に声をかけた。

「本物の犯人を見付けたら、自分の疑いは晴れますか」

「決定的な証拠と共に見付けられればそうだろうが……」

「そうですか」

 蝉の声が、聞こえてきた。遠ざかっていた暑い夏の気配が再び近付いて、内心で安堵してしまう。

 茅の疑いを晴らすには、本物の犯人に繋がる証拠を出さなければならない。もしもそれがスイゼンサマであったとしても、その証拠を。それこそが、茅が犯人ではないことを証明するものになる。

「スイゼンサマは首を落とす……」

 知至咲神社に祀られているというスイゼンサマは、一体どのようなものだろう。何を願われる神なのだろう。彰浩に聞いてみれば、その答えは分かるのだろうか。

「先輩は、スイゼンサマを疑ってるんです?」

「……どう、だろう」

 首が落ちる。ごろりと、転がる。

 あの夢は何のために見ているものだろう。何が茅に見せているのだろう。

「でも、声が聞こえる。スイゼンサマが来るぞ、と」

「ふうん?」

 彰浩は少しばかり考え込むような顔をしてから、名案があったとばかりにぽんと手を叩く。

「ねえ、先輩。手伝ってあげましょうか」

「え?」

「真犯人探し、手伝ってあげましょうか、僕。多分、お役に立ちますよ」

 笑っている彰浩の顔からは、何を考えているのか読み取れない。そんな彼の隣では、三砂が頭が痛そうな顔をして、こめかみのところを指先で揉んでいた。

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