第2話 端緒


 両目を薄く開くと、カーテンの隙間から細い光の筋が差し込んでいた。窓の外では、鳥たちが軽快なメロディで朝の到来を告げている。

 薄闇の中、新宮時也は意識が覚醒するのを待った。ベッドからゆっくり上半身を起こし、軽く伸びをする。壁かけ時計は短針が八、長針が十二を指していた。ベッドの横にある木製ラックから革張りの手帳を取り、ページを捲る。今日は四月十三日、日曜日。仕事はオフだ。

「日曜日に休みか。何だか気持ち悪いな」

 ラックに置いている眼鏡を手にとり、ベッドから抜け出した。洗面所で顔を洗ってから集合ポストの朝刊を回収する。仕事の有無に関わらず、朝食を摂りながら新聞をチェックするのは大事な習慣の一つだ。

 リビングに戻り、冷蔵庫の中身をざっと確認してから「ハムとたまごのサンドウィッチだ」とメニューを決める。慣れた手つきで支度にかかり、十分ほどでサンドウィッチとコーヒーが食卓に並んだ。淹れたてのコーヒーから立ち上る香りと新聞紙の独特の匂い。一日の中で心落ち着く数少ないひと時だ。

 だが、はそんなささやかな至福さえ許してはくれない。不意に鳴り響いた開幕ベルのような音は、仕事先からの着信を意味していた。

「新宮です……新聞ですか。はい、今手元に」

 左耳と肩でスマホを挟んで新聞を開き、次々と紙面を流し読みする。速読の技術は仕事をはじめてから身につけた。出鱈目に読んでいるように見えても、読後にはすべての記事の概要を正確に諳んじることができる。

 忙しく動いていた時也の手が、あるページでぴたりと止まる。着目したのは、紙面の隅に載っている小さな事件記事だ。

「はい……はい、わかりました。いいえ、俺は根っからの仕事人間ですから。今は仕事が恋人のようなものです」

 冗談交じりで通話を終えてから、サンドウィッチをものの数分で平らげる。身支度を済ませ、起床から三十分後には辻馬車通りのマンションを出て日曜日の大通りを悠々と闊歩していた。

 時也の職場――K県警察本部はK県立浜市湾岸区湾岸通りにある。埠頭のすぐそばに聳える地上十九階の高層ビル。時也が所属するのは、十四階の一角を占める警備部公安課だ。

 受付の女性に社員証代わりの警察手帳を見せ、階段で十四階まで一気に駆け上がる。緊急事態を除いて、時也は庁舎内の移動にエレベーターは原則使わない。たとえ地下から屋上まで上る必要があるときも、だ。彼の狂気的なこだわりを知る人間は「正気の沙汰じゃない」と口々に言うが、この習慣のおかげで時也の脚力と持久力は本部内でも折り紙付きである。

「不動産会社の社員が殺された事件を、どうしてうちが持つことに?」

 仕事場に足を踏み入れると同時に、聞き慣れた声が耳に届く。部屋の奥に視線を遣ると、もじゃもじゃ頭を掻く男の姿。壁を隔てても通り抜ける声量と天然パーマの頭、百八十五センチの身長のおかげでどこにいても目立つのだ。

「我々一課に話が来たということは、案件なのかもしれませんね」

 大声の男とは別の柔和な声。銀縁眼鏡をかけた、やや猫背の男の姿も認められる。その彼が再び何か言いかけたとき、時也と視線が交錯した。

「新宮部長。おはようございます」

「お前も災難だなあ。せっかくの貴重な休みが潰れちまって」

 パーマ頭がへらへら笑いながら片手を挙げる。二人の同僚に軽く頭を下げてから「補佐は?」と周囲を見渡した。

「警備部長さまにお呼ばれだよ。今しがた俺らが話題にしている件について、な。わざわざお前を休日出勤にして呼び出したってことは、めんどくせえ事件になるかもってことか」

「落合部長。俺が担当すると厄介事になるみたいな言い方、止めてください」

 ビシリと言い返すと、落合寛治巡査部長は「すんません」と首を竦めた。そこへ眼鏡の人物――田端光留警部補が遠慮がちに口を挟む。

「でも、難儀な案件になることは当たらずとも遠からずかもしれませんよ。小耳に挟んだところによると、マル害が勤めていた不動産会社はどうも政治家との繋がりが強いとか」

「たしか、六井不動産のグループ企業でしたよね。朝刊にも小さく記事が出ていました」

 六井不動産株式会社は、日本を代表する大手不動産デベロッパーだ。かつて日本の三大財閥と言われていた六井グループに属し、戦後の不動産業界では売上トップの座に君臨し続けている。

「小林誠和不動産。主にマンションや高層ビルの建設を請け負い、この数年は関東を中心に高級住宅ビルを次々と手がけている会社です」

「テレビのコマーシャルで見たことあるぜ。〈あなたの帰る場所がいつでも楽園であるために〉。大仰なキャッチコピーだ」

 などと仕事前の雑談で盛り上がる三人のもとへ、かっちりとした黒スーツの男が姿を現す。

「全員来ているか――内海がいないな。田端、すぐ呼んできてくれ。五分後に捜査会議だ」

 ビシリと固めたオールバックヘアに、外国人を連想させる彫りの深い目元。意志の強さと口の堅さを象徴するような、真一文字に結んだ形の良い唇。K県警警備部公安第一課の東海林基春警部だ。相手を射竦めるような目つきから〈睨みのショウジ〉の異名を取る。上背も高く迫力ある見た目だが、時也と視線が合うと僅かに目を細めて、

「悪いな、せっかくの休みに呼び出して」

 部下への細やかな気遣いを忘れない。上司らしい配慮ができるこの男を、時也は尊敬しまた絶大な信頼を寄せていた。



 捜査会議は一秒の遅れもなく、午前九時きっかりにスタートした。

「マル害は友枝雅樹、三十九歳男性。一九九三年五月十二日生まれ。小林誠和不動産の営業第二課の社員。居住地は立浜市K区潮辺町二丁目五の二。家族構成は妻の百合と小学生の女児が一人――」

 被害者の人定を淡々と述べる東海林警部の左隣では、縁なし眼鏡をかけ狐のように吊り上がった目の男が捜査員たちを見渡している。K県警警備部公安第一課長の速水久士警視だ。若干四十歳にして、警備部部長へ昇進とも本庁栄転とも囁かれるやり手である。

「マル害は四月九日水曜日の十九時四十五分、携帯電話で自宅にいる妻の百合に『仕事が終わった。外で食べて帰る』と連絡。以降、マル害からの連絡は途絶えたが、百合によれば仕事の接待で深夜の帰宅も珍しくなかったため特に気に留めず娘と就寝した。

 だが、翌日の朝になってもマル害は帰っておらず、百合は娘の登校を見送ってから小林誠和に電話。マル害は出勤していないと伝えられ、九時四十分、県警に通報し友枝雅樹の捜索願が出された。

 二日後の十二日土曜日、明朝五時頃。朝の散歩をしていた住民がK区東尾寺町一丁目の河川敷に遺棄された旅行用スーツケースを発見。不審に思い警察に通報し、本部の通信指令センターに接続されたのが五時十一分。その後、最寄りの交番よりPM一名が急行しケースの中身を検めたところ、手足をロープで縛られた男性が詰め込まれているのを確認。遺留品の中に免許証やクレジットカードが入った財布が残されていたことに加え、男性の身なりがマル害行方不明時と同じであったため発見から早い段階で身元が特定された。なお、財布の中の現金やカード類に手はつけられていない一方で、携帯電話は見つかっていない。次に検視結果だが――」

 資料を捲り目に飛び込んだのは、上半身裸の男の写真。生白い首に二重の索条痕が走っている。顔面には複数の痣、口角には血痕も見られた。

「マル害の遺体には腹部や背中に多数の打撲痕、両手両足首には緊縛痕、さらに顔にも殴られたような痣があり歯も一本折れていたそうだが、直接の死因は頸部圧迫による窒息死。首には索状物の跡がくっきりと残っており、抵抗したと思われる吉川線も認められた。索条痕の残り方から、犯人はマル害の背後より紐で頸部を締め上げたものと思われる。舌骨が折れていたところを見るに相当の力が加わっていたようだ」

 ショウジ班の紅一点・内海明日夏巡査長が左隣から時也に耳打ちする。

「人間の舌にも骨ってあるんですか」

「顎と首の境目あたりにあるんだ。男でいえば、喉仏の上あたりだな。相当強い力がかからない限り骨折しないらしいが」

 言いながら、自らの首を指で示す。

「じゃあ、犯人は怪力の男とか」

「女性が複数人で犯行に及ぶこともあるだろう。それに女一人であっても、てこの原理を利用すればより強い力を加えることは可能だ」

 内海は唇を尖らせ、前方に向き直る。東海林警部の話は凶器の特定に移っていた。

「推察される凶器は径十ミリほどのナイロン製の紐。死亡推定時刻は十日の零時から四時の間。遺体からは、マル害以外の毛髪や皮膚片など犯人につながる痕跡は発見されていないとのこと。以上が検視報告だ。続いて、本件がうちに持ち込まれた経緯だが――」

 にわかに険しさを増した顔が、捜査員たちに向けられる。

「今回の被害者である友枝雅樹は、公安一課うちのスジだ」

 室内が瞬時ざわめいた。予想外の展開に、さしものエリートたちも動揺を隠せない様子だ。だが、東海林警部の「静かに!」という一喝で室内は水を打ったように静まり返った。

「友枝雅樹は五年前から一課のスジとして動いていた。彼から得た情報をもとに、ある新組織のアジトに潜入し壊滅に追いやったこともある。非常に重宝していたスジの一人だ。今回の件では、三年前から小林誠和を出入りする政治家や新組織関係者の情報を流してもらっていた。その政治家の中には、元共産推進党議員で現県議会議員の堂珍仁もいる」

 堂珍仁という名が挙がった途端、捜査員たちは意味ありげに目配せを交わす。彼の悪名は市井にも広く知れ渡っているが、警備部が掴んでいるのはさらに機密性の高い事実である。

「堂珍は五年前に議員を辞したが、その原因は東凰会を集票組織として利用したからとされている。だが決定的な証拠はなく逮捕に至らなかった」

 東凰会はK県に本部を置く指定暴力団で、最近では周囲の都県まで活動範囲を広げている。銃撃戦や麻薬絡みの事件で摘発回数も増え、県警だけではなく警視庁も目を光らせている要注意集団だ。

 堂珍は過去の選挙で、自身の票数を増やすために東凰会の組員を選挙に行かせた疑いをかけられていた。だが、特捜部も動き捜査に八方手を尽くしたにもかかわらず、不正を匂わせるデータや現金などの物的証拠も、関係者からの有力な証言も乏しく逮捕に踏み切ることができなかったのだ。

「友枝雅樹は、三年前から小林誠和不動産と共産推進党の関連性を調べていた。その結果、小林誠和不動産の関連企業の中に共産推進党の支持基盤である会社が存在することが判明。さらに、その関連企業の中には東凰会のフロント企業が含まれていることまで報告に上がっていた。本件は、友枝が公安のスジだと知った何者かが彼から情報を引き出そうと拷問にかけた上で殺害した、との見立てが濃厚だ」

 つまり、友枝は小林誠和不動産に関連する何らかの重大な情報を握っていて、そのことを知った犯人が友枝を抹殺。ついでに彼が把握していた情報もろとも握り潰した――というのが上層部による見解のようだ。

「あのー、すんません」

 時也の背後で落合が椅子を鳴らした。捜査員たちの視線が、パーマ頭の熟練巡査部長に集中する。

「今の話から察するに、友枝雅樹殺害には元共産推進党の堂珍が絡んでいる――という見方もあるようですが、堂珍が小林誠和不動産を頻繁に出入りしていたというだけで彼が事件に関与していると決め込むのは早計ではないでしょうか」

「人の話は最後まで聞くものだよ、落合寛治部長」

 速水一課長が椅子から立ち上がった途端、会議室内の空気が張りつめた。課長自ら会議に口を挟むことがどれほど異例か、捜査員たちはよく判っているのだ。普段は管理職に向かって平然と減らず口を叩く落合も、このときばかりは黙って着座し話の続きを待つ。

「昨日の夕方、正確には十六時二十三分、立浜水前署の出入り口に不審物が置かれているのを住民が見つけ届けてくれた。不審物は差出人も宛先も書いていない茶封筒。水前署職員が中身を検めたところ、このDVDが一枚だけ入っていた」

 テーブルの上からディスク入りのケースを手に取る速水一課長。それを受け取った東海林警部が、事前にセッティングしていた三脚式のプロジェクタースクリーンにDVDをセットした。照明スイッチや窓辺付近にいた捜査員が素早く動き、瞬く間に部屋が暗くなる。

 会議室正面のスクリーンに映像が映し出された。最初に現れたのは、高層ビルの入り口を撮影した場面だ。自動ドアの上部に〈小林誠和不動産本店〉の文字が堂々と掲げられている――と、そこへ二人組の男が姿を見せた。カメラは二人の人物にピントを合わせ、映像が次第にズームインされる。サングラスをかけた黒いスーツ姿の痩身の男とグレーのスーツに身を包んだ恰幅のいい男がアップで映った瞬間、再び会議室内にどよめきが起きた。

「君たちには説明するまでもなかろうが、左の黒スーツの男は現東凰会若頭の中陣豊。右のグレーのスーツの男は元共産推進党議員の堂珍仁だ。このDVDには、二人が小林誠和本店を出入りする映像が複数回にわけて記録されていた」

 一時停止された映像の中で、浅黒い肌と鼻下に蓄えた髭、スキンヘッドの頭という特徴的な風貌の男が金縛りにあったかのように動きを止めている。左隣に並んだ黒スーツの若頭以上にヤクザらしい外見だ。

「堂珍は映像を撮られていることに全く気付いていない様子であることから、おそらく盗撮だと予想される。もしこれが自作自演や偽装されたものでないのなら、堂珍仁と小林誠和不動産とのつながりを示唆する重要なブツになる」

 薄暗い会議室の中で、速水はテーブルに両手をついて捜査員一同を睥睨する。

「公安のスジが殺された。しかも、事件への関与が疑われる元国会議員はマルBや新組織との癒着も囁かれている。我々公安にとってこれほど不名誉なことはない。汚名返上には、ホシを挙げるのみ。そのホシが単独ではなく組織的に関係していたとすれば、組織ごと潰すのみだ」

 レンズ越しの冷静沈着な瞳に、微かだが対抗心の炎が燃え盛っているのを時也は見た。

「本件は、刑事部が不動産社員殺害事件として既に捜査本部を立てた。それから、東凰会の関与も疑われるため組対部の連中も動き出している。だが、奴らに手柄を明け渡すつもりは毛頭ない。一同心してかかってほしい」

 捜査員たちの寸分狂わない返事に満足気な笑みを浮かべた速水は、東海林警部に「それじゃ、あとはよろしく頼む」と一言残し席を立つ。それから各班で作業内容が分担され、会議はお開きとなった。捜査員たちがぞろぞろと部屋から吐き出され、東海林警部率いる五人のメンバーだけがだだっ広い空間に取り残される。

「ほら、やっぱりめんどくせえ方向に進んでいやがる」

 パーマ頭が開口一番に言い放つ。「まさかスジがられるとはな。しかも、元共産推進党の議員に東凰会まで絡んでいやがる」

「ですが、腑に落ちませんね」

 銀縁眼鏡の田端警部補が、難しい顔で腕組みをする。

「何がだよ田端」

「速水一課長が話していたDVDのことですよ。たしかにあれだけを見れば、堂珍が友枝殺しに関与しているという告発、と受け取ることもできます。けれど、あまりにタイミングが良すぎると思いませんか」

「同感です」と内海も首肯する。「真犯人が堂珍に友枝殺しの濡れ衣を着せるため用意したトラップとも考えられます。あるいは警察に対する挑戦でしょうか」

「上等じゃねえか。何者か知らねえがサツに喧嘩売るとはいい度胸だ」

 チームのボスが苦笑を浮かべながら「落ち着けお前たち」と諫める。

「たしかに、あのDVDだけを根拠に堂珍と友枝殺しを関連づけるのは時期尚早だ。だが、封筒を置いた人物は無意味にそんな行動を取ったわけでもあるまい。あれが罠にしろそうでないにしろ、調べる価値はある。いや、手元に材料がほとんどない今はあのDVDがほとんど唯一の手がかりであることは間違いなかろう」

「いずれにせよ、まともな犯人じゃないってことだけは確かなようだな」

 拳をパキリと鳴らしながら、落合が不敵な笑みを見せる。東海林警部は四人をぐるりと見渡しながら、

「新宮と内海は小林誠和不動産で友枝雅樹の鑑取り。田端はDVDの画像解析および封筒の鑑定、それから水前署周辺の地取りだな。落合は渦中の人物、堂珍仁の事務所へ行きできれば堂珍本人から話を聞いてきてくれ」

 リョウカイ、と声を揃えた班員にボスは短く釘を刺す。

「いいか、今はまだ敵を出し抜く状況じゃない。油断して足元を掬われないようにしろ」

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