第4話
「我がエルンスト侯爵家には借金がある」
目の前の髭面の偉そうな男性はエルンスト侯爵だそうだ。私をここまで連れてきたのがエルンスト侯爵夫人。
こんなに立派なおうちに住んでいるのに借金? お金ないってこと? さっきは暗くてよく見えなかったがボロボロのお城なんだろうか。
「だから、プリシラの婚約及び結婚は援助の継続のために必須。お前はプリシラ・エルンストとしてなんとしてでもフォルセット公爵家の息子と結婚してもらう」
立ち込める葉巻の臭い。フォルセット? コルセット? 変な名前。
「お前を孤児院から引き取るのにも金がかかった。うまくやれ。失敗したら、分かっているだろうな? 孤児だった小娘一人殺すことなど造作もない」
うんともすんとも言うことができず、服を握りしめて私は突っ立ったままだった。
良かった、ほんの少ししかこれからに期待しなくて。上がって落とされるならあまり高いところからじゃない方がいい。あんまり期待するととても痛い。絶望なんてもう慣れた。
結局、私はまた大人に支配される。自由にはなれないし、愛されない。ここでも孤児院と同じだ。
娼婦の娘が貴族のご令嬢になりかわるんだって。お金のために。何の冗談? 笑える。
あの肖像画の中のプリシラと私は本当にそっくりだ。私はやせぎすでボロを着ているけれど、違いはそのくらいしかない。銀色の髪も顔立ちもグリーンの目も同じ。
使用人らしき制服を着た女性が入って来て私を連れ出した。貴族が孤児院に来た時によく見たことがある。大人しくついていく。
お風呂というものに入れられて、やたら手触りの良い服に着替えさせられる。
あんなにお湯がたくさん溜めてあるところを初めて見た。でも、そのお風呂に入ると熱くてとても疲れた。
そして着せられたこの服。ツルツルだ。え、シルク? なにこれ、すごい。全くゴワゴワしない。
寝巻きというものにびっくりしていると、今度はふかふかのベッドに入れられた。雲の上で寝るとこんな感じではないだろうか。硬い床や薄い布の上で寝る感触と全然違う。隙間風も入ってこないからあったかい。あまりにふかふかでサラサラなので、何度も何度も手足で擦って感触を確認する。
「すごい」
初めてだらけの感触に感嘆しているうちに眠ってしまった。
図太く、よく眠りこけた翌朝。
目の前に広がる食べ物に何度も目を瞬いた。
侯爵はいないが、夫人が私と同じテーブルについている。
「冷めないうちにいただきましょう」
漂ってきた良い匂いに思わず唾を飲み込む。目の前には見たこともないほどの量の食事が並んでいる。
柔らかそうなパンに湯気の立っているスープ。ゴミは浮いていない。これはなんだろう、黄色と白の何か。あ、真ん中の黄色をつついたら何か中から汁が出て来た!
あ、これは知ってる。オレンジとリンゴ。この緑の葉っぱみたいなのは何? これがもしかしてお野菜? この長細いピンクのは何だろう。なんだかネチョネチョしてる。
「食べなさい」
見たこともないものをつついたり、観察したりしていると夫人が優し気に言った。昨日のようにベールをつけていない。そういえば、偉そうな侯爵は髪もヒゲも銀色だったがこの人の髪は金色だ。でも、目はグリーン。
おそるおそる側のパンを手に取る。あまりにふわふわなので驚いて皿の上に取り落とした。注意深くカビていないか確認してもう一度掴んで口に運んだ。
「バターをつけなさい」
バター? なにそれ?
「パンは一口大にちぎって食べるのよ」
夫人はお手本でも見せるようにパンをちぎり、バターなる黄色っぽいねっちりしたものをパンに塗って口に運んだ。
へぇぇぇ、そうやって食べるのか。頷きながら同じようにして食べる。あ、バターを塗るナイフを舐めたらダメだと言われた。だって残っていたらもったいない。はっきりした味はしないが、バターなるものは優しい味がした。
「ナイフとフォークは使ったことがある?」
ふるふると首を横に振る。孤児院にナイフなんてなかった。フォークも普段はほとんど使っていない。大体、食事は素手だった。職員の虫の居所が悪くて折檻された時は食事抜きだったり、床で犬のように食べさせられたりした。普通はこういうのを使うのか。
「じゃあ、まずはフォークだけにしましょう。そんなに握りしめてはいけないわ」
グーでフォークを握りこむと夫人に優しく直される。へぇぇ、こうやって食べるんだ。初めて知った。職員たちはそういえば怒ったり指示したりするだけで、何も教えてくれなかった。
夫人は食事中、終始優しかった。侯爵は葉巻を吸っていて臭かったし、とても偉そうで嫌な人だったが夫人は優しくて良い人なのかもしれない。
人生で初めてお腹いっぱい食べた。お腹がぱんぱんで破裂しそうだ。オレンジは口内炎にしみて痛かった。でも、とても甘くて痛みを無視して全部食べた。
そして、人間というのは悪くなった物を食べた時だけでなく、食べ過ぎるとお腹が痛くなってとてもしんどいということを知った。
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