夜に泣く


 なぜあんなことを言ったのだろう。自分から閣下の手に触れてまで。

 あのときの閣下の面(おもて)が取り残された憐れな存在のように見えた気がしたからだろうか。もちろんそんな表情を閣下がするはずはない。けれども、あの時、ラファはそう思ったのだった。

 己にこそ死が迫っているというのに、そんなことはどうでもよかった。どうせ遠からず死ぬのだと、初めて主人の暴虐に触れたとき覚悟を決めた。それから何年だろう。よくもったものだ。

 そう。

 よくもったものだ。

 死んでしまうのかーーーと、ラファは思った。薄い幕を隔てたような感慨だった。他人事のようなどこか現実味を伴うことのないそれは薬湯の効きめのせいなのかもしれなかった。

 両手を天井へと持ち上げる。ゆったりとした夜着の袖から日に当たることも稀な白い腕が露になった。そこに刻まれた傷痕を見て、彼の眉根が自然に寄せられた。込み上げる熱は後頭部を痺れさせ額に圧力を生じさせる。眼球が押し出されるような錯覚と目蓋の下に盛り上がる涙の感触。

「閣下」

 呟くのは己が主人の敬称である。名を許されることもなければ“殿”と呼ぶことも許されてはいない。

 それでも。

 己を苛む公爵の眸の奥にただの玩具としてだけ己を見ているのではないのだという薄ぼんやりとしたなにかを、ラファは感じる。それが嬉しいことなのか怖いことなのか、それとも唾棄すべきなにかであることこなのか、彼にはわからなかったが。けれども、この込み上げてくる涙がそのなにかに起因しているのだということだけは、なぜだか感じとることができた。

 流れ落ちる涙を二の腕で拭い、無意識に目についたまだ生々しい赤にくちづける。

 ちろりと公爵が偶さかにするように舌先で軽く擽った。そんな己の行動にラファは即座に我に返る。

 今度彼の身を炙ったのは羞恥の熱だった。

 公爵閣下が皮肉そうにもたげた口角が、嗜虐に耽る濡れた眼差しが、肌を這う閣下の感触が、己を穿つ閣下の熱が、閣下によるさまざまな暴虐の嵐が堰を切ったように脳裏に甦った。

 羞恥と苦痛、その果てに与えられる解放と快楽。そこに紛れもなく存在する快楽に、どうしようもない絶望を覚えたのは己が男であるからなのか。ラファにはわからない。それでも、もとよりーーーと、ラファは考える。

 もとよりこの身この命は共に閣下のものであるのだ。閣下がほしいままに扱う権利がある。

 閣下に拾われた己に自由など許されようはずもなく、望んだことはおろか想像さえしたことはない。もし仮にしたところで、叶うはずがなかったであろうこと、想像に難くない。育ての親であるオベドーーー閣下の側近である老爺が許しはしなかったであろう。

 しかし、男の身でありながら同じ男である主人の性の玩具として存在することは、とてつもなく疲弊するのだ。

 肉体的にも精神的にも。

 主人は特に隠すこともない。周囲は高貴な方のすることゆえに批判することも謗ることもない。その鬱憤がラファに向けられた。

 穢らわしい男娼と陰口をたたかれ蔑む視線が矢のように突き刺さる。

 だから、時折、どうしようもなく逃げたくなるときがある。逃げたくてたまらなくてどうしようもなくなる時、閣下の行為はいつもより激しいものとなった。翌日は動けないほどにきつい行為に泣き叫ぶ羽目になった。

 それももうなくなるのだ。

 閣下は別の玩具を見つけるだろう。

 それが不思議な喪失感をラファに与えた。

 ラファは意識せずに泣いていた。

 それは奇しくもジェレマイアが夜鴉の鳴き声を聞いたのと同じ刻限であった。

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