記憶喪失

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第1話

「思い出すごろくをしましょう」


 僕と向かい合わせに座った橘美空たちばなみそらは、不敵な笑みを浮かべながらそう言った。

 狭い部室の小さな机の上には天板の大半を埋め尽くす広さのボードと、サイコロが二つ。さらに男の子と女の子を模したコマと、いくつかのガジェットが並べてある。


「思い出すごろく?」


「はい、先輩と私の思い出を綴った、自作ボードゲームです。すごろくを進めていくことで、先輩と私が今まで歩んできた道程を辿ることができます。例えば、こんな感じですね」


 と、橘が最初のマスを指さしたので目を向ける。

『折木くんが橘ちゃんに告白をする。ふりだしに戻る』


「……いろいろ疑問があるんだけれど」


 何で僕が告白するところから始まっているのか。

 何で僕が告白すると一回休みになるのか。

 すごろくって、よくない内容がマイナス効果になるものじゃないのか?

 僕と橘は――付き合っているらしいのだけれど。まるで僕に告白されたことが悪い思い出みたいじゃないか。


「ありますか? 疑問」


「そりゃあ、そうだろ」


「でしたらやはり、この思い出すごろくをするしかないようですね」


「何でだよ」


「記憶を失う前の先輩でしたら、疑問に思う点など一つもないはずですから」


 橘はサイコロを二つ手の中に握り込んで、からからと鳴らす。


「この思い出すごろくを通じて、過去を取り戻していただければ重畳です」


「そういうことなら、いいけどさ」


 言って、僕は橘の握った手を開かせ、手汗にまみれたサイコロを掘り出した。


「あんっ」


「変な声を出すな!」


「いきなり卑猥な触れ方をしてきたせいでしょう」


「いや、普通に触っただけだろ」


「まったく、陋劣ろうれつなところだけは相変わらずですね」


「陋劣って……僕はそこまで品性を欠いたやつだったのか?」


「そうですねえ、以前の先輩なら私から奪ったサイコロを躊躇なく口に放り込んで舐めていたでしょうし、やや健全になったと言えるかもしれません」


「……お前、そんな男と付き合ってたのかよ」


「そんな男って、先輩自身のことですが」

 それはそうなのだろうけれど、僕には一切覚えがないのでにわかには信じ難い。

 信じ難いというのであればそもそも、僕が橘と付き合っているという事実こそ信じ難いのだが。

 この僕、折木慶おれきけいは贔屓目に見ても並程度の外見をしている。自己評価は他者からの評価よりも幾分か甘くなることを思えば、客観的には平均を下回るかもしれない。記憶喪失である僕に、その理屈が通じるのかは不明だが。

 対して橘は、全会一致の美少女だ。漆のような艶のある黒髪は短く切り揃えられ、目じりの上がったくりっとした黒目を備えている。小さな鼻に肉厚な唇。染み一つない白い肌。高校生にしては小柄な体躯だが、姿勢は正しく立ち居振る舞いは洗練されていて、少なくとも外見に関しては文句の付け所がない。

 そんな彼女と僕が釣り合いの取れた男女交際を行う間柄だと言われても、そう簡単には納得いかないだろう。記憶喪失の僕の前に現れた橘が、ただ彼女を自称していただけなら、何の罰ゲームだと一笑に付していたはずだ。

 しかし僕は、見てしまっている。

 この僕が始まる最初の記憶。

 自分のことすら正しく知覚できない朦朧とした意識の中で真っ先に目にしたのが、ベッドに横たわる僕の胸元で泣きじゃくる橘の姿だった。艶のある黒髪をぼさぼさに乱し、染み一つない白い肌を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、洗練された立ち居振る舞いなど見る影もない、橘美空の姿。

 交通事故の被害で、寝たきりになると、僕は診断されていたらしい。

 だから目覚めた僕の前で取り乱してしまったのだと、後から彼女は言っていた。

 たしかに平素の彼女を知った今となっては、あの時の橘がかなり特例だったと分かる。普段の飄々として掴みどころがなく、涼しげな彼女らしくない振る舞いではあった。そんな姿を見られたのだから、言い訳の一つも零れようものだ。

 あんなに見苦しい姿を見せるだなんて、彼女として失敗だとも言っていた。

 しかしどうだろう。僕はそんな橘の姿を見ていたからこそ、この子が僕の彼女なのだと信じることができたのだから、失敗か成功かで言えば限りなく成功に近い。

 そして見苦しい姿であったかどうかも甚だ疑問だ。

 何故なら僕は、初めて見た時の橘の姿に一目惚れをしているからだ。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった橘の顔が、今も脳裏に焼き付いて離れない。

 赤く腫れあがった瞼はアイシャドウのように目元を彩り、涙と鼻水がチークのように頬に潤いを与えていて、女子高生由来の天然素材で作られた上質な化粧を施されているようだった。

 言ってしまえば、記憶を失う前に付き合っていた相手なのだから一目で惹かれるのも当然だが――あるいは事故に遭ったことで僕が女性の泣き顔に興奮する倒錯を覚えたかだ。


「しかし、泣き顔フェチっていうのは、スカトロジーに通じるところがあるよな」


「真顔で急に何を言っているんですか、この陋劣は」


 僕の独白に橘が呆れたように言う。


「記憶でも戻りましたか?」


「いや、そんなことは全然ないけど」


 脈絡のないフェチの話で『戻った』と思われるのかよ、僕は。


「それは残念です」


 そんな唐突に記憶が戻ると心底から考えていたわけではないだろうが、本当に残念そうに橘は言う。もし僕が冗談でも『戻った』と言ったら、あの時のように泣いてくれるのだろうか。その姿は――別に見たくもないな。

 僕は泣き顔フェチではないらしい。


「女の涙を排泄物と並べて考えるとは、無粋にも程がありますね」


「そうか? どっちも生理現象だろ」


「つまり生理中の女子にも興奮すると?」


「先輩はそこまで言ってねえよ!」


 陋劣なのはどっちだよ、まったく。

 橘のような見た目の整った女子が下品な言葉を発していると、得も言われぬやましさを感じてしまう。


「それに泣き顔フェチよりはブサ顔フェチのほうが、スカトロジーに近似していそうです」


「お前、今、ブサイクのことを排泄物と一緒にしたか!?」


「失礼。スカトロジーではなくコプロフィリアと正確に記すべきでしたね」


「何故わざわざ悪質にした!」


 糞便性愛コプロフィリア

 陋劣どころかただの差別的な発言だ。


「先輩のその発言はむしろ、特殊な性嗜好に対する差別になっていませんか?」


「む。それは確かに……いや特殊だと言っている時点で、区分け済みだろ」


「ですか。万象の味方をすることはできませんね」


 意外にもあっさりと、橘は意見を引っ込める。


「誰かの味方をするということは、誰かの敵になるということです。誰にでも平等に接したいというのは、おこがましさすらありますね」


「そんな深そうな台詞を言う文脈ではなかったけれど」


 僕たちがしているのは、排泄物の話だ。


「ところで先輩、そちらのサイコロは私のものなので、返してもらってもいいですか?」


 と。

 橘は閑話休題し、僕に言う。


「ああ、悪い。どっちのサイコロとかあるのか」


 用意されていたサイコロは白と青で、橘手から掘り出したサイコロは青のほうだった。色合い的に、どちらかと言えば青のほうが男の子用っぽいが。

 言われた通り青いほうのサイコロを返し、白のサイコロを受け取る。


「……って、これ、賽の目の数が違うじゃねえか」


「おや、よく気づきましたね」


「気づくに決まってるだろ、そりゃあ」


 渡された白いサイコロは、ごく一般的な正六面体、一から六までのサイコロだったが、橘に渡した青のサイコロはダイヤモンドのような形の、十面のサイコロだった。


「すごろくでサイコロの出目が違うって、どんなイカサマなんだよ。今気づかなかったとしても、ゲームが始まったら絶対露見するだろうに」


 そう言う僕に、橘は悪びれることなく答える。


「いえいえ、サイコロの出目の違いは、前提に組み込まれています」


「うん?」


「今回のすごろくは、先輩に思い出を取り戻してもらうためのゲームですからね。普通のすごろくとは異なる点もあります。その最たるものが、賽の目です」


 ふふん、としたり顔で言う橘。

 そんなに上手いことは言えていないが……とても可愛らしいので、まあよしだ。口調は平坦だが表情がころころと変わるので、橘は見ていて飽きない。美人は三日で飽きるとも言うが。僕が橘と出会ってから一週間、飽きさせてもらえる気配はない。


「先ほどもマスの内容に注目していましたが、今回の主題はそこですね」


 机の上に広げたボードを撫でながら、橘は言う。


「このゲームのマス目は先輩と私の体験を基にしているのですけれど、一部のマスには嘘の内容が混ざっています」


 他人事みたいに言うけれど、それは橘自身が書いているはずだ。自作のボードゲーム。それを作るための労力は、僕には計り知れない。

 僕の見舞いに来ながらたったの一週間でこれを用意してくるだなんて、なんて献身的なのだろう。いや、そういえば退院が近くなる頃には、あまり顔を出さなくなっていたっけ。

 家族が見舞いに来るからと遠慮をしていたのかと思っていたけれど、考えてみれば橘の性格であれば、彼氏の身内に怯むということもなさそうだ。そもそも両親公認の関係であってもおかしくはない。

 実際、僕と橘の関係って、どの程度の段階なんだろう?

 直接訊くのはなんだか気恥ずかしくて尋ねられていない。このゲームを通じて、そういった疑問も解消できるのだろうか。


「嘘の内容って、例えばどれなんだ?」


「まだ秘密です。事前に聞いておいてゲームを有利に進めようというのは良い心掛けですけれどね。リハビリテーションを兼ねているとはいえ、ゲームはゲームですから、勝利のために懸命な姿勢は褒めておきましょう」


「……別にそんな狙いがあったわけじゃないんだけど」


 僕が考えていたのは、橘といつキスできるのかということだけだ。

 さすがにそれ以上の関係ということは、ないと思う。話している内容は下品に振り切れているとはいえ、橘のほうはまだ高校一年生だ。健全なお付き合いだったと思いたい。


「何やら陋劣なことを企んでいる気配がしますね」


「僕はむしろ橘の身の安全を心配していたんだけど」


「私の健全な身体で交配したいと。ご心配いただかなくとも、私と先輩は清く正しいお付き合いをする間柄でしたよ」


「……へえ」


 ストレートに伝えられ、言葉に詰まる。


「おや、反応に乏しいですね。まさか本当にそんなことを考えていましたか」


「い、いや? そんなわけがないだろ、僕の考えを読み間違えるだなんて橘らしくないな。僕はこのゲームを短期間で手作りしてきてくれた橘がちゃんと寝れていたのか、無理して徹夜なんかをしていないか考えていただけだよ」


「やあん、優しいですね」


 きゃぴきゃぴくねくね、両頬に手を当てて喜ぶ橘。

 こんなその場しのぎの言い訳を真に受けるのでは、本当に心配だ。


「ですがご安心ください。ゲームの自作は私にとっては日常ですので。私と先輩のボードゲーム部の最終目標は、オリジナルゲームの制作と販売でしたから」


「そうなのか」


「そのゲームを流行させて不労所得を得て、二人でずっと家に引きこもって暮らすのが夢です」


「正しく夢だな、それは」


「先輩は制作の一切を手伝ってくれませんでしたけれど、そんな未来のために私は一生懸命、作業に没頭する日々です」


「間違った悪夢だ!」


 変態でヒモって、救いようがなさすぎる。


「では仮に『折木くんと一緒にゲーム作り。折木くんが後ろで一晩中応援してくれた。疲れて一回休み』というマスがあったとします」


「そんなマスがあってたまるか……実体験じゃないだろうな?」


「それです」


 僕の言葉を受けて我が意を得たりと、人差し指を突き付けてくる立場。指さすというだけでなく、僕の鼻の頭に食い込むように押し付けてきた。食ってやろうか、その指。


「このすごろくにおいて、先輩はマスの思い出が嘘だと思ったら『ダウト』のコールを行うことができます。それが正解だった場合、マスの効果がプラスの場合は二倍に、マイナスの場合はプラスに転じます」


「なるほどね。逆に誤答だった場合は、プラスの効果はマイナスに、マイナスの効果は二倍になるっていうことか」


「理解が早くて助かります。もしかして、すごろくのプロの方ですか?」


「何の方でもねえよ。……すごろくにプロがあるのか?」


「どうでしょう。しかし昨今はeスポーツやボードゲームの世界大会というのも頻繁に開催されていますからね。思いも寄らぬジャンルのプロフェッショナルが存在します」


「そうなんだ」


「先輩が眠っていた間に、社会情勢は大きく変化しているんですよ」


「そんな長期間入院してたわけじゃないんだけれど……」


 大まかには交通事故のショックで意識を失っていただけだ。

 外傷のほうは大したことがなかったお陰で、簡単な検査の後にすぐに退院できたしな。


「私はどのマスの出来事が事実か当然把握していますから、このルールの恩恵を受けることはできません。その代わりに、賽の目でアドバンテージを得やすいようにしています」


 サイコロの違いがルールに組み込まれているというのは、そういうことか。

 マス目の内容の正誤は元々の僕であれば分かるのだろうけれど、今の僕には勘で予想することしかできない。完全なる勘頼りであれば、完全なる運に左右されるサイコロと大差はない。

 ただし、橘が気づいているかどうか分からないが、このゲームはだいぶ僕に有利だ。何故なら勘や運以外に頼れるものが僕にはあるからだ。厳密に言えば、サイコロの出目を操作する技術もあるので、橘がそれを習得していた場合は、僕が一方的に不利なのだけれど。

 そこは橘の誠実さを信じよう。ゲームを作ろうとする人間が、ゲームで不正をすることはないと思いたい。


「何か分からないところはありますか?」


「ないよ」


「そうですか。やっているうちに気になるところがあれば、都度、訊いてください」


「ああ。……そうだな、ゲームに疑問はないけれど、負けたら罰ゲームとかあるのか?」


「罰ゲーム、ですか」


 僕の問い掛けに、橘は神妙に頷く。


「ああ。負けた後から言い出されたらたまったもんじゃないからな」


 そう言いつつも、胸の内にはよこしまな狙いがある。こういう風に切り出せば、そのつもりはなかったとしても橘は何かしらの罰ゲームを用意したくなるはずだ。それもきっと、何かしらの性的な罰ゲームを。性的な罰ゲーム。こんなに心躍る文字列も、そうはない。

 あくまで僕が積極的に言い出したわけではない風を装うのが肝心要であり、そして僕の小心さの証明でもある。


「――私と先輩との間では、罰ゲームを設定するのが常でした」


 橘は眉根をひそめて難しい顔で僕を見る。それがどんな感情に依るものなのか、僕には判断がつかない。


「それも最初は、先輩が言い出したものでしたね。どうせゲームをするのだから、何か賭けるものがあったほうが面白いだろう、と」


「大した偶然だな。記憶を失ったぐらいじゃあ、性根は変わらないってことなのかな」


「その時の先輩は、酷く陋劣な要求をするつもりでそう言い出してきたのですが」


「誰だそいつは。僕と似ても似つかない、男の風上にも置けないやつだな」


「先輩の悪口を言わないでください」


 机から身を乗り出すようにして、サイコロの角を僕の下顎部に突き付けて言う橘。

 細めた目で僕を見るその様子は、冗談でやっているようには思えない。サイコロで一体、僕の顎をどうするつもりなんだ。


「先輩は確かに男らしさの欠片もない卑屈で淫猥な陋劣の輩ですが、先輩の悪口を言っていいのは私だけです」


「お前のほうが酷いだろうが! 僕はそこまで悪意を込めてねえ!」


「では、試しに先輩を褒めることを言ってみてください」


「えっと……女を見る目がある?」


「――まあ、よいでしょう」


 僕から目を背けるようにしながら橘はサイコロを引っ込める。

 ちょっとだけ、あれで仕置きされてみたい気持ちはあったので名残惜しい。


「そしたら今回も、いつも通り罰ゲームを設けましょう。勝ったほうが負けたほうに何でも命令をしてよい、です」


「何でも!?」


「ただし、直截的な性行為は除く」


 逆に身を乗り出すが、指先一つで牽制されてしまった。

 でも、直截的な性行為って。

 直截的な性行為って!


「サイコロを僕に使ってもらうのはアリか?」


「それは、ぎりぎりセーフです」


 ぎりぎりなんだ。


「僕が橘に使うのは?」


「アウトに決まってるじゃないですか」


 決まっているんだ。


 口を尖らせて恥じらっているので、本気で言っているらしい。難しいな、貞操観念。


「まあ、でも、いいさ。何を命令するかは決めたよ」


「すでに勝つつもりでいるだなんて、自信がおありのようですね」


「負けるつもりで勝負に挑むやつがいるか?」


 男らしくないのが僕だと言うのであれば、真っ向から否定したくなる。


「その心意気やよし、です」


 橘は机を叩き快哉の声を上げた。格好つけた僕よりも素で格好いい。彼氏としての自信を無くしそうだ。信じるべき自分を失った僕は、それに怯むこともないが。


「それでは始めましょう、先輩の人生を辿る、思い出すごろくを」

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