第6話
夜、柔らかなふかふかのベッドの上でぐるんと前転をしてみる。あまりにふかふか過ぎてついた手も触れた背中もお尻もすべてが心もとない。
今度は後転してみる。よっこいしょ。やっぱりふかふか過ぎて怖い。もうやめとこう。ふわふわベッドは遊ぶには不向きね。
初日から情報が多かった。
ぼんやりと部屋の本棚に視線を向ける。並んでいる本の大半の背表紙が読めなくて頭が一瞬で痛くなった。
今度は窓に目を向ける。満月に近い夜だった。
孤児院の時は疲れ果ててすぐ眠ってあっという間に朝が来た。昨日も怒涛のように過ぎてこんな風に月を見たのは久しぶり。
窓のそばまで行って月に話しかける。
「ここにいたら、ワガママなご令嬢になりかわらなきゃいけないみたい。多分、一生」
もちろん、明るすぎる月からは返事などない。
「ご飯はいっぱい出してもらえるし、綺麗な服も着せてもらえる。孤児院よりはいいよね」
口にしてから自分に言い聞かせているようだと苦笑する。
ここはエルンスト侯爵家の領地のお屋敷らしく、プリシラは階段から落ちて怪我をして記憶が混濁したからここで療養しているという設定だ。療養中に私を貴族のお嬢様に仕立て上げるのだ。
「孤児院にいた時、私は私だった。名前はなくっても孤児院の3番。みんなのおねーちゃん」
名前はなくても3番。小さい子のパンのカビた部分をとってあげて、他の子がミスしたら庇って。でもこのままここに居続けるということは私は誰でもなく、プリシラの代用品となる。私という取るに足らないちっぽけな存在でもどんどんこの世界から消えていく気がする。
「逃げちゃおうか」
二階の部屋から下を覗き込む。脱出できないことはない高さ。シーツとカーテンを結べばいけるだろう。このお城みたいに広いお屋敷は私の姿をあまり見られないようにするために使用人の数も大変少ないようだ。
「でも、逃げてどうするんだろ。文字は読めない。手に職なんてない。すぐ死んじゃいそう。変な人に捕まって娼館に売り飛ばされるかも」
ぼーっと月を眺めた。
「私って生きてる意味あるのかな。あ、間違えた。生まれてきた意味、あるのかな」
誰も応えてくれることはなかった。
翌朝、朝ごはんの品数は減っていた。お腹を壊したせいだろうか。
昨日よりゆっくり食べて、パンもちゃんと一口にちぎって食べた。フォークの持ち方は癖になっていてまだ直らない。
「お勉強も始めていかないといけないわ。あなた、文字はどのくらい書ける?」
昨日途中からいなくなった夫人が優しく聞いてくる。あなたという呼びかけがくすぐったい。葉巻臭い侯爵は王都という都会のお家に帰ったらしい。お家って何個もあるものなの?
綺麗な紙を目の前に用意された。ペンとインク壺も。
左手でペンを取って、おそるおそる紙に知っている字を書く。孤児院で文字を書く機会は少なかった。頑張って文字を覚えてみんなに絵本を読んであげるくらいのことはしていたけど。
たどたどしく文字を書いていると、急に夫人の手が伸びて来てパシンと左手を叩かれた。
「あっ!」
決して強い力ではない。孤児院の職員に比べて全く痛くはなかったが、優しいと思っていた夫人からの突然の暴力に驚いた。
しかも、夫人の手がインク壺に当たってインクがこぼれる。私の小さな悲鳴を無視して夫人は左手からペンを奪い取った。
「プリシラは右利きよ。左利きじゃない」
「え……」
夫人は無表情で右手にペンを押し付けてくるので困惑する。
「プリシラ? どうしたの? 早く右手で書きなさい」
「あ……」
うまく空気が吸えない。どうしよう、目が。夫人の目が怖い。手がうまく動かせないでいると、夫人が無理矢理右手にペンを握らせてくる。
「いいから早く書きなさい!」
「っ!!」
右手とペンを握りこまれて無理矢理紙に文字を書かされる。ミミズののたくったような字になった。五文字ほど書かされたところで夫人はハッとした表情になった。
「あ……ごめんなさい。プリシラ」
右手とペンを押さえつけていた夫人の手の力が緩んでペンがコロンと机に転がった。
「あなたがいつもみたいに右手で書かないから。驚いたの」
急に夫人は私を抱きしめてくる。震える夫人に抱きしめられながら心は冷えていた。
この人、娘の死を受け入れられないのね。それで私を何とかプリシラの代わりにしようとしてる。侯爵はお金のため、この人は自分のため。
かわいそうな夫人とプリシラ。私も自分の人生結構可哀想だと思うけど、十三歳でポックリ死んじゃうならプリシラは何のために生まれてきたんだろう。可哀想。十三歳でこんな暮らしを送れたらさぞ楽しかっただろうに。
こんな訳の分からない孤児に自分の名前と居場所を奪われるのか。
倒れたインク壺から垂れたインクは紙にじわじわべったりと滲んでいた。
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