第6話

 到底、受け入れられなかった。

 ————どうして、こんなことに。

 マネージャー変更を言い渡されてから、ずっと思考がまとまらない。ショックが大きくてまともに思考も進まない中、延々と澄睦がマネージャー交代を提案した理由を考えた。

 他にやりたいことが出来た? 自分のマネージャーを辞めたかった? それとも本当は何か別の理由がある?

 考えたところで答えは出ず、結局一人で抱えきれなくなり、湊と創を呼び出した。いつもの店で話したいと伝えれば、二人は訳も聞かずにすぐに了承した。

 先に店に入り二人を待つ間も、思考は堂々巡りで。気持ちが浮上することはなく、暗い顔で答えの出ない問いを繰り返した。

 十分ほどで、二人も到着する。

「お疲れさま…って」

「え、ちょ、どうしたの」

 翔音の顔を見るなり、湊も創も血相を変えた。

「何かあった?」

 明らかに沈んだ顔をしている翔音に、湊が優しく声を掛ける。

 無性に泣きたくなりながら、翔音は口を開いた。

「…マネージャーが、変わるって」

「え?」

「どゆこと?」

 二人に今日の話を伝える。二人の表情は、驚きから怪訝な顔へと次第に変わって行った。

「本当に急だね…。理由は、それ以外に説明されなかったの?」

 うん、と翔音は頷く。

「翔音に相談もなくこんなこと決めるなんて、明らかにおかしいよ」

「やっぱり、何か、他に理由があるのかな…」

 考えていたことを、翔音ぽつりぽつりと語る。

「俺のマネージャーって、本当に大変だったと思うんだ…気を遣わなきゃいけないことも多いし、俺からの我儘も、多かったし…」

 最近は特に疲れているようだった、冷たかったのも、もう自分のマネージャーを辞めたかったからかもしれない————そんなことを話す翔音に、創が慌てたように口を挟んだ。

「ちょっとちょっと、カノンクンどーしたの。らしくないよー」

 え?、と翔音は顔を上げる。翔音本人は、自分がらしくない状態になっていることにも気付いていなかった。

 創は翔音の顔を覗き込みながら、その肩をぽんと叩いた。

「そんなネガティブな理由じゃないっしょ、さすがに!」

「うん、俺もそう思うよ」

「そう、かな…」

 自信なさげに呟いた翔音に、二人は繰り返し励ましの言葉を投げる。

 これまでの澄睦の様子を考えたらそんなことはありえない、きっと何か別の理由があるはずだと、そう力説した。

「そもそも、翔音に何の相談も無くこんなことを決めるような人じゃないと思うんだ」

 ————確かに、湊の言う通りだ。

 これまで、澄睦がどれだけ自分に配慮して色々なことを進めてくれていたか、しっかり分かっているつもりだった。これまでの彼の行動を踏まえると、こんな重大な話を、事前に相談の一つもなく決めたということ自体に違和感がある。

「何か言えない事情があるとか…?」

「そうなんじゃないかな。まぁ何が理由であろうと、翔音本人に伝えないのはどうかと思うけれど————」

 そこで、突然言葉は途切れた。湊は何かに気付いたように口を噤む。

「湊?」

 首を傾げた翔音に、湊は誤魔化すように笑った。

「あ、ううん。だからそう、何か御崎さんにも面倒な事情があるんじゃないかな」

「…」

 何かを察したらしい創がちらりと湊を見たが、翔音はそれに気付くことなく「うーん」と唸って腕を組んだ。

 ————事情か…全然、予想も出来ないな…。

 結局、本人に聞く以外に方法は無いのだろうという結論に辿り着く。

「もう一回、澄睦さんとちゃんと話をしてみようかな」

 今日は衝撃で何も言えなかったが、少し気持ちの整理がついたことで、聞きたいことや言いたいことが徐々に浮かんでくる。

 気になることはしっかり話し合って、納得が行く形で今後のことは決めたいと、そう伝えたかった。

「うん、それがいいと思うよ」

 頷いた湊に、翔音はようやく笑顔を浮かべる。

「ありがとう。話聞いてもらって、冷静になれた気がする…どうして言ってくれないのか全然分かんないけど、でも、話してもらえるまで諦めずに頑張ってみる!」

 ぐっと両手の拳を握った翔音に、創が大きく伸びをしながら言った。

「よかった〜いつものカノンに戻って! 珍しくうじうじモードだったからびっくりしちゃった」

 うじうじって、と言い返しながらも、心の中では確かにそうだったな、とひとりごちた。

 ————後悔しないようにしなきゃ。

 来月までに決着をつけなければ、何も分からないままマネージャーを交代されてしまう。時が過ぎるのをただ待っているわけにはいかないと、翔音は強く決意を心に刻んだ。


     * * *


「…話って何でしょう」

 三人きりの会議室。呼び出された澄睦が口火を切った。

「翔音のマネージャーについてです」

 湊は淡々と返す。

「なぜこんなことが急に決定したのか、ちゃんと納得出来るように説明してもらえませんか」

 澄睦は何かを察したように、すっと目を細めた。

「翔音くんに話したこと以上の理由はありません」

「さすがに、それは無理ありません?」

 すかさず返した創に、澄睦は沈黙を返す。

「なんかカノンには言えない理由があんのかなって、湊と話してたんですけど」

「…」

 澄睦は一つ息を吐いて、それから二人の目を見てはっきりと伝えた。

「そういう意味では、あなたたちにもこれ以上のことは話せません」

「!」

 何か本当の理由があることを肯定する言葉に、二人は揃って小さく息を呑んだ。

「急なことですし、少し歪に見えるとは思います。でも、これは本当に翔音くんにとって悪い話ではないので、そこは安心していただければと」

 ぐっと湊が拳を握る。

「…そんなことは分かってます」

 絞り出すような低い声。

 これは、これまでに培ってきた揺るがぬ信頼があるからこその抗議だった。

「御崎さんが翔音に悪いようにするとは思えないから、その理由が知りたいんです」

「回答は同じです。これは、翔音くんの最善を選んだ結果です」

 取り付く島もない。

 その頑なな態度に、湊はしびれを切らし、導き出した仮定を口にした。

「翔音のことを、好きになってしまったからですか」

「っ…」

 初めて、澄睦の表情が揺らぐ。

 しかしすぐに元の表情に戻った。そしてゆっくりと息を吐き出すと、目を伏せ、それを事実と認めた。

「…そうです。そこまで分かっているのなら、お二人が私を止める理由はないのでは?」

 どこか自虐的な様子を、創は軽く笑って一蹴した。

「大アリですけどね」

「俺たちの話を、聞いてもらえませんか」

 湊は、その思いの丈を話し始める。

 翔音がトラウマを克服出来たのは、澄睦のおかげであるということ。それが翔音にとってどれだけ嬉しいことだったかということ。さらにはコンプレックを乗り越え、やりたいことが出来るようになったこと————この一年間の翔音のことを思い出しながら、湊は穏やかな声で澄睦に語った。

「翔音はもちろんだと思いますが、俺たちも、御崎さんには本当に感謝しているんです」

 湊の真摯な言葉に、しかし、澄睦はため息を吐いた。

「…皆、私を買い被り過ぎです。この程度は、本来マネージャーならば誰だってやること…何も特別ではありません。たまたま、それが私だったというだけで————」

「だとしても、カノンを変えたのがミサキマネってことは変わらなくないですか?」

 創の鋭い割り込みに、澄睦は眉を顰める。そんな澄睦に向かって、湊はただ真っ直ぐに言葉を投げかけ続けた。

「俺は…あなたを、信じています」

 この一年間、翔音のことをどれだけ思い遣っているか、近くでずっと見てきた。

 自分たちだけでは支えきれない部分を、全部澄睦が支えてくれていた。翔音の弱いところに寄り添って、彼のペースに合わせて歩んでくれた。

 翔音の話を聞いていると、どれだけ澄睦が翔音のことを思ってくれていたのかが手に取るように分かったから。

「だから、翔音をアイドルとしてだけでなく、一人の人間として愛していたっていいと…今は、そう思います」

 澄睦の表情は変わらない。澄睦としては、その回答はすでに出ていて、再考する余地はなかったのだが。

「それに…おそらく、翔音も満更ではないと思いますよ」

 お気付きかとは思いますが、と言った湊に、澄睦の表情が崩れた。苦虫を噛み潰したような顔で、声を絞り出す。

「…感情論で済ませていい話ではないと思っています」

 その苦しげな表情を、二人はじっと見つめる。

「翔音くんがそれを恋だと思ってしまっているというのならなおさらです。この関係は成り立たせていいものではない」

 静かな部屋に、澄睦の低い声が響いた。

「世間は許しません。同性であることだって十分に問題になります」

 そこに関しては、否定は出来なかった。恋人が居るというだけでも、アイドルはスキャンダル扱いされるのに、さらにその相手が同性のマネージャーだなんて知られたら、どんな声が飛んで来るか分かったものではなかった。

 だからこそ、湊は手放しで翔音の背中を押すことは出来なかったのだが。

「まぁ、正直世間うんぬんの話は、ミサキマネの言う通りだと思います。でも、そういう問題とかも全部まず翔音に説明するべきじゃないですか」

 創は迷わず口を開き、その考えを説く。

 全て話して、それでも翔音がその道を選ぶと言うのならば、その責任は澄睦だけが背負うべきものではないと、創は淡々と話した。

「カノンにだって、それを背負っていくだけの覚悟が必要になる。その結果、世間にあれこれ言われたり、仕事に影響が出たりしても、それは自己責任でしかないでしょ」

 冷たくさえ聞こえる言葉ではあるが、そこには創なりの正しさと、翔音の気持ちを尊重したいという思いがあった。湊は創を横目に見ながら肩をすくめる。

「まぁ、俺は正直創ほどフラットには考えられないですが…でも、このまま翔音に何も伝えないまま終えるというのは、考え直してもらえませんか」

「…」

 澄睦は、迷いこそ見せたものの頷きはしなかった。

 湊はそれを見て、静かに話を締めくくる。

「お伝えしたいことは伝えました。これ以上はもう口出ししません————俺たちは」

 曰くありげな言い方に、どういう意味だと澄睦は怪訝そうな顔をした。

 創は唇の端を吊り上げて、おかしそうに笑いながら言う。

「カノンがこのまま大人しく引き下がると思ったら大間違いだと思いますよーってことです」

 話は終わったとばかりに、二人は会議室を出て行く。

 去り際、湊は澄睦に向かってにこりと笑って言った。

「三人の中で一番諦めが悪いのは翔音ですから。まぁ、御崎さんもよくご存知だと思いますけど」


     * * *


「諦めない…諦めない…!」

 翔音は一人部屋で自分を叱咤する。

 澄睦からの交代宣言を受けてから、早二週間が経とうとしていた。

 タイムリミットまで、もうあまり時間が無い。

 ————早く澄睦さんと話をしなきゃいけないのに。

 あれ以降、用意周到な澄睦により、一切直接会わずとも仕事が出来る状態にされてしまっていた。

 そのため、仕事を通してでさえ、澄睦に会えていない。当然、直接会って話がしたいと連絡をしても、仕事についての不明点があるのならメールで、それ以外に話すことは無いので時間は取れないと無慈悲に返される。

 断られる度に落ち込んでいたが、いよいよそれどころではなくなってきていた。

 どうにかしなくてはと気持ちが焦る。


「でも会ってもらえないんじゃ、話も…」

 しかし、言葉にしてはっとする。

 ————俺の方から、会いに行ってしまえばいいのでは?

 さすがにやり過ぎだろうかと一瞬躊躇ったものの、すぐに思考を振り払った。

「…会ってくれない澄睦さんがわるい」

 もうなりふり構っていられないところまで来ていた。向こうが一切譲歩してくれない以上、こちらとしても多少強引な手を使うほかない。翔音は無理矢理にでも会ってもらうしかないのだと自分を納得させて、カレンダーを開くと決行の日を定めた。


 

 ————本当に来てしまった…。

 澄睦のマンションの前で、翔音はごくりと唾を飲んだ。

 時刻は二十三時。人様の家に訪れるには非常識な時間だったが、確実に家にいる時間となると深夜しかなかった。徒歩で来られる距離だったのは、幸いだった。

「…よし」

 翔音は澄睦にメッセージを送る。

『今、澄睦さんの家の前に居ます。話をさせていただけませんか』

 ————やってることはほとんどアウトだな…。

 ストーカーみたいだ、と思いながらも、背に腹は変えられずそのまま送信する。

「さむ…」

 三月とは言え、夜は冷え込む。翔音は自分の身体を抱き締め、ふるりと震えた。

 まともに取り合ってはもらえなかったが、返信はいつも早かった。だから今日も、どうであれ返事はすぐに来るだろうと思ってはいたのだが。

 返事は無く、代わりにマンションのドアが開いた。

「————!」

 そこには、まだスーツ姿の澄睦が立っていて。

「何をしているんですか」

 冷たい声だった。

 翔音は頭を下げる。

「こんな時間にすみません。でも、どうしても話がしたくて————」

「話すことはありません。帰って下さい」

 有無を言わせない冷ややかな言い方に一瞬怯んだものの、すぐに自分を奮い立たせ、翔音ははっきりと思いを口にする。

「今日は話をさせてもらえるまで絶対に帰りません!」

「だから、話すことなんてもう何も————、っ!」

 通りを歩いて来る人の声が聞こえ、澄睦ははっとその方を向いた。

 男女二人組が、話をしながら二人の方へ向かって来ていた。このままマンションの外で言い合いなどしていたら、彼らに見られてしまうかもしれない————逡巡の後に、澄睦はため息を吐く。

「…分かりました」

「!」

 ————やった!! これで話ができる!!

 折れた澄睦に、心の中でガッツポーズをしかけた時だった。

「では、部屋で話しましょう」

 澄睦は翔音の答えを待たず、背を向けてマンションに入って行く。

「…え」

 翔音はその背中を呆然と見つめて。

 ————部屋って…まさか澄睦さんの部屋…!?

 ようやっと事を理解する。

 考えてみれば、そうなるのは自然ではあった。こんな時間に店には入れないし、かといってこの寒空の下で外で話すというのも厳しい。

 澄睦からすれば、家に入れろと押しかけて来たようなものだとようやく気付き、翔音は羞恥に頬を染めた。

「…どうしました」

 澄睦は、立ち止まったままの翔音を振り返る。

「え、あ、いや! 何でもないです!!」

 澄睦の気が変わらないよう、翔音は慌てて返事をして駆け寄る。

 エレベーターに乗り、最上階の七階で降りた。

 突き当たりの部屋のドアの鍵を開けて、どうぞ、と先に入るよう促される。

「お、お邪魔します…」

 綺麗な部屋だった。玄関には、キーホルダーやラバーバンドなど、アイドルグッズがいくつか飾られている。

 ————本当に澄睦さんの家だ…。

 あまりきょろきょろするのも良くないと思いつつ、色々な物に目を奪われてしまう。

 リビングのテーブルには食事の跡があった。まだスーツなところを見ても、帰ってきたばかりの一番忙しいタイミングで来てしまったことは明らかだった。申し訳なさを覚える。

「すみません、片付けます。座っていて下さい」

「い、いえ、こちらこそ急に押し掛けてすみません…」

 申し訳なさを覚えながら、勧められた椅子に座る。お茶を淹れますね、と言った澄睦に、お構いなく、と返したものの、澄睦はお湯を沸かし始めたので大人しく待つことにする。

「…」

「…」

 当然会話は無く、落ち着かない気持ちでそろりと部屋を眺めた。

 部屋の至るところにグッズが置いてある。ライブの物販で何かを買うことはほとんど無いと言っていたので、チケットに付いてきたグッズとかだろうか、と思いながら、ちらちらとそれらを見て。

「あ…」

 リビングの戸棚に飾られた、一枚のブロマイドが目に入り、静かに息を呑んだ。

 ————俺の、ライブの写真…。

 ライブグッズのブロマイドだった。舞い上がりそうな気持ちを抑えるように、きっとサンプルをもらったとかだろうと推測する。しかし、それにしたって自分の写真を飾ってもらえているということはやはり嬉しく、頬が緩んでしまいそうになるのを懸命に堪えた。

「どうぞ」

 ことりとマグカップが置かれる。

「すみません、ありがとうございます」

 ベルガモットの優しい香り。昇り立つ香りに、翔音はほうっと息を吐いた。

 澄睦は翔音の向かいに座ると、口を開く。

「お待たせしました。…まず、最初に謝らせてください」

「え?」

 澄睦は出迎えた時とは打って変わった様子で、翔音に向かって謝罪をする。

「ここまで何も説明せずに、ただ避けて…不安にさせてしまうことも分かっていたのに、それが最善だと思い込んで何も話さずにいたのですが…とても不誠実な対応だったなと、今しがた反省しました」

「それ、は…」

 大丈夫だとは言えず言葉に迷っていると、澄睦は意を決したように真実を告げた。

「お察しだとは思いますが…別の理由は、あります」

「!」

 望んだ話が聞けると顔を輝かせた翔音に、しかし澄睦はその希望をばっさりと切り捨てた。

「でも、出来ればあなたには言いたくない」

「え…」

 あなたには、という部分に意図を感じ、翔音は戸惑いを見せる。

「気になる気持ちも分かります。納得がいかないのも…でも、聞かないでもらえると助かるんです」

 懇願するように言う澄睦に、決意が揺らいだ。

 ————聞かない方が、いいのかな。

 これがもし澄睦だけの事情ならば、好き勝手に暴くものではないと思えた。もしこの交代の理由が、澄睦自身の体調や、家族や親戚などの完全にプライベートな問題が関わっているのであれば、本人が望まないのに他人である自分が無遠慮に入り込むのは無神経だと思い直す。

 自分が聞いていいものなのかを判断するために、翔音は質問を投げた。

「その理由に…俺は関係ありますか」

 澄睦の瞳が揺れる。

「…」

 沈黙は、肯定だった。

 ————関係、あるんだ…。

 そうだろうとは思っていたものの、実際にその事実を突きつけられるとショックだった。

 言うのを拒むということは、知れば自分が悲しんだり傷ついたりする理由なのだろう。黙っていたのは、澄睦の優しさなのかもしれないと思うと心が曇った。

「…すみません」

 シンプルな謝罪の言葉と、澄睦の沈んだ表情に、胸がずきりと痛んだ。

 ————何かが理由で、俺のマネージャーはもうやりたくなくなったって、ことなのかな。

 具体的なことは分からないが、何かしら自分に原因があることが明らかになり、翔音は拳を握った。

 もう引き止めることは出来ないのだとしても、せめて澄睦を傷つけてしまったのなら謝りたかった。直すべきところがあるのなら、それを知って改めたかった。

「…我儘でごめんなさい。でもやっぱり、知りたいです」

 何も分からないまま別れるのだけは、どうしても受け入れられない。自分勝手であることは重々承知の上で、翔音は頭を下げる。

「聞かないで欲しいと言われているのに、本当にすみません。でも、どうしても諦めきれないんです」

 理由が分からないままでは、自分はずっとこのことを考え続けることになる。マネージャーが変わってからもきっと囚われ続けてしまうと、そう声を震わせた。

「自分勝手で、ごめんなさい。でも教えて欲しいんです。お願いします」

「…」

 翔音の吐露を、澄睦は黙って聞いていた。

 そして、そっと囁くように言った。

「…翔音くんが謝ることは、何もありません」

 ゆっくりと息を吐いて。

「マネージャーを、変えるのは————」

 消え入りそうな声で、告白した。

「僕が、あなたに恋愛感情を抱いてしまったからです」

「…え……?」

 何を言われたのか、一瞬理解出来なかった。

「マネージャーとして、大人として…絶対に、あってはならないことです」

 翔音の理解を待たず、澄睦は話を続けた。

「こんな理由で、こんな形で、そばに居られなくなって…本当に、申し訳ないと思っています」

 頭を下げる澄睦を、翔音は呆然と眺める。

 ————俺に、澄睦さんが…恋愛感情?

 全く予想だにしていなかった告白の内容を、時間差でようやく理解する。

「…っ」

 理解すると同時に、身体が火照ったように熱くなった。

 澄睦が自分をそういう意味で好いていたのだと知って感じたのは、言いようのない高揚感で。

 ————ど、どんな顔すればいいんだ?!

 理解はしたものの、全く気持ちが追いつかない。どうすべきか分からずただ目を泳がせる翔音に、澄睦は淡々と告げた。

「こんなこと伝えておいてどの口がという話ですが、私のことは気にしないでください。交代してからは、もう一切関わらないようにするので」

「え…」

 頑固とした決別宣言に、胸が切なく疼いた。

 もう一切関わらない————それは、嫌だと思ってしまって。

「…それって、そんなにいけないこと、なんでしょうか」

 考えるより先に、言葉が溢れる。

「ごめんなさい、全然ちゃんと考えられてないんですけど、でもその、少なくとも俺は、今の話を聞いて嫌な気持ちにはならなかったというか…」

 ————何言ってるんだ俺…!

 澄睦を引き止めたい一心だった。おかしなことを口走っていることは分かっているが、このまま了承したら澄睦と本当に離れ離れになるのだと思ったら、考えてから発言する余裕も無くて。

 しかし、澄睦の意思は揺るがない。

「真っ当な大人は、担当のアイドルに恋をしたりはしません」

 自分は異常なのだと言う澄睦は、すでに全て手放すことを決めた顔をしていて。

 ————嫌だ…こんなことが理由で澄睦さんとの縁が切れるなんて、嫌だ。

「でも、理由がそれだけなら、マネージャーを辞める必要なんて————」

「これは『それだけ』と言えるような軽い問題ではありません」

 澄睦は厳しい声で翔音の言葉を遮った。

「本当に私の言えたことではないですが…もっと、危機感を持ってください」

「危機、感…?」

 ————澄睦さんに、対して?

 なぜそんなことを言われているのか、本当に分からなかった。澄睦が自分に危害を加えるなどあり得ない。翔音は悲しげに眉を下げた。

「…何の危機感か、全然分かんないです」

 これまで澄睦と共に過ごして来た、穏やかで温もりに溢れた時間を振り返る。

 その優しさに何度も触れ、何度も救われて来た、澄睦のおかげでここまで来られた————そう語る眼差しには曇りの一つもない。

「だから…そんなことを理由に辞めないでほしいです」

「…」

 澄睦は、その表情に影を落とした。

 沈黙が二人を包む。

 しばらく静寂が続いた。顔を伏せた澄睦の表情はよく見えない。

 何か声を掛けようか————そう思った時、突然、澄睦が席を立った。

「澄睦さん…?」

 翔音の方へ来ると、澄睦は座っている翔音を見下ろしてただ一言放つ。

「立って」

 え、と急なことに驚きながらも、翔音が言われた通り立ち上がると。

「わっ…!」

 澄睦はその手首を強く掴んで思い切り自分の方へ引き寄せ、たたらを踏んだ翔音をそのまま突き飛ばすようにしてソファに押し倒した。

 一瞬のことに何が起きたか理解出来ず、翔音はぽかんとした顔で自分に覆い被さる澄睦を見上げる。

 ————どういう、こと…?

 そして、自分を見下ろす澄睦の目が冷たいことに気付き、初めて緊張を走らせた。

「恋だなんて聞くと、何か素敵なもののように思えたのかもしれませんが————その実態は、これです」

 するりと澄睦の手が翔音の腰を撫でる。その明らかに色を持った触れ方に、びくりと翔音は身体を震わせた。

「っ…!」

 分かりますか、と澄睦は言葉を続ける。

「あなたを、僕はこういう目で見ているんですよ」

 翔音の身体を撫でながら、澄睦は薄く笑った。

「私が優しかったと思うなら、それはただの下心かもしれません」

 ————そんな、そんなわけない

 否定しようとして、しかし身体をまさぐる澄睦の手が首筋に触れ、翔音の口から小さな声が溢れた。

「んっ…」

 あられもない声が出てしまったことを恥じ、翔音は顔を真っ赤に染める。羞恥に耐えるように唇を引き結びながら、恐る恐る澄睦を見上げて。

「…」

 黙って自分を見下ろす澄睦の目は、見たことのない色をしていた。

「っ…」

 熱を孕んだ瞳に、本当にそういう対象として見られているのだと理解し、翔音は息を詰めた。

 どくりと心臓が音を立てる。熱が這い上がってくるような感覚に、ふるりと身体を震わせた。

 ————なんだろう、これ

 言い得ぬ興奮と、ほんの少しの恐怖。

 手首をソファに押し付けられ、動きを封じられていること、同意なく身体をまさぐられていること————この状況に対して、怖いと思う気持ちはあった。ただそれは、澄睦自身に対するものではなくて。

 しかし、そこに浮かんだ僅かな恐怖を、澄睦は見逃さなかった。

「…すみません」

 澄睦の顔がくしゃりと歪む。そのひどく傷ついた顔を見た瞬間、胸に鋭い痛みが走った。

 ————大丈夫だって、言わなくちゃ

 しかし、言葉を探せないうちに、澄睦は翔音の上から退く。そして、距離を取るように数歩下がった。

「澄睦さ————」

 ソファから起き上がり、近づこうと翔音が足を踏み出した時だった。

「結局、私はあなたを深く傷付けた前任のマネージャーと同じでした」

「ッ…」

 衝撃的な台詞に、愕然とする。

 ————ちがう、それは、絶対にちがう。

 そう思うのに、またも何も言葉が出て来なかった。

 事実、今しがた澄睦にされたことは、翔音を追い詰めた前任者のそれと同じ類のことではある。しかし、彼と澄睦が同じだなどとは全く思っていない————それを伝えたいのに、否定の言葉しか浮かばなくて。

 澄睦は、声を震わせて囁く。

「…こんな形でしか思えなくて、本当にごめんなさい」

「ちがいます、澄睦、さんは…ちがいます…」

 澄睦は何も言わなかった。

 このままでは、澄睦が自分の元から居なくなってしまう————そんな恐ろしい予感がした。

 頭の整理も出来ないまま、ただ澄睦を失いたくないという気持ちだけで翔音は手を伸ばしかけて————。

「おしまいに、させてください。あなたを思うマネージャーとしてやれることを…させてください」

「っ…」

 届かなかった手は、宙を彷徨う。

 言葉を失った翔音に、澄睦は家へ帰るようそっと告げた。



 その晩は、澄睦に言われたことを脳内で何度も反芻した。

 自分に恋愛感情を抱いていて、そこには性的なものも含まれていて、そしてそれはマネージャーとして正しくないことで、だからその座を降りようとしていて————。

 ベッドの中で寝返りを打つ。

 ————それって、本当にダメなことなのかな。

 その感情を向けられている自分が不快に思わないのならば許されるのではと思ってしまう。少なくとも、翔音の受け取り方は前任のマネージャーと明らかに異なっていた。

 そして、そうなると————問題は、自分の気持ちだった。

 翔音は縮こまるように丸くなって、心の在処を探す。

 ————澄睦さんのことは好きだ。…好きだ、けど。

 それが恋というものに分類される感情なのか、確信が持てない。

 澄睦が単なるマネージャー以上の存在であることも、他者と比べて特別好感を持っていることも確かだが、それだけで恋だと断定して良いものなのか、考えあぐねていた。

 ————好きだって伝えたところで、それは恋じゃないって、絶対に言われる。そうなった時に、今は…なんて言い返せばいいか、分からない。

 言い負けてしまうのは火を見るより明らかで、翔音は自分の中に断固たる答えを探す。しかし簡単には見つからず、結局微睡と思考を繰り返して一晩を明かした。


  

 翌朝は予定通り仕事に向かったものの、どうしても思考を完全に中断できず、集中力に欠けてしまう結果となった。

「はぁ…良くないな……」

 どうにか一つ目の取材を終えたところで、翔音は一人外に出てため息を吐いた。

 次の予定まで、少しだけ空き時間がある。午後からはレッスンなので、どうにか気持ちを切り替えたかった。

 ぼうっと明るい空を眺めていると、後ろから声を掛けられる。

「カーノン! どしたの今日。元気なくない?」

 創だった。翔音は振り返り、力無く笑う。

「ごめん、集中出来てなくて」

「や、別に仕事はぜんぜん問題なかったと思うけどさ」

 単純に元気が無さそうに見えたのが気になった、と言う創に、翔音は悩みを話すか逡巡する。

 ————でも、一人で考えてても埒があかないしな…。

 可能なら相談に乗ってもらいたかった。創の優しい目に背中を押されるようにして、翔音は躊躇いがちに口を開く。

「あのさ…ちょっと、なんていうか、変な相談なんだけど」

 うんうん、と創は頷いて、話をするならと場所の移動を提案した。人が来ないルーフバルコニーに出て、二人でベンチに座る。

「で、どうしたの?」

 どこから話すべきかと迷ったものの、結局シンプルに結論から伝えた。

「実は昨日、澄睦さんに告白されたんだ」

「えっ?! マジ?!」

 目を丸くする創。それから目を輝かせてパチンと手を叩いた。

「ひゅー! やるじゃん、ミサキマネ!」

 予想していなかった反応に驚きつつも、ニュアンスが伝わっていないのを感じ、慌てて訂正をする。

「あ、いや…告白されたって言ったけど、そういう感じじゃなくて…」

 翔音は昨日の出来事を説明する。さすがに押し倒されたことや、そういう目で見ていると言われたことについては省いたが、それ以外の会話や出来事は全て明かした。

「ほえ〜…ミサキマネも真面目だよね、ホントに」

「うん…」

「あとカタブツ〜。アイツと同じなワケないじゃんね」

「…そうだね」

 創の調子に少し心が軽くなり、翔音は困ったように笑った。

「それで、その…まぁ一応、澄睦さんの言い分は分かったんだけど」

 翔音は口籠もりながら現状一番の問題を打ち明けた。

「肝心の、自分の気持ちが…分からなくて」

 あー、と創は理解したように頷いた。それから「難しいよね」と肩をすくめる。

 そして腕を組み、うーん、と唸った、

「相手に恋人が出来たらどう思う〜とか、世間的にはよく言うけどさ、正直それじゃ決定打に欠けるよね」

 ————澄睦さんに恋人が出来たら…。

 良い気はしない、というのが率直な感想だった。しかし創の言う通り、それだけで恋だと断定するのも浅はかに思えた。

 実際、もし創が全く知らない女性と恋人になったと聞いたら、素直に喜べないような気がした。どういう感情なのか説明するのは難しいが、喜ばしいと思うよりも先に寂しさのようなものが出て来てしまい、複雑な気持ちになってしまう。

「…うん、そうだね。友達でも、なんか気になっちゃうことはありそうだし」

 ね、と創は眉を下げて笑った。その表情を見て、湊に恋人が出来た時、その話を聞くのが嫌だったと創が話していたことを思い出す。それも同じようなものなのだろうか、という思考が掠めた。

「オレもさ、恋だの愛だのの線引きっていうの? あんまり得意じゃないんだけどさ」

 創は空を仰ぐ。

「結局、いっぱい自問自答して、これは恋だ! これは恋じゃない! って決めるしかないと思うんだよね」

「自問自答…」

 繰り返した翔音に、うん、と創は頷いて笑った。

「これまでのミサキマネとのこと思い出して、カノンが自分で答えを出すしかないと思う」

 ————澄睦さんとの思い出か…たくさん、本当にたくさんあるな。

 翔音は遠くの空を眺めながら記憶を遡る。

 マネージャーとして紹介された時は、奇跡だと思った。またも男性マネージャーを当てられてしまったことへの不安が消えるくらいに、御崎澄睦という人に出会えたことは衝撃的だった。

 復帰ライブまでは、時間外練習にずっと付き合ってもらって、その中で、澄睦がどれだけ自分を気遣ってくれていたのかに気付いた。そして、話をするうちに澄睦の人となりを知って、アイドルへの思いを知って————ずっと抱えていたコンプレックスを曝け出したら、それを大きな夢へと繋げてくれた。

 約束の三ヶ月が過ぎて、以降もマネージャーで居てくれるのだと知った時は、とても嬉しかった。その時点ですでに、澄睦に見守っていて欲しいという気持ちが生まれていた。

 仕事に復帰して恐怖症の症状に悩まされることが増えても、澄睦が居てくれたから症状に臆せず立ち向かえた。その安心感があったから、握手会で男性ファンからの応援もちゃんと受け取ることが出来た。

 一緒にライブに行く約束をした時は、それだけで心が舞い上がって、当日を迎えるのがとても楽しみだった。そうして迎えたその日は、どの瞬間を切り取ってもとにかく幸せで満ち足りていて、終わってからも、何度も何度もその日のことを思い返すほどだった。

 バレンタイン企画を受諾出来たのも、澄睦からの言葉や、その存在による心の支えがあったからこそだった。自分でも胸を張れる結果を残すことが出来た上、仕事の幅も一気に広がった。

 同期のグループから本番直前に嫌がらせを受け、ショックで前後不覚になった時も、澄睦が繋ぎ止めてくれた。その存在を感じることで心の安寧を取り戻し、最後までやり遂げることが出来た。

 ————考えてみると、この一年間本当にいろんなことがあったな。

 ふっと翔音は笑みを溢す。

 大変な時も、楽しい時も、いつも澄睦がそばに居た。それが、どれだけ自分にとって幸せなことだったのかを、あらためて実感する。

 翔音はゆっくりと目を閉じて、感情を心に問う。

「…」

 名前を呼んでもらえるのが、笑ってくれるのが、嬉しかった。

 そばに居るだけで安心した。その温もりに触れたら、恐怖も乗り越えられた。

 可愛いと言われると胸が高鳴った。

 手を握られた時、抱き締められた時、ほっとするのにドキドキした。

 恋愛感情を抱いていると言われた瞬間に感じた高揚感を、思い出して。

「…好き、かもしれない」

 ぽつりと言葉が溢れ落ちた。

 言葉にしてみると、それは一気に鮮明になる。

 ————これは、恋だ。

 澄睦の特別になれるかもしれないと思ったら、どうしようもないくらい幸せな気持ちになる。

「澄睦さんのこと、好きだ」

 うん、と創はただ柔らかく頷く。それから、よかったね、と優しく翔音に笑いかけた。


 

 気持ちを伝えて、一緒に先に進みたい————それが、確かな願いとなった。

 しかし、部屋で話をしてからというもの、澄睦との連絡は完全に途絶えていた。話したいとメッセージを送ってもついに返事すら返って来なくなり、残すところあと一週間というところまで来てしまっていた。

「なんかムカついてきた…」

 控え室でスマートフォンを睨みながら溢した翔音に、創はにやりと笑った。

「いーねぇ、調子出てきてんじゃん」

「だって澄睦さん逃げてばっかりなんだもん!」

 騒ぐ翔音を、湊と創は宥めるでもなくただ見守る。

 ————どうすれば止められるか考えなきゃ。

 澄睦と直接話し合うことが不可能な今、マネージャー交代の話を阻止できる方法は無いと、そう思っていたのだが。

「…あ」

 マネージャーを続行させるだけなら、何も澄睦を通さずともやれるのではないかと思い至る。

 ————でも、さすがに、これは…。

 あまりに勝手が過ぎると躊躇う翔音に、何かを察したらしい創が問い掛けた。

「なんか良い案思いついた?」

「え…っと…」

 迷う素振りを見せる翔音に、「聞きたいな〜」と創はにこにこ笑いながら促した。

 ————お願いしてみても、いいかな。

 駄目なら断ってくれる。その信頼があるから、ひどい我儘でも言ってみてもいいかと思えて。

「…湊、そうちゃん」

 翔音の呼び掛けに、二人は翔音の方を向いた。

「二人も巻き込んで、本当に申し訳ないんだけど…聞いてくれないかな」

 くすりと湊が笑う。

「巻き込んでくれるの?」

 何でもするよ、と言う湊。

「オレらもずーっともやもやしてたし大歓迎」

 創は「それで、何すんの?」と前のめりに尋ねた。

 翔音は心強い仲間の返事に、「ありがとう」と微笑む。そして、その突拍子もない考えを二人に打ち明けた。

「出来れば、デラメアとしての意向として話したいんだけど————」

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