第29話 神事…それは地球終焉前の責務

 これまでふたりの出会ってきた相手は数えること六百以上の“神々”はもちろん、神仙、仙人、瑞獣、神獣、聖獣、白狐、黒狐、精霊、妖怪、怪物、時に蟲…など。

人間部門では“生身の人間ではない”もの…つまり“幽霊”や“魂”。(もちろん人間以外の動物の霊や魂も含む)

 神事は普通の人間が見ることの出来ない(霊感を生まれつき持っている血筋なら見えるものもあるだろう)不可視の存在を相手におこなっている。当然ふたりが何も見えていない空間に向かって話しているようすを見たら、「あのふたり頭がいっちゃってるよ!」と言われかねないであろうと自信を持って言えるのは確かだ。でもふたりは“常に本気”で相手に向かっているのだ。地球が終焉を迎えるまでにそれぞれが“拒絶しない限り”は“行くべき世界”に送るのが務めなのだ。

 最近こそ減少傾向にあるが、ほぼ“行くべき世界”に送ってきた成果だろう…平安時代から空◯が中国より日本に持ち帰った密教というものが日本で広まった時代、般◯心経などのありがたいお経を民に伝えるため、高◯山より全国に行脚するお坊さんが出立した。それらのお坊さんを指して“高◯聖(こう◯ひじり)”という。その高◯聖たちはお経を唱えることで、施しを受けて生きていったのであるが、現実はそう簡単なものではなく、当時の民たちそのものが貧しいため、簡単に施しを受けられる状況ではなかった。

 高◯聖たちの背中に背負った箱・笈(きゅう)に少しの着替えと、お経と小さな仏像が納められているが、施しを受けられた時、日持ちするものであれば中に取っておいて後で食したり出来たが、何も施しが得られない時は川の水で腹を満たした。だがなかには“水あたり”でもがき苦しみ命を落とす者もいた。お経がいくらありがたいものであっても、ある意味毎日が生きるか死ぬかの厳しい現実との闘いであったのだ。

 死と隣り合わせの厳しい修行の中でそれに耐えられず食材を“泥棒”してしまう者もいたらしい。そんなことが噂になり、真剣に行脚している者がいる中で、高◯聖のことを妖怪扱いする者まで現れ“夜道怪(やどうかい)”などと呼び、世間から不信感を抱かれるお坊さんにされてしまった。それを回避するために、単独行動をしないようにしてグループを作って行脚するようにした者たちもいた。毎日お経を広げるため、施しを受けるため、生きるため、必死に行脚を繰り返し、いつしか疲れ果て、野垂れ死にする者も多かった…

 それらの魂を“行くべき世界”に送るため精霊や白狐に協力を依頼して誰もいない神社を何か所か決めて、そこに集合を促し、全国から大勢の魂が集まる度に出向いていく。全員オーブの姿ではなく、正装して横に笈を置き、きちんと正座して般◯心経を唱えて待っている。「これまでの長い間大変ご苦労様でした」と伝えると皆両手をつき深々とお辞儀をする…その状態で呪文を唱える。皆足元から霧のように消えていく…それが“凪流し(なぎながし)”である。

 黒狐(くろこ)というものがいる。その名の通り白狐の正反対で体は真っ黒で大きい。だが、とても人間に対して“情”が深く、彼らは数はあまりいないのだが、“人間のために”生まれてきたという、一種の聖獣なのだ。N県I市Tに“お◯岩”という大きな岩があり、村人がお祝い事でお膳やお椀が足りない時、その岩の所に行き人数を伝えてお願いすると、翌朝には岩の前に人数分のお椀やお膳が用意してあったという。

 なぜそんなことが起きるのか、気になって訪ねてみることにした。そこには(岩の中に)背中をこちらに向けて黒狐が座って居たのだ。話を聞くと「お金の欲望は駄目だが、食器が足りなくて困っている人間が来ると助けてあげたくなったから」だという…だが、時代の流れでもう借りに来る者もいなくなり、寂しい限りだと言って、さらにこちらを向いた時、片目が深い傷を負っていた。どうしたのか尋ねると、岩から抜け出て普通に黒狐の姿として田んぼを歩いているところを体が大きいの熊だと思われたのか、人間に猟銃で撃たれたのだという。そんな目に遇っても“人間に尽くしたい”という気持ちは変わらないという。この世に人間が存在している限り尽くし、共に滅びる覚悟だという。なんとお人好しなのだ…取り合えず、けがを治させるために龍を呼び、治療が出来る場所へ連れて行ってもらうことにした。治療後は戻りたければ岩に戻すように頼んだ。彼らの覚悟に逆らうつもりはない。

 精霊たちは特に敏感で地球に終わりが近づいていることを知っていた。人間による大規模な自然破壊が精霊たちの棲みかを破壊し追い詰めていった。さらに低級な悪魔たちの餌食にもなり、もはや地球に残しておく理由は無くなったのだ…数え切れない精霊たちを数か所に分けて集合させて精霊の星に帰した。その時点から自然界は“精気”を失ったのだ。

 白狐たちも人間のために計り知れない努力を惜しまず注いできた。そんなことを人間は知る由もない…昔の人々は無病・息災・出世・商売繁盛・豊作などを願い、お供え物を捧げ、きちんと感謝の気持ちを伝えてきた。白狐たちは真剣な願いに対して、努力を惜しまぬ人間には公平にチャンスを与えてきた。ところが現代の人間は全てを“迷信”という言葉で片付け、願いが叶ったという話を聞けばそれは“偶然”だと決めつける。実に合理的な解釈であるが、それこそ“屁理屈”である。人間全てが何事にも努力する生き物であったならきっと素晴らしい世界になったであろう。努力せず立派な屁理屈ばかりをこね堕落する人間が大勢いるから争いが絶えず、世の中は一向に平和にならないのである。白狐たちはその確かな目と研ぎ澄まされた感性で人間を見据えていた。存在を信じてもらえない彼らを人間のために残す理由も無いので星に帰した。都合のいい時にだけ両手を合わせて祈る人間にはそもそも縁など無いのである。

 これまでふたりが“行くべき所”へいざなった魂たちも数知れない…

翌日が勤務のため、片道500kmを日帰りで往復したこともある。なぜそこまで出来たのか…それは神様から託された“使命感”とお金とは比較にならない“価値観”以外のなにものでもないからである。神事に掛かる費用は全て共働きで得る収入である。休日以外は我欲を捨て余程の事がない限り休まず働く…何をさしおいても健康と行動力がふたりの原動力となった。

 長い年月、ひたすらふたりの出現を待ち続けてくれた魂たちが居た…“神の評価の高い魂”である。歴史上に名を残した功績のあった方々、国王を支えた有名な策士の方々、有名な戦国武将や大名、有名な僧侶など、どれも大勢の人間にとって素晴らしい功績を残した方々ばかりであった。歴史上のご本人を目の前にして話せる感動は何にも変え難いものだった。三国志で天下にその名を知らしめた策士“司◯懿”氏と“諸◯亮”氏どちらもとても懐の深い聡明なお二方であった。彼らが現代に蘇ってTV放送で対談しようものなら、世界でどれくらいの人々が釘付けになってしまうのだろう…想像すら出来ない。

 それ以上に神が、何十億という数の人間一人一人の誕生から亡くなるまでの行い全てを観察して把握していたことに脅威というよりも“驚嘆と恐怖”を感じざるを得ない。神事を通じてふたりの視野が大きく広がった反面、人間の能力には限界があることや存在そのものの小ささを常に思い知らされてきた。まさに“井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る”である。


 

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