シナモン・シュガー・フリッター
@zero_ujino
(wip)01
紬圭一郎はブラック企業に勤めている。彼には首を括る気力も残っていない。店を選び、丈夫な縄を選び、適切な結び方を選ぶ。こうした決断には体力が要る。そもそもまともな縄を売る店は、圭一郎が歩いて帰宅する時間には軒並み閉まっていた。いつも第一歩で躓く。そして1日の終わりを感じる間もなく、翌朝に歩いて出勤する。首には待ち望む縄ではなく真綿のようなネクタイを締めて、ネクタイの先は圭一郎の上司が生かさず殺さずで握っている。
7月、海の日の夜は暑い。雨は人肌に温く、25連勤の迫り来る深夜にも潜熱が残る。圭一郎は歩道橋から道路を見ていた。街灯は明るく、大通りに車はない。片手の酒を呷ったが大して酔いもしない。缶のラベルで自宅の様子を思い出した。この歩道橋から離れて家に帰ったとして、六畳には同じラベルが無数に転がっている。この缶もゴミも服も無数にあって、ゴキブリとクモがよく出る。今日も帰らずに職場で寝てしまえばよかった。圭一郎は真下の道路を覗き込んだ。魅かれる。この柵を越えたらきっとより一層良いものに見える。道路はゴキブリも少ないし。けれどもこの柵は高い。がらんとした道路を見下ろす。圭一郎は疲れきっていた。通勤路に擦り付けてのろのろと歩く以上に、足を上げる気にはならなかった。
鼻歌が聞こえた。下手なのか、自身が曲を知らないだけなのか圭一郎には分からないかった。
※ここ繋いで…
「この高さじゃ、落ちてから轢いてもらわないと」
隣に男がいて、能天気に声をかけられた。男は圭一郎と同じように道路を見下ろしていて、片手に出刃包丁を持っている。世の中には異常者がいるもんだ。圭一郎は歩道橋の下に視線を戻す。軽自動車ひとつ通らない。
「ねえ、やり残したことある?」
「…………そんなもんありませんよ」
宗教の勧誘などか。yesと言ったら命の大切さを説いたりするのかな。大切な命たちがおろしがねでチーズや大根のようにすりおろされている。今日も明日も日本中で。ははは。
「俺と来ない? やり残したこと全部終わったら、最後に殺してあげるよ」
包丁男は笑っていた。言っている意味は分からなかった。だが殺してあげるという一点については、包丁を持っているからそれなりに説得力があった。柵は高いし、自分を轢くトラックドライバーも大変気の毒だと思う。確実に死ねるなら悪くない提案かもしれない。ふと目眩がして、圭一郎は濡れた歩道橋に膝をつく。包丁男の掌は雨より少し熱い。圭一郎はそこから先のことをよく覚えていない。やっぱりアルコールのせいかもしれない。
包丁男は圭一郎を家に招いた。左右に広い空き地と公園、裏に低いビルの背中がある一軒家で、六畳のアパートよりはるかに広い。圭一郎は玄関の土間で突っ立っていた。服も靴も鞄も濡れている。包丁男も同じくらい濡れていて、しかしいくらも気にせず廊下に登った。包丁男のカーゴパンツから雨水が滴る。どこか強盗の様相を呈している。包丁男は靴箱の上に包丁を置いた。濡れたTシャツをひっぺがすように脱いで、廊下から洗面所に放り投げる。
「お名前は?」
「紬圭一郎です」
「じゃあねえ、うんとね……つむちゃん」
小学生の頃と同じニックネームだった。隣の席の子にそう呼ばれていた。
「……包丁男さんは」
それが一応の礼儀かと思い、圭一郎も名を問う。
「刑部島訝。ごんべんに牙」
「では刑部島さん」
「も、もう一声」
何を言わんとしているのかは分かるが、圭一郎には良い案が思い浮かばなかった。刑部島ちゃんや訝くんと同じクラスだったことはない。
「…………訝さん」
「よろしくね!」
妙に朗らかな男だ。馴れ馴れしい。自己紹介などしてしまったが何をよろしくするのだろう。訝はキャラクターもののバスタオルを振り開きながら戻ってきた。バスタオルが頭の後ろを通って圭一郎の肩を覆った。洗剤らしい芳香がする。かすかな煙の匂いも。煙は訝からのようだった。
「おいで」
「……」
「ほら。こっちだよ」
髪と足から雫を拭い取り、廊下に登る。訝が廊下の突き当たりの部屋を指しているので、圭一郎は言われるがままに部屋へ入った。部屋にはコンビニ弁当のプラスチック皿はない。例の空き缶もない。虫もいない。ただのベッドと布団がある。この日、この部屋にはベッド以外の何もないような気がしていた。キャビネットやら目覚まし時計が見えていなかっただけだと気付くのは、もう少し後のことだ。
「濡れたのはそのへんに置いといて。なんか着るもの探してくるね。寝てていいよ」
圭一郎はすべて言われた通りにした。あの男が軽快に並べる通りの行動を取るとなぜか楽だった。何も考えなくていい。選択は疲れる。ネクタイとYシャツを脱いで床に放る。スラックス、あと靴下。半裸でベッドに倒れ込む。
しばらくして訝が戻ってきた。訝は圭一郎の様子をちらりと見て、抱えていた衣服を脇に置いた。そしてタオルケットをかける。圭一郎は瞼をほんのわずかに開いて囁いた。
「あの……」
「なあに」
「ここ来て……すぐ殺されるんだと」
「幸せな人しか殺せないんだ」
「俺……不幸なんですか?」
「うん」
訝の声は少し掠れている。それが圭一郎と同じ調子で囁く。圭一郎は自身の口角が笑おうとしているのを感じた。不幸。もっと不幸だと言ってほしい。ついさっき肌に触れたバスタオルのような感触、あの声で項のあたりを撫でてほしい。
「今、幸せな人を……殺せばいいのに」
「ふふふ。今日は不思議なんだ。どうしてつむちゃんにしたんだろうね……運命かな?」
訝は笑った。訝は圭一郎と出会った瞬間から穏やかな笑顔を絶やさずにいる。きっと犬やなんかと同じで、そういう顔なのだろう。圭一郎は眼鏡をそっと掬い取られたように感じた。いつの間にか瞼が閉じていた。
圭一郎はそのまま眠ることにした。やり残したことなどそう多くはない。多くはないが、死ぬ前にきれいなベッドで眠るのはいい。今夜は何も考えられない。何も。
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