だから付き合ったとか、仲が大きく発展したとか、そういうことはない。けれど、何も起こらなかったわけではなかった。

 上若の部屋は広いのにきちんと整理整頓されていた。入って右の壁を埋め尽くすほど巨大な本棚には、著者名順に並べられた本がみっしり詰まっている。しかし本以外にはほとんど物がないようで、あとは勉強机の上に小物入れや勉強関連のものがある程度だった。そこにベッドと折り畳みの白いテーブルと白いタンス。付け焼き刃の清潔さではなく、こざっぱりしていて、でも好きなものへの愛情がひしひしと伝わってくるような、まさに上若自身の部屋だった。

 リビングからクッションを取ってきた上若に案内されるがまま、腰を下ろして持ってきた本をテーブルに広げる。その間も上若はせっせと温かいお茶を淹れてくれた。手伝おうかとも思ったが、手伝うほどのことでもないから、ソワソワしながら上若を待つ。

「はい」

「あっ、ありがとう……」

 高そうな紅茶に、今さらながら何か手土産を持ってくればよかったと後悔する。今思えば、他人の家に行くのだったら何か持っていくのが礼儀だったが、あまりにも他人の家に行ったことがなかったからつい失念していたのだ。

「あの、ごめん、なんか持ってくるべきだったよね、俺」

 正直に謝罪した俺に、上若はきょとんとした表情を作った。

「そんなの謝らなくていいよ。だって私、凛くんと一緒に過ごせるだけで幸せだもん」

「え……」

 思いもよらなかった返答に、俯きがちだった顔を上げる。上若もなぜか「え、あ」と言葉にならない声を出していて、明らかに動揺している様子だった。

 ──本心から、なんだ。

 俺の申し訳なさを和らげるための方便だろう、という考えが一瞬にして吹き飛び、上若と同じような声が出る。ふたりしてエアエア動揺しているのがおかしくて、どちらかともなく笑い出した。

「そんなに驚かなくてもいいじゃん。おかしい?」

「いや、発言自体はおかしくはないし嬉しいけど、自分で言ってることに自分で驚いてるのがおかしくて……」

「もーっ、適当に流してよー」

 わざとらしいくらいムッとした口を作ってみせる上若がおかしくて、また笑ってしまう。

「俺も、上若と一緒にいられるだけで幸せだよ」

「えっ、プロポーズ……?」

「違うわ」

 さっき自分も同じようなことを言ったくせに……。

 文句のひとつでも言ってやろうかと口を開きかけて、やめる。上若も、それくらいの気持ちで言っていたのだろうか?

 もちろん意識的に言ったものではないのは重々承知だが、しかしそれすら無意識下では『俺と結婚してもいい』と思っている証拠ではなかろうか……?

 馬鹿げた妄想ではあったが、舞台が上若の部屋ということもあり、妄想は加速し続けた。上若は俺のことが好きなのか? 好きだから部屋に呼んだのか? 好きだから茶菓子のひとつも持ってこないやつをフォローしたのか?

「あー、もう! 集中して小説読めないよ。切り替えて切り替えて!」

「……はい」

 先に集中できなくしたのはどっちだよ、と言いたくなるのをグッと堪えて、上若が買ってきた分の本を読み始めた。


 13時くらいにカップ麺を食べたくらいで、ほとんどノンストップで本を読み続け、気がつけば18時に迫ろうとしていた。ちょうど2冊目を読み終えたあたりで、最後の1冊は新年が明けてから図書館で読む約束をしてお開きとなった。

 本を読むばかりであまり話すことはできなかったが、読書中も上若の姿が正面から見えるという状況は幸福そのものだった。いっそ本当にプロポーズしてしまおうか、という考えが頭をよぎるほどだった。さすがに段階を飛ばし過ぎだし、臆病者だから実行に移すことはなかったが。

「今日はありがとう。また4日に図書館で」

「待って」

 靴も履いて、いよいよ上若の家から出ようとした俺を、上若がコートの裾をつかんで呼び止める。

「まだ、もうちょっとだけいてほしい」

「え? そろそろお母さん帰ってくるんじゃ……」

「おねがい」

 上若の琥珀色の瞳が、俺の心臓を射抜いた。動けなくなって、ただ上若を見つめることしかできなくなった。

 玄関に静寂が満ちる。上若は何を言うでもなく、コートの裾から伸びる俺の手に、自分の細い指を絡ませて、離した。

「ごめん。しばらく会えないって思ったら、寂しくなっちゃって。ここ最近、毎日のように会ってたからかな。……またね」

 そう言って、彼女は切ない顔で手を振る。このまま放って帰ることなんてできるか。抱きつきたくなる衝動が身体を突き動かそうとするが、現実の俺はただ棒立ちしていた。

 抱きつく勇気どころか、上若の手を握る勇気すら俺は持ち合わせていなかった。

「ライン、送るから。あと、読書通話とかしようよ」

 実際に出てきたのは、そんな軟弱な提案だった。

 上若は安心したような、失望したような、そんな顔をしているように見えた。

「……待ってる」

「……ありがとう」

 健気に手を振ってみせる上若に、俺は顔向けできなかった。俺に、あなたみたいな勇気はない。あなたみたいな文学に対する情熱もない。

 ──そんな、優しい言葉をもらえるような存在じゃないんだ。

 惨めに早足で去ってゆく俺の姿は、上若にはどう映っていたのだろうか。


 きっと、好意的に捉えられたのだろうな、と思う。

『今日はありがとう。すごく楽しかった! 通話っていつできる?』

 帰宅して間もなく、上若からメッセージが届いた。

 俺からライン送るって言ってたのにな。

 何だか負けたような気分になるが、きっとこれがいちばんよかったのだ。だって俺は、上若にラインを送ろうなんて思っていなかった。どうメッセージを送ろうか迷うし、通話なんて切り出せない。俺が上若の時間を不当に奪っているような、そんな気分になるから。

 今まではラインくらいだったら何気なく送ることができていたのに、ああやって上若から来られると途端に罪悪感が湧き出てきて、もう自分では止めることができなくなる。一方通行だと思っていたからできていたこともあったのだ、と初めて理解する。

 もう優しくしないでほしい、という心と、俺のことを好きでいてほしい、という下心が衝突して波紋を作る。

『俺のほうこそ、ありがとう。20時以降ならだいたい大丈夫』

 既読無視すれば簡単に壊れるような関係だとわかっているのに、どうして俺はメッセージなんか打っているんだろう。

『じゃあ、明日20時くらいから通話しよう。お互い、通話できる状態になったらメッセージ送るってことで』

『了解』

 程なくして上若から新たなメッセージが届く。親に確認してみたら難しそうだったとでも言えばいいのに、やっぱり俺は上若と関係を続けたがる。

『楽しみ』

 上若の無邪気なメッセージが、心に刺さって痛む。

 本当に、俺でいいの?

 そう打ってから、さすがに面倒臭いだろうと考えて全文消去する。恋人同士ならまだわかるが、相手も俺のことが好きだと決まったわけじゃない段階でこれはどうかと思う。

 そうだ。恋人だったら釣り合うかどうか考えなきゃいけなくても、友達同士だったら別に考えなくてもいいだろう。趣味が合っていて、一緒に過ごしていて楽しいならそれでいい。

 面倒な思考を止めるために、ページを開く。上若から借りた本は彼女の幻影を見てしまうかもしれないから、まったく関係のない本を選ぶ。

 しかし、上若と出会わなかったら一生読むこともなかったんだろうと考えると、文章を読むたびに胸が痛んだ。俺にとって上若は、かけがえのない存在になっている。

 上若は美しくて、純文学や小説を心から愛していて、誰とでも分け隔てなく接することができる優しさを持って、頭もいい。外見も中身も醜い俺とは正反対だ。

 公立中学校という、ピンからキリまで色んな人間がいて混沌としている場所じゃなかったら、まず出会わなかったであろう存在。同じクラスにいても喋ることなんかなかっただろうし、委員会が同じでもほとんど喋ることのなかったであろう、本当なら交わることのなかった存在。

 あのときコンビニ人間の表紙を眺めることがなかったら、一生雑談することもなかったはずだった。

 そんな王族と貧民くらいの差があるのに、もっともっとと求めるのは図々しい。でも俺は意思が弱いから、上若の近くにいればもっともっとと求めてしまう。それが情けなくて、苦しくて、泣きたくなった。

 俺だって、上若と一緒にいたい。だけどそれは上若の美しさを汚すことになる。上若の美しさを、時間を、搾取することになる。

 こんなことで悩むことすらおこがましくて、必死になって頭に文字を叩き込む。文字を追い、文章を飲み込み、物語の世界に身体を浸す。

 そうして現実逃避をすることを教えてくれたのも、上若だった。今の俺のすべてはもう、上若からもらったもので構成されていた。

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