第9話 逃れられないシール

「……そ、それは!?」

「そう、例のトイレに捨ててあった一対のビニール手袋さ」


 俺は先端を輪ゴムで縛った透明のポリ袋を出して、本棚の近くにある読書コーナーにあった木目調のテーブルにそっと置く。

 篤郎あつろうは内心、焦っているようで口調が少し荒々しい。


「手袋がどうかしたの? あれ?」

「指先に何かヨレヨレのシールみたいなのが付いてるね? 数字が書かれてる……」


 俺の同意を確認し、皆が揃ってその袋を触って眺める中、玲子れいこちゃんが手先に付いてる『19299』の番号をひとりごとみたく、声に出す。


 一見、意味不明に並んだこの数字、本来はバーコードリーダーで読み取る際、書籍の裏側に横に二列に表示されたバーコードの数字である。

 この手袋に残された方は、二段目に記載されている書籍を表した先頭の数字でもあって、ここから様々な本の情報が読み取れる。

 ……って江戸川えどがわ警部による鑑識課から得た情報なんだけどね。


 指紋を残さないように手袋着用で見本の透明なビニールのフィルム、別名シュリンク袋を破き、バーコードのシールも細かく千切った時に付いたシールの跡。

 シールがヨレヨレなのはフィルムに引っ付いたシールを破きやすく水で濡らしたため。

 ハサミで切り刻むと鑑識により、切り口が決め手になり、容易に再現できて足がつくせいか。

 でもこれが決定的な致命打となったのだ。


「この手袋に付着した汗などの体液や皮膚片を調べれば、あんたの行いは全て見破られるというオチさ」

「ぐっ、まさかそんな物から……」

「そうさ、事件を起こしてすぐに警察に店内は封鎖され、一般人は書店のトイレには入れなくなった。それで慣れた動作で無意識に捨てたこの手袋が業者に捨てられず、そのままの状態で洗面所のゴミ箱に残されたんだ」


「ちなみに男子トイレの汚物入れは会社のノートPCの来客データから、ただのシニア向けのゴミ箱だったことが分かり、そのお陰で洗面所のゴミ箱が怪しいと判明できたんだけどね」

「……まさに偶然の産物というやつか」


 この逃れられない証拠に観念したように頭を垂れる篤郎。


「まああんたには書類作成と見せかけ、夜な夜な防犯カメラ編集作業に追われて、そんな余裕なんてなかったようだけどな」


 篤郎が爪を噛みながら、悔しそうな顔つきを見せる。

 その噛み癖も妻に対してのストレスからくるものだろう。

 この男は大人しい性格と見せかけ、心の中では自分に逆らう澄香さんをずっと憎んでいたのだ。


「篤郎、あんたの負けだよ。だけど正式な万引きはしてないから、そんなに罪は重くない。だから奥さんを思うのなら」

「ざけんなよ、貴様ら!」

「きゃっ!?」

「お前らのせいでこの書店を解読不能な万引き事件で潰すという私の計画がパアじゃないか。だったら最初からこの女をー!」


 狂気な顔を上げた篤郎が咄嗟とっさ澄香すみかさんをクッションカーペットの床に押し倒し、上に馬乗りになって、身近にある本棚に飾っていた茶色い花瓶を掴む。


「無駄な抵抗は止めたまえ、左様篤郎さようあつろう!」

「ごちゃごちゃうるせー!」 


 江戸川警部の説得に無視を決めつけ、押さえられて動けない澄香さんの頭めがけて花瓶を振り下ろそうとする篤郎。


 こういう時、警察は人権尊重か、下手に動けない。

 目の前で拘束されてる人質がいれば、その人質に危害が及ばないよう、犯人を刺激しないようにやんわりと追い詰める。

 腰に身に着けた拳銃も闇雲やみくもではなく、動きを止める足などを狙う威嚇射撃をするのが普通。

 それが人権を尊重した日本警察のやり方でもある。


「澄香、あばよ」

「あ、あなた、正気なの……いやあああー!?」


 篤郎が花瓶を澄香さんの頭に向けて振り下ろす。

 人質をとられた俺たちは動きようもできず、その場に立ち尽くすしかない。


『ゴイーン』

「あれ?」


 すると鈍く乾いた音を立てながら、澄香さんの頭で花瓶がワンバウンドし、勢いよくこぼれ出た水で手を滑らす。

 篤郎の手から離れた花瓶は遠心力で水を飛ばさずに二回バウンドし、クロスの貼られた壁の角に引っかかり、動きを止めた。


「残念だったな。大方、苛立ちで爪を噛む所から、逆上すれば澄香さんに暴行をくわえることは目に見えてた。だからよく似せた樹脂製の花瓶に変えていたのさ。水を入れたら重みも増すし」

「ぐっ、ハメやがったな。ヘボ探偵のクセして」


 最近は花瓶にしろ、食器にしろ、樹脂製の物がグンと増えた。

 多少値段は高めだが、幼い子や認知症の高齢者が落として割って怪我をしないためだとか。


「俺が事件を担当する限り、。これが俺のポリシーでもあるんだ」

「うぐぐ、一丁前に格好つけやがって……」


 借りにも俺が探偵を名乗るなら最後まで命を散らせない。

 強き者が弱い者を守るに理由はいらない。

 それが男と言うものだろ。


「さあ、話してもらおうか、篤郎。どうしてこんな回りくどいことをしたのさ」

「すっ、全てはこの女が悪いんだ!」


 篤郎が痛みで頭を押さえた澄香さんから腰を上げてゆっくりと離れ、今度は一方的に文句をつける。

 当の澄香さんは何も言わず、だんまりを決め込んだままだ。


「若くて粋がいいからと金で釣って若い男と浮気なんてしやがって!」

「ぼ、僕はそんなつもりじゃ……」


 意表を突かれた猿渡さるわたりくんが真っ赤な顔をし、動揺を隠せないようだ。


「なるほど。その男が猿渡くんだったんだな。だから都合よく彼を犯人にしたと」

「へっ、探偵には何もかもお見通しということか……」


 篤郎が澄香さんを揶揄やゆした後、俺の観察眼を褒めてくる。

 この程度の準備運動みたいな事件でそんなに褒められてもねえ……。


「さあ、さっさと逮捕しやがれ。もう私が言い残すことは何もないんだから」

「はい。左様篤郎さようあつろう。あなたを詐欺、殺人未遂の現行犯で逮捕します」


 江戸川警部が篤郎に手錠をかけると、忙しい身なのか、俺たちに一礼して足早にこの本屋を去っていった……。


 ──こうして紀伊国堂きのくにどう書店の事件は一名の負傷者は出たものの、一人の死傷者もなく、書店の男性店員である64歳の左様篤郎という犯人の現行犯逮捕という形で終幕を迎えた。


 現場に居た俺たちは残った警察官からの事情聴取を終えた後、無事に解散したのだった──。

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