第10話 提報者


 もくれんで夕食を済ませた時也は、あらかじめ借りていたレンタカーで小林誠和不動産本店へ向かった。日曜日の本通り、車の往来は平日ほど多くない。空いた道路をすいすいと進み、十分ほどで目的地に到着した。

 表口にはチェーンがかかっているため、裏口側の駐車場に車を滑り込ませる。関係者専用の扉が見える位置に停車し、スマートフォンからアプリ〈SVC〉を呼び出した。

 正式名称〈Secret Voice Catcher〉は、警察官のみが使用することを目的に極秘製作された通信アプリである。超小型のボイスレコーダーとアプリを無線で接続し、録音データをアプリ上で管理できる優れものだ。録音された音声は五時間ごとに自動保存され、無声になると録音が停止され容量の消費を最小限に留めてくれる。何より、録音内容をアプリから同時再生できる機能によって鮮度の高い情報をリアルタイムで収集できるメリットがあるのだ。内海と七階の営業課を訪ねた際、社員用デスクの裏側にこのボイスレコーダーをこっそり仕掛けていたのである。

 時也は右耳にイヤホンを装着し、営業課の部屋に設置したボイスレコーダーとアプリをリンクさせる。まず耳に飛び込んできたのは、社員らしき二人の男の会話だ。

『――昼間に大村課長が話していたのって、警察の人間だろ』

『友枝さんの事件っすよね。殺人事件って噂、ホントだったんすか』

『みたいだな。よりにもよってどうして友枝が』

『でも、わからないっすよ。友枝さんみたいに一見善良な人が、裏では案外色々とやらかしていたりして』

『お前なあ、昔世話になった先輩をそんなふうに言うか』

『でも、ああいう人に限っていくつも仮面を被っていたりするんすよ』

『仮面か……俺はもう仮面をつけて生きてくのは御免だね』

『そういえば先輩、もうやってないんすか』

『完全に足を洗ったよ。ギャンブルはもう懲りた。金輪際、店にも近づかないさ』

『でも最近、西神名河に新しく店ができたって聞きましたよ。実は俺、店の前をちょっとだけ通ってみたんすけど、すげえ美女が客引きやってて』

『お前、一応親切心で忠告するけど絶対入るんじゃねえぞ。ギャンブルってのは、一度沼に落ちたら簡単には抜け出せないんだからな』

『わかってるっすよ――先輩、残りの仕事をさっさと片づけて飲みに行きませんか』

『悪い、今日はパス。真っ直ぐ帰るって言ってるから』

『あ、奥さんっすか』

『一度裏切ってしまったからな。信頼を取り戻せなきゃ問答無用で捨てられる』

『不倫も賭け事も、無縁にこしたことはないっすね』

『その通りだ。さ、早く終わらせようぜ』

 以降は会話もなく、キーボードを打つ音だけが淡々と続く。音から推測する限り、大村は営業課の部屋にはいないようだ。廊下の植木鉢にもレコーダーを取り付けているが、そちらも大村の声どころか人の足音さえ拾わない。

 アプリを起動させたまましばらく昇降口を注視していると、社員証をぶら下げた男二人が出てきた。一人は背が高く、スポーツ刈りの頭にジャケット姿の男。もう一人は、中肉中背で眼鏡をかけたパーマ頭の男。二人はそれぞれ別の車に乗り込むと、一台は駐車場を出て右に、もう一台は左に曲がった。時也はレンタカーを発進させ、左に曲がった軽乗用車の追跡を開始する。

 ターゲットは西神名河の交差点を右折して以降、通りをひたすら直進する。三、四分ほど追尾していると、やがて四つ角にあるパチンコ店の一階駐車場へと入っていった。時也は道路を挟んで向かいのDVDレンタル店に車を停めて、ターゲットの動向を観察する。

 片側二車線。近くには薬局や居酒屋、不動産店などが立ち並ぶ中でその店は異様な存在感を放っていた。レンガ調の建物は黄色にライトアップされ、洒落た煙突が夜空に伸びている。もちろんそこから煙は出ていないが、表に〈PACHINCO MERCURY〉の看板が出ていなかったら一目でパチンコ店とは判別できない店構えだ。インターネットで検索すると〈パチンコ&スロットMERCURY 西神名河店〉の結果が表示された。西神名河に新しくできたパチンコ店とはここで間違いない。

 軽自動車からターゲットが下りた。パーカーのポケットに両手をつっこみ軽やかな足取りで店に向かうが、自動ドアの前まで来たところで不意に立ち止まる。頭を左右に振る不自然な動きは、入店を躊躇っているようだ。結局、ドアの前で二分ほど立ち尽くしてからすごすごと駐車場へ引き返し始めた。

 仕事用の黒スーツからラフなジャケットに着替えた時也は、道路を渡ると俯き加減で歩くパーマ頭に近づき「すみません」と声をかける。

「あの……今、この店に入ろうとしていましたよね」

 パーマ頭はポケットから両手を出し、身構えるような姿勢を取った。

「何すか、あんた」

「いや、僕も今から入ろうかと思っていたんですけど、貴方が引き返していたからもう店閉まったのかなって」

「ああ、なんだ。別に閉まっちゃいないよ、閉店は十時三十分だってさ」

「じゃあ、どうして入らないんですか」

「何でもいいだろ。ちょっと気が変わったんだよ」

「ここ、最近オープンしたばかりですよね。派手な外観だなって気になってたんですよ。まだ打ってないんですか」

「入店したことすらないよ。そんなに気になるなら自分で試せばいいだろ。まだ二時間以上時間あるし、客にとっちゃ今からが粘り時だ」

「たしかに、勝負はまだまだこれからですね。最後の一瞬まで粘ってこそ真のギャンブラーだ」

 腕時計を覗き込むふりをしながら、さりげなく周囲に目を向ける。駐車場にはそれなりの数の車が停まっていて、客が不意のタイミングで店から出てくるかもしれない。通りはまだ車が行き交い、下手をすれば所轄の地域課が夜間警邏している可能性もある。立ち話をするには少々人目が気になる位置だ。

「あの、良ければご一緒にどうですか」

 ハンドルを捻る仕草ではなく、グラスを呷るように手を傾けた。パーマ頭はしかめつらしい顔で時也を見ながら、

「なんで俺があんたと飲み行かなくちゃならないんだよ。つい数分前に会ったばかりでしかも初対面だぞ」

「つれないこと言わないでくださいよ。実はここのところ負け続きで参っちゃって……いえ、別に奢ってほしいって言うわけじゃないんです。ただ、同じように打つ人なら共感してくれるかなと思いまして。あ、ついでに勝つためのコツとかあれば教えていただきたいなあ、なんて」

 普段の時也を知る人間なら、今の砕けた話し方を聞くとさぞ驚くだろう。だが、対象者ターゲットによって口調や声色、仕草、見た目の雰囲気、性格さえも自在に操る――公安警察に身を置く者なら自然と身に付く技術だ。あの手この手で対象者に近づき、心を開かせ籠絡する。

「まったく……おかしな奴だな。なあ、いつもそんな風に初対面の人と引っかけるの?」

「そうでもないですよ。でも、そうやって親しくなったパチンコ仲間はまあ多いですね」

 時也自身はパチンコや競馬などのギャンブルとは無縁だ。だが仕事柄そうした界隈の知識は広く浅く吸収していたし、ある事件で獲得したスジと雀荘へ通い詰めしていた時期もある。たとえ興味関心がなくとも、必要とあらばどんな知識でも経験でも自分の中に取り込みものにする。公安の人間に多趣味な者が多いのも、少なからず仕事が影響しているのだ。

 パーマ頭改め杉山慧佑と名乗った男は、MERCURYから目と鼻の先にある居酒屋なら近いし安いぞ、と提案した。言葉通り、短い横断歩道を渡ってすぐの場所にある〈居酒屋Q兵衛〉へ入店する。店主は胡麻塩頭にバンダナを巻きがっちりした体躯が目立つ男で、「実は引退した元レスラーって噂っすよ」と杉山が耳打ちした。だが、店主の様子をしばらく見ていた時也は彼がビールを運んできたタイミングでつい訊ねる。

「オヤジさん、もしかして土工の人?」

 時也を見下ろす目には、鋭くもどこか柔らかな光が宿っている。バンダナを外し胡麻塩頭を搔きながら、

「どうして判った、兄ちゃん」

「そのバンダナ、土工の人特有の日焼け痕を隠すためではないですか。顔から首まで浅黒く焼けているのに顎周りだけ細く白い痕が残っているのは、ヘルメットを着けていたから。日焼け痕が残るほど長時間ヘルメットを装着する仕事といえば、まず土工が思いつきますから」

「よく見てるな、兄ちゃん。これでも女房の化粧品で隠していたつもりなんだが」

 精悍な顔に恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。杉山は厨房に戻る店主の背中と時也を交互に見ながら、

「あんた、よくわかったな。あの人が土工だなんて」

「下からだと日焼け痕が目立って見えますからね……それより杉山さん。気になっていることがあるのですが」

「な、何だよ急に」

 突如声のトーンを落とした時也に、たじろぐ杉山。

「実は、前にMERCURYの前を通ったとき店の入り口付近にとんでもない美女が立っているのを見たんです。あまりに目立っていたんで最初は客引きかと思ったのですが、たしかパチンコ店や繁華街では客引きは禁止されているはずですよね。杉山さん、何かご存じではないかなって」

 小林誠和で杉山が同僚に話していたことを、そのまま借用する。パーマ頭はテーブル越しに大きく身を乗り出すと、

「やっぱりあんたも見たんだな。実は、俺も同じことを思ってたんだよ……ここだけの話だけどさ、いやほんとにここだけの秘密にしてくれよ」

 警戒するように店内を見回すが、杉山と時也以外に客はいないし胡麻塩頭の店主は厨房で派手な音を響かせながら調理の真っ最中だ。

「あの店、表向きはパチンコ経営しながら裏で風俗をやってるらしいんだ」

「それはそれは、聞き捨てならない話ですね」

 いかにも驚いたふうに息を呑み、話の続きを促す。杉山はずれ落ちかけた眼鏡もそのままに、

「売春斡旋、ってやつかな。店の中で綺麗な女の人を待機させて、太っ腹な客に目をつけたスタッフが店の奥にこっそり誘導する。太っ腹というのは、要するに何時間も台にへばりついているような客のことで、散々貢いで負けた後に『せめて綺麗な女性で癒されませんか』って声をかけるんだと。パチンコで負けても美女が相手をしてくれて勝っても負けてもいい気分ってやつさ。そこでさらに金を出させて、店の常連にさせるんだ」

「では、僕や杉山さんが見かけた美女も?」

「一瞬はそう考えたんだけど……どうだろうな。あくまで会社の先輩から聞きかじった噂だし、無責任なことも言えないからな」

「その会社の先輩はMERCURYの常連なのですか」

「いや。いろんな店をはしごしているギャンブラーだけどMERCURYに行ったことはないらしい。その先輩も、社内の誰かに教えてもらったって言っていたな」

「誰か、というのは」

「さあ。よく憶えてないけど、きっと社内に発信源がいてそこから噂が広がったんだよ。うちの会社、意外とギャンブルやってる人多いから」

「そういえば、杉山さんはどのような仕事を?」

「不動産会社の営業さ。何だよ、そんな驚いた顔をして……ああ、これは会社で着替えているからだよ。社内ではちゃんとスーツ着て真面目に働いているんだぜ、こう見えても。そういうあんたこそ何やってる人なの」

 赤フレームの眼鏡越しに訝しげな視線を向けられる。

「しがない公務員ですよ。毎日書類の山や困っている市民と向き合う仕事です」

 勤め先を訊ねられた際の常套句だ。言葉足らずを嘘とは言わない。

「ふうん。お役所仕事も大変だよな。んじゃまあ、今日も互いにお疲れ様ということで」

 ビールジョッキを持ち上げる杉山に、「乾杯」と微笑みかける。既に時也の頭の中では、パーマ頭を情報提供者にする算段がまとまりつつあった。

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