第2話

 若いが故に周りが見えていないのだと、そう思っていた。

 ————『やれること、全部やりたいんです。お願いします』

 体力的にもスケジュール的にも適切な量の練習を組んだ状態だった。しかし、これ以上増やすのは現実的ではないと諭しても、どうしてもやりたいのだと食い下がってきた。

 ここで飲まなければ勝手に練習をしかねないと思い、仕方なく同行を条件に了承した。

 ————無茶だと、思っていた。

 体力にも集中力にも、限界はある。練習時間に比例して上達するかというと、必ずしもそうではない。そのやり方は非効率だとどこかで伝えられれば、と思いながら、こっそり練習を見て————そして、絶句した。

 レッスンの時とはまた異なる熱を持って練習する様に、思わず息を呑んで見入ってしまった。

 一体、何がこの子をこんなに追い詰めているのか知りたいと思うと同時に、そのある種異様な姿に不安も掻き立てられた。

 こんな練習をしていたら、身体の方がきっと保たない。万が一があったらと、練習中は近くで見守るようにしていたことが、吉と出た。

 ————あの時は本当に肝が冷えた…。

 直前まで、キラキラした笑顔で歌い踊っていたのに。

 急にその表情からふっと表情が抜け落ちたと思ったら、ふらりとよろけて倒れ込んだ。

 どうにか落ち着かせて一休みさせることが出来てから、その少し青白い寝顔を見て思った。

 あんなふうになるまで練習するなんて普通じゃない。やはり、何か大きな理由があるんじゃないか、と。

 ————完成度を上げたいのは、デラメアが大切だからと言っていたけれど…もしかしたら、可愛いことがコンプレックスだという話にも、何か関係があるのかもしれないな。

 澄睦は淡々と事務作業をしながら一人考える。

 その耳に、聞き馴染みのある声が飛び込んできた。

「お疲れ様でした」

「おつかれさまでーす」

 澄睦ははっとして顔を上げる。そしてその姿を見つけて、咄嗟に駆け寄った。

「南くん、高宮くん」

 二人が振り返る。

「あれ、ミサキマネ?」

 創は不思議そうな顔で首を傾げた。

「御崎さん、お疲れ様です。どうしました?」

 対して、湊は落ち着いた声で問いかけた。

 ————二人にもこの前のことは伝えておいた方がいい。それに…この二人なら、何か知っているかもしれない。

 帰りの車の中で、翔音は湊と創についての話を何度もしていた。

 信頼しているし、尊敬している。二人と出会えたことは、自分の人生で一番の宝だと思っている————そう語る翔音の穏やかで温かい声を思い出しながら、二人に尋ねた。

「翔音くんのことで、少しだけお時間いただけますか」

 ぴくりと、湊の表情が僅かに引き攣った。

「…」

「湊?」

 創が黙っている湊に呼びかけると、湊は一つ息を吐いてから、静かな声で頷いた。

「…はい、大丈夫です」

 ありがとうございます、と言って、澄睦は手元の端末で手近な会議室を探しながら心の中でため息を吐いた。

 ————警戒されているな…。

 鋭い湊の視線。それだけ翔音のことを心配しているのだろうと、その心中に思いを馳せた。

 例の事件が二人にとっても相当ショックなことだっただろうというのは、直接話を聞かずともその態度から見てとれた。

 翔音の身に起きたことについては、澄睦からしても気の毒で仕方がなかった。翔音の素直さを知ったことで、よりあの純粋な子供に漬け込んだ男に対する怒りは大きくなっていた。知り合って間も無い自分ですらそうなのだから、二人の怒りは相当なものだろうと思っていた。

「…それで、何でしょう」

 会議室に入るなり、すぐに湊が問いかける。

「最近、夜に練習時間を取っていることについてはご存知でしょうか」

「はい。翔から聞いています」

 プライベートでは翔音と、仕事の時は翔と呼び分けているのは知っていたが、この場で翔と呼ぶことを選択するというのは、まだ完全に信用しているわけではないと言われているような気分になった。

 ————過去のことを思えば、そう簡単に信じる気にならないのは当然のこと…。でも、あの子の周りにこうして目を光らせて警戒してくれる人が居るのはいいことではあるな。

 正直、翔音の自衛能力はあまり高くないと思っていた。

 澄睦から見て、翔音は些か不用心だと感じる場面が多い。男のマネージャーという、彼を害した存在と全く同じ要素を持った自分に対しても、警戒を見せたことは一度もない。個人としては嬉しいことではあるが、少し危機感が足りないのではないかと思ってしまったところはある。

 本来は彼の美点でしかない彼の素直なところが凶と出てしまうようになったことは、本当に腹立たしいことこの上ないが————それでも、その身を守るために、一定気をつけて生活して欲しいと切に思っていた。

 澄睦は思考を中断して意識を戻す。

「昨日、練習の途中に翔音くんが倒れました」

「!」

 二人は揃って目を丸くする。

「原因は、軽い脱水症状と疲労かと思います。ただ…どうしてこうなってしまったのか、お二人にお尋ねしたくて」

 湊と創の目を交互に見つめ、それから澄睦は問いを口にした。

「なぜ彼は…あんなにも頑張ろうとするのでしょう」

 自分を追い詰めて、必死に理想を追い求めて。

 そうしなければならない理由を理解出来なければ、きっとまた同じことを起こしてしまうと、そう思った。

 あー、と声を上げたのは創だった。

「それはあれです、頑張らないと、納得がいかないからですね」

「納得がいかない…?」

 やはり理想の高さが理由なのだろうか、そう思いかけた澄睦に、創は肩をすくめて説明をする。

「やれること全部やったって言えるまでやらないと、本人の気が済まないっていうか…カノンが求めてるのは、誰かからの評価じゃなくて、やりきったって自信なんですよね」

 ————誰かからの評価じゃない…やりきったという自信…。

 結局、彼がストイックだから、ということなのだろうか。それだけであそこまで追い込めるのだとすると、畏怖すら覚える。

 湊がため息を吐いた。

「頑固なんです、本当に…。俺たちが何を言っても、翔音は一度ああなってしまうと全く聞く耳を持たない」

「ほんっと、頑固ばっかだよね〜このグループは」

 曰くありげにぼやいた創を、湊はただひと睨みして、澄睦に向き直った。

「とにかく…翔音のそれは、悪癖みたいなものなんです。練習に熱が入りすぎて倒れるのも、初めてではありません。その度に厳しく注意はしているんですが…でも、やめろとは言えなくて」

 初めてではないということは、本当に二人もよく知る姿だということなのだろう。

 ————でも、やめろとは言えない、というのは?

 二人がどれだけ翔音のことを大切に思っているかは、傍から見ているだけでもよく分かる。身体を酷使して倒れるなんてことを、この二人がよしとするとは思えなかった。

「ステージに上がった翔音を見れば、分かってもらえると思います」

 湊はその絵を思い浮かべるように、目を伏せた。

「翔音にとって、やり切ったと思えるまで根を詰めることは、ステージで輝くために必要不可欠なんです。だから、注意はしても、禁止は出来なくて…」

 ————ステージで輝くために、必要不可欠…。

 二人のライブにはプライベートで一度行ったことがあったが、翔音のいるライブには行ったことがなかった。マネージャーになるにあたり、映像化されたものは見たものの、やはり生で見るのとは感じられるものも大きく異なるだろう。

 見てみたい、と思った。彼がステージの上で輝く姿を、直接見てみたい。一ヶ月後に控えた四周年記念ライブではそれが叶うはずだった。

「結局、翔音がそうまでして理想に近付こうとする理由は————ただ、デラメアを良くしたい。それに尽きるんです」

 湊は静かな声で言って、澄睦の目を真っ直ぐに見つめた。

「一人でも多くの人にデラメアを知ってほしい、デラメアを好きで居てくれる人たちを幸せにしたい…このグループが始まった時から、翔音はずっとこの思いを一番に活動しています」

 その気持ちだけで、あそこまで根を詰められるのはやはりすごいことだと思うと同時に、翔音の思いの強さをまた少し理解出来た気がして、澄睦はふっと笑みを浮かべた。

「翔音くんは、デラメアのことが本当に大切なんですね」

 グループをもっと良くしたい、アイドルとして誰かを笑顔にしたい————その気持ちに真っ直ぐに努力する彼のことを胸に思い浮かべながら、澄睦は柔らかな声で言った。

 そんな澄睦に、湊は「あの」と様子を伺うように切り出した。

「すみません、その…翔音と呼ぶようになったのは、何か理由が?」

 牽制するような響きは無いものの、少し警戒は見て取れる。

 ————ああ、それで最初あんな顔をしていたのか。

 湊の不安はもっともだと思った。マネージャーとアイドルという関係において、プライベートが絡むような形での親密さは必要はない。名前で呼ぶというのは、不要な親しみに類するものではあると澄睦も思っていた。

 でも、他でもない彼がそれを望んだ————それが彼の自信に繋がるというのなら、それはマネージャーとして、彼を応援する一人の人間として、叶えてあげたいと思ったのだった。

「本人から、そう呼んで欲しいと要望がありました」

 なぜそういう話になったのかは、自分が話すよりも翔音本人の口から聞いた方が良いだろうと思って、ただそれだけを伝えた。

「翔音が…?」

 驚いたように目を丸くする湊。

 その隣で、創は笑った。

「そっか、仲良くやってんだ。よかった」

 仲良く————そのラフな言葉選びに澄睦は笑みを溢した。

「そうですね。それこそ、自主練の後に車で送迎をするようになったことで、その時間に色々と話が出来るようになりました」

 うんうん、と創は嬉しそうに頷いた。隣の湊は、未だ少し複雑そうな顔をしているものの、口は挟まず静かに聞いている。

「ミサキマネでよかった〜。カノンの話、いっぱい聞いてくれたら嬉しいです!」

「はい、翔音くんが話してくれるのであれば」

「カノンはお喋りだからきっと聞いてくれるの嬉しいと思うんですよね〜。ちなみに、いつもはどんな話してるんです?」

「本当に、他愛のない雑談が多いですね。スイーツのこととか、テレビの話とか…お二人のことも、たくさん話してくれます」

 それなりに心の距離は縮まっている実感はあった。それ自体は、素直に嬉しいと思うことではあったが。

「…」

 ふと、黙って聞いている湊の様子を見て、不安が胸を掠めた。

 ————これは、本当にあの子の負担にはなっていないのだろうか。

 例の事件があった時も、彼は心が砕けるギリギリまでその苦悩を隠し続けていたという。礼儀正しく、素直で、人懐こい————翔音のあの性格を思うと、自分に対して何か本当は嫌なことがあったとしても、それを飲み込んで友好的に接しようとしててくれてしまう気がした。

「今は、特に問題なくやれている…と、思ってはいるのですが」

 澄睦は浮かんだ不安を二人に告げる。

「もし、翔音くんが何か私に対して思うこと————不快に感じるだとか、何か嫌な記憶が呼び覚まされるだとか…少しでもそういうことがありそうだったら、教えていただけないでしょうか」

「…っ!」

 湊が、息を呑んだ。

「翔音くんの反応には十分注意して接しているつもりではあるのですが…見過ごしてしまったら、とても怖いので」

 このままもっと近しい間柄になったら、どこかで彼のトラウマを呼び起こしてしまうかもしれない。何がトリガーになるか分からない以上、その可能性は常に潜んでいると思っていた。

 ————もう二度と、怖い思いはさせたくない。

 無意識のうちに翔音を傷つけてしまうことは、澄睦にとってもとても恐ろしいことだった。

「ま〜確かに、カノンはそういうの隠すのホント上手いからな〜…」

 創は、はぁ、と大きくため息を吐いて言った。

「もう隠すなよって言ったし、オレらには話してくれる…と思ってるんで、なんかあったら言いますね」

「ありがとうございます、私への配慮は要りませんので…どうぞ、よろしくお願いします」

 ふと時計が目に入る。澄睦は、あ、と声を上げた。

「そろそろ翔音くんを迎えに行かないと…お時間をいただきすみません、ありがとうございました」

 澄睦は立ち上がって頭を下げる。二人も椅子から立ち上がり、共に会議室から出て行こうとして————不意に、途中からずっと口を閉ざしていた湊が澄睦に声を掛けた。

「…御崎さん」

 振り返る。湊は真摯な目で澄睦を見つめ、それから静かに頭を下げた。

「翔音の心の支えになっていただき、ありがとうございます」

 澄睦は少し驚きを露わにして、それから柔らかく微笑んだ。

「支えというほどの存在になれているかは分かりませんが…私に出来ることがあれば、今後も何でも言って頂けると幸いです」



 倒れてからの自主練は、見守りながら行うようにした。スタジオの隅にパイプ椅子と机を出して、澄睦はそこで仕事をして過ごす。翔音も当然それを受け入れ、そして特に変わることなく恐ろしい集中力をもって練習を行なった。

 そしてついに、リハーサルの始まる数日前の練習で、ようやく翔音の中に自信が生まれたようだった。

 それからは異様な熱も落ち着いて、身体に動きをなじませていく練習になった。特に翔音の口から聞いたわけではなかったが、練習を見ていた澄睦にもそれが伝わり、密かにほっと胸を撫で下ろしていた。

 そして、ついに本番を一週間後に控えた練習の帰り道。

「今日もありがとうございました」

 車に乗り込むなり、運転席に座る澄睦へいつも通り礼を言う翔音に、澄睦は前を向いたまま返す。

「最近は調子が良さそうですね」

 直接練習する姿を見るようになって、翔音のパフォーマンスが日に日に磨かれていくのを肌で感じていた。もう以前のような必死さはなく、安定したパフォーマンスが出来ている。

「はい。もう、大丈夫だと思います」

 大丈夫————はっきりとそう言い切った翔音に、澄睦は笑みを浮かべた。

 間に合って良かった、と安堵する。これで翔音は自信を持ってステージに立てるということなのだろう。

 胸を撫で下ろした澄睦に向かって、翔音は「なので」と続ける。

「練習は、今日でおしまいにしようかなと」

「え?」

 てっきり直前まで追い込むのだろうと思っていたので、少し驚いた。翔音は明るい調子で言った。

「あと一週間は毎日ちゃんと休んで、万全の状態でライブを迎えられるようにします!」

 その言葉に、驚きと感銘を覚える。

 ————ああ、この子は…ちゃんと、プロなんだ。

「…そうですね。それがいいと思います」

 必要以上に自分を追い込み無茶をする姿に、幼さを感じていた。若さゆえに、自分の状態を把握出来ていなくて、頑張りたい気持ちが先行してしまっているのだと。

 ————でも、たぶん違った。翔音くんは、ちゃんと自分がプロとして守らなければならないものを理解している。

 クリエイティブやパフォーマンスというものは、時間を掛けるほどにクオリティは上がっていく。しかし、それを仕事としている場合は本番や締め切りが存在していて、そしてそれはプロとして必ず守らなければならないものだ。

 アイドルにおいて言えば、本番までにコンディションを整えるのも、当然仕事のうち。結果が全てと言ってしまうと味気ないが、ライブは本番を不備なく迎えて無事全てを予定通りに終えることが求められている成果ではあった。

「本当にお世話になりました…というか、ご迷惑をおかけしました…」

 急に縮こまった声で言う翔音に、澄睦は柔らかく笑い声を上げる。

「ふふ、大丈夫ですよ。心配になるのでもうあんなことはしないで欲しいですが…でも、おかげで翔音くんのことも少し分かりましたし」

 必死に踏ん張る翔音の姿を間近で見ることが出来て良かった。アイドルに懸ける思いを知れて良かった。

 一ヶ月ばかりの出来事とは思えないほどに、密な時間だったと振り返る。翔音と過ごした時間は、澄睦にとってもどれも刺激的なものだった。

 翔音の素直な人となりや、アイドルに対する強いな思いを知って、彼の柔らかく脆い部分にも少しだけ触れて。

 ————叶うなら、この先もずっとそばで見守りたいと思う…それくらい、魅力的な人だ。

 それはきっと叶わないけれど、と澄睦は心の中で一人小さくため息を吐いた。

 澄睦の表情は見えない翔音が、無邪気に言葉を投げる。

「俺も、澄睦さんのこと、少しだけ知れた気がします」

 翔音はそう言ってはにかむ。

「でも、これからもっと知れたら、嬉しいです」

 その健気な言葉に、とくりと胸が震えるのを感じた。

「…ふふ」

 抑えきれなかった笑みが溢れる。

「澄睦さん?」

 急に笑い出した澄睦に、翔音は不思議そうに呼びかけた。

「いえ、すみません…嬉しいなと思って」

 ————可愛い、と言うのは…やっぱり避けた方がいいかな。

 澄睦は浮かんだ素直な言葉を飲み込んで、別の言葉で気持ちを伝える。

「私も、もっと翔音くんのことが知りたいです。また、いろんな話をさせてください」

 いつか、自分の口からも躊躇いなく可愛いとこの子に伝えられたら————そんな日を薄らと夢に描いた。



 そして一週間後————ついに本番前日の、ステージでのリハーサルが始まった。

 澄睦も、一回目は他のスタッフ陣と共に客席で見させてもらう予定だった。

 翔音に連絡事項を伝えるため控え室を訪れる。湊と創は離席しているようで、控え室には居なかった。

「————ということだったので、金曜日の予定を一部変更しています。朝が少し早くなってしまうのですが、お願い出来ればと」

「分かりました! ありがとうございます」

 朝は得意なので、と胸を張る翔音にくすりと笑みを溢す。

「では、私はそろそろ客席の方へ行きますね」

 控え室から出て行こうとする澄睦に、翔音も椅子から立ち上がった。

「はい! ぜひ楽しんでください! 二人のライブは本当にすごいので!! 澄睦さんも色んなアイドルのイブに行かれてると思いますが、二人のライブは絶対に感動すると思います!!」

 目を輝かせて熱く語る翔音に、澄睦ははたと思い当たる。

 ————そうか、話してなかったか。

「実は、お二人のライブには行ったことがあるんです。プライベートで」

「えっ…そうなんですか!?」

 翔音は目を丸くする。驚いた猫みたいだと思いながら、澄睦は頷いた。

「はい。翔音くんのマネージャーになる前から、デラメアのファンクラブにも入っています」

「ええっ!! なんでそんな大事なこと教えてくれなかったんですか?!」

 大声を上げた翔音に、すみません、伝えてませんでしたっけ、と澄睦は何でもないことのように言った。

「そっか…じゃあ、澄睦さんも知ってるんですね。二人のステージを」

 生では一度見ただけですが、と前置きをしてから頷いてから、翔音の目を見つめて微笑んだ。

「とても素敵でしたが…その時に思ったのは、三人の時に来られなかったことへの後悔でした」

 翔音に配慮して言ったわけではない、素直な感想だった。

 ————ふとした時に、どうしても、一人欠けていることに気付かされてしまって。

 二人では力不足だったとか、そういうことではない。ただ、三人でやるはずだったものを二人でやるとなると、どうしたって本来見せたかったものの全ては表現出来ないのだと、そう思ったのだった。

 それは歌のパート分けやダンスの構成といった明らかな変更だけではなく、ステージに立つ二人の雰囲気や空気感にもそれは表れていた。

 今ならば分かる。残された二人にとっても、翔音の存在は大きかったということなのだろう。

「三人のライブも映像で見て…三人の時に出会いたかったと、より強く思いました」

 ————きっとそれは、二人のステージとは全く違うものになるだろうから。

 澄睦は、翔音の瞳を覗き込んで言った。

「だから、翔音くんの居るデラメアが見られるのをずっととても楽しみにしていたんです」

「…!」

 翔音はぱちりと目を瞬く。それから、ぽっと頬を染めた。

「あ、ありがとうございます、練習たくさん付き合っていただいたので、その成果を出せるよう頑張ります…!」

 両手の拳を握って言った翔音に、澄睦は笑いを返す。頑張って、と残して澄睦は控え室を後にした。

 ————微笑ましいな。

 努力家で、健気で、夢に真っ直ぐで。

 まだ知り合って三ヶ月程度しか経っていないが、彼を応援したいと思う気持ちはすでに大きく膨らんでいた。

 だからこそ、あの綺麗な瞳を曇らせるものを全て取り払ってやりたいと思うし、共に過ごす時間が増すほどに過去の一件については許せなくなっていった。

 しかしそれと同時に、彼を害した存在と多くの要素が重なっている自分がそばに居ていいのかという不安に駆られる。

 ————本当にあの子を思うならば…僕がマネージャーをやるべきではないんだろうな。

 最初の話では、期限は四ヶ月だった。女性マネージャーに引き継ぐ話がその後どうなっているのか、まだ上から特に連絡はないが、近い将来別れが来ることは確定している。

 ————せめて、その時までは彼の力になりたい。

 翔音がステージに立つ姿を見るのが、本当に楽しみだった。そのための力になれたのなら、そんな幸せなことはないと心から思っていた。

 澄睦は期待を胸に客席へ向かい、スタッフたちと同じ列に座ろうとして。

「御崎さん、お疲れ様です」

「あ…古海さん、お疲れ様です」

 湊のマネージャーである古海に声を掛けられ、その隣に腰を下ろした。

「楽しみですね、ライブ」

 そうですね、と澄睦も笑い返す。

 ちょうど、練習着姿の三人がステージに出てくる。マイクを持った湊が、スタッフを見渡しながら挨拶をした。

「おはようございます、デライト・メアリーです。前日リハーサル、どうぞよろしくお願いいたします」

 湊が頭を下げ、二人も「お願いします」と声を合わせて頭を下げる。

 捌けていく三人を見ながら、ぽつりと古海が呟いた。

「大路君が戻ってきてくれて、本当によかったです」

 ライティングの調整をしているのか、誰も居ないステージをスポットライトが忙しなく駆け回っている。時折流れる大音量の楽曲にかき消されそうな古海の声に、澄睦は耳を傾けた。

「南君も、ずっと苦しそうだったので…もちろん、大路君が一番辛かったのは間違いないですが、でも南君も高宮君も、どんなに笑顔でもずっと心に曇りがあるのを感じていました」

 ————二人の辛さも、後悔も…想像するだけで胸が詰まる。

 それでも、アイドル活動を続けた。二人の決意も覚悟も、一体何を原動力としているのか、澄睦はまだ知らない。ただ、二人の意志がそれだけ確固たるものであるということだけは理解出来た。

「大路君、活動を再開してからずっと元気で、前向きで、楽しそうで…すごく、安心したんです。これはきっと、南君も。だから、御崎さんに感謝を伝えたいと思っていて」

 感謝、という言葉に、澄睦は小さく首を振った。

「私はただマネージャーとしてやるべきことをやっていただけで、特別なことは何もしていないので…これは、私と言うより————」

 澄睦は、今は袖にいて見えない翔音の方を向いて囁いた。

「翔音くんが、とても強いんだと思います」

 全ての大人に対して疑心暗鬼になったっておかしくなかったのに。それでも人を信じられる強さがあったから、この芸能界に戻って来られた。

「私がマネージャーだと言われても、あの時彼は臆さなかった。受け入れて、新しい一歩を踏み出すことを決めた。あれは、すごいことだったと思うんです」

 復帰すると言ってしまった手前、後には引けなかった、というのもあったのかもしれない。けれど、あの時湊は反発していたし、翔音には断るという選択肢も与えられてはいた。

 ————それでも割り当てられた男性マネージャーを受け入れたのは、きっと覚悟があったからだ。

 度胸がある、と言うべきか。性格も穏やかで、柔らかな雰囲気を放つ一方、強かさや揺るぎない意志を感じるところが多々あった。

 古海は、本当にそうですね、と頷く。それから、にこにこと笑って言った。

「カノンくんって、いい名前ですよねぇ。確か、名前で呼んで欲しいって、大路君から言われてるんですよね? 対外的にはカケルくんなので、間違えないように気を付けてくださいね」

 確かに気を付けなければ、とはっとしつつ、そのエピソードの出どころが気になってしまい、思わず「え」と声を上げてしまった。

「彼から言われてるって、どうして…」

「南君から聞きました」

 さらりと返された答えに、確かにそれ以外にないかと納得しながらも、驚きを隠せず素直に呟く。

「…意外とそういう話もするんですね」

「ははっ、南君は結構おしゃべりですよ」

 おしゃべりという印象はあまりなく、そうなんですね、と澄睦は少し目を丸くして言った。

 雑談をする二人のもとに、一人の女性がやって来る。

「すみません〜お疲れ様です…!」

 その声に、二人は同時に振り返った。

「あ、日山さん、お疲れ様」

 古海に続いて、お疲れ様です、と澄睦も挨拶を返す。

 間に合って良かった、と胸を撫で下ろしながら澄睦の隣に座る日山は、創のマネージャーだった。

「明日はちょっと来られなさそうだったから、今日絶対見たいと思ってて…」

 荷物を足元に整えながら、彼女は口を開く。

「そうだ。私ね、御崎君に、ずっとお礼が言いたかったの」

 思わず、澄睦は古海と顔を見合わせた。

「どうしたの?」

「いや…さっき僕も同じことを言ったんだよね」

 古海の言葉に、あら、と日山は驚いた顔をする。それから、ふっと笑った。

「私たちからしたら、御崎君は救世主だものね」

 日山は、まだ誰も居ないステージを見つめながら静かな声で語り始める。

「高宮君って、いつも明るいでしょう? 大路君が居なくなってもね、あんまり様子は変わらなかったの」

 ステージに立つ創を思い描いているような視線だった。その横顔を見ながら、澄睦は黙って話を聞く。

「でも、ふとした時に、すごく気がそぞろなことが増えて…平気そうだけれど、当然彼も色々と思うことがあって、悩むこともあって、苦しいこともあったんだろうなって思ってた」

 あの子たちがあんなに辛い思いをしているのに、結局私たちに出来るのは謝ることだけで、本当に情けなかった————彼女はわずかに自嘲を滲ませて言った。 

「でも、大路君が帰って来てくれたから」

 日山は澄睦の方を向いた。

「私、またデラメアが見られることが本当に嬉しいの。それには、どうしたって大路君が必要で…それを、御崎君が叶えてくれた」

「…先ほど古海さんにもお伝えしたんですが、私は本当に何もしていないですよ。翔音くんがステージに戻って来られたのは、彼の努力の結果です」

 同じことを口にする。しかし、日山は柔らかな口調でそれを否定した。

「大路君自身が一番頑張ったっていうのは、もちろんそうだと思う。でも、頑張れた大きな理由の一つには、絶対に御崎君の存在があったと思うの」

「…そう、でしょうか」

 ————もしそうならば、そんな嬉しいことはないな。

 少しでも彼を支える力になれていたのなら、一歩を踏み出す手助けが出来ていたのなら、それはとても幸せなことだった。

「ええ、間違いないわ。だって————」

 日山はにこりと微笑んで言った。

「これは私の言葉ではなく、高宮君の言葉だからね」

「!」

 またも突然飛び出した思わぬ名前に、澄睦はぱちりと目を瞬いた。

 そんな澄睦を見て、日山はくすくすと笑う。

「マネの話するカノンが楽しそうで〜って嬉しそうに話す高宮君を見ていると、私も本当に嬉しくてね。だから…御崎君が、大路君にとって心を許せる存在になってくれて本当に感謝してる」

 ————心を、許せる…。

 創が言っているということは、すなわち翔音がそう言っているということなのだろう。

 屈託なく笑う翔音の顔が脳裏に浮かんだ。いつだって真っ直ぐな瞳で自分を見上げる可愛らしい笑顔。楽しげに話す弾んだ声。

「…そうなれているのなら、とても嬉しいです」

 澄睦の言葉に、うんうん、と日山は頷いた。

「まだ若いのに、本当にすごい。私たちも負けてられないね」

 日山は澄睦の向こう側に居る古海に同意を求めるように身を乗り出した。そうだなぁ、と古海は肩をすくめて、澄睦に問い掛ける。

「御崎さんって、そろそろ二十五くらいでしたっけ?」

「いえ、この間二十六になりました」

「ええっ、もう!? ついこの間新卒で入って来たと思ったのに!」

 時が経つのは早いね、と古海と日山は笑い合う。

「まぁ、僕らももう三十三だからね」

「まぁ、そうね。御崎君に追い抜かされないように頑張らなきゃ!」

 ————確か、二人はデビューからずっと南くんと高宮くんのマネージャーをされていたはず…。

 つまり、付き合いももう四年になる。そこに築かれた確かな絆を、少し話をしただけでも感じた。それを羨ましく思いながら、古海と湊、日山と創のような関係をこれから自分も翔音と築いて行ければ————と、考えて。

 ————期間限定だから、それは叶わないか。

「これから私たちマネージャー陣でやってくことも多いだろうから、あらためてよろしくね」

 寂しさを覚えながら、澄睦は頷く。

「はい、よろしくお願いします」

 そして、見計らったかのようなタイミングで照明が落ちた。

 リハーサル開始の声が掛かる。スタッフ陣も口を噤んで、皆ステージに向き直った。

 オープニングが流れる。スモークが焚かれたステージに光が落ちる。

 ————始まる。

 一曲目のイントロが流れ出した。二人になってから最初に出したシングルの曲だった。

 奥のスクリーンが開いて、二人が出てくる。

 歌い出しは湊だった。

 ————南くんも高宮くんもすごく個性が光っている…自分の魅力をちゃんと理解している感じがいいな。

 自分が何を得意としているか、ファンに求められているものが何なのか。それらをしっかり理解した上で、表現にまで落とし込んでいる。トップアイドルとしての貫禄を感じるパフォーマンスに、澄睦は静かに感嘆の息を吐く。

 今回は衣装なしのリハーサルだった。二人とも普通の練習着姿で、それでもこのクオリティだと思うと、全て揃ったらどうなるか————想像するだけで期待感に胸が高鳴った。

 途中MCを挟んだり、衣装替えのために時折捌けながら、ライブは進んでいく。

 翔音の出番は、アンコール後の二曲のみ。翔音の参加していない最新曲とデビュー曲という、ファンが絶対に喜ぶであろうセットリストだ。

 これらは、三人が決めたことだった。再出発に相応しいライブにするために、セットリスト以外にも、衣装や演出など、様々なことについて話し合いを重ね、全力で明日を迎える準備をしていた。

 絶対に喜んでもらえるものになる。ファンにとって、忘れられない一夜になる。そう確信できるまで、三人は考え続けた。

 ————デラメアと、そのファンのために…三人の思いは、きっと明日形になる。

 その瞬間に立ち会えることは、澄睦にとってとても幸せなことだった。

 あっという間にライブ本編が終わり、アンコール待ちの時間になる。残るは、翔音もステージに立つ曲だけだ。

 不思議な緊張感に、澄睦は手を握った。

 ————やっと、三人がステージに立つのを見られる。

 三人で歌って踊っている姿自体は、レッスンですでに何度も見ていた。しかし、ステージに立つのを見るのは初めてで。

 期待と緊張に、胸がざわめく。

 そしてついに、再び音楽が流れ出した。

 濃いスモークでぼやけた暗いステージ。すでに三人はそこに居るはずだが、客席からはよく見えない。

 新曲のイントロが流れ出す。まだライトはつかない。

 スモークが引いていく。おそらく、観客はこの辺りでステージに三人居ることに気付いていくのだろう。

 その時のファンの心情を想像するだけで、どくどくと鼓動が逸るのを感じた。

 ————そこに翔音くんが…翔くんが居ると気付いた時のファンの感情は…とても言葉では表現できないものだろうな。

 こういう強烈な情動が起こる瞬間が、とても好きだった。その時だけは全てを忘れて、目の前のアイドルに夢中になる。目を輝かせて、時には涙を流して、アイドルがくれる特別な時間に浸る————そういった体験をさせてくれるアイドルというコンテンツが、好きだった。

 まだステージは暗いままだが、もう完全に三人のシルエットが見えている。

 そして、歌唱が始まる直前に、眩いスポットライトが三人を照らして。

「————!」

 ユニゾンで、歌が始まった。

 息を呑む。

 ————これが、デラメアなんだ。

 まだリハーサルで、三人は練習着で、観客席はガラガラで、掛け声もペンライトの明かりもなくて————それなのに、こんなにも胸が苦しい。

 練習よりも、ずっと迫力があった。ステージだけでなく、ライブ会場全体の空気を三人が支配しているのを感じた。一年のブランクなど欠片も感じさせない、完成された空気感。これが正しい形なのだと、そう思わせる力があった。

「…」

 澄睦は、眩しげに眼を細める。

 ステージ上の翔音は、あんなに必死にもがいていたとは思えない、完璧なアイドルだった。しかしそれでいて自然体で、緊張も見栄も全く感じない。

 努力を感じさせなくなるまで努力することがどれだけ大変か————あらためて、そのすごさを目の当たりにして吐息を溢した。

 ————『ステージに上がった翔音を見れば、分かってもらえると思います』

 湊に言われた言葉が蘇る。

 その意味を、確かに理解した。彼は、どうすればこの境地に立てるのかを理解しているから、あんなに努力をするのだ。

 ————ああ、本番が楽しみだな。

 きっと、今見たライブとは比較にならないほどの盛り上がりを見せるのだろう。明日三人がここで生み出す熱や愛を思うと、それだけで背筋が震えるほどに胸が高鳴った。


     * * *


 家族からの激励を受けながらしっかり夕飯を食べ、いつもよりもゆっくり湯船に浸かって、九時半には自室に上がった。

 明日のライブでやる曲を流しながら、ベッドの上で丁寧にストレッチをする。

 ————楽しみだな、ライブ。

 曲を聴いているだけで心が躍る。

 不意に電話が鳴った。翔音は曲を止めて、すぐ応答した。

「もしもし?」

『あ、良かった、起きてんじゃん』

 電話口から創の声がして、すぐに呼び掛ける声が続いた。

『湊〜! カノン起きてた〜』

 翔音はスマートフォンをベッドに置いて、ストレッチを再開する。

「そうちゃんの家に湊も居るの?」

『んーん、逆。オレが湊の家に居る』

 二人の家は徒歩ですぐ行ける近さにあった。そのため、よく互いの家に行き来している。

「仲良しだなぁ、相変わらず」

 笑みを溢しながら言った翔音に、しかし返って来たのは少しテンションの低い声だった。

『んー…でも最近ちょっとヤバいかも』

「え、やばいの?」

『うん。近々どーんってなるかも』

「ええ…?」

 ————厄介なことにならないといいけど…。

 仲が良いゆえか、二人は時たま大きな喧嘩をすることがあった。翔音も何度かそんな二人を見ているので、またああいうことが起こるのかとため息を吐いて。

『なんの話してるの?』

 湊の声がして、ぎくりとする。

 しかし創は、なんもー、とさらりと追及をかわして話を変えた。

『ついに明日じゃん! ライブ! めっちゃ楽しみ〜』

『翔音はもう寝るところだった?』

 湊の問いに、うん、と頷く。

「ベッドでストレッチしてる。そろそろ寝ようかなって思ってたから、ちょうど良かったよ」

『そっか。もう寝ちゃってる可能性もあるねって話してたんだ』

「まだ十時前だよ? そんなに早くないよ」

『いやカノンは九時とかに寝てる時全然あんじゃん』

「それは一年目とかの話でしょ!」

『一年目はもっと早かったっしょ! 可愛かったな〜、八時に寝ちゃうカノン』

「だ、だって早く寝てねって、二人が言うから…!」

 はいはい、と湊に割り込まれる。

 それから、湊は柔らかな声で、翔音、と呼びかけて。

『楽しみだね、ライブ』

 ————なんだか…この電話もすごく懐かしいな。

 いつも、ライブの前夜には必ず湊から電話が掛かってきた。それはライブの最終確認などではなく、ただライブへの期待感を高めることを目的としていた。

「うん…楽しみだな」

 不安は一つもなかった。早くあの場所に立ちたい。帰って来たよと、待っていてくれた人たちに伝えたい————そんな気持ちでいっぱいだった。

『っしゃ〜最高のライブにするぞ〜!』

『そうだね。最高の門出にしよう』

「ファンのみんなにとっても、俺たちにとっても、忘れられない日にしよう!」

 その後は少しだけ話をして、おやすみ、また明日ね、と言い合って十分ほどで電話を切った。

 ————ついに明日なんだ。

 ここからまた全てが始まる。叶えたい夢も見たい景色も、まだまだたくさんあった。そこに向かって全力で進む道に戻れた幸福を噛み締めながら、翔音はゆっくりと目を閉じた。



 当日は朝早くから会場入りを済ませた。集合時間の十五分前に到着し、翔音は控え室でストレッチをしたり、軽く動きを確認したりしながら時間になるのを待つ。

 ちょうどその時間になり、控え室のドアが開いた。

「おはようございます…」

「はざまーす…」

 現れた湊と創に、翔音はすぐさま駆け寄る。

「おはよう! 良い天気で良かったよね。ずっと雨予報だったからちょっと心配だったんだけど、変わって良かった!」

「相変わらず朝からちょー元気…」

 翔音の明るい声に、二人は眉を寄せて同じような顔をした。機嫌の悪い犬みたいだ、と思いながら翔音は問いかける。

「ちゃんと早く寝た?」

「俺たちも翔音と電話切ってすぐ寝たよ…」

「何時に寝ようと朝はキツいのー…」

 翔音はテンションの低い二人を笑った。

 すぐに集合がかかり、一日の流れを全体で確認した後、衣装に着替えて、メイクをして、ヘアセットも済ませて、本番さながらの状態で最終リハーサルを行った。

 遅めの昼休憩に入り、控え室でお弁当を食べる。

 翔音は二人と話をしながら、SNSをチェックした。そして、その投稿を見つけて声を上げる。

「ねぇ、見て見て!」

 翔音のブロマイドやうちわを持った女の子が、ライブ会場の前に飾られている湊と創の大きなポスターと一緒に写っている写真。コメントには『今日も翔くんと一緒!』とある。

「おっ、いつもライブにカケル連れて来てくれる子じゃん!」

「今日も来てくれたんだ。SNS見てるとさ、結構こういう翔ファンの子いるよね」

 ————こうやって、俺をずっと待っていてくれた人たちがいる。

 活動休止していた一年間、そんな人たちのコメントを見ていると苦しくなることも何度もあった。その期待に応えられない自分を責めたことも、数えきれないほどにあった。

 帰ってくるかも分からないし、伝えられたのも、真実なのか分からない曖昧な理由だけ。予告もなく、突然ステージを降りてしまった自分を、それでも信じて待っていてくれた人たち。

「嬉しいな…今日会えたら、喜んでくれるかな」

 翔音は二人に見せていたスマートフォンを手元に戻し、彼女の投稿を見つめながら微笑んだ。

「そらめっちゃくちゃ喜ぶでしょ!」

「翔音を————翔を待っている人たちは、本当にたくさん居るよ」

 うん、と翔音は小さく頷く。

 ————ずっと応えられなくてごめんね。

 今日会いに行くからね、と心の中で囁いて、スマートフォンを置いた。

 弁当を食べ終えて片付け始めようという頃に、コンコン、と控え室のドアがノックされる。

 どうぞ、と湊が答えるとドアが開いて。

「皆さんお疲れ様です」

「澄睦さん!」

 翔音はぱっと顔を輝かせてその方を見る。澄睦は微笑みを浮かべて翔音に問いかけた。

「リハーサルはどうでした?」

「問題なかったです! ね!」

 湊と創に同意を求める。二人はそれぞれ頷きを返した。

 澄睦は「よかったです」と言って、三人に向けて激励を口にする。

「昨日のリハーサルも、本当に素晴らしかったです。今日のライブも、いちファンとしてとても…とても、楽しみしています」

「がんばりまーす!」

「ありがとうございます。やれることは全部やれたと思うので、あとは楽しんで本番をやれればと思っています」

 創と湊の返しに、うんうんと頷く翔音。澄睦はそんな翔音に問いかけた。

「緊張しますか?」

 え、と一瞬考えて、それからへにゃりと笑った。

「久しぶりのライブなので、ちょっと…」

 しかしそんな翔音に、すかさず創からのヤジが飛ぶ。

「嘘つけ〜。余裕でしょ?」

「いやいや、さすがに久々だから! …まぁ、楽しみの方が大きいけど」

 あるのは、期待や興奮による心地の良い緊張感のみだった。ステージに立つことに対する不安や心配は一つも無い。

「ふふ、良かった。いつもの翔音だね」

「なに、いつものって…」

 作ったような笑顔を浮かべた湊に、翔音は訝しげに問い返す。

「ん? 無茶苦茶な練習して問題起こすけど、当日はけろっとしてステージに向かう感じが、何にも変わってないなって」

 うっ、と翔音は言葉に詰まり、それから縮こまって頭を下げた。

「その節は…すみませんでした…」

「とか言いつつ、どーせまた繰り返すんだからさぁ」

 前科はすでに数え切れないほどあるため、創の言葉にもぐうの音も出ない。

 ————良くないって、分かってはいるんだけど…他にどうしようもないんだよな…。

 根を詰めて納得がいくまで徹底的に練習するということ自体は、自分に合った最善のやり方だと思っていた。しかし、どうにか誰にも迷惑は掛けずにやり遂げたいという気持ちはあって————。

「ま、でもこれからはミサキマネがついててくれるんなら安心かな!」

 創が、からっとした声で言った。

 澄睦に視線が集まる。澄睦は苦笑いを溢した。

「私としても、もうあんなことは起こして欲しくないですが…」

「すみません…そうですよね…」

 しゅんと肩を下げて謝った翔音に、でも、と澄睦は続ける。

「見えないところでやられるよりは、ずっと良いです。なので、これからも必ず巻き込んでくださいね」

「!」

 翔音が顔を上げる。

 柔らかな色の瞳と目が合う。優しく自分を見下ろすその視線に、ぱちりと目を瞬いて。

「翔音くん?」

 名前を呼ばれて、はっとした。

「は、はい! これからもよろしくお願いします!!」

 はぁ、と微笑み混じりのため息を吐いたのは湊だった。席を立ち、食べ終えた弁当をゴミ袋に入れて、創に声を掛ける。

「…じゃあ、俺たちは最初の衣装に着替えに行こうか」

「ん、行こ」

 またあとでね、と二人は手を振って部屋を出ていく。澄睦は会釈を返し、翔音は手を振り返した。

 二人きりになり、澄睦は翔音の装いを見て微笑む。

「衣装、素敵ですね」

 モーヴピンクのシャツに、ダークブラウンのベスト。胸元にはドット柄のリボンタイ。

 最新シングルの衣装を、翔音用に作ってもらったものだった。

「素敵ですよね。…これが着られて、とても嬉しいんです」

 脳裏に浮かぶのは、再び歩み始めようと決めた時に見た、湊と創の看板だった。

 ピンクを基調としたスーツスタイルの二人の姿。あの時はただ外側から見ているだけだった自分が、今は二人と同じ衣装を着て、同じステージに立つ存在としてここに居る。

 ————幸せだな、本当に。

 あらためてここまでの道のりを思い出す。鏡の中に映る自分の姿を見ていると、澄睦も後ろから覗き込んだ。

「デラメアの衣装はいつもシックで素敵ですよね」

「ちょっと歌って踊るには暑いことも多いんですけどね…でも、どれもお気に入りです」

 スーツスタイルが多いため、どの衣装の布地もしっかりとしたものが使われていた。当然、動きやすさや通気性も考慮されているが、どうしても厚手の生地だと多少は熱がこもってしまう。

 ————そうちゃんはもうジャケット嫌がるから、最近はシャツばっかりだしな…。

 創が嫌だと駄々を捏ね、湊に怒られ、しかし結局、創のライブ衣装はジャケットを極力避けようという結論になったのを思い出し、小さく笑う。

 そんな翔音を見ながら、澄睦は囁くように言った。

「衣装、とてもよく似合っています」

 鏡越しに目が合う。

「…っ」

 細められた瞳に、翔音はこくりと唾を飲み込んだ。

 褒めてもらえて嬉しいと思うのに、なぜか落ち着かない気持ちにもなる。

「きっとファンの方々も、翔音くんのその衣装姿が見られてとても嬉しいと思いますよ」

 にこりと笑った澄睦に、翔音は上擦った声で気合いを口にした。

「その期待を裏切らないライブにします!」

 頑張ってください、と微笑まれ、また胸が騒ぎ出したのを感じながらも、翔音は力強く頷いた。



 照明が落ちる。

 オープニングの映像が流れ出した。

「スタンバイお願いします」

 スタッフの声に、湊と創が返事をする。そして翔音に向き直った。

「じゃ、行ってくるね」

「いってきー」

 二人は、今回のライブ用に仕立てられた白い衣装を纏っている。記念ライブらしい華やかな装いだった。

「二人ともすごくかっこいいよ!! 行ってらっしゃい!」

 ありがとう、と二人は笑いながら手を振ってスタンバイへ向かった。

 二人を見送って、翔音は手に持っていた二本のペンライトの灯りを付ける。湊のペールピンクと、創のイエローにして、両手に握った。

 ほどなくして、ついにライブが幕を開けた。

 ステージが明るく照らされ、歓声が上がる。二人が歌い始める。

「…!」

 翔音は目を輝かせて、ステージ袖から二人のライブを見上げた。

 ファンの熱が、幕の内側にまで伝わってくる。二人の歌声に、胸が高鳴った。

 ————すごいすごい! ワクワクする、楽しい、かっこいい…!

 それからの時間は、ひたすらただの観客として二人のライブを楽しんだ。掛け声やMCの反応など、ファンと一体となって声を上げ、曲に合わせてペンライトを振る。

「…良いライブですね」

 突然隣から聞こえた呟きに、驚いて横を見る。

「澄睦さん?! あれ、いつから居ました?」

「数曲前から居ましたよ」

 驚かせてすみません、と澄睦は謝罪を口にする。それに対し、翔音はぶんぶんと首を振って、大丈夫だと伝えた。

 それからさらに一曲披露して、衣装替えのために一度二人はステージから捌ける。

 出迎えようと待っていた翔音の方へ小走りに向かってくる二人は、なぜか腹を抱えながら笑っていて。

「翔音マジ声でかいって!!」

「本当にね、笑っちゃったよ」

 話しながら一緒に控え室に向かう。

「えっ、そんな大きかったかな」

「大きかったですよ」

 小声で澄睦に同意されて、翔音は恥ずかしそうに笑う。楽しくてつい、と頭をかく翔音に、湊と創はまた笑い声を上げた。

 着替えの邪魔にならないように部屋の端に居ながら、二人が着替えている間もずっと翔音はライブの感想を語り続けた。歌い方や踊り方について、MCのやり取りやファンの反応まで、時間の許す限り事細かに話し続ける翔音に、二人だけでなくスタッフも終始笑っていた。

「もーほんっとかわいーな!」

「わっ、ちょっとやめて、そうちゃん!」

 創は翔音に抱きつくと、そのふわふわとした黒髪をかき混ぜた。

「もう何してるの。創、行くよ」

 湊は呆れたように言って、それから解放された翔音を見て小さく吹き出す。 

「ふふっ、ちょっと髪整えておきなね。じゃあ、また後で」

 え、そんなに?、と頭を撫で付ける翔音の横で、一部始終を見ていた澄睦は微笑ましげにくすくすと笑い声を漏らした。

 そして、ライブの後半パートが始まる。少し珍しい黒い衣装へと変わり、楽曲もロックやテクノなどの少しハードなものが連続した。

 翔音は前半同様、ステージ袖でペンライトを振りながら存分にライブを楽しんでいたが、本編最後の曲の前のMCになったところでその手を下ろした。

「…準備しようと思います」

 ずっと隣に居た澄睦に声を掛ける。

 はい、と頷いた澄睦と共に控え室に戻った。

 髪を整えて、メイクを軽く直して、鏡の前で全身をチェックする。軽く身体を動かしていると、MCが終わり、最後の曲が流れ始めた。

 柔らかくて温かなバラード曲。ふと、翔音は口を開いた。

「…これ、ファーストシングルのカップリング曲なんです」

 ポロンポロンと、柔らかなピアノの音が鳴る。

「この曲をレコーディングした時は、まだ湊ともそうちゃんとも知り合って間もなくて…これからこの人たちと一緒にやってくんだって、すごく緊張してました」

 当時十四歳だった翔音からすると、三つ上の二人は随分と大人に見えていた。身長差が今よりあったのもあり、外見からしても明らかに歳の差が分かるグループで、それも翔音にとってはプレッシャーになっていた。

「二人よりもスクールに通っていた期間も短いし、一人だけ年下だし、とにかく経験が圧倒的に少ないし…自分のせいで、このグループが上手くいかなったらどうしようって、思ってたんです」

 歌やダンス、プロとしての意識や身の振り方、とにかく何においても二人に劣っているという焦りが、常に付き纏って。当時はそれを払拭したくて、がむしゃらに努力していた。

 ————我ながら、よく頑張ったなと思うけど…湊とそうちゃんが優しかったから、やれたんだよな。

 二人に追いつくために必死だった日々は、未熟さゆえ苦い記憶も多い。それでも、今となっては全て大切な思い出だと言えるのは、二人のおかげだと思っていた。

「…ここまで来られて、本当に良かった」

 翔音は安堵を胸にぽつりと呟いた。

 活動休止を決めた時、結局全部自分が壊してしまうんだと絶望した。これまでの自分の努力も、二人のくれた優しさも、三人で作り上げたこのグループも。

 ————そうならなくて、本当に、本当に…良かった。

 あらためて、自分を支えてくれたことへの感謝で胸がいっぱいになる。

 そしてそれは、二人に対してだけではもちろんなくて————翔音は澄睦を真っ直ぐに見つめてから、頭を下げた。

「マネージャーになっていただき、ありがとうございました」

「!」

 澄睦が息を呑む。

「どう、したんですか。急に」

 上擦った声に、翔音はゆっくりと顔を上げて、それから眉を下げて笑った。

「すみません、これまでのこと考えてたら勝手に感傷に浸ってしまって…」

 翔音は柔らかな声で心の内を言葉にする。

「俺の人生がこんなに上手くいっているのは、いろんな奇跡みたいな出会いがあったからだなって思うんです」

 自分はとても恵まれていると、翔音はそう思っていた。

 ————メンバーが湊とそうちゃんだったのは、もちろん一番の奇跡だけれど…でも。

「復帰した時のマネージャーも、本当は女性にお願いするって話で、でも都合がつかなくて澄睦さんになって…」

 翔音はそっと胸に手を当てる。

「けれど、その奇跡のおかげで、俺は今をこの万全な状態で迎えられています」

 翔音の言葉に、澄睦は静かに息を吐き出した。

 そして、囁くように言う。

「…僕との出会いも、奇跡だって、思ってくれるんですね」

 澄睦は、一度息を吸って、ゆっくりと吐き出した。

 それから、意を決したように口を開いて。

「翔音くんは、これからも————」

 しかし、言いかけた言葉は歓声によって途切れる。

『今日はありがとー!』

『五年目もよろしくね』

 本編最後の挨拶と共に、ステージの照明が落ちる。間もなくバタバタと足音がして、控え室にスタッフと二人が入ってきた。

「カノン〜! 準備できてる〜?」

 創の呼び掛けに、翔音は大きく頷く。

「もちろん! 完璧だよ」

 アンコールの声を聞きながら、二人は速やかに着替えをする。身なりを整えて、五分ほどで出て行ける状態になった。

 ステージ袖に辿り着くと、すぐにスタンバイの合図が出された。

「よし! 行くか!!」

「行こう」

 三人で頷きあった後、翔音は澄睦の方を振り返る。

「行ってきます!」

 澄睦は微笑みをたたえて頷いた。

「はい、行ってらっしゃい。ここで応援しています」

 三人は向かい合うと、パチンと両手でハイタッチをする。いつもライブ前にしていたルーティンだった。

「最高の幕開けにしよう」

 湊の言葉に頷いて、三人は真っ暗なステージに上がった。

 ————歓声が、近い。

 袖に居た時よりも、歓声がクリアに聞こえる。定位置について、客席を背にして立った。

 曲が流れ出す。歓声が膨らむ。

 ドキドキと心臓の音が耳の奥にこだました。身体は熱いのに、指先だけはひどく冷たい。

 ————でも、怖いわけじゃない。これは、楽しみで緊張してるんだ。

 ステージに立つ前にいつも感じていたそれと同じだった。翔音は目を閉じて、深く息を吐く。

 ライブ用の長いイントロが、少しずつ盛り上がりを見せていく。

 ————そろそろ、客席からも見えてくるはず。

 湊と創と相談して決めた構成だった。ファンの心を一番揺さぶれるのはどんな登場の仕方か、案を出し合って、この形に決まった。

 歓声の色が変わる。騒めきが混ざり、それが広がっていく。

 そして、悲鳴が上がった次の瞬間。

 眩いライトが照らされると同時に、マイクを口元に当てて振り返った。

 三人で声を揃えてワンフレーズを歌う。悲鳴が、爆発した。

 ————みんなの顔、よく見える。

 驚きに固まる顔も、涙で崩れた顔も、泣きながら笑っている顔も、全部が嬉しくて、翔音は声を張り上げた。

「みんなーっ! ただいま!!」

 あまりに大きな歓声だった。ステージに立っている方が圧倒されそうなほどの熱量に、全身がびりびりと震える。

「…!」

 ペンライトが、翔音の色である水色に変わっていく。想像していなかった景色に一瞬固まっていると、近くに居た二人に背中をぽんと叩かれた。

 目を合わせて歌う。二人の笑顔が嬉しくて、胸に火が灯るように熱くなって、思わず涙が滲みそうになって————しかしそれをぐっと仕舞い込み、翔音は前を向いた。

 一人一人に感謝を届けるつもりで歌う。笑っている人も泣いている人も、全員幸せになってほしいと願いながら。

 あっという間に二番も終わり、最後のパートになった。

『ここは翔音だよねって、話してたんだ』

 話し合いの時の記憶が蘇る。

 元々二人の曲として出したものだったため、パート分けを再度三人で行った。

 最後のサビ前の、音が少なく、セリフに近い短いパート。普段、翔音に割り当てられることの多いフレーズだった。そこは翔音にするべきだと言う湊に、翔音は、いつもそうだったから自分が歌う、というのは違うのではと反論した。

『ここは、俺が居なかったから湊が歌った、特別なパートだと思うんだ』

 もし自分が参加していたら、確かにここは自分が歌っていたかもしれない。しかし、だからこそ、湊が歌うこのパートをファンは聞きたいのではないか————そう力説した。

 しかし湊は湊で、このライブは翔音の帰りを待っていたファンにとって一番喜ぶ形にしたいという強い思いがあり、話し合いは拮抗した。そして結果的に、このライブでだけ翔音が歌うことで決着がついた。

 ————今日だけは、俺にやらせてね。

 息を吸って、心を込めて、その短いパートを歌う。

 自分が今ここに居ることを、心から喜んでくれるファンに向けて。

 熱と愛のこもった、悲鳴のような歓声が上がった。

 ————待っててくれた君に、届いたかな。

 キラキラと光る青いペンライトの海を見ながら、翔音はふっと微笑んだ。



 鳴り止まない拍手と歓声の中、ステージを降りる。

「お疲れさま!」

「お疲れ〜!サイコーだった!!」

「お疲れ様、良いライブだったね」

 三人は、ライブ前と同じように、パチン、とハイタッチをする。翔音は、たまらず大声を上げた。

「楽しかったー!!」

 湊はそんな翔音を見て、本当に嬉しそうに笑う。

「うん、楽しかったね」

 創は翔音に勢いよく抱きついた。

「カノン〜! おかえり〜!!」

 たたらを踏みながらもその抱擁を受け止めて、翔音は、ただいま、と笑った。

 三人はスタッフに拍手で出迎えられながら、控え室に戻る。興奮冷めやらぬ中、ライブの感想を話しながら着替えを済ませた。

 帰り支度をしたり、オフショットとして写真を撮ったりしていると、控え室のドアがノックされる。

「入っても大丈夫ですか?」

 澄睦の声に、翔音はすぐさま「どうぞ!」と答えた。

「お疲れ様です。公式ページやSNSの更新も済んで、翔くんからのメッセージも公開しました。各ニュースの記事も解禁されたのでご共有です」

 ちょうどスマートフォンを手に持っていた創が、手元でそれを確認する。

「おー話題になってるねー」

 湊と翔音は創の画面を両側から覗き込む。 

「やっぱり三人のビジュアルはしっくりくるね」

 湊の言葉に、創が頷いた。

「分かる〜カノンが真ん中に居ると、こう、フィットするよね〜」

「俺がいつも真ん中なのは身長が一番低いからでしょ」

「違うって、翔音は正面顔が綺麗だから真ん中なんだよ」

 一つの小さな画面を覗き込んでわいわいと話す三人を、澄睦は微笑みを浮かべて見守った。

 ひとしきり騒いだ後、帰り支度を済ませ、スタッフに挨拶をしてから会場を出る。

「タクシー呼んでおきました」

「ありがとうございます」

 澄睦に湊が礼を言う。創と湊は方向が同じなので、帰りは一緒にタクシーに乗って帰ることが多かった。

「じゃあ、また明日ね、翔音。今日はちゃんと休むんだよ」

「うん、湊もね」

「カノンおやすみ〜」

「おやすみ、そうちゃん」

 手を振って二人を見送る。翔音は今日も澄睦の車で帰る予定だった。

「では、私たちも帰りましょうか」

「はい! お願いします!」

 駐車場へ行き、翔音はいつものように後部座席に座る。

 ゆるやかに発進した車の中で、ふっと力を抜いた。そして身体が随分と重いことに気が付く。

 ————あ…結構疲れてるな…。

 二曲しかやっていないのにな、と翔音はため息を吐いた。もっと体力をつけなければ、と考えていると柔らかく話し掛けられる。

「…とても、良いライブでしたね」

「はい、そう思います」

「すみません、上手く言葉が出て来ないんですが…本当に、素敵でした」

 珍しく少し不器用な言葉に、翔音は小さく笑い声を漏らす。

「ふふ、ありがとうございます」

 ————良かった、澄睦さんにも、そう思ってもらえて。

 心地よい疲労感に、頭がぼんやりとしてくる。

「見せたかったもの、感じて欲しかったもの、全部ちゃんと、ファンに伝わったと思います」

 澄睦がそう言うのならそうなんだろうと思えた。

 それから、ぽつりぽつりと、澄睦はライブの感想を語った。簡単な単語が多くて、雄弁ではなくて、けれどそれが、とても素直な言葉として胸に響く。

 ————澄睦さんがうれしそうで、うれしいな。

 心がぽかぽかと温かくなる。夢見心地で、翔音は澄睦の話にただ相槌を打っていた。

 そしてひとしきり話をして、ふっと澄睦は口を噤んだ。

 静寂に包まれる。

 そして再び、澄睦の小さな声が沈黙を破った。

「ライブ前に話したことの続き…なんですが」

 ————ライブ前…なにをはなしたっけ…

 思い出そうとしても、眠気に邪魔されて思考が回らない。

「私からも、お礼を言わせてください」

 お礼、と頭の中で澄睦の言葉を繰り返すも、もう上手く内容が入って来なかった。

「翔音くんのマネージャーになれて、私は————」

 ————ああ、なにか大事な話を、してくれてる…けど…

 重い瞼に抗えず、翔音は柔らかな微睡に誘われるまま意識を落とした。



「…翔音くん?」

 返事が無いことに疑問を持ち呼び掛ける。しかしやはり返事はなく、赤信号のタイミングで振り返った。

「あ……」

 ————寝てる…。

 リュックを抱えてこてんと首を傾げるようにして眠っている翔音に、澄睦は頬を緩めた。

 あどけない寝顔を見ていると、胸をくすぐられるような庇護欲が沸いてくる。この子を側でずっと見守っていけたらと、そんな望みが、確かな形を帯びて。

 ————これからも僕がマネージャーでもいいか、結局聞けなかったな。

 本人の意思があればこのままやれるかもしれないと、そう思ったのだが————それはまた別の機会に聞こうと思い、前を向いた。

 ————それにしても…本当にすごいライブだった。

 ステージに立つ翔音を見て、文字通り言葉を失った。

 こんなにも心を揺さぶられたのは初めてで、しばらく呆然とした。ライブが終わってすぐに声を掛けようとして、しかしあまりにも胸がいっぱいで何も言葉が出て来ず、結局少し仕事をして気持ちを落ち着かせた後に、三人の元へ向かったのだった。

「…」

 澄睦はその時の激情を思い出して、ほうっと息を吐く。感動、と一言で表してしまえばそうなのだが、感情は一種にとどまらず複雑に絡み合っていた。

 彼の努力を知っているから、というのももちろんある。ファンの熱や声援に胸を打たれたのもあるし、パフォーマンスの完成度の高さに感銘を受けたのもある。理由は、ごまんと浮かんだ。

 その全てが、あの感情を生み出した理由だと考えて————唐突に、その答えが見えてはっとした。

 そうか、と澄睦はぽつりと呟く。

 ————ずっと描いていた夢が、初めて叶ったからかもしれないな。

 翔音のおかげで叶った夢だった。

 けれど、今はまだ、そのことを伝えられない。

 ————もしこのままずっとマネージャーで居られることになったら、その時に…。

 夢の中にいる翔音を起こさないようにと、澄睦は丁寧にハンドルを切った。

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