第36話 栄華の跡地で


 四月三十日、水曜日の午後。新宮時也と県警刑事部捜査一課は、上港区にある美濃病院跡地を訪れた。

 建物および小杖城跡の周辺は、伍代刑事率いる捜査一課の面々が完全に包囲網を敷いていた。「ネズミ一匹だって逃しはしねえよ」と凄む伍代にあとを任せて、時也は一人で廃病院へ向かう。そこでと会う約束を取り付けていた。

 初夏が目前に迫る時季、日中の気温は二十五度前後まで上がる日も珍しくない。この日も気象予報士の予測に違わず、昼間の最高気温は二十六度まで達していた。病院跡地の周りは木々に囲まれて陽射しが届きにくいものの、汗ばむ首筋を時折ハンカチで拭うほどには暑い。

 今にも裂けそうな規制テープを乗り越えて、建物の中へ入る。瓦礫を踏み分ける足音が薄暗い空間に大きく響いた。カビを含んだ異臭が微かに鼻をつく。リハビリ室で吊り下げられていた森野一裕の姿が、時也の脳裏を一瞬だけよぎった。

 定刻より五分ほど早い到着だったが、待ち人は先に来ていた。一階フロアの最奥、北棟にある循環器科室の前にその人物はいた。懐中電灯の灯りが素早く動き、時也の顔を捉える。

「お待たせしました。お早い到着ですね」

「刑事さんをお待たせするわけにはいきませんから……にしても、なぜこんな薄気味悪い場所で話を?」

 周囲に灯りを向けながら、大村泰明は疑問を呈す。時也はわざとゆったりとした口調で「そうですねえ」と間延びした返事をする。

「ここが最もふさわしい場所だと考えたからです――あなたとお話しするのに、これ以上適した場所はないとね」

 時也の意図が今ひとつ図りかねるのだろう、大村は「はあ」と気のない返事をする。

「それで、肝心のお話とは一体何でしょうか」

「その前に、少し昔話をしてもよろしいですか」

「昔話?」

「ええ。ここはかつて、常磐会という医療法人が経営していた病院でした。毎日多くの患者が来院し、百人単位の医師や看護師が目まぐるしく動き回っていた。それほど繁盛していた大病院が、二十年ほど前に突如として経営破綻、この有様となったわけです」

「はあ。私はここにこんな病院があったこと自体、今初めて知りましたよ」

 不動産会社の営業課長は、唐突に始まった会話を遮ることもなく調子を合わせる。

「病院経営がどんなものかよくわかりませんが、どこも色々あるものですね」

「そうですね。ただ、ここがこの様になったのにはある特殊な事情があるのです」

「特殊?」

「極めて特殊です。ただの経営破綻ではありません――ここの病院長が、自殺したのです」

 数秒の沈黙の後、「自殺ですか」という大村の呟きがフロアに響き渡る。懐中電灯の灯りは自身の足元に当てられていて、彼がどんな表情で話を聞いているのかうかがい知れない。

「経営破綻を苦にした自殺ではないのですか」

「ここが廃院したのは、院長が自殺してしばらく経ってからの話です。トップの経営者を失った病院は大打撃を受け、立ち行かなくなったのです」

「院長さんが自殺する前まで、病院の経営は順調だったわけですか」

「それなりに苦労もあったみたいですが、廃院するほどではなかったようです」

「では、プライベートでよほどの苦難があったのでしょう」

「かもしれませんね。では、院長の自殺の原因を探る前にまずは彼の人となりをざっとご説明しておきましょう」

「はあ。ですが、それと私との話には一体どんな関係が」

「とりあえずお聞きください。そのうち点と点が繋がって線になりますから」

 やや強引な時也の物言いに、大村は何度目かの「はあ」を漏らす。

「ここを経営していたのは、美濃佐吉という腕利きの心臓外科医でした。佐吉はK県出身で、両親は彼が小学生に進学する前に離婚。父親に引き取られ、そのまま二人で父方の親類宅に転がりこみました。ですが、父やその親族と折り合いが悪く、非常に窮屈な子ども時代を過ごします。中学に上がると同時に佐吉は居候先を出て、中学高校時代は寮生活、大学も一人暮らしをして完全に父親から独立しました。そして、医者としての人生を歩み始めるわけです」

「随分とご苦労されていたのですね」

「そのようです。そうした幼少期が影響したのか定かではありませんが、佐吉は生涯で三度の結婚をしています。最初の妻とは死別、二番目の妻は健在でしたが離婚、そして三度目に妻として迎えた春恵とようやく穏やかな家庭を築いた。このまま何事もなく、静かに最期を迎えることが佐吉の本望だったのかもしれません。ですが、ある事件に巻き込まれてしまいそれも叶わぬ夢となった」

「ある事件、ですか」

「ええ。何だかご存じですか」

「私が知るわけないでしょう。先ほども申したように、私はこの病院の存在を今日初めて知ったのですよ」

 懐中電灯の灯りが半円を描くように動く。大村が両手を広げるような動作をしているのかもしれない。

「そうでしたね、これは失礼……美濃佐吉は、闇献金事件に関わってしまったのです。そして、その口封じのために彼は命を落とした」

「ちょ、ちょっと待ってください。先ほど、美濃佐吉は自殺したと」

「表向きは自殺として警察が処理したようです。しかし、美濃佐吉が自殺した現場にはいくつか不自然な点があったと耳にしています」

「不自然な点?」

「彼が命を絶ったのは、個人で借りていたK県の山奥にある別荘でした。佐吉は狩猟の趣味があったらしく、別荘は彼が趣味を楽しむために建てたものだったそうです。そこで猟銃自殺を図ったのです」

「それはそれは、何とも悲惨な最期ですね。それで、不自然な点というのは」

「まず、彼の両手首と両足首に縛られた痕跡があったこと。手首と足首に紐の痕が残っていたのです。しかし、肝心の紐は現場になかった」

「つまり、何者かが自殺に見せかけて美濃佐吉を殺した、と」

「お察しが早い、その通りです。次に、現場に残っていた血痕。美濃佐吉は別荘内の床に倒れていましたが、当時の捜査資料によれば即死ではなく、死に際に床を這い回っていたと思われる血痕が見つかっています」

「それが、なぜ不自然なのですか」

「死を心に決めた人間が、誰かに助けを求めるかのように床を這いずり回るなんて矛盾した行動をとるとは考えにくいからです」

「一度は死を覚悟したものの、急に怖くなって助けを呼ぼうとしたのかも」

「美濃佐吉は生前から、『自分が死ぬときはできるだけ周囲に迷惑をかけたくない』と口癖のように話していたそうです。彼が自らの死に場所に上港区の自宅ではなく別荘を選んだのは、そこなら他人が簡単に出入りしないと踏んだからです。そんな人が、いよいよ死ぬぞという直前に『やっぱり怖い』と心変わりするものでしょうか」

「さあ。私にはそんな経験がありませんから、美濃佐吉の心情は理解できかねます」

 戸惑いの声を出す大村に、時也は「それもそうですね」と小さく笑う。

「とまあ、そんなふうにいくつか気になる点はあったものの、現場には犯人を示す物証が何も残っていなかったこと、彼の周辺人物のアリバイが軒並み成立していたことから、佐吉の死は自殺として処理されました」

「不幸なお話ですね。この廃病院の裏にそのような悲劇が隠されていたとは」

「たしかに悲劇的な人生譚です。ただ、彼の死を単なる悲劇で終わらせなかった人物がいましてね――美濃佐吉の、実の息子です」

「佐吉さんは、三度の結婚をしていたというお話でしたね」

「ええ。ですが、実は彼にはもう一人、戸籍上に存在しない妻がいたのです」

 暗がりの中で、「えっ」という大村の声がする。

「戸籍上に存在しないとは、どういうことでしょう」

「美濃佐吉がまだ研修医として大学病院で勤務していた時代、彼はある女性と関係を持ち彼女は身籠った。ですが、佐吉は彼女に手切れ金だけを渡してあっさり関係を断ったのです。医者としての未来がいよいよ拓けるという大事な時期に、婚外関係の女を孕ませたとあっては彼のキャリアに瑕がつく。それを避けたかったのかもしれません」

「それはまた……身勝手な振る舞いだ」

「そう言われても仕方がないでしょうね。美濃佐吉の子をお腹に宿したまま、女性は地元である九州に里帰りし、やがて男の子を出産します。しかし間もなく女性は病死。男の子は母親の親戚宅に身を寄せました。そのまま高校時代まで九州で過ごした彼は、上京して都内の大学に通い始めます。彼が進学したのは薬学部。図らずとも、父である美濃佐吉と同じ医学の道でした」

「まるで、佐吉さんの人生をなぞるような行き方ですね」

「仰る通りです。しかも、偶然はそれだけではなかった。彼が薬剤師として勤務していたのは、美濃佐吉が経営する病院。そう、まさにここ、美濃総合病院だったのです」

 時也は演技臭い調子で声を張り上げる。建物の中に隠れ、二人の寸劇をこっそり鑑賞している客に聞かせるかのように。よく通るテノール声が一階フロアに反響した。

「お互いさぞ驚いたでしょう。思いがけない場所で、思いがけない形での再会……二人の間でどんな会話が交わされていたか、今となっては当人以外に知るところではありません。ですが、薬剤師となった青年はここで四年間勤務している。この期間に、一度は失った親子関係を取り戻そうとしていたのかもしれませんね」

 ところが、と時也は声を低める。

「青年が病院勤務を始めてから四年後。美濃佐吉は複数の政治家が関与した汚職事件に巻き込まれてしまった――常磐会闇献金事件。当時は大々的にニュースでも取り上げられていました。聞き及んだことは?」

「さあ。生憎と、世情には疎いもので」

 素っ気ない口調の大村に、時也は「そうでしょうか」と含みのある声で返す。

「常磐会闇献金事件が起きた年の冬、美濃佐吉は別荘で自殺を図った。その二年後の二〇一九年、あなたは薬剤師を退職して小林誠和不動産に入社していますね」

 光の筋が床をくるくると回った。大村が手にしていた懐中電灯を落としたのだ。

「急に、何を言い出すかと思えば」

 慌てて懐中電灯を拾い上げ、時也の顔を照らし出す。

「たしかに、私も県内の病院で薬剤師として勤めていた時期がありました。ですがあなたの物言いだと、まるで私が美濃佐吉の息子でここに勤務していたみたいではないですか」

「違いますか」

 至極真面目な口調で問う時也に、大村は「はっ」と笑いを漏らす。

「刑事さんのことだ、私の経歴はとっくにお調べになっているのでしょう。私が薬剤師として働いていたのは、県内の小さな個人病院ですよ。こんな大きな病院に勤めていたことなんて」

「あなたは小林誠和不動産に入社する際、経歴を一部詐称していますね」

 大村の話し声が途切れた。微かな呼吸音だけが時也の耳に届く。

「あなたが小林誠和不動産に営業マンとして入ったのは二〇一九年。実はその年、小林誠和不動産は社名を変更しているんですよ。前社の名前は、株式会社真野建設。美濃総合病院の建設を請け負っていた建築会社です」



「これでようやく繋がりましたね。あなたと小林誠和不動産、そして美濃病院。三つの点が一本の線になった」

 蒼然とした空間に、大村の荒い息遣いが聞こえる。時也は構わずに話を続けた。

「美濃佐吉が自死し、病院の経営が急激に傾きはじめていると察知したあなたはすぐに薬剤師を辞めた。そして闇献金事件が起きた翌年、美濃病院は倒産しました。あなたは実父の死に疑いを持ったでしょう。『親父は何か厄介事に巻き込まれたのではないか。それが引き金となって命を落としたのではないか』とね。

 独自に調べを進めていたあなたは、闇献金事件に当時の共産推進党議員だった堂珍仁、そして自公党の末永保彦が関与していた証拠を掴んだ。あるいは、美濃佐吉が事件の記録をこっそり残していてそれを読んだのかもしれない。たとえば、このノートとかね」

 時也は初めてペンライトのスイッチを入れて、手元を照らし出した。証拠品保管用袋に入っているのは、埃まみれになった茶色いノート。表紙には癖のある筆記体で〈S.Mino〉と記名されている。

「美濃佐吉が残したと思われる手記です。ここに事件のバックグラウンドが書き残されていました。常磐会の当時の理事長だった段田秋宗と、美濃総合病院の院長を勤めていた美濃佐吉。二人は院の経営方針を巡って犬猿の仲でした。段田は病院を金儲けの手段としか考えておらず、法外な手術費や入院費を患者から搾り取ろうとしていた。一方佐吉は、段田の経営は自らの企業理念に反するとして格安の費用で患者を受け入れていた。その頃、美濃佐吉と密かに接触を図った人物がいます。当時の共産推進党議員である堂珍仁です」

 大村は不愉快そうに舌打ちをした。堂珍の名前さえ耳に入れたくない、といった具合に。

「堂珍は美濃佐吉にこう持ち掛けます。『段田に一泡吹かせてやろう。あんたもあいつの好き勝手な言動には辟易しているだろう。あいつを懲らしめてやれば、あんたの理想の病院経営ができる』といった風に。そして、美濃佐吉はその誘いに乗りました」

 大村の反応はない。懐中電灯に照らされた足元だけが彼の存在を証明している。暗闇の中でも存在感を放つ鮮やかな色彩の革靴は、イタリアの高級ブランドが手掛けている逸品だ。

「常磐会は、自由公正党と共産推進党を支持する政治団体です。しかし中の支持派たちは二極化していて、両党ともに支持者を奪い合っているような状況だった。中でも段田秋宗は、自公党の熱狂的な信者でした。堂珍にとって、段田はまさに目の上のたん瘤……もうお判りですね。堂珍が美濃佐吉を共産推進党側に引きずり込んだのは、自公党の狂信者とも言える段田を消し去りたかったからです。そして、共産推進党で常磐会を乗っ取ろうとしていた。堂珍は、美濃病院のより良い経営云々などこれっぽちも考えていなかったのです。美濃佐吉は、堂珍の企みに利用された駒のひとつに過ぎなかった。

 因みに、自公党議員の末永保彦が共産推進党に寝返ったことも記されていましたよ。末永にとって大切だったのは、自身が所属する党でも常磐会の未来でもない。ただ、自分にとって不都合な状況を避けたかった、それだけです。当時、自公党が打ち出していた政策はどれも成果が出ず、支持率も低空飛行だった。末永は、自公党の行く末を察知して早々に見切りをつけたのです。そして、好条件を突き付けた共産推進党にくら替えした。徹底した利己主義者ですね。いっそ潔いくらいだ」

「要するに、佐吉は共産推進党に嵌められたわけですね……ところで刑事さん。あなたは先ほどから、私が美濃佐吉の実子であるという前提でお話しされているようですが、私が美濃佐吉と血の繋がった親子だという証拠はあるのですか」

「残念ながら、決定的な物証はありません。あなたの戸籍を調べさせてもらいましたが、母親は未婚であなたを出産しているために戸籍は母子の名前しか記載されていませんでした」

 それみろ、と言わんばかりに大村は闇の中でせせら笑う。

「ですが、あなたが過去に美濃病院で薬剤師として勤めていたことは動かぬ事実です。詳細は企業秘密で勘弁願いますが、この捜査に間違いはない」

「まるで負け犬の遠吠えですね――いいでしょう。では、仮に私が美濃佐吉の実の息子だとしましょう。佐吉が闇献金に関わって命を落としたことも、私が経歴を偽って小林誠和不動産に入社したことも事実だとします。ですが、それがどうしたというのですか。小林誠和不動産の入社時に勤務歴を詐称したのは、曰くつきの病院に勤めていたとなれば採用のネックになると懸念したからです。かといって、大学卒業後に五年の空白があっても印象は良くない。だから、美濃病院とは別の個人経営のところで働いていたと嘘をついたのです。刑事さん、経歴詐称で私を逮捕しますか」

 一息で言い切った大村に、時也は「いえ」と短く返す。

「あなたの経歴がどれだけ嘘で重ねられていようと、我々は必ず暴きます。ですが、それはあくまで捜査の過程として行うだけであって本音を言えばどうでもいい。私たちの捜査の肝心は、が悪さを起こさないか、監視することにあります」

「はて、一体何のことやら」

 わざとらしい声色でとぼける大村に、時也は闇の中から一歩詰め寄る。

「申し遅れましたが、我々は警察の中でも公安課という部署に属する捜査官です。国の治安維持を司どり、テロや犯罪に手を染めんとする輩を厳しく取り締まる――あなたたちのような組織をね」

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