第4話

 事件は瞬く間に世間に広がり、しばらくの間騒ぎは収まらなかった。

 創が狙われた、ということは明らかにされていたが、犯人が湊の恋人だったことは公にしない方針で進めることが出来たため、湊が非難されることもなかった。

 世間からは、警備体制を問題視する厳しい声こそあったものの、三人に対しては同情するコメントがほとんどだった。特に翔音は、彼女を無力化させたことも記事に書かれたため、勇気を称える声が多く届いた。

 湊も二日休んだのみで、グループは特に活動を制限することもなくこれまで通り仕事を続けた。一ヶ月もすれば、この事件も話題に上がらなくなり、それまでとなんら変わりない忙しい生活を送っていた。

 唯一変わったことといえば、安全策として、しばらくの間マネージャーが送迎をすることに決まり、帰りだけでなく毎朝家まで車が来るようになったことだった。

「おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」

 すっかり乗り慣れた澄睦の車に乗り込む。おはようございます、と澄睦も微笑んで、翔音がシートベルトを締めたのを確認してからアクセルを踏んだ。

「翔音くんは本当に朝に強いですね」

 自負があるため、翔音は「そうですね」と頷く。

「この前、日山さんの代わりに高宮くんを迎えに行った時、あまりにテンションが低くて驚きました」

 翔音はその様を頭に浮かべて小さく笑う。

「そうちゃんも湊も、朝弱いんですよね。いつも二人揃って眉間にシワが寄ってて、ちょっと可愛いです」

「ふふ、私も朝が特別得意なわけではないのですが、さすがに分かりやすくて少し面白かったです」

 和やかに話をしながら現場に向かう。

 ————澄睦さんと過ごすこういう時間、好きだな。

 もうすっかり日常と化した、他愛ない時間だった。澄睦と話す上で、緊張することも、話題探しに困ることももう無い。ただただ居心地が良く、その安心感は湊や創と居る時のものにとてもよく似ていた。

「…あ」

 ふと、澄睦が声を上げる。

「すみません、ちょっと止まりますね」

 路肩に寄せて車を停めると、澄睦は鞄を漁り始めた。

「忘れ物ですか?」

「社用携帯を忘れたような気がして…」

 しばらくごそごそと探していたが、やはりそこに物はなかったらしく、澄睦は申し訳なさそうな顔をして翔音の方を振り返った。

「すみません、さすがに仕事に支障が出るので、一度家に戻ってもいいですか?」

「もちろん大丈夫です!」

 澄睦が戻るという選択をしたということは、時間的には問題無いのだろうと、翔音はすぐに了承した。

 すみません、ともう一度謝罪を口にし、澄睦は車を発車させる。

 ————澄睦さんの家かぁ…。

 なんとなくそわそわしながら、どこなんだろうと窓の外を眺める。

 車は、来た道を戻って行った。そして翔音の家の前を再び通り過ぎ————そこから三分程度走らせた後、車が停車した。

「えっ…」

 翔音は呆然と目の前の大きなマンションを見上げて、それから大きな声を上げる。

「もしかして澄睦さんの家ってここなんですか!?」

 数秒の沈黙。

 澄睦は、少し気まずそうな顔で振り返った。

「…はい。とても近いので、私も最初は驚きました」

 ————ここ、小学校の通学路なんだけど…どんな偶然…。

 あまりの近さに驚愕している翔音に苦笑を漏らしつつ、澄睦は車のエンジンを切ってシートベルトを外した。

「すみません、すぐに取ってくるので少しだけここで待っていてください」

 はい、と頷くと、澄睦は車を出て行く。

 翔音は一人残された車内でぼやいた。

「…いやー…驚いたな…」

 実家も都内だと聞いていたが、もしやそれも近くだったりするんだろうか。さすがにそれはないかな————そんなことを考えながら、澄睦が帰ってくるのをぼんやりと待つ。

 ものの数分で澄睦はマンションから出てきた。

「お待たせしてすみません」

 運転席のドアを開けるなり謝罪をする澄睦に、翔音はぶんぶんと首を振る。

「全然大丈夫です! …でも、ちょっとまだ驚いてます」

 そうですよね、と澄睦も頷いた。

「ご実家もこの辺だったりするんですか?」

「いえ、実家は東京の西の方です。このマンションに引っ越してきたのは事務所に勤めてからなので…ここ五年くらいですね」

 駐車場のことや、事務所からの距離など、働く上での利便性を考えて選んだ場所だという話を聞いていると、ふとスマートフォンに通知が来る。

 話をしながら何気なくそれを確認して。

「!」

 翔音はタイトルを見て小さく息を呑む。そしてドキドキと胸を高鳴らせながら、届いたメールを開いて。

「あー…」

 ご用意できませんでした、の文字を見て、がくりと肩を落とした。

「どうしました?」

 問いかけに、翔音はため息と共に答える。

「今日、アットハートのライブの当落だったんですけど…落ちてしまって…」

 アットハート————翔音が長く追いかけている、一番好きなアイドルだった。デライト・メアリーよりも五つほど平均年齢の高い別事務所のグループで、今年で活動八年目になる。リバーブが解散してから出会い、小学生の頃から今までずっとファンとしてその活動を見ていたグループだった。

 ————ファンクラブ先行で落ちた時点で厳しかったかなぁ…。

 仕事のスケジュールの関係で、最も当選倍率の高いツアーファイナルに申し込む他なかった。自分が活動を休止している間はライブに参加するだけの気力を持てず、一年ほど行けていなかったため、念願の参加だったのだが————参加は叶わなそうだと項垂れる。

「確かに、今日でしたね」

 さらりと返された返事。澄睦もファンクラブに入っているという話は以前聞いていた。

「澄睦さんも申し込んでました?」

「はい。ツアーファイナルを」

 同じだ、と驚きかけたものの、オフは基本同じなのだから当たり前か、とすぐに思い直す。

「関係者席はお願いしないんですか?」

「アットハートの方々とはほぼ面識ないですし…それに、デビューする前からファンなので、こうやってファンとして追いかけているのが楽しいというか」

 分かる気がします、と澄睦は微笑んだ。

 赤信号で車が止まった。その隙に、澄睦はスマートフォンを確認して。

「どうでした?」

「…当選しました」

「えっ!! おめでとうございます!!」

 羨ましいです、と笑う翔音に、澄睦は逡巡する素振りを見せながら口を開いた。

「…あの、もし、良ければなんですが…」

 珍しく、澄睦は言い淀む。

「実は、ファンクラブ先行でも席が取れまして…ただA席だったので、今回もっと良い席が当たればと思ってまた申し込んだんです」

 今回も結局A席だったんですが、と付け加えて、ちらりとミラー越しに翔音を見る。

「重複して当たったら片方をリセールに出そうと思っていたので、良ければ一枚分配しましょうか?」

 ぱちりと翔音は目を瞬く。

 そして何を提案されたか理解して、身を乗り出した。

「えっ、いいんですか!?」

「先ほども言ったように、ただリセールに出すだけなので…良ければ、ぜひ」

 翔音は顔を輝かせる。

「ありがとうございます!! もう無理だと思っていたのでめちゃくちゃ嬉しいです!!」

 澄睦は目を細めて「よかったです」と囁いた。

「お互い楽しめるといいですね」

「はい! ————あ、そうだ」

 翔音は胸が躍るまま、その提案を口にする。

「良ければ、一緒に行きませんか!」

「え?」

「席は連番じゃないですが、同じライブですし、終わった後に感想とかお話出来たら楽しいなって————」

 思い付いたままに捲し立て、途中で、はっとする。

「す、すみません!!」

 ぽかんとしている澄睦の顔がミラー越しに見えて、すぐに自分の発言を省みた。

「プライベートなのに、良くないです、よね…」

 あくまで澄睦はマネージャーで、友人ではなく仕事仲間なのだ。最近、マネージャーとアイドルという関係にしては些か親密過ぎるところがあったものの、線引きを誤ってはならないと反省する。

 ————でも、せっかく同じライブに行けるなら…ちょっとだけでも、お茶出来たりしたら、やっぱり嬉しいな…。

 思い付いて、期待してしまったからこそ、残念な気持ちが大きく諦めきれなくなる。

 澄睦を困らせたいわけでは決してないので、無理を言うつもりはなかった。ただ、これは本当にしてはいけないことなのだろうかと考えるのをやめられない。

 ————マネージャーとプライベートで会うのって、ダメなこと…なのかな。

 仕事仲間と遊びに行くと思うと、そこまで珍しいことではないような気もする。仕事でお世話になった人とご飯に行ったりするのとはやはり違うのだろうか。合意が取れているのであれば、問題は無いのではないか————そんなことを悶々と考えている翔音に、小さく声が掛けられる。

「…翔音くんが、大丈夫なのであれば…一緒に、行きましょうか」

 翔音はくるりと目を丸くした。

「え…いいんですか」

「ええ。…でも」

 澄睦は柔らかな声で問う。 

「翔音くんは、本当に大丈夫ですか」

 もう一度ゆっくり考えてみてほしい、と言われ、澄睦が何を懸念しているのかをようやく悟った。そして、それと同時に、言葉が自然と溢れ落ちる。

「…澄睦さんなら、大丈夫じゃないことなんてもう何も無いです」

 二人きりでも、手を握られても、怖いだなんて思わない。それは、これまで一緒に過ごして来た時間を振り返れば明らかなことだった。

 ————だって、そばに居てもらえた方が安心できるくらいなんだから。

 握手会の日のことを思い出す。澄睦がそばに居るのだと思うだけで、不思議な勇気が湧いてきて————結果、男性ファンともちゃんと向き合うことが出来た。

 だから、澄睦の心配することなど何も無いと伝えようと、口を開こうとして。

「…?」

 ————なんか、怖い顔してる…。

 ついさっきまでの笑顔はどこへやら、澄睦はすんとした顔になっていた。

「澄睦さん…?」

 しかし、呼び掛けるとすぐさま柔らかな表情が戻る。

「すみません、ちょっと驚いてしまいました」

 ————今のは驚いた顔だったのか…?

 何だか最近よく見る顔な気がした。直前まで笑っていたのに、急に表情が抜け落ちたように真顔になる。不思議に思うものの、特に澄睦は意識しているわけではなさそうなので、あまり気にせず返事を待った。

 少し悩む素振りを見せたものの、やがてふわりと微笑む。

「では…翔音くんが問題無いのなら、ぜひご一緒させてください」

 澄睦の返事に、翔音は喜びを露わにする。

「はい! うれしいです、ありがとうございます!!」

 ————ああ、楽しみだな。

 とくとくと高鳴る胸。翔音は堪えきれない笑みを小さく漏らした。



 ライブまでの二週間は、ずっと浮き足立っていた。

 仕事の合間や帰宅後など、プライベートな時間になると、気付けば澄睦とライブに行く日に思いを馳せていた。

 久しぶりのライブというだけでもとても楽しみなのに、さらに澄睦とプライベートの時間を過ごせるという特別感に心が躍る。

 あまりに翔音がそわそわしているので、湊と創にも何か良いことでもあったのかと問われた。

 澄睦と一緒にライブに行くのだと言えば、湊は目を丸くしてどうしてそんな話になったんだと少し焦りを見せながら問うた。チケットが重複したから譲ってもらったこと、せっかく同じライブに参加するのなら一緒に過ごしたいと翔音から提案したことを伝えると、湊は何か言いたげな顔をしながらも、そうなんだ、とただ相槌を打った。

 そうこうしているうちに、二週間はあっという間に過ぎ————ついに、その日になった。

 服は悩みに悩んで、お気に入りの花柄のシャツに、ロングTシャツを合わせた。黒のスキニーを履いて、バケットハットを被る。鏡の前で全身を確認して、よし、と小さく呟いた。

 マスクをして家を出る。駅に向かい、来た電車に乗り込んだ。

 翔音は顔を伏せながら、席を探して座る。

 ————電車、乗ってても全然気付かれたことないんだよな…。

 気付かれない方がありがたくはあるものの、こうも無風だと、それはそれで少し気になってしまう。湊や創からは、街中で見つかって大変な目にあったというエピソードを何回か聞いていた。自分にはオーラが無いのかな、と一人ため息を吐いた。

 三十分ほどで目的の駅に着き、電車を降りる。

 改札を出て待ち合わせの場所に向かい————そして、その姿を見つけた。

「!」

 翔音は、衝撃に思わず足を止める。

 そこに佇む澄睦は、普段の装いと全く異なっていた。

 タートルネックのインナーに、オーバーサイズのチェックシャツ。下は黒の細身のカーゴパンツを履いている。

 普段無造作に後ろで一つに結ばれているミルクティブロンドの髪は、ハーフアップにアレンジされていた。

「…」

 ————か、かっこよすぎないか…?

 固まっていると、視線に気付いた澄睦が顔を上げた。

 目が合って、いつものように柔らかく微笑まれて。

「っ…」

 鼓動が忙しなくなる。

 翔音は緊張を胸に抱きながら、澄睦の方へ駆け寄った。

「お、おはようございます! 早いですね!!」

 ふふ、と澄睦は笑う。

「翔音くんを待たせるわけにはいかないので」

「え…」

「見つかってしまったら大変ですから」

 合図のように片目を瞑って囁いた澄睦を前に、翔音は再び硬直した。

 ————なんか、なんかすごい、威力が高すぎる。

 ドキドキと跳ね続ける鼓動。そのあまりの格好良さに、思わず問い掛けてしまう。

「…声、掛けられませんか?」

「僕ですか? もうアイドルを辞めて十年は経ちますし、当然顔立ちも変わってますから、気付いて声を掛けられたことはもうここ数年無いですね」

 いや、芸能人としてではなく、と思いつつ、このルックスだと女の子に声を掛けられるのでは、なんて野暮なことを聞くのも良くないかと思い直し、翔音は「そうなんですね」とただ乾いた笑いを返した。

「じゃあ、行きましょうか」

「は、はい!」

 澄睦と並んで歩く。少しヒールがあるのか、いつもより身長が高い気がした。

 翔音はちらりと横目で澄睦を盗み見る。

 ————いや、ほんとにカッコいいな…。羨ましいくらい…。

 普段のスーツや、シャツにカーディガンという飾り気の無い出たちでも、ふとした時に目を奪われるほど整った顔立ちをしているのに、今日はそこにさらに魅力を引き出す要素がこれでもかというほど追加されていて————気を抜くと見惚れてしまいそうだった。

 ————お洒落だなぁ…ファッション、本当に好きなんだろうな。

 シャツインの仕方や、細やかなアクセサリーなどから、彼のこだわりが見て取れた。翔音は思ったままにそれを真っ直ぐ言葉にする。

「今日の澄睦さん、すごくカッコいいです」

 突然のことに驚いたのか、え、と澄睦は目を丸くした。

 そして、ふわりと微笑んで。

「…ありがとうございます。翔音くんもとても————」

 しかし、言葉は不自然にそこで途切れる。そしてすぐに、澄睦は繕うように笑った。

「素敵ですね」

 ————もしかして。

 予感に導かれるまま、翔音は口を開いた。

「…今」

 澄睦を見上げる。

「可愛い、って、言おうとしました…?」

「!」

 澄睦の表情に、予想は確信へ変わる。

 ————やっぱり、そうだ。

 困った顔をする澄睦。肯定して良いものか悩んでいるのだろうと察して、翔音は素直な言葉でその背中をそっと押した。

「もし、そうなら…俺は嬉しいです」

 ————澄睦さんに言われるそれは、褒め言葉以外の何ものでもないって、分かるから。

 気が付けば二人の足は止まっていて、向き合うように立っていた。

「なので、その…もし、そう思うことがあったら、気にせず伝えてもらえたら、嬉しいなぁって」

 そんな意図は無いのだが、結果、可愛いという言葉を催促するような発言になってしまい羞恥を覚える。はは、と誤魔化すように照れ笑いをする翔音を、澄睦はしばらく静かに見下ろし、そしてふっと笑みを溢した。

「…可愛いです」

 澄睦は、甘く囁く。

「翔音くんはいつも可愛いですが…今日は、特別可愛いなと思いました」

 そのどこか熱っぽい視線に、翔音はごくりと息を呑んだ。

 顔に熱が集まるのを感じる。目を見ていられなくなって、視線を逸らした。

「あ、りがとうございます…」

 声が裏返る。そんな翔音を見て、澄睦は小さく笑い声を上げた。

「ふふ、すみません、行きましょうか」

「そう、ですね」

 止まってしまった歩みを再開する。未だ翔音の心臓はうるさく音を鳴らしていた。

 ————モテるんだろうなぁ、澄睦さん。

 同性の自分ですらこんなにドキドキするのだから、女性だったら一発で恋に落ちるだろうと思った。このルックスで、気遣いが出来て、優しくて————非の打ち所がないとはこのことだろうと、いっそ感動すら覚える。

 そういえば彼女とかは居るんだろうか、そんな疑問が浮かんだ。さすがに聞くのは憚られる質問だが、浮かんでしまうと気になってくる。

 ————まぁ、居てもなんらおかしくはない…よな…。

 考え始めると、ほぼ確実に恋人は居るだろうと思えて来てしまった。だって、居ない理由が見つからない。あるとすれば、仕事が忙し過ぎてそんな暇は無いとかだが、それさえも、澄睦の器用さがあればどうにでも出来てしまうような気がした。

 恋人が居るんだ、と思うとなぜだか急に心が沈んで、しかしその理由にたどり着くことなく、意識は現実に引き戻される。

「まだ人だらけですね。もう少し入場は待ちましょうか」

 ライブ会場の入り口には、たくさんの人がたむろしていた。時計を見て、まだ開演まで三十分近くあることを確認する。

「そうですね、俺はもう少しここで待ってようと思います」

 さすがに明るいところで人の多い場に行くと気付かれる危険性が高いので、開演ギリギリになってから入るようにしていた。

 開演前アナウンスなどもあるかもしれないので、澄睦にも付き合わせるのは申し訳ないと、先に行って大丈夫だと伝えようとした時だった。

「あの…今更ですが、大丈夫ですか?」

 辺りを伺いながら問いかけた澄睦に、翔音は「何がですか?」と首を傾げる。

「男性というだけでも目立つ場ですし、ここに居る人はおそらく全員翔音くんを知っていると思うので…」

 ああ、そういう心配か————翔音は迷わず即答する。

「気を付けますし、大丈夫です!」

 そして、頭を掻きながらエピソードを話す。

「誇っていいのか、ちょっと微妙ではあるんですが…俺、今まで一度も一人で居る時に誰かにバレたり声を掛けられたりしたことないんですよね」

「そうなんですか?」

「創ちゃんと湊と一緒に居て見つかっちゃったことは何度かあるんですけど、一人だと電車乗っててもお店入っても全然で…あ、コンビニの店員さんに声を掛けてもらったことはありましたけど」

 でもそれくらいです、と翔音は肩をすくめた。

「翔音くんは、アイドルの時のスイッチの入り方がすごいですもんね」

 澄睦はくすりと笑う。

「いつもあんなにキラキラしていたら日常生活が本当に大変になると思うので、オンオフ出来て良かったですね」

 翔音の言葉を否定するでもなく、しかし面子は潰さないスマートな返し。翔音は思わずじとりと澄睦を見上げた。

 ————本当に出来た人というか…何でこんなに優しいんだ…。

「?」

 きょとんとした顔で翔音を見下ろす澄睦。

 そんな二人に、声が掛けられる。

「あの、すみません」

「!」

 背後から掛かった高い声に、二人は同時にぴくりと反応する。

 澄睦はすぐに振り返り、翔音を背中に隠すようにして間に立った。

「はい、何でしょう?」

 声を掛けてきたのは、若い女性三人組だった。翔音は顔が見えないように俯く。果たして何を言われるのだろうとドキドキしていると。

「あのっ、良ければ連絡先とか教えてもらえませんか!」

 きゃっきゃと声を上げる女性たち。

「え?」

 ————えっ…逆ナン?!

 翔音のことがバレたわけではない上、そもそも自分ではなく澄睦に話し掛けていたという事実に色んな感情が湧いてくる。

「あっ、SNSとかでもいんですけど————」

 スマートフォンを手に畳み掛ける彼女の言葉を遮るように澄睦は口を挟んだ。

「すみませんが、そういうのはご遠慮させていただければと」

 言葉こそ丁寧なものの、きっぱりとした断りに、彼女達は謝りながら去っていった。

 ふぅ、と澄睦は一つ息を吐いて、翔音を振り返る。

「…澄睦さんの方がよっぽどカッコよくて目立ってると思います」

 やっぱり声を掛けられるんじゃないか、と翔音は頬を膨らませた。嫉妬のようなものがぐるぐる頭を巡る。

「…拗ねてます?」

「拗ねてないです!」

 噛み付くように返した翔音を、澄睦はくすくすと笑う。翔音はむすっとした顔のまま、ふいっとそっぽを向いた。

「彼女さんも心配するんじゃないですか」

「彼女…?」

 不思議そうな声で繰り返してから、澄睦は静かな声で言った。

「いませんよ、そんな人」

「えっ」

 不機嫌はどこへやら、ぱちりと目を瞬いた翔音に、澄睦は困ったように笑った。

「驚かれると、ちょっと複雑ですね」

 翔音は慌てて謝罪する。

「す、すみません、澄睦さんって本当に完璧というか、優しいしカッコいいし、今みたいに女の子に声を掛けられたり好意を持たれたりすること多いんだろうなって思って、それで…っ」

 必死に言葉を連ねた後、翔音はしゅんと肩を落として頭を下げた。

「…すみませんでした」

 澄睦は「大丈夫ですよ」と笑い声を漏らした。

「完璧な人間なんかではありませんが…でも、翔音くんにそんなふうに思ってもらえていると知れて嬉しかったので」

 ————本当に、こういうところが…。

 人たらしだな、と思いながら、翔音はもう一度謝る。

「プライベートなこと聞いてしまって、すみませんでした」

「別にいいですよ。僕のことは、何を聞いてもらっても」

 ここにきて、ふと澄睦の一人称に違和感を覚えた。

 ————あれ? いつも『僕』だったっけ?

 記憶を振り返り、普段は『私』だったことを思い出す。きっとこれが素なのだろうと思うと、彼のことをまた一つ知れたような気がして嬉しくなった。

「ふふ」

「…今度はどうしたんですか?」

 翔音ははっとして首を振る。

「あ、いや、なんでもないです」

 翔音ははにかんで、澄睦を見上げた。

「今日、澄睦さんと来られて良かったなって」

「…」

 澄睦の表情が、すんと抜け落ちる。

 ————あ…また、あの顔だ。

 しかし、すぐにふわりと目を細めた。

「翔音くんは、本当に可愛いですね」

「なっ、え?!」

 突然の言葉に頬を染めて慌てふためく翔音を、澄睦は愛おしげに見つめていた。



 それぞれの席でライブを堪能し、会場から少し離れた待ち合わせ場所で再び合流した。

「いいライブでしたね」

「本当に…生で見られて良かったです、チケット譲っていただき本当にありがとうございました」

 二人は感想を話しながら駅へと向かう。曲の選択やセットリストの組み方、衣装の話、パフォーマンスやMCについて、とにかく話が尽きなかった。

 さすがにカフェに入るのは避け、澄睦にテイクアウトで注文を頼み、飲み物とサンドイッチを手に公園へ向かった。

「外ですみません」

「気持ちいい季節ですから」

 天気の良い、秋口の夕暮れ時。心地よい風の吹く公園で、二人はベンチを探して座った。

 それからも、しばらくライブの感想が続いた。話題は途切れることなく、時に自分たちにも活かせないかと意見を交わし合った。

 楽しいなと思うと同時に、アイドルに向ける情熱を感じる。

 ————本当に、アイドルが好きなんだな。

 それなのになぜ辞めてしまったのか————これまでも何度か浮かんだ疑問だった。

 ライブ前の澄睦の言葉が頭を過ぎる。

 ————『別にいいですよ。僕のことは、何を聞いてもらっても』

 聞いてみてもいいのだろうかと、迷いながらも気持ちが揺れる。しかし、それを知ることは澄睦のことをより深く理解することに繋がることは明らかで。

 ————澄睦さんのこと、もっと知りたい。

 意を決して、翔音は口を開いた。

「あの…一つ、お尋ねしてもいいですか」

 なんでしょう、と澄睦はにこやかに頷く。

 嫌な気持ちにさせてしまったら、と思うと怖かった。けれど、今を逃しても、きっとずっとこの疑問は心に残り続けるだろう。

 ————聞こう。断られたら、謝ろう。

 答えたくなければ答えなくていいから、と前置いて、翔音は澄睦を真っ直ぐに見つめた。

「澄睦さんは、どうしてアイドルを辞めてしまったんですか?」

 え、と澄睦の口から声が溢れる。翔音はごくりと唾を飲んだ。

 数秒の沈黙。澄睦は一つ息を吐いて、そっと切り出した。

「…あまり楽しい話ではないのですが、それでも良ければ」

「その、話したくないことなら、無理にとは…」

「もう十年も前のことなので、僕にとっては取るに足らない話です。ただ、気持ちのいい話ではないので、わざわざしなかっただけで…翔音くんがそれでも良いのなら、話すこと自体に全く抵抗感はありません」

 澄睦は丁寧な言葉で、話すことは嫌ではないと伝えた。それを受けて、翔音はもう一度お願いをする。

「なら、聞かせてほしいです」

 わかりました、と澄睦は静かに頷いて、話を始めた。

「まず、前提としての話なんですが…アイドルをするということに、僕はあまり向いていませんでした」

「そう…なんですか?」

 ただファンとして見ている限りでは、そうは見えなかった。実際、澄睦はリバーブの中でも中心的メンバーで、ファンもかなり多かったはずだ。

「ずっと、アイドルのライブに行くのが好きでした。だから、自分はアイドルになりたいんだと、そう思っていたのですが…」

 澄睦はふと、声を沈める。

「実際にアイドルをやって、自分はそれ自体に憧れを抱いているわけでなかったのだということを知りました」

 アイドルとして自分がステージに立ちたいのではなく、あくまで彼らを応援することが好きなのだと気付いた、そう語る澄睦の横顔を、翔音はじっと見つめる。

「誰かを楽しませるために努力する人たちの力になりたい————その思いに気付いて、マネージャーを目指しました」

 ————そういう、理由だったんだ。

 澄睦らしいと思うと同時に、ひどく安堵した。自分のように、何か特別辛いことがあったから辞めたわけではないのだと、ほっとしそうになって。

「…というのが、本心ではあるのですが」

 しかし、澄睦は苦く笑った。

「リバーブを辞めるに至ったのには、もう少し直接的な苦い思い出があるからというのも事実でして」

 少し長くなります、と前置きをしてから、澄睦は過去を語り始めた。

「これは、今ならば分かるという話なんですが…もともと、リバーブはいろんな大人の事情で作られた、とても簡易的なプロジェクトだったんです」

 リバーブのメンバーとして集められた十人全員が、同じだけ期待されていたわけではなかった。ただ、才のある子を見極めるための施策の一つでしかなかったのだと語る。

 そのため、運営側も短期的なグループという方針でリバーブを売り出したのだが————リバーブは想定以上の人気を博してしまった。

「翔音くんも知っていると思いますが、リバーブには絶対的センターの『浅桐暸』が居ました」

 浅桐暸————今もモデルや俳優として、芸能界の第一線で活躍するタレントだ。

「グループの人気は、ほとんど彼一人が作り上げたものと言っても過言ではないほどに、彼は格別に光っていて…」

 澄睦は言葉を途切らせ、一つため息を吐く。

「しかし、それが色んなトラブルを引き起こしました」

 浅桐は、ビジュアルもパフォーマンスもずば抜けており、その実力は確かだったものの、当時はまだ幼さもあり、人に不快な思いをさせる物言いや態度が少し目立つ性格だったと語る。それもあり、彼一人がセンターを独占することへの不満がメンバー間に広がっていった。

 そんな中、それをさらに助長するような運営方針が発表された。

「浅桐と、僕と、あともう一人の三人だけが、特別な衣装を着てセンターを独占するようになったんです」

 明らかに他の七人より煌びやかな衣装で、真ん中に立つ三人。まるでバックダンサーかのような扱いを受けた七人は、当然いい気はしなかった。

 しかし、売れる可能性のあるメンバーだけを優遇するという方針は、運営としては正しく、グループの空気がどんどん悪くなるのに対して、知名度も人気も鰻登りで上がっていった。

「僕も選抜されたメンバーの一人だったので、正直グループ内の居心地はあまり良くありませんでした。でも、リバーブのファンで居てくれる人たちの思いに出来る限り応えたくて…なので、やれることは、したつもりでした」

 敵を作りやすい浅桐と話をしたり、不満を抱いているメンバーのサポートをしたり、どうにか良い形に収まらないかと動いた。

「その結果、浅桐ともそれなりに話せる仲にはなりましたし、他のメンバーとも友好的な関係は築けていたと思います。…でも、やっぱり上手くはいかなかった」

 澄睦は深くため息を吐いた。

「皆まだ幼かったことも理由の一つにはあると思います。当時、最年長でも十六やそこらでしたから…でも、僕らが上手く行かなかった一番の原因は、どうしたって同じだけの熱量をこのグループに注げなかったところにあったと思っています」

 そもそも、全員がアイドルを本気で目指していたわけでもない、事務所所属の少年達を寄せ集めただけのグループ。

 グループのためだと思って不遇を受け入れいる謂れなど無いメンバーがほとんどだったのだと、澄睦は寂しそうな声で言った。

「確かに、浅桐の態度は問題でした。でも、彼に飛び抜けた実力があったのも事実です。それこそ、グループの顔として常にセンターに立つにふさわしいカリスマ性が彼にはありました」

 しかし、それをメンバーは認められなかった。新しい曲が出たり、メディアに出る度に、その不満は溜まっていって、ついに。

「当然、皆、表舞台ではそれを出さないようにしていましたが…僕らの関係が悪いことを、ファンに気付かれてしまったんです」

 本気で追っているファンほど分かってしまう。どれだけ取り繕っても、自分達以上に自分達を見ているファンにそれを隠し通すのは不可能だった。

 そして、あっという間にメンバーの不仲説は広まり————結果、ファン同士の対立構造を生み出してしまった。 

 澄睦は記憶を辿るように遠くを見つめる。

「そうなってしまっている状態を知った瞬間…全ての気持ちが無くなりました」

 淡々とした声で、澄睦は囁いた。

「ファンを不幸にするアイドルは、僕にとって無価値でした」

「っ」

 厳しい物言いに息を呑む。

「最初にお伝えしましたが、アイドルになりたかったわけじゃないというところもあったので、もし仮にリバーブが上手くいっていても、どこかで辞めてはいたと思うのですが…辞めるに至った直接の理由は、今お話しした通りです」

 そして最後に、澄睦はリバーブが解散するまでのことを簡単に話した。

 澄睦が辞めたことを皮切りに数人が辞めていき、三ヶ月後に浅桐が抜けたのとほぼ同時にリバーブは解散となった。

「僕が辞めなくても、いずれ解散していたグループだとは思います。ただ、僕が抜けたことがそのきっかけを作ったのは事実だったので…メンバーにはあまり良い形で追い出してもらえなくて」

 メンバーとは誰一人としてあれから一度も連絡を取っておらず、今も芸能界に居る浅桐以外はどこで何をしているのかも知らないのだと言って肩をすくめた。

 ————なんて言えばいいか、分からないな。

 もやもやする心を抱きながら、翔音は口を開いた。

「…聞かせてくれて、ありがとうございました」

 とりあえず礼を返したものの、伝えたいことが胸の中でざわざわと音を立てる。

 ————正直、ちょっと寂しい。

 澄睦にとって、リバーブの思い出があまり良くないものであるというのは、翔音にとっては悲しいことだった。

 自分にとって、リバーブと出会い、そのライブに行ったことは、夢の始まりであり大切な思い出で。

 ————でも、こんなことを伝えても、澄睦さんを困らせるだけかもしれない。

 考え込んで黙ってしまった翔音に、澄睦は申し訳なさそうな顔をする。

「…すみません。面白い話ではないですよね」

「あ、いや…そう、じゃなくて…」

 澄睦を知れたという意味では、聞けて良かったと心から思っていた。

 ————でも…せっかく澄睦さんのルーツを知って、それに対して言いたいことがあるのなら…伝えてみても、いいかもしれない。

 踏み込むことを怖いと思うと同時に、踏み込んでみたいと思う気持ちもあって。

「…嬉しくないかもしれないこと、言ってもいいですか」

 躊躇いがちに言った翔音に、ええ、と澄睦は迷わず頷いた。

 一つ息を吐いて、澄睦の方をしっかりと向いて、口を開く。

「リバーブに出会えたことは、俺にとっては、とても…とても特別で大切な思い出なんです」

 アイドルというものに初めて触れて、その魅力の虜になった。そして、自分もアイドルになりたいと夢を描いた————翔音は、今まで伝えたことのなかった夢の始まりについて語る。

 あの日ライブで澄睦を見て、その素晴らしさを知ったのだと。そして、それがそのままアイドルになりたいという夢に繋がったのだと。

「だからその…俺にとってリバーブというグループは、澄睦さんが居たから、無価値なんかじゃなくて」

 澄睦は、静かに息を呑んだ。

「俺は、澄睦さんと出会わせてくれたリバーブというグループに、すごく感謝しています」

 翔音は澄睦の瞳を真っ直ぐに見つめながら、思いを素直に言葉にしていく。

「そしてこれは、絶対に俺だけじゃなくて…アイドルをしていた澄睦さんを見て、元気になったり、夢をもらったりした過去を持つ人は、たくさん居ると思うんです」

 自分が澄睦の話を聞いて何を思い、何を伝えたいと思ったのか、言葉にしてようやく明らかになった。

 ————そうだ、俺は…澄睦さんにも、リバーブを誇ってほしかったんだ。

 自分にとってそれが特別だったから、澄睦にも同じように思ってほしい————そんな勝手な願いだったと気付く。結局は自己満でしかないな、と少し呆れを覚えた時だった。

「…あなたに出会えて良かった」

「え?」

 脈絡のない唐突な言葉に、翔音はぽかんとする。

 そんな翔音を見て、澄睦は柔らかく笑った。

「正直、今までも何度も思ったことではありますが…翔音くんに出会えたことは、僕にとってとても幸運だったなと思っているんです」

 ————嬉しいけど…。

 ちょっと大袈裟だな、と思っていると、澄睦は力無く話を始めた。

「実は…マネージャーになってからも、あまり上手くいかなかったんです」

 澄睦は苦い顔で、その過去についても翔音に語った。

 入社して初めて担当したのは女性アイドルのグループで、グループ全体のマネージャーを三人で担っていた。

 しかし、そのグループの一人から付き合ってほしいと言われてしまったことが原因で担当を外れることになった。

 女性の担当は良くないかもしれないと言われ、次は男性グループを同じように担当したのだが————それでも、同じことが起こった。

「同じことって…」

「そのグループの男の子に、言い寄られてしまいました」

 ————わぁ…それはすごいな…。

 気持ちは分かるけど、と翔音は目の前の美しい男を見て思った。こんなに綺麗な人に優しくされたら、同性でも恋に落ちるのは納得がいく、と。

 そして、そんなことが続いたため、それ以降は担当は持たずに仕事をしていたのだと澄睦は語る。

「だから…僕にとって翔音くんは、初めてちゃんとマネージャーとして担当したアイドルなんです」

「!」

 ————そう、だったんだ。

 知らなかった。仕事もスムーズで手慣れていたので、てっきりもう何人も担当しているのだとばかり思っていた。

「マネージャーになってやりたかったこと、見たかった景色…全部、翔音くんが叶えてくれました」

「俺は、そんな…」

 そんなふうに言ってもらえるようなことは何もしていないと言おうとして、しかし首を振った澄睦を前にして口を噤んだ。

「今も、翔音くんの言葉で救われたんですよ」

 そんなつもりはなくて少し困った顔をしていると、澄睦は翔音に微笑みかけた。

「リバーブのことを特別嫌っているつもりは無かったのですが、でも、良い思い出だったと言えるかというと、正直そうではありませんでした」

 けれど、と澄睦はそっと目を伏せて続ける。

「少なくとも、あそこに僕が参加していなければ、あの時の翔音くんが僕と出会うことは無かったというのなら…それだけでも、十分過ぎるほどにリバーブに居た意味がある」

「!」

 翔音は小さく息を呑んだ。

 ————どうしよう、嬉しい。

 澄睦から与えられる言葉から、特別だと言われているように感じて胸が熱くなる。

「…とまぁ、こんな感じで、僕の人生は上手くいかないことばかりだったんです」

 澄睦は悪戯っぽく笑って言った。

「全然、完璧なんかじゃないでしょう?」

 その言葉が、ライブ前に自分が澄睦に言った言葉に掛かっているのだと気付いて、翔音もくすりと笑った。

「そもそも完璧な人なんていないです。でも、俺にとって澄睦さんはすごい人なんです」

 ありがとうございます、嬉しいです、と微笑む澄睦は言葉通り嬉しそうで。

 ————澄睦さんが嬉しそうだと、すごく幸せな気持ちになるな。

 自分の中で、すでに彼がただのマネージャーではなく、湊や創と並ぶ大切な人の一人になっていることに気付く。そしてそれはきっと澄睦からしてもそうだというのを感じられることが、とても幸せだった。

「少し肌寒くなってきましたね」

 気が付けば空はもう赤らんでいた。日が短くなってきたな、と思いながら空を眺めていると、そろそろ帰りますか、と澄睦は帰り支度を始めた。

「あ、えっと…」

 ————もう少し一緒に居たいって言ったら、困らせちゃうかな…。

 明日は朝から仕事であることを考えると、そろそろ解散した方が無難ではある。しかし次いつこんな機会があるか分からないと思うと、もう少し話をしたいというのが本音だった。

 どうすべきかと悩んでいると、澄睦の方から提案をされる。

「良ければ、帰りは一緒に車に乗って行きませんか」

「えっ…いいんですか!?」

 それならもう少し一緒に居られると喜ぶ翔音に、その心を知ってか知らずか、澄睦はにこりと笑った。

「もちろん。湾岸沿いを少しドライブして帰りましょうか」

 ぜひ、と顔を輝かせて前のめりに頷いた翔音に「では行きましょう」と澄睦は柔らかな声で言った。


     * * *


 ————本当に楽しい一日だったな。

 澄睦は車を走らせながら物思いに耽る。

 ライブの感想を誰かと存分に語るなど、これまで一度もしたことが無かった。同じだけの熱量を同じものに注いでいる人と話が出来るというのは、特別な高揚感があるのだと知った。目を輝かせてアイドルについて語る翔音を見ているだけで心が満たされ、またこんな機会があればいいと、終わる前からそんなことを思ってしまうほどだった。

 ふと、隣の席を見る。

「…ふふ」

 そこにはこてんと首を傾けて眠る翔音が居て。

 ドライブなら今日は助手席に座りたいと言い出したのは翔音だった。断る理由などない、何なら助手席に座りたいと言ってくれたことを嬉しく思うほどだったので、迷うことなく了承した。

 ————忙しいスケジュールが続いているし、疲れてしまったかな。

 やはりもう少し早く帰してあげるべきだったかなと思いながらも、丸一日一緒に過ごせた時間はどれも削れないほど楽しくて。

 一つ一つ、今日の思い出を辿る。

 可愛いと言ってもいいと許されたこと。実際に可愛いと伝えたら顔を真っ赤にして恥じらっていて、それがまた可愛らしかったこと。

 リバーブについての話をしたこと。いつか伝えようと思っていたわけではないから、彼の方から聞いてくれなければ話すことは無かった。

 でも、彼が踏み込んでくれたから。

 苦かっただけの幼い思い出が、輝きを纏った。翔音の中には、今もはっきりとアイドルをしていた自分が居るのだと知った瞬間、胸が震えるような喜びを覚えた。

 ————本当に、救われてばかりだな。

 人生の運を全て使い果たしたんじゃないかと思うほどに、翔音との出会いは澄睦にとって奇跡的なものだった。

 これからも、アイドルとして邁進する翔音のそばに居られるのだと思うと、勝手に頬が緩んでしまうほどに幸せで。

「…本当に、幸運だったな…」

 思わず呟きが漏れた。そしてすぐに、一人で感慨に耽る自身に苦笑を浮かべる。

 明日からはまた多忙な日々が始まる。これからもグループのため、そのファンのため、自分の夢のため、そして何より翔音のために、自分にやれることを全力でやろうと、そう改めて決意を固めた。

 見慣れた街に辿り着く。静かな住宅街に入れば、もう何度も通った翔音の家のある通りだ。

 ゆっくりと車を停め、エンジンを切る。

「…翔音くん」

 呼びかけたが、起きる素振りは無い。躊躇いつつも手を伸ばして、もう一度呼び掛けようとして。

「…」

 安心したように眠る翔音。その安らかな寝顔から、目が離せなくなる。

 ————本当に、可愛いな…。

 くるりとした長いまつ毛。あどけなさの残る丸い頬。額にかかる柔らかな黒い髪に、ほんのりと色付いた小さな唇————。

「っ…」

 ぐらり、と眩暈がした。熱で、頭がぼうっとする。

 眠る翔音に、手を伸ばした。

 指先が、その頬に触れる。滑らかで、温かくて、その唇に吸い寄せられるように顔を近づけて————。

「ッ!!」

 頭を殴られたような衝撃が走った。

 澄睦は勢いよく距離を取る。

 ————今、何を、しようとした?

 冷水を浴びせられたように背筋が冷たくなる。心臓が、痛いほどに激しく鼓動を鳴らした。

 ————違う、僕は。

 可愛い子だと思っていた。愛おしいとも思っていた。

 でもそれはあくまで、彼を助け、導き、守る一人の大人としてであって————。

「…」

 しかし、今しがた感じてしまった感情は、その域を明らかに超えていた。違うと否定しようとも、もう事実は揺らがない。

 ————知らなかったふりは、出来ない。

 澄睦は、静かに眠り続ける翔音を見つめた。

「…ごめんなさい」

 声が震える。

 結局、彼を深く傷つけ、心を追い込んだ前任者と自分は同じだったのだ。味方のような顔をして近づきながら、蓋を開けてみれば、彼を性の対象として見ている最低な大人だった。

 ————もう、そばには居られないな。

 夢が砕けていく。この子の進む先を、一緒に描きたかった。大きな世界へ羽ばたいていく姿を、近くで見届けたかった。

 しかし、もうそんなことは許されない。翔音の心に傷をつける存在にだけはなりたくなかった。

「…翔音くん」

 少し大きな声で呼び掛ける。

「ん…」

「着きましたよ」

 瞼が開く。翔音はぼんやりとした顔でしばらく澄睦を見上げて。

「えっ、うわ、ごめんなさい!!」

 状況を思い出し、大きな声で謝罪を口にした。

 大丈夫ですよ、と澄睦は平静を装って笑いかける。

「今日はゆっくり休んでください」 

 翔音は荷物を手に、わたわたと車から降りる。

 おやすみなさい、と車の中から手を振った。翔音はにこにこと笑いながら手を振り返し、そのまま家に入っていった。

「…」

 エンジンをかける。

 ————マネージャーを変える手筈を整えなくては。

 澄睦の頭にはもう、翔音との決別についてしかなかった。

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